第4話「涙ではなく、知識を」
王立医療院の門は、想像していたよりも静かだった。
白い石造りの建物は王都の東端にあり、正面の庭には薬草園が広がっている。見たことのない品種がいくつもあって、つい足を止めそうになったが、今はそれどころではない。鞄の中には調合記録の写しと、着替えと、壊れた乳鉢の欠片と、青い小瓶が一つ。これが私の全財産だ。
受付で研究職への志願を伝えると、奥の応接室に通される。椅子に腰を下ろしてから、自分の手が膝の上で小さく震えていることに気がついた。当然だろう。ついこの間まで侯爵家の調合室に閉じこもっていた伯爵家の娘が、国の最高研究機関の門を叩いているのだ。場違いかもしれないという不安と、それでもここに来るしかなかったという覚悟が、交互に胸の中で揺れている。
窓の外に薬草園が広がっていた。あそこに見える青い葉は南方種のルナリス草だろうか。あれだけの株数を管理するには相当の知識が要る。侯爵家の調合室では手に入らなかった品種も見える。
やがて扉が開いて、白衣の研究員が二人入ってきた。一人は中年の男性で、もう一人は若い女性だ。中年の研究員が私の志願書に目を通しながら、顔を上げた。
「リーシェ・フォーレスト……ああ、伯爵家の。祝福の涙をお持ちの方ですね?」
「はい」
「それは素晴らしい。祝福の涙の持ち主は希少ですからね。では素材提供という形で——」
素材提供。
またか、と思った。ここでも涙が先に来る。調合技術でも薬学知識でもなく、泣けるかどうかが最初の関心事なのだ。私という人間は、どこへ行っても「涙の容器」としてしか見えないのだろうか。胸の奥で何かが小さく軋んだとき、応接室の奥の扉が開いた。
「失礼。少しよろしいですか」
入ってきたのは、長身の男性だった。濃い灰色の髪を後ろに流して、銀縁の眼鏡の奥に切れ長の目がある。白衣の袖が僅かにインクで汚れているのは、直前まで書き物をしていた証だろう。
「院長」
中年の研究員が姿勢を正した。この人が、王立医療院長。若くして就任した天才薬学者だと聞いていたが、確かに若い。三十歳にはなっていないように見える。
「志願書を拝見しました。フォーレスト嬢、調合記録をお持ちと書かれていますが」
「はい。こちらに写しを——」
鞄から記録帳の写しを取り出して渡すと、院長はその場で頁を開いた。最初の数頁をめくる手が途中で止まり、指先が数字の列を辿る。真剣な目だった。社交辞令で目を通しているのではなく、書かれた内容を本気で読み解こうとしている。
「……この品質制御の手法は、どなたに教わったものですか」
「独学です。基礎はマルテという薬師に学びましたが、温度と湿度による薬効変動の補正法は、自分で試行錯誤しながら組み立てました」
「独自に開発した、と」
院長が顔を上げる。眼鏡の奥の目が、先ほどまでとは明らかに違う光を帯びている。真剣な、と言うよりも、何か予想外のものを見つけた研究者の目。頁を戻して、今度は最初からゆっくり読み直していく。指が止まるたびに眉が動くのを見ていると、自分の記録が値踏みされているようで落ち着かなかった。
「フォーレスト嬢」
「はい」
「当院では研究員を募集しています。あなたには、その枠でお越しいただきたい」
中年の研究員が口を挟んだ。
「院長、しかし祝福の涙の素材提供の方が——」
「必要なのは涙ではありません」
院長の声は静かだったが、部屋の空気が一瞬で変わった。中年の研究員が口を閉じる。
「この調合記録に残された品質管理の精度は、当院の研究員と比較しても遜色ない。むしろ、限られた設備でここまでの安定性を実現している点では、率直に見事です。フォーレスト嬢、あなたの涙ではなく、あなたの調合技術と薬学知識を、当院は必要としています」
涙ではなく、知識を。
その言葉が耳に届いてから、意味を理解するまでに数秒かかった。誰かが私を、泣く装置ではなく薬学者として見ている。調合記録の数字を読んで、技術を評価している。涙の量ではなく、配合の精度を見てくれている。
喉の奥が熱くなった。泣くまいと思った。ここで泣いたら、また涙が先に来てしまう。
「……ありがとうございます。精一杯、務めさせていただきます」
声が少し震えたかもしれない。院長は何も指摘しなかった。ただ頷いて、「明日から来てください」とだけ言って、調合記録の写しを丁寧に閉じる。その手つきが——記録帳を大切なものとして扱う手つきが、ヴィクトール様には一度もなかったものだった。
*
研究員として最初に任されたのは、薬草の分類と状態記録だった。
王立医療院の薬草庫は、侯爵家の調合室とは比べものにならないほど広く、品種も多い。南方種、高山種、湿地帯の希少種まで揃っている。一つひとつの保管状態を確認しながら記録をつけていく作業は地味だが、薬学者にとっては宝の山を前にしているのと同じだった。ルナリス草の乾燥状態を手に取って確認していると、不意に指先が震えた。
ルナリス草は、母が好きだった薬草だ。「この草から作る鎮痛薬は、患者さんの痛みをとても穏やかに和らげてくれるの」と教えてくれた声を思い出して、目の奥がじわりと熱くなる。壊された乳鉢のこと、母のこと、あの調合室で過ごした日々のこと。ここにいると安全だと身体が分かったのか、抑えていたものが込み上げてきた。
——だめだ。泣いてはいけない。ここで涙を見せたら、また「素材」として見られるかもしれない。
「フォーレスト嬢」
背後から声がして振り向くと、院長が立っていた。いつからそこにいたのだろう。その手には、白い手巾が一枚。
無言で差し出されている。
反射的に身を引きかけた。涙を見られた——また利用されるのではないかと、身体が勝手に構える。あの屋敷で何度も繰り返されたことだ。涙を流せば「便利だ」と言われ、薬の材料にされる。ここでも同じことが起きるのではないかという恐怖が、背中を強張らせていた。
けれど院長の表情には、期待も要求もない。ただ手巾を差し出しているだけで、受け取っても受け取らなくてもいいという距離がある。
「……泣きたい時に泣ける場所があるのは、弱さではありません」
その声は、あの屋敷で聞いたどんな言葉とも違っていた。泣けと言われたのでもない。泣くなと言われたのでもない。泣いてもいい、と、ただそれだけを告げている。
手巾を受け取った。薬草の匂いが微かにする、清潔な白い布。あの擦り切れた木綿の手巾とは違う。誰かが自分のために差し出してくれた手巾というものを、私はいったい何年ぶりに手にしているのだろう。指先に触れた布の温かさが、あの屋敷で一人きり涙を拭っていた日々の冷たさを、静かに溶かしていくようだった。
「ありがとう、ございます」
掠れた声で言うのが精一杯だった。院長は何も言わず、棚の奥の薬草標本に視線を移す。泣いているところを見ないようにしてくれている——そう気がついたのは、しばらく後のことだ。
*
——夜。エリアス・レーヴェンハルトは執務室の机に、フォーレスト嬢の調合記録の写しを広げていた。
技術は確かだ。品質管理の手法も、独学でここまで到達したのなら稀有な才能と言っていい。だが問題はそこではない。
記録の中に、不自然な数値の揺れがある。同じ薬草、同じ配合なのに、薬効の安定度が日によって大きく変動している。安定度の低い日付の備考欄には、「精神的圧迫下での採取」と小さく添えられていた。
その文字を指で辿って、エリアスの眉が寄る。
「精神的圧迫下」。つまり、泣かされて作った薬だということだ。記録者は自分の置かれた状況を、感情ではなく科学的な変数として書き残している。その冷静さが、逆に痛々しい。
採取条件が品質に影響を与えるのは薬学の基本だが、ここまで明確に相関が出ているとなると、祝福薬の生成条件そのものに関わる問題かもしれない。自由意思の有無が薬効に影響するという仮説は、古い文献にも散見される。もしそれが事実なら——強制された涙から生まれた薬は、祝福ではなくなっている可能性がある。
記録帳を閉じて、眼鏡を外す。明日、いくつか確認したいことがある。
だが今日は、あの研究員が安全な場所で薬草に触れていられることの方が先だ。
——この記録の精度を持つ人間が、なぜ涙を搾られるだけの扱いを受けていたのか。その答えは、おそらくこの数値の揺れの中に眠っている。




