第3話「調合室を去る日」
婚約解消の申し出書を書き終えたのは、夜明け前だった。
マルテ先生に助言をもらった翌朝、私は自室の机で二通の書面を用意した。一通はグランハイム侯爵家への婚約解消の申し出。もう一通は、製薬許可証と調合記録の原本の返還請求。どちらも伯爵家令嬢リーシェ・フォーレストの正式な署名入りで、法的に不備のない形に整えてある。
ペンを置いて、封蝋を溶かす。実家の紋章が刻まれた印を押すとき、指先がほんの少しだけ震えたが、それは恐怖ではなかった。ずっと見ないふりをしてきた扉を、自分の手で開ける感覚に似ている。
フィーネに声をかけると、彼女は一瞬目を見開いてから、泣き出しそうな顔でこくりと頷いた。
「リーシェ様、荷物はもう——」
「最低限だけ。調合記録の写しと、着替えと、あとは……」
言いかけて、壊れた乳鉢の欠片を布に包んだものが鞄の底にあることに気づく。捨てられなかった。形見の残骸を持ち歩くのは未練かもしれない。でも、これは母が私に遺してくれたもので、砕けていても私のものだ。
「参りましょう」
*
侯爵家の法務を預かるハインツ事務官は、書面を開いた途端に顔色を変えた。
「こ、これは……婚約解消の申し出ですか。しかも製薬許可の返還請求まで。ヴィクトール様にはご報告を——」
「結構です。書面は正式なものですので、まずは内容をご確認ください」
「はい。ご確認いただければ分かりますが、祝福薬の製薬許可は伯爵家のリーシェ・フォーレスト個人に交付されたものです。グランハイム侯爵家に帰属するものではありません」
ハインツ事務官は慌てて許可証の原本を探しに走った。おそらく確認したことすらなかったのだろう。この屋敷では、薬の品質も許可の名義も、誰も気にしていなかった。「リーシェが泣けば薬ができる」——それだけで十分だと思っていたから。
事務官が書庫に消えてほどなく、廊下を荒い足音が近づいてきた。
「リーシェ!」
ヴィクトール様だった。寝間着の上に上着を羽織っただけの姿で、いつもの整えられた髪が乱れている。事務官から報告を受けて飛んできたのだろう。
「何を言っているんだ、婚約解消だと? いきなりそんなことを——」
「いきなりではありません。昨日お話しした件について、ご回答をいただけなかったので、正式な手続きに移りました」
「昨日の……母親の道具がどうとかいう話か? あんなことで?」
あんなこと。母の形見を壊されたことが、彼の中では「あんなこと」に分類されている。いつか慣れると思っていたが、慣れるのではなく、痛みを感じる場所そのものが擦り切れて消えたのだと今は分かる。
「ヴィクトール様。私がこの家を出れば、祝福薬は作れなくなります。それはお分かりですか」
「だから困るんだ。君がいなくなったら薬はどうなる。ランツァール伯爵との晩餐も来週に控えているし、秋には社交季があるんだぞ。あの薬がなければ、うちの顔が立たない」
薬がなければ顔が立たない。私がいなくなったら困る。けれどその「困る」は、薬のことであって私のことではない。私の体調や、私の心や、壊された形見のことは、一言も出てこない。
「それはもう、私が心配することではございません」
ヴィクトール様の言葉が途切れた。これまで私が反論らしい反論をしたことがなかったから、言い返されること自体に慣れていないのだろう。目を瞬かせて、それから声をやわらげた。口調を変えれば収まると思っている顔だった。
「……リーシェ、落ち着いてくれ。考え直してほしい。君に何か不満があるなら聞くから」
不満があるなら聞く。今になって、出て行くと言ってから初めて「聞く」という言葉が出てくる。この何年間、私が小さな声で訴えたことは一度も届かなかったのに、書面で突きつけなければ聞く体勢にすらならなかった。それがこの関係の答えだった。
「ヴィクトール様。私の不満は、聞いていただきたかった時にはもう申し上げてありました」
ヴィクトール様が何か言いかけたところに、セレーナ様が姿を現した。事態を聞きつけたらしく、部屋着の上からショールを巻いている。
「あら、出ていくの?」
セレーナ様はヴィクトール様の腕に手を添えて、私の方を見た。笑みは薄いが崩れてはいない。むしろ、邪魔者がようやく退くことへの安堵が透けて見えた。
「引き留めなくてもよろしいんじゃなくて、ヴィクトール様。行きたければ行かせてあげれば? 他のお薬師さんを雇えばいいだけのことよ。祝福の涙がなくたって、普通のお薬でも十分ですわ」
祝福薬と普通の薬の違いすら分かっていない。けれど、ヴィクトール様もまた同じだった。セレーナ様に腕を取られたまま、私に向かって静かに言う。
「……そうだな。代わりはいる」
代わりはいる。
その言葉を聞いて、私の中に残っていた最後のものが消えた。痛みですらない。ただ空気が抜けるように静まって、それで全部が終わりだった。ヴィクトール様は自分が何を失おうとしているのか分かっていない。製薬許可の名義も、調合の工程も、祝福薬の生成に本当は何が必要かも、何ひとつ。「代わりはいる」と言えてしまうこと自体が、この人がどれほど何も見ていなかったかの証明だった。
「承知いたしました。では、調合記録の原本と製薬許可証をお返しいただいたのち、本日中に退去いたします」
一礼をして背を向けた。背後でセレーナ様が何か小さく笑ったのが聞こえたが、もう振り返る必要はない。
*
荷物をまとめてから、最後に調合室へ向かった。
午後の光が高窓から差し込んで、棚の小瓶を照らしている。琥珀、薄青、乳白。昨日と同じ並び。薬草の青い匂いと石壁の冷たさは変わらないのに、もうここが自分の場所ではないという感覚が足元から這い上がってくる。明日からは誰がこの棚を管理するのだろう。おそらく誰もしない。薬効の安定期限も保管温度の管理も、この屋敷では私しかやっていなかったのだから。
棚に並んだ小瓶に、手を触れなかった。どれも私の涙から生まれた薬だが、その涙はほとんどが搾り取られたものだった。「泣け」と言われて泣いたわけではない。精神的に追い詰められて、耐えきれずにこぼれた涙を器に受けて、調合して、瓶に詰めた。美しい小瓶の中身は、私の痛みだ。それを「便利」と呼んだ人たちの棚に、もう並べ続ける義理はない。
一つだけ——奥の棚の隅に置いてあった、やや青みの強い一瓶を取り出す。これは搾取されて作った薬ではない。去年の冬、屋敷の近くに住む農婦の子どもが高熱を出したときに、私が自分の意思で祈りを込めて調合した薬だ。あの子は回復して、春になったら摘んだ野の花を門まで届けてくれた。あの日の涙は搾り取られたものではなくて、助けたいという気持ちから自然に流れたものだった。
この一瓶だけが、薬学者リーシェ・フォーレストの誇りだ。
小瓶を鞄にしまって、調合室を出る。振り返って見た棚には、数十本の祝福薬がまだ美しく並んでいる。あの小瓶たちの行く末を、今の私にはまだ知るすべがない。ただ、祝福とは何なのかを知らない人たちの手に委ねられることだけは確かだった。
*
屋敷の門をくぐったとき、空が高かった。
フィーネが隣を歩いている。小さな旅鞄を両手で抱えて、前だけを見ている横顔が頼もしい。
「リーシェ様、行き先は……」
「王立医療院に、研究職の空きがないか尋ねてみるわ」
王立医療院。この国の薬学研究の最高機関だ。院長は若くして就任した優秀な薬学者だと聞いている。名前は確か——いいえ、今はまだいい。まず自分の足で立つことが先だ。この何年間、誰かの涙の装置として扱われてきた私が、薬学者としてどこまで通用するのか。マルテ先生が「矜持」と呼んだもの——調合記録に刻み続けた知識と技術が、あの屋敷の外でも意味を持つのかどうか、確かめなくてはならない。
門の外に出て、振り返らなかった。背中に屋敷の影が落ちていたが、歩くほどにそれは短くなって、やがて足元の石畳が陽に白く光り始めた。風が吹いて、髪を揺らす。この屋敷にいた頃は気づかなかったが、外の空気は薬草でも香水でもない、ただの風の匂いがした。
鞄の中で、青い小瓶が微かに揺れている。
棚に残してきた小瓶の中で、祝福はまだ眠っている。けれど、祝福が目覚めるかどうかを、あの人たちはまだ知らない。




