第2話「壊れた調合器と、壊れない記録」
朝の調合室に入った瞬間、空気の色が違うと思った。
昨夜のうちに乾かしておいた薬草の束は定位置にある。棚の小瓶も動いていない。窓の鉤も閉まったまま。けれど何かがおかしい。鼻の奥を掠める甘い香水の残り香に気づいて、それが昨日と同じセレーナ様のものだと分かったとき、私の視線は作業台の上で止まった。
母の調合器具が、砕けている。
真鍮の乳鉢は縁が大きく欠けて、中に残っていた薬草の粉が台の上に散らばっていた。擂粉木は真ん中から折れている。握りの部分に巻かれていた革紐——母が自分の手に合うように幾度も巻き直したという革紐が、千切れたまま垂れ下がっていた。
母の形見だった。
私が薬学を志したのは母の影響で、この乳鉢と擂粉木は母が使い込んだものをそのまま受け継いだものだ。真鍮の表面には母の手が二十年かけて刻んだ擦り傷がある。持ち手の革紐は母の指の太さに合わせて巻かれたもので、私が引き継いでからもあえてそのまま使っていた。少し手に余るその太さが、母がそばにいるような気がして好きだった。新しい器具では出せない、長く使い込んだ道具だけが持つなじみがあって、調合の精度にも微かに影響する。それ以上に、この道具を手に取るたびに「あなたは薬学者よ」と言ってくれた母の声を思い出せるのが、この屋敷で薬を作り続ける最後の支えだった。
台の上には、見覚えのない化粧水の瓶が転がっている。セレーナ様が自分の化粧水を作ろうとして、私の器具を持ち出したのだろう。乳鉢の欠け方を見れば、硬い鉱石系の素材を無理に砕こうとしたのが分かる。真鍮の乳鉢で鉱石を潰せば壊れるのは当然だけれど、セレーナ様にその知識はない。
——知識がないことが問題なのではない。知識がないまま、人の道具を無断で使い、壊して、そのまま放置したことが。
「あら、どうしたの。暗い顔をして」
振り向くと、セレーナ様が調合室の入り口に立っていた。私の手元——砕けた乳鉢を一瞥して、それから少しだけ眉を上げる。
「ああ、それ? ごめんなさいね、ちょっとお借りしたの。古いものを大事にしすぎるのよ、リーシェ様は。ヴィクトール様にお願いすれば新しいのをすぐ買ってくださるわ」
悪びれる様子はなかった。壊したことへの謝罪ではなく、古いものにこだわる私の方が変だという口ぶりだ。
「これは、母の形見です」
自分でも驚くほど平坦な声が出た。怒りでもなく悲しみでもなく、ただ事実を告げる声。
「あら、そうなの。でも形見って結局はお道具でしょう? 同じものを買えば済むじゃない」
セレーナ様は肩をすくめて去っていった。同じものは買えない。母が二十年使い込んだ道具と同じものは、この世のどこにも。けれどそれを説明しても、きっと伝わらないのだろう。伝わらないことが分かっていて説明する気力は、もう残っていなかった。
*
ヴィクトール様を探して書斎を訪ねると、彼は窓辺の椅子に腰かけて手紙を読んでいた。セレーナ様からの手紙らしい、薄桃色の封筒がもう一通、机の上にある。
「ヴィクトール様。少しだけお時間をいただけませんか」
「ん? ああ、リーシェか。どうした」
「セレーナ様が私の調合器具を無断でお使いになって、壊してしまわれました。あの器具は母の形見で、替えがきくものではありません。せめて一言、お断りくださるようお伝えいただけないでしょうか」
できるだけ冷静に、事実だけを述べたつもりだった。けれどヴィクトール様は手紙から目を上げることなく、軽く息をついた。
「ああ、また道具の話か。セレーナも悪気はなかったんだろう。新しいのを買えばいいじゃないか」
「あれは母の——」
「分かった分かった。君はいつも大袈裟だな」
笑いながら言った。困った子どもをあしらうような、面倒な話を切り上げるための笑い。私を見てさえいなかった。手紙の続きに目を戻しながら、ヴィクトール様はふと思い出したように付け加える。
「ところで、今日は泣かないんだな」
何気ない声だった。不思議がっている、というよりも、予定通りに届かなかった荷物のことを言う口ぶりに近い。
「泣かないのか? 薬の在庫が減ってきてるんだが」
その瞬間、私の中で何かが静かに終わった。
怒りではない。絶望でもない。もっと透明で、冷たい何かだった。砕けた乳鉢と同じように、長い間ひびが入っていたものが、最後の力で形を保つのをやめただけなのだと思う。ヴィクトール様は母の形見が壊されたことよりも、私が泣かないことが気になっている。涙が出ない不便の方が、私の痛みよりも重要なのだ。
——ああ、この人は最初から、私を見ていなかったのだ。
涙は感情で、祈りで、痛みで、人間のものだ。それを「薬の材料」としか数えない人の前で、もう泣く理由がない。泣いてあげる理由が、何一つ。
「……失礼いたします」
一礼して書斎を出た。背後で、薄桃色の封筒を開く紙の音がした。
*
——あの女、泣かなかったわ。
セレーナは自室の鏡台の前で、唇を尖らせていた。今日のリーシェは変だった。形見が壊れたと知ったのに、涙を一滴も流さない。これまでは何かあればすぐに目を赤くしていたのに。
泣かないリーシェは、少しだけ厄介だ。泣いてくれればヴィクトール様は薬を手に入れられて機嫌がよくなるし、泣いている女を見れば自分の立場がいかに上かを確認できる。あの女が黙って耐えている方が、なんだか据わりが悪い。
まあいいわ、とセレーナは髪を梳いた。どうせあの人は、泣く以外に何もできないのだから。
*
夜が更けてから、私は屋敷の離れにあるマルテ先生の部屋を訪ねた。
薬草の束が天井から吊るされた小さな部屋は、いつも乾いた青い香りに満ちている。この匂いを嗅ぐと、幼い頃に母の傍らで薬草の名前を覚えた日々を思い出す。先生は椅子に座って古い薬学書を読んでいたが、私の顔を見た途端にそっと本を閉じた。
「先生」
「……お嬢様。お座りなさい」
促されるまま向かいの椅子に腰を下ろすと、先生が温かい薬湯を注いでくれた。生姜と蜂蜜の香りがする。私が子どもの頃、泣いた後にいつも淹れてくれたのと同じ配合だった。
「先生、私はこの家を出ようと思います」
先生の手が止まったのは、一瞬だけだった。驚いてはいるのだろう。けれどその目は「なぜ」とは問わなかった。
「……遅すぎたくらいです、お嬢様」
静かな声だった。先生はずっと分かっていたのだ。この屋敷で私がどう扱われていたか。泣くたびに何を搾られていたか。それを止める力が自分にはないことを、歯がゆく思いながら見ていてくれたのだ。
「調合記録は、必ず写しをお持ちなさい」
「写しを?」
「ええ。あの記録帳には、お嬢様がこの家で何をしてきたかの全てが書かれております。いつ、どんな条件で、どれだけの薬を作ったか。それは薬学者としてのお嬢様の腕の証明であると同時に——」
先生は少し言いよどんでから、低い声で続けた。
「この家が、お嬢様に何をしてきたかの記録でもあります」
私は記録帳の中身を思い出す。日付、分量、温度、品質。そして「精神的圧迫下での採取」と書き添えた日の多さ。あれはただの薬学記録だと思っていた。けれど先生の言葉で気づく。あの正確な記録の一行一行が、搾取の証拠でもあるのだと。
「先生。先生にはご迷惑を——」
「お嬢様」
先生の皺だらけの手が、私の手にそっと触れた。乾いた、薬草の匂いがする手。温かかった。
「あなたの涙が、あの方々の富を支えていたこと。それを知っているのは、私とフィーネだけです。けれど、知っているからこそ申し上げます。お嬢様の涙は、あの方々のものではございません。どうかご自分を大切になさいませ」
頷くことしかできなかった。声を出したら泣いてしまいそうで——いいえ、違う。泣いてもよかったのだ、この部屋では、この人の前では。けれど私はもう決めたから。先生の薬湯を最後の一口まで飲み干して、静かに立ち上がった。
部屋に戻ってから、机の上に調合記録を広げた。今日の日付の欄に、最後の記録を書き入れる。「母の形見の乳鉢、使用者により破損。本日をもって当家における調合業務を終了する」。ペンの先が紙に触れる小さな音が、静まった部屋に響いた。
手巾は枕元にある。でも今夜は使わない。
私はもう泣かない。あの人のためには、もう一滴も。




