第1話「泣けば役に立つ」
薬草を刻む手を止めたのは、廊下の靴音が聞こえたからだった。
午後の光が高窓から斜めに差し込んで、調合室の棚に並ぶ小瓶の列を淡く照らしている。琥珀、薄青、乳白。色の違いは祈りの違いだ。傷を癒すもの、熱を鎮めるもの、眠りを安らかにするもの。どれも私の涙から生まれて、私の手で調合した薬だった。小瓶の一つひとつに、泣いた日の記憶がある。昨夜の分は十二番目の棚の端に置いた。まだインクも乾かないうちに調合した、少しだけ色の薄い六瓶。あれを作るのに、どれだけ唇を噛んだか。
靴音が近づいてくる。甘い香水の残り香が扉の隙間から先に届いた。この匂いは、ヴィクトール様がセレーナ様と過ごした後にだけ纏っているものだ。もう何度嗅いだか分からない。
「リーシェ、ちょうどよかった」
扉を開けたヴィクトール様は、金の髪を片手で掻き上げながら調合室に入ってきた。整った横顔に午後の陽が当たって、まるで絵画のようだと思う。社交の場で見れば誰もが羨む婚約者だろう。この部屋の中で何が行われているかを知らなければ。
「明後日にランツァール伯爵を招いた晩餐があるんだ。伯爵の奥方が最近体の冷えに悩んでいるらしくてね、祝福薬を十瓶ほど用意してもらえるか。上等なものを」
十瓶。昨夜もう六瓶を搾り出したばかりで、目元にはまだ腫れが残っている。鏡を見るたびに自分の顔だと思えない。それでも朝から調合室に入って薬草の下拵えをしていたのは、明日の分の準備があったからだ。さらに十瓶となると、今夜もまた泣かなければならない。
「……少しだけお時間をいただけませんか。昨日の分の薬効確認がまだ済んでおりませんし、品質を落とさないためにも——」
「ああ」
困ったように笑って、それきり。私の言葉の後半はもう耳に入っていない。いつもそうだ。途中まで聞いて、結論だけ出す。品質管理がなぜ必要なのか、薬効確認を怠ると何が起きるのか、説明したことは何度もあるのに、一度も最後まで聞いてもらえたことがない。
「でも君なら平気だろう? セレーナが少し体調を崩していてね、僕もそちらが気になっていて。君は丈夫だから、いつも通り頼むよ」
丈夫。
その言葉がするりと胸の底に落ちていく。私は丈夫なのではない。丈夫なふりをしなければ、この屋敷に居場所がないだけだ。セレーナ様が体調を崩せば屋敷中が心配するのに、私の目元が腫れていても誰も何も言わない。気づいていないのか、気づいていて言わないのか。どちらにしても結果は同じだった。
「……承知いたしました」
ヴィクトール様は満足そうに頷くと、もう用は済んだという足取りで踵を返した。振り返りもしない。背中が扉の向こうに消えて、靴音が遠ざかっていくのをぼんやり聞きながら、手元に目を落とすと、薬草の茎がぐしゃりと潰れていた。丁寧に刻んでいたはずの断面が、指の力で歪んでしまっている。
——入れ替わりに、甘い声がした。
「あら、まだここにいたの」
セレーナ・ヴァルディ。ヴィクトール様が「体調を崩している」と言っていた人は、頬に薄紅を差して唇には艶を乗せた、申し分のない装いで調合室の入り口に寄りかかっていた。肩には新しいショールを掛けている。先月、ヴィクトール様が仕立てに出したものだ。体調が悪い人間の支度ではなかった。
「リーシェ様って本当に働き者ですのね。朝から晩までこの薄暗い部屋にこもって、お薬をせっせと。ヴィクトール様も助かるっておっしゃっていましたわ」
言葉だけ聞けば褒めているように思える。けれどセレーナ様の視線は私の腫れた目元をちらりと掠めて、それから棚の小瓶に移った。ひとつ手に取って、高窓の光に透かす。薄い琥珀色が陽に煌めいて綺麗だった。それが昨夜、私が唇を噛んで声を殺しながら絞り出した涙から生まれた薬だと思うと、あの美しさが残酷に見える。
「でも不思議。あなたのお仕事って、結局は泣くことでしょう?」
小瓶を指先でくるくると回しながら、セレーナ様は首を傾げてみせた。本当に不思議がっているのではない。確認しているのだ。私の立場を。私の価値の在り処を。
「薬草の調合や品質の管理は、他のお薬師さんでもできるもの。でもこの涙だけは、あなただけ。ねえ、リーシェ様」
くすり、と笑う。
「泣けば役に立つのだから、便利ね」
その声が調合室の石壁に反響して、静かに消えていった。
私は黙っていた。反論する気力がなかったのではない。反論しても何も変わらないと、もうとうに分かっていたからだ。ヴィクトール様はセレーナ様のこの手の言葉を絶対に咎めない。「セレーナも悪気はないんだ」「君なら分かるだろう」——その二つの言い訳が、どんな侮辱にも蓋をしてきた。そして蓋をされた言葉は行き場を失って、私の胸の底に一つずつ積もっていく。
セレーナ様は小瓶を棚に戻すと、何事もなかったように去っていった。ショールの裾が翻って、甘い香水の匂いだけが残る。
*
調合室に残ったのは、香水と薬草の青い匂いが混ざった、少しだけ息苦しい空気だった。
「リーシェ様……あのお方、いつもいつも……っ」
部屋の隅から声がした。侍女のフィーネが、棚の整理をするふりですべてを聞いていたのだ。小さな手がきつく拳を握って、震えている。怒りを堪える癖は私とよく似ていて、だから余計に胸が痛む。
「フィーネ」
「だって、だって、リーシェ様がどれだけ……っ」
「いいの」
静かに首を振った。フィーネが代わりに悔しがってくれること、それが今の私にとっての小さな救いだった。こんな形でしか救われないことが情けなくて、そう思ってしまう自分がまた恥ずかしい。
「大丈夫よ」
エプロンのポケットから手巾を取り出す。何度も洗って薄くなった木綿の手巾。刺繍はとうに擦り切れて、もとの模様が何だったのかも分からない。母が縫ってくれたものだったか、それとも自分で買ったものだったか、それさえ曖昧になるほど長く使ってきた。この屋敷で泣くたびに取り出してきた手巾は、誰かに差し出されたものではなくて、自分で用意したものだ。
泣いた後に手巾を差し出してくれる人は、この家にはいない。
涙を拭って息を整えて、潰してしまった薬草を片づける。それからまた新しい束を取り出して、刻み直す。私の仕事は泣くことではない。薬を作ることだ。でもその違いを理解している人が、この屋敷にはもう、マルテ先生とフィーネしかいなかった。
*
夜。屋敷が寝静まってから、燭台の灯りだけを頼りに調合記録を開いた。
今日の調合内容。使用した薬草の種類と分量。煮出しの温度と時間。薬効の安定度。そして涙を採取したときの身体の状態と、精神的な条件。すべてを一文字ずつ、正確に書き入れていく。ペンを持つ指先はまだ少し震えているが、文字だけは乱さない。記録は、嘘をつかない。
この記録をつけ始めたのは、老薬師マルテ先生の教えに従ったからだった。「薬を作る者は記録を怠ってはなりません。どんな条件で、どんな素材から、何が生まれたか。それを残すのが薬学者の矜持です」。まだ幼かった私に先生はそう言って、最初の一冊を手渡してくれた。あれからもう八年になる。一日も欠かさずつけてきた記録帳は、何冊にも増えて、泣いた回数だけ頁が厚くなった。
ヴィクトール様はこの記録の存在を知らない。知っても興味を持たないだろう。彼にとって祝福薬とは「リーシェが泣けば勝手にできるもの」であって、調合の工程も、品質管理に必要な温度や湿度の制御も、副作用を防ぐための微細な配合調整も、すべて見えない場所にあるものだから。見えないものは、最初から存在しないのと同じなのだ。この屋敷では。
ペンを置いて、インクが乾くのを待つ。窓の外で夏虫が鳴いていた。この部屋に通い始めた頃はまだ春で、庭の白い花が窓辺まで匂っていたことを覚えている。あれから何度、季節が巡っただろう。
閉じたばかりの記録帳の表紙をそっと撫でながら、ふと、セレーナ様の声が耳の奥で蘇った。
——泣けば役に立つのだから、便利ね。
便利。
私は便利なのだろうか。泣くことが役に立つのなら、笑うことはどうだろう。怒ることは。黙ることは。薬草を正しく刻むことは。品質を保つために夜通し温度を測ることは。そのどれにも値段がつかないのに、涙にだけ「便利」という名がつく。
手巾を畳んで、枕元に置いた。明日もきっと、使うから。
燭台の火を吹き消す前に、もう一度だけ記録帳に視線を落とす。ここに書かれているのは薬の記録であって、痛みの記録ではない。そのはずだった。それなのに、一日分ずつ増えていく頁の行間のどこかに、搾り出した祈りと噛み殺した声と、誰にも差し出されなかった手巾の記憶が、インクの下にひっそりと沈んでいる気がしてならない。
泣けば役に立つ。
その言葉が、小さな棘のように胸に刺さったまま、今夜も抜けなかった。




