過去二
頭上から突き刺さる太陽は、まるで世界そのものを焼き尽くそうとする巨大な火の玉のように見えた。
視界の端が陽炎でぐにゃりと歪む。
切り出された巨大な石灰岩の照り返しが眼球を焼き、呼吸をするたびに白く細かい粉塵が喉の奥にへばりついて、ひどい嘔吐感を引き起こす。
こもった汗と、血と、そして排泄物の饐えた臭い。
訳も分からず連れてこられた場所は、見知らぬ世界の最底辺。人買いに奴隷として売られた者たちが、死ぬまで石を運び続ける巨大な採石場だった。
「歩け! 止まるな薄汚い奴隷ども!」
空気を裂くような破擦音と共に、革の鞭が背中を打つ。
肉が裂け、血が飛沫を上げる鈍い音が響いても、ましろはもう悲鳴を上げることはなかった。ただ、焦点の合わない目で足元の赤茶けた土を見つめ、自分の体重よりも重い石の入った籠を引きずって前へ進む。
この地獄に落とされてから、何度目の月を見たかもう分からない。
最初は泣き叫んだ。「助けて」「日本に帰して」「警察を呼んで」と。だが、そんな言葉はこの世界では何の価値も持たなかった。泣けば蹴り飛ばされ、助けを求めれば鞭が飛んでくる。
私は、もう泣くことさえ忘れていた。
爪は剥がれ、全身は日焼けと泥で真っ黒に汚れ、衣服はぼろ切れのように体に張り付いている。
ただ一つ、左手首に巻かれた、ボロボロに擦り切れたミサンガだけが、私がかつて「ましろ」という普通の女の子であったこと、そして帰るべき家があることを証明する、奈落の中で一筋差した光だった。
そんな地獄のような日々の中で、私には唯一、人間としての心を繋ぎ止めさせてくれる存在がいた。
同年代の、この国のちょっと変わった日本語で言葉を話す少女。
彼女もまた、奴隷としてここに連れてこられていた。
『目を合わせちゃ駄目。殺されるわ』
『パンは飲み込まずに、唾液でふやかして少しずつ胃に入れるの。でないと吐き出してしまうから』
この世界の目に見えないルールも分からず、罰として鞭に打たれるましろに気付き、泥の払い方から、監視役の機嫌の見分け方まで、生きるためのすべてを教えてくれたのがマーシャだった。
「……マシーロ? マシャー? ……うーん、うまく言えないや」
初めて名乗り合った時、彼女は私の「ましろ」という名前をうまく発音できず、困ったように眉をひそめていた。
「私の名前は、マーシャ」
「……マーシャ。私の、マシロ、と、音が似ているね」
私が自分ではきちんと話せているつもりだが拙いのであろう、この国の言葉でそう言うと、彼女はパッと顔を輝かせ、「本当だ! 似ているね!」と、汚れきった顔で鈴が鳴るように笑った。
その瞬間、私たちは、過酷な採石場の中で、唯一無二の友達になった。
二人で励まし合い、わずかな食糧を分け合い、夜は身を寄せ合って暖をとった。
彼女がいるから、私はまだ「人間」でいられた。
『それは何?』
『……ミサンガっていうの。お守り。遠い故郷の、お父さんとお母さんと、お揃いの……』
『そう。……なら、絶対に手放しちゃ駄目よ。それが、あなたが人間である最後の証なんだから』
そしてとマーシャは優しく微笑んで、ましろの顔に泥を塗りたくった。「女だとバレたら、夜の天幕に連れて行かれる。絶対に隠し通して」と祈るように言いながら。
しかし、その数日後。
疲労で倒れ込んだましろに、酔った監視役が目をつけ、乱暴に胸ぐらを掴み上げた。
ましろの衣服が破れ、隠していた肌が露わになりそうになった、その絶体絶命の瞬間だった。
マーシャがましろを庇うようにして監視役の前に飛び出し、自らの顔の泥を乱暴に拭い去って、その美しい素顔を男に晒したのだ。
「こっちにしろ」とでも言うような、悲壮な決意。
ましろは突き飛ばされ、代わりにマーシャが、下卑た笑いを浮かべる監視役の腕に引かれ、夜の天幕へと引きずり込まれていった。
翌朝、戻ってきたマーシャの瞳からは、完全に生気が失われていた。
美しい亜麻色の髪は泥と血にまみれ、ただ機械のように石を運ぶだけの抜け殻になってしまった。ましろは自分の分の硬い黒パンを少しだけ千切り、彼女の手のひらに押し込んだが、マーシャはそれを握る力すら失っていた。
「……大丈夫。歩いて。立ち止まったら、殺される」
ましろは泣きそうな声で囁く。
だが、限界は唐突に訪れた。
ガシャァァン!!
マーシャの足がもつれ、抱えていた石材が地面に散乱した。
舌打ちと共に近づいてきた巨漢の監視役は、一切の躊躇いもなく、先端にスパイクのついた鉄の棍棒を振り上げた。
スイカを叩き割ったような、ひどく湿った破裂音。
マーシャの頭部が無造作に粉砕され、ましろの頬に生温かい飛沫がべっとりと張り付く。つい先日まで、生きる術を優しく教えてくれた彼女の顔は、もうどこにもなかった。
……何が起きたのか、分からなかった。
頬に張り付いた赤黒い破片が、さっきまで自分に笑いかけてくれたマーシャの一部だということを、脳が強烈に理解を拒絶している。 悲しみすら湧かない。ただ、世界から完全に音が消え去ったようだった。
「さてと。おい、そこのチビ。お前がこの肉塊を谷底へ捨ててこい」
男が鼻で笑う。ましろは声も出せず、ガタガタと全身を震わせていた。
圧倒的な暴力と理不尽。脳が恐怖でショートし、悲鳴すら上がらない。
動かないましろに苛立った男が、ましろの胸ぐらを太い手で乱暴に掴み上げる。宙に浮いたましろの袖ぐりのした、私の左手首のミサンガが、ふつりと外へこぼれ落ちた。
「あァ? なんだこのボロい紐は」
看守が、私のミサンガに、汚れた手を滑り込ませた。
ましろの呼吸が止まった。
「汚ねェガラクタ隠し持ってやがって。こんなもん、何の役にも立たねェよ」
男が嘲笑と共に、その紐を引きちぎろうと力を込めた瞬間。
――プチッ。
ミサンガの糸が一本、切れる小さな音がした。
それと同時に、ましろの脳内で張り詰めていた「理性」の糸が、完全に決壊した。
覚醒なんかじゃない。
ただ、両親との繋がりと、マーシャが守ってくれた命をゴミのように扱われたことに対する、どうしようもない絶望と、発狂に近い防衛本能だった。
「ぁ……ァアアアアアアッ!!!」
言葉にならない獣のような金切り声を上げ、ましろはなりふり構わず男の腕にしがみついた。
そして、マーシャの教えなどすべて忘れ、ただ生きるために、男の首の肉に思い切り歯を突き立てた。
「いッ!? な、なんだこの奴隷は!!」
男が悲鳴を上げ、太い腕でましろの頭を殴りつける。ゴツン、と鈍い音が響き、目の前が真っ白になるほどの痛みが走る。それでも、ましろは絶対に歯を離さなかった。引き剥がされまいと腕を振り回し、泥の中に転がっていた尖った石を無我夢中で掴み取る。
(殺される! 殺される! 殺される!)
(こいつがマーシャを殺した! 私の帰る場所を壊そうとした! 殺してやる、殺してやる!!)
恐怖と憎悪で涙と鼻水を流しながら、ましろは目を固く瞑り、獣のような叫び声を上げながら、ただがむしゃらに自身の手に握った石を男の顔面めがけて何度も、何度も叩きつけた。
偶然、その一撃が男の眼球を深くえぐる。
「ギャァァァァッ!! 目が、目がァァ!!」
男がましろを放り出し、顔を押さえて泥の中をのたうち回る。
ましろは泥まみれになって転がり、荒い息を吐きながら、千切れかけたミサンガを胸に強く抱きしめた。
全身が痙攣するように震え、ヒッ、ヒッと過呼吸のような音が喉から漏れる。
先程まで威張っていた傭兵の姿などはもうなく、目の前の蝿だと思っていた奴隷に追い詰められ、生きるために発狂しただけの、か弱く哀れな小動物のような姿だった。
*
「……ほう」
その惨状を、採石場の高台から見下ろしている隻眼の男がいた。
偶然、この場所を訪れていた歴戦の傭兵だ。
男の視線は、泥と血に塗れ、涙を流しながらも石を握りしめて威嚇する小柄な奴隷に釘付けになっていた。
その小さな体格。泥に汚れた黒い瞳。
それは、数年前に帝国の残党狩りに巻き込まれ、理不尽に命を奪われた男の亡き娘の年齢とひどく重なっていた。
だが、決定的に違うものがある。
あの怯えきった瞳の奥で燃えている、どんな逆境でも生き延びようとする、醜くも純粋な「生きることへの執着」。
そして何より、あの奴隷は自身の命のためではなく、胸に抱え込んだ「ボロボロの紐」を守るためだけに、自分より倍以上も大きな男の首を噛みちぎり、発狂してみせたのだ。
(……あのままでは、すぐに他の看守に殺されるだろうな)
男は小さく息を吐くと、腰の袋から金貨を取り出した。
娘の面影を重ねたという感傷だけではない。過去への繋がりを守るために、あそこまで自分を捨てて生き汚く食らいつけるのなら、戦術を叩き込めば、化けるかもしれない。
「おい、人買い。あの血まみれの奴隷、いくらだ」
傭兵は元締めに金貨を投げつけた。
「オレが買い取る。アレには、生き抜くための〈執念〉がある」




