過去一
ーーーー話は4年前に遡る。
泥の味は、いつも鉄の匂いがする。
“ましろ”は雨に叩かれていた。
ぐちゃぐちゃに掻き乱された地面に顔を埋めるたび、この世界の冷たさが肺の奥まで入り込んでくる。
指先に残る、肉を断った時のあの嫌な感触。こびりついた鮮血は雨に流されることもなく、体温を奪いながらぬるりと肌に張り付いていた。
(……帰りたいな)
喉の奥まで出かかったその言葉を、私は無理やり飲み込む。
声に出せば、今この瞬間に保っている私という一人の人間の存在が、ガラス細工みたいに粉々に砕けてしまいそうだった。
ーー最後にはっきりと覚えているのは、眩しいくらいの初夏の陽光だ。
自転車に乗って中学校の卒業式が終わった直後の春休み。
仲の良い友達の茉莉と並んで、彼女の家に向かうためにあの桜並木の道をペダルを漕いでいた時のことだ。 使い古した自転車のブレーキをキーキーと鳴らす私を見て、隣を走る茉莉が呆れたように笑いかけてきた。
「ねえましろ、カゴに入ってるその分厚い本、もしかしてまた戦記読んでるのー?」
「あ、うん。昨日の夜読みかけだった島津氏の戦史なんだけどね」
「島津? だれそれ」
「戦国時代の武将だよ! 今は島津義久の『釣り野伏せ』っていう戦法の陣形図を解析してて……これが本当にすごいんだよ茉莉!」
自分の好きな話題を振られ、私はつい身を乗り出して早口になってしまう。
「わざと自軍の兵数が少ないように見せかけて、多くの伏兵を茂みの中に隠しておくの。そして、敵陣に突入した先攻部隊を意図的に退却させて、敵を伏兵が隠れているエリアまで誘導する。そして機を見た伏兵が、一気に側面から不意打ちして包囲殲滅するっていう、島津家のお家芸の戦法でね……」
「ストーップ! 出た、ましろの歴史オタクの早口!」
茉莉がクスクスと笑いながら私の言葉を遮った。
「そんな『釣り野伏せ』なんて物騒な戦術、この平和な日本でいつ使うのよ〜。今日は私の家で、拓海先輩への告白作戦っていう大事な『恋バナの陣形』を練ってもらうんだからね!」
「あはは、ごめんごめん。ちゃんと聞くよ」
サドルに伝わる小刻みな振動、桜並木をくぐると香る、青臭い木の匂い。
釣り野伏せの裏の裏をかく論理の面白さにワクワクしながらも、友達の恋バナに花を咲かせる。そんな、どこにでもある、退屈で、でも温かかった日常。
ポカポカと陽だまりのような太陽の光、
サドルの振動、
キーキー鳴るブレーキの音。
温かい日常の記憶は、突然、暴力的なほどの熱と光によって圧し潰された。
(……え?)
目を開けた瞬間、視界は真っ白な光に灼かれた。
アスファルトの匂いではなく、鼻腔を突いたのは乾ききった砂の匂いだ。
ペダルを漕いでいた足の下には自転車はなく、熱を帯びた砂の海が広がっていた。
遥か頭上、ありえないほど巨大で邪悪な太陽が、容赦なく私を照りつけている。
ジーンズにTシャツ、お気に入りのトートバッグを持ったままの姿で、私は砂漠の真ん中にポツンと立っていた。
「……何、ここ」
掠れた声を出した途端、喉の奥が張り付くように痛んだ。
周囲には、地平線の彼方まで続く砂の丘しかない。陽炎が揺らぎ、世界が歪んで見える。
現実感がなかった。夢を見ているのだと思った。
私は何度も目を凝らし、自分の頬を抓り、トートバッグの中からスマホを取り出そうとした。
でもスマホは、画面が真っ暗なまま、熱を帯びて沈黙していた。電波も、バッテリーも、この世界では何の意味も持たなかった。
「お母さん……お父さん……」
誰かに縋りたくて、私は両親の名前を呼んだ。
でも、その声は砂漠の静寂に吸い込まれ、誰にも届かなかった。
孤独。
その言葉の真の意味を、私は初めて知った。
私は、広い、広い、誰もいない砂の世界に、たった一人で放り出されていた。
それから、私はただ歩き回った。
どちらが東で、どちらが西なのかもわからない。ただ、太陽の熱から逃れたくて、どこかに日陰はないかと、フラフラと歩き続けた。
水もない。食料もない。
時間の感覚さえ薄れていく。
砂に足を取られるたび、体力は奪われ、意識が遠のいていく。
何度も倒れ、そのたびに、砂の熱さに悲鳴を上げながら起き上がった。
肌は赤く灼け、唇は裂け、喉は焼けるように熱い。
トートバッグは、どこかで落としてしまった。
(もう、無理……)
意識が薄れ、地面に倒れ込んだ時。
遠くから、鈴の音のようなものが聞こえた。
幻聴だと思った。でも、その音は次第に大きくなり、地面を揺らす地響きへと変わった。
私は、最後の力を振り絞って顔を上げた。
砂埃の向こうから、巨大な影が近づいてくる。それは、牛に引かれた、頑丈な木製の檻だった。
檻の上には、薄汚れた衣服を纏った男たちが乗っていた。
彼らの顔は、今まで見たこともないような、外国人っぽい、薄汚くて残酷そうな容姿をしていた。
彼らの瞳には、私に対する同情や慈悲は一切なく、ただの好奇な獲物を見つけたような、冷徹な光が宿っていた。
だけど、疲れていた私は初めて出会った人らしき人を見つけたのに安心して自分から近づいていった。
「……助け、て……」
私は、掠れた声で彼らに助けを求めた。
一人の男が、檻から降りて、私に近づいてきた。
彼は、何かを言っている。日本語を話すような柄には見えないが、言語は聞き取れる。でも、何を言っているのか、所々しかわからない。
「……砂……」「……子ども……」「……金……」
断片的な単語が、日本語の文脈で聞こえる。でも、全体が理解できない。
地名か、固有名詞か、彼らの使う独自の訛りなのか。
私が困惑していると、男は突然、腰にぶら下げていた鞭を振り上げた。
「――ッ!?」
鋭い痛みと、皮膚が裂ける音が、私の体を貫いた。
私は、地面に倒れ込み、悲鳴を上げることもできずに震えた。
初めて会ったこの世界の人間は、私に言葉を教える代わりに、鞭で虐待した。
精神が、音を立てて削られていく。
男は、私を乱暴に引きずり上げ、檻の中に放り込んだ。
抵抗する力なんて一欠片も残っていなかった。
檻の中には、他にも薄汚れた身なりの人々が乗っていた。彼らは、皆、俯き、生気のない瞳で地面を見つめていた。
檻が、牛に引かれて動き出す。
木製の格子が軋み、揺れ、異臭が立ち込める。
檻の中から、私は地平線を見つめた。
太陽が、ゆっくりと沈んでいく。
この世界は、私が知っている世界ではない。
日本ではない。地球ですらないのかもしれない。
それだけは、確信できた。
(これから、どうなってしまうんだろう……)
私は、檻の隅で膝を抱え、震え続けた。
希望なんて、どこにもなかった。
ただ、過酷な現実が、私を圧し潰そうとしていた。
私は、生きる意欲を失いかけながらも、心の奥底で、帰りたいという、小さな、でも確かな願いを抱き続けていた。




