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黒曜の軍師と白金の王 ~盤上の駒は故郷を乞う~  作者: *しおり*


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6/7

シャジャルの奇跡

 夜が白み始めた頃。

 砦の南、潮が引いた湿地帯の入り口に、重装歩兵の先頭集団が踏み込んだ。

ぐちゃり、と。

 分厚い鉄のブーツが、雨を含んだ土を不快な音と共に踏みしめる。

  「……ひどいぬかるみだ。足が重い」

  先頭を歩く兵士が悪態をついた。だが、彼らの顔にまだ恐怖はなかった。ただの水たまりが少し深くなった程度だと思い込んでいたのだ。無敵の鋼の鎧を着込んでいる彼らにとって、自然の泥など取るに足らない障害物のはずだった。

 しかし、十歩、二十歩と進むうちに、彼らは自身の足元に起きている〈異常〉に気づき始める。

 踏み出した足が、地面に反発されない。歩を進めるごとに、自身の分厚い鋼の鎧の莫大な重量が、足首から膝へ、そして腰へと、ズブズブと底なしの闇の中へ自身を吸い込んでいくのだ。


 「な、なんだこれは……! 足が、抜けないッ!」

 一人が悲鳴のような声を上げた時には、すでに数百人が泥濘の中心にまで踏み込んでいた。その莫大な重量が、水を含んだ底なしの泥へと彼らを容赦なく引きずり込んでいく。

 足を抜こうともがけばもがくほど泥は深く絡みつき、彼らは完全に身動きの取れない、巨大な鉄の塊と化した。

 陣形は崩壊し、泥に顔を突っ込んで窒息する者が続出する。


 そこへ、砦の石壁を掠めるように大河沿いの低地から溢れ出してきた、パニック状態の騎馬隊が怒涛の勢いで南下してきた。


 「敵だ! 南の陣の連中が、我々を待ち伏せしていたぞ!」

 「蛮族どもめ、砦を抜け出し我々を襲う気か!」


 手柄を横取りされたと思い込んでいる正規軍と、火の混乱で敵味方の区別がつかない騎馬隊。

 両者は、この大混乱の中で互いを完全に”敵”と認識する。


 ズガァァァンッ!!


 泥濘でもがく重装歩兵の群れに、恐怖で狂った騎馬が正面から激突する。

 槍が甲冑を貫き、馬の蹄が兜を砕く。泥と血の飛沫が数十メートルの高さまで舞い上がった。

 動けない重装歩兵は騎兵を馬上から泥へ引きずり下ろし、短剣で首を掻き切る。騎兵は泥に沈む歩兵の顔面を馬で踏み潰す。そこには騎士道の欠片もない、ただ醜く凄惨な、同士討ちの体勢が出来上がっていた。


* * *


 血の匂いと、何千という断末魔の絶叫が、大河の風に乗って砦の壁を打ち据える。

 砦の蔦の絡まる窓枠から、十四歳のファリードは、その地獄のような光景を震える瞳で見下ろしていた。


ほんの数時間前。

 三千の軍勢を前に、自分たちはただ誇り高く死の毒を煽ることしかできない、無力な死体になるはずだった。

 しかし、一人の異邦の軍師が、敵の手柄を独占したいという欲と、欲に目が眩んで潮の満ち引きという理を利用しただけで、三千の軍勢は砦の石壁に指一本触れることなく、泥の中で勝手に自滅していく。


 (……これが、盤面を動かすということか)


 ファリードの背中を、悪寒と、そして奇妙な熱が駆け巡る。

 軍師マーシャの描いた絵図の、恐ろしいほどの美しさと残酷さ。


 「……なんということだ」

 カディルの掠れた声が、大河から吹き込む湿った風の中に溶けた。彼は壁際に立ち尽くしたまま、長剣の柄を握る指を白く血の気が失せるほどに強く食い込ませている。

 「これほどまでに悪辣で……騎士道の欠片もない戦術が存在するとは……」

 揺れる炎に照らされた左頬の火傷の痕が、引き攣ったように微かに動く。大帝国のいかなる兵法書を紐解いても、ここには記されていない。誉れや誇りなど完全に度外視した、ただ生き延び、勝つためだけの戦盤面が眼下に広がっていた。


 「ヒッ……ヒッヒ……」

 部屋の隅では、鋭い薬草の匂いを漂わせながら、すり鉢を握っていたイブンの手が完全に止まっていた。その喉の奥から、乾いた笑いともつかない奇妙な破裂音が漏れる。


 ほんの数時間前、この密閉され淀んだカビの臭気が充満する石造りの砦で、完全に死の毒を煽る準備をしていた。誰一人として、この籠城戦を生き残れるなどとは思っていなかったのだ。

 だが今、地平線から差し込み始めた眩しい朝の光が、むせ返るような泥と血の匂いが立ち昇る平原を容赦なく照らし出している。

 あの雨に濡れた小柄な男が、突然現れて一つ二つ盤面を動かしただけで、すべてが彼の意図した通りに転がり落ちた。自分たちは指一本触れることなく、何千という敵が重い鋼の鎧に沈んで泥を掻きむしる阿鼻叫喚の地獄がそこにある。


 外の凄惨な喧騒とは裏腹に、砦の部屋には背筋を凍らせるほどの冷たい静寂が降りていた。

 (……悪魔の軍師マーシャとは、一体何者なんだ……?)

 痛いほどの静けさの中、カディルとイブン、そしてファリードの視線が、自然と砦の壁際で虚空を見つめている小柄な背中へと向かう。得体の知れない底無しの闇を覗き込んでしまったような戦慄が、彼らの五体を冷たく縛り付けていた。



 陽光が地平線から差し込み、霧が晴れ始めた頃。

 砦の周囲に広がっていたのは、もはや軍隊の形をなさない、鋼と肉の巨大なゴミ溜めだった。


 泥の中に埋まり、重すぎる鎧の重みで息絶えた正規軍。その上に折り重なるように倒れた騎馬隊の死骸。生き残った数少ない兵たちも、泥に塗れて戦意を喪失し、ただ茫然と虚空を見つめている。


 ファリードは、音を立てて開かれた砦の重い門から、ゆっくりと外へ踏み出した。

 ブーツの底に、ねちゃりと敵の血が混じった泥がまとわりつく。だが、砦の背後を振り返れば、カディルも、ザイドも、タリクも、傷を負いながらも確かに息をして、朝日を見上げている。  


 (……生きている。誰も、死なせずに済んだ……)  


 その圧倒的な安堵感が、ファリードの胸で張り詰めていた死への緊張感を一気に溶かした。

 彼自身の金色の瞳から、張り詰めていた糸が切れたように、ポロポロと制御不能な大粒の涙がこぼれ落ちる。  

 彼は誰にも見られないよう、慌てて泥だらけの甲冑の腕で顔を覆った。  


 だが、門の脇で壁に寄りかかって座り込んでいる小柄な影――マーシャには、その震える少年の背中がはっきりと見えていた。

 かつての彼なら、その汚れに顔を顰めただろう。

 だが今の彼は、その不快な感触さえも、自分が生きている証として噛み締めていた。



 一方、門の脇。  

 返り血で真っ黒になった外套を羽織り、壁に寄りかかって座り込んでいる小柄な影があった。


 マーシャだ。  

 彼女は双短剣を鞘に納めることも忘れたまま、虚空を見つめている。

 その横顔には、勝利の歓喜も、敵への憎悪もない。ただ、ひとつの仕事を終え、また一歩、元の世界から遠ざかったことへの、底知れない疲労だけが刻まれていた。  


 ふと視線を向けると、その視界の端に、甲冑の腕で顔を覆い、ひっそりと肩を震わせているファリードの背中がはっきりと見えた。


(……泣いてるのか、あのヒヨッコ)


 極限状態を乗り越え、仲間の生存に安堵して涙をこぼす、年相応の無防備な背中。  

 マーシャはターバンの奥で小さく息を吐き、口出しすることなく静かに見守っていた。  

 やがて、涙を拭ったファリードがゆっくりと振り返り、マーシャの姿を見つけて歩み寄ってくる。


「……マーシャ」


 ファリードがその名を呼ぶ。

 マーシャはゆっくりと視線を上げ、少しだけ目元を赤くした少年に、わずかだけ口角を上げた。


「……最悪の初陣だったな、殿下」

「ああ。だが、最高の結果だ」


ファリードは、震える手で自身の泥だらけの甲冑を叩いた。

 兄の形見はもう、彼を圧し潰す重石ではない。泥汚れにまみれ、傷ついたこの銀の鎧こそが、彼が自らの意志で勝ち取った王の衣となったのだ。


 こうして、大陸を揺るがす三つ巴の覇権争いの中に、ひとつの異端の陣営が産み落とされた。

 知略を武器にする異邦の少女と、苦境の中に立つ覚悟を決めた美貌の王子。

 彼らが次にどの盤面を動かすのか。歴史の歯車は、凄まじい音を立てて回り始めたのである。


 後世の歴史家たちは、このすべての始まりの一夜の出来事を畏怖を込めてこう記す。


 ――『シャジャルの奇跡』と。


 わずか三十名の敗残兵が、三千の精鋭を〈指一本触れさせずに〉壊滅させたこの戦いは、軍事史上もっとも不可解で、もっとも冷徹な逆転劇として語り継がれることになった。


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