シャジャルの奇跡
夜が白み始めた頃。
砦の南、潮が引いた湿地帯の入り口に、重装歩兵の先頭集団が踏み込んだ。
ぐちゃり、と。
分厚い鉄のブーツが、雨を含んだ土を不快な音と共に踏みしめる。
「……ひどいぬかるみだ。足が重い」
先頭を歩く兵士が悪態をついた。だが、彼らの顔にまだ恐怖はなかった。ただの水たまりが少し深くなった程度だと思い込んでいたのだ。無敵の鋼の鎧を着込んでいる彼らにとって、自然の泥など取るに足らない障害物のはずだった。
しかし、十歩、二十歩と進むうちに、彼らは自身の足元に起きている異常に気づき始める。
踏み出した足が、地面に反発されない。歩を進めるごとに、自身の分厚い鋼の鎧の莫大な重量が、足首から膝へ、そして腰へと、ズブズブと底なしの闇の中へ自身を吸い込んでいくのだ。
「な、なんだこれは……! 足が、抜けないッ!」
一人が悲鳴のような声を上げた時には、すでに数百人が泥濘の中心にまで踏み込んでいた。その莫大な重量が、水を含んだ底なしの泥へと彼らを容赦なく引きずり込んでいく。
足を抜こうともがけばもがくほど泥は深く絡みつき、彼らは完全に身動きの取れない、巨大な鉄の塊と化した。
陣形は崩壊し、泥に顔を突っ込んで窒息する者が続出する。
そこへ、砦の石壁を掠めるように大河沿いの低地から溢れ出してきた、パニック状態の騎馬隊が怒涛の勢いで南下してきた。
「敵だ! 南の陣の連中が、我々を待ち伏せしていたぞ!」
「蛮族どもめ、砦を抜け出し我々を襲う気か!」
手柄を横取りされたと思い込んでいる正規軍と、火の混乱で敵味方の区別がつかない騎馬隊。
両者は、この大混乱の中で互いを完全に敵と認識する。
ズガァァァンッ!!
泥濘でもがく重装歩兵の群れに、恐怖で狂った騎馬が正面から激突する。
槍が甲冑を貫き、馬の蹄が兜を砕く。泥と血の飛沫が数十メートルの高さまで舞い上がった。
動けない重装歩兵は騎兵を馬上から泥へ引きずり下ろし、短剣で首を掻き切る。騎兵は泥に沈む歩兵の顔面を馬で踏み潰す。そこには騎士道の欠片もない、ただ醜く凄惨な、同士討ちの体勢が出来上がっていた。
* * *
血の匂いと、何千という断末魔の絶叫が、大河の風に乗って砦の壁を打ち据える。
砦の蔦の絡まる窓枠から、ファリードは、その地獄のような光景を震える瞳で見下ろしていた。
ほんの数時間前。
三千の軍勢を前に、自分たちはただ誇り高く死の毒を煽ることしかできない、無力な死体になるはずだった。
しかし、一人の異邦の軍師が、敵の手柄を独占したいという欲と、欲に目が眩んで潮の満ち引きという理を利用しただけで、三千の軍勢は砦の石壁に指一本触れることなく、泥の中で勝手に自滅していく。
(……これが、盤面を動かすということか)
ファリードの背中を、悪寒と、そして奇妙な熱が駆け巡る。
軍師マーシャの描いた絵図の、恐ろしいほどの美しさと残酷さ。
「……なんということだ」
カディルの掠れた声が、大河から吹き込む湿った風の中に溶けた。彼は壁際に立ち尽くしたまま、長剣の柄を握る指を白く血の気が失せるほどに強く食い込ませている。
「これほどまでに悪辣で……騎士道の欠片もない戦術が存在するとは……」
揺れる炎に照らされた左頬の火傷の痕が、引き攣ったように微かに動く。大帝国のいかなる兵法書を紐解いても、ここには記されていない。
誉れや誇りなど完全に度外視した、ただ生き延び、勝つためだけの戦盤面が眼下に広がっていた。
「ヒッ……ヒッヒ……」
部屋の隅では、鋭い薬草の匂いを漂わせながら、すり鉢を握っていたイブンの手が完全に止まっていた。その喉の奥から、乾いた笑いともつかない奇妙な破裂音が漏れる。
ほんの数時間前、この密閉され淀んだカビの臭気が充満する石造りの砦で、完全に死の毒を煽る準備をしていた。誰一人として、この籠城戦を生き残れるなどとは思っていなかったのだ。
――ピタリ、と。
一晩中、砦を亡者のように叩き続けていた豪雨が音もなく止んだ。
分厚い雨雲が引き裂かれ、陽光が地平線から差し込む。霧が晴れ始め、泥と血の匂いが立ち昇る平原を容赦なく照らし出していく。
自分たちは指一本触れることなく、何千という敵が重い鋼の鎧に沈んで泥を掻きむしる阿鼻叫喚の地獄。
ギィィィ……。
外の凄惨な喧騒とは裏腹に、背後の重い木扉が開き、夜を徹して作戦を実行していた者たちが砦へと帰還した。
南の陣を掻き回してきたザイドが、顔を泥だらけにしながらもニヤリと悪党の笑みを浮かべて滑り込み、その後ろから、火を放ってきた巨漢のタリクが静かに歩み入る。
そして。
彼らの最後尾で、あの雨に濡れた小柄な男が、外套から落としきれない汚れを払いながら、音もなく窓際へと歩を進めた。
砦の部屋には、背筋を凍らせるほどの冷たい静寂が降りていた。
(……悪魔の軍師マーシャとは、一体何者なんだ……?)
痛いほどの静けさの中、カディルとイブン、そしてファリードの視線が、自然と砦の壁際で地獄の虚空を見下ろしている小柄な背中へと向かう。
たった一夜で、この阿鼻叫喚の絵図を現実のものとした男。
得体の知れない底無しの闇を覗き込んでしまったような戦慄が、彼らの五体を冷たく縛り付けていた。
*
地平線から差し込む眩しい朝の光の元。
砦の下、辺り一面に広がっていたのは、もはや軍隊の形をなさない、鋼と肉の巨大な掃き溜めだった。
泥の中に埋まり、重すぎる鎧の重みで息絶えた正規軍。その上に折り重なるように倒れた騎馬隊の死骸。
生き残った数少ない兵たちも、泥に塗れて戦意を喪失し、ただ茫然と虚空を見つめている。
ファリードは、音を立てて開かれた砦の重い門から、ゆっくりと外へ踏み出した。
ブーツの底に、ねちゃりと敵の血が混じった泥がまとわりつく。泥と鉄錆、そして臓物の匂いの混じった生臭い風が、鼻先を掠めていく。
目に飛び込んできたのは、彼がこの先の生涯、決して忘れることのない強烈な原風景。
一晩中砦を叩き続けていた豪雨が嘘のように止み、分厚い雨雲が引き裂かれている。
地平線から真っ直ぐに差し込んできた黄金色の朝日が、眼下に広がる三千の死体が沈む泥濘と、こもった鉄錆の臭いが立ち昇る生き地獄を容赦なく照らし出していた。
(……これが、私の下した決断の結果か)
あまりの凄惨な光景に、ファリードは胃の腑が裏返るような吐き気を覚え、思わず足を踏み外しそうになった。
自分が許した計略が作り出した、紛れもない光景。
この圧倒的な死の山を、彼らは刃を交えることすらなく、たった一人の異邦人の頭一つで築き上げたのだ。
だが、その死の海の縁には、血と泥に塗れながらも確かに息をしている仲間たちの姿があった。
長剣を杖にして天を仰ぎ、ただ深く息を吐き出すカディル。緊張の糸が切れ、身体中の汚れをそのままに土の上に大の字になって天を仰ぐザイド。岩のように静かに朝日を見つめ、静かに祈るタリク。そして、己の毒の知識すら凌駕する絵図を前に、畏怖の笑みを漏らすイブン。
(……生きている。誰も、死なせずに済んだ……)
かつての彼なら、顔にこびりついたひどい汚れに眉をひそめただろう。だが今のファリードは、肌にへばりつく不快な感触さえも、自分が生きている証として痛いほどに噛み締めていた。
圧倒的な安堵感が、ファリードの胸で張り詰めていた死への恐怖と、眼前の地獄に対する罪悪感を一気に溶かしていく。
彼自身の金色の瞳から、張り詰めていた糸が切れたように、ポロポロと制御不能な大粒の涙がこぼれ落ちた。 彼は誰にも見られないよう、ひんやりとした硬い甲冑の腕で顔を覆い、ひっそりと肩を震わせた。
ーそんな無防備な少年の背中を、這い上がるような石壁の冷気の中から見つめる影があった。
門の脇でずり落ちるように座り込んでいる、マーシャだ。
泥と返り血でどす黒く染まった外套を羽織る彼女は、両手に握った双短剣を鞘に納めることすら忘れ、硝子玉のような瞳で虚空を見つめている。
その乾いた横顔には、ひとつの仕事を終え、また一歩元の世界から遠ざかってしまったという、重々しい疲労だけが色濃く張り付いていた。
(……泣いてるのか、あの王子)
その時、冷たい静寂の中、必死に嗚咽を殺そうとする息遣いが微かに鼓膜を打つ。
極限状態を乗り越え、仲間の生存に安堵して涙をこぼす、年相応の背中。それを見た瞬間、マーシャはターバンの奥で微かに息を呑んだ。
泥に塗れて肩を震わせるその姿が、かつて”真白”だった頃の自分自身と、痛いほどに重なったのだ。
初めて己の計略で敵を罠に嵌め、命をすり潰した日の記憶が、ふいに脳裏をよぎる。
現実に人の肉を裂き、命を奪う行為の、あの吐き気を催すほどの死臭と、手がちぎれるほどの震え。
(私もあの時、今の彼みたいに……怖くて、手が震えて、止まらなかったっけ)
この狂った異世界で生き残るため、そして味方を死なせないため。そう割り切り、感情を殺して分厚い悪魔の軍師の仮面を皮膚に縫い付けてきた。
とうの昔にすり減り、失ってしまったと思っていた、他者の痛みに涙し、命の重さに震える人間の心。
目の前で不器用に泣きじゃくる少年の背中は、かつて彼女が生きるために自身の一番深くて暗いところに置き去りにしてきた、十五歳だった頃の真白の姿そのものだった。
マーシャはターバンの奥で土埃の混じった息を細く吐き出し、口出しすることなく静かに見守っていた。
やがて、乱暴に目元を拭ったファリードがゆっくりと振り返る。仄暗い影の中にマーシャの姿を見つけると、重い金属音を響かせて歩み寄ってきた。
「……マーシャ」
掠れた声で、名が呼ばれる。
マーシャはゆっくりと重い視線を上げ、少しだけ目元を赤くした少年を見つめ返すと、ほんのわずかに、どこか懐かしむように口角を上げた。
「……最悪の初陣だったな、殿下」
「ああ。だが、最高の結果だ」
ファリードは、震える手で自身の泥だらけの甲冑を叩いた。
兄の形見はもう、彼を圧し潰す重石ではない。泥汚れにまみれ、傷ついたこの銀の鎧こそが、彼が自らの意志で勝ち取った王の衣となったのだ。
こうして、大陸を揺るがす三つ巴の覇権争いの中に、ひとつの異端の陣営が産み落とされた。
知略を武器にする異邦の少女と、苦境の中に立つ覚悟を決めた美貌の王子。
彼らが次にどの盤面を動かすのか。歴史の歯車は、凄まじい音を立てて回り始めたのである。
後世の歴史家たちは、このすべての始まりの一夜の出来事を畏怖を込めてこう記す。
――『シャジャルの奇跡』と。
わずか三十名の敗残兵が、三千の精鋭を〈指一本触れさせずに〉壊滅させたこの戦いは、軍事史上もっとも不可解で、もっとも冷徹な逆転劇として語り継がれることになった。




