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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
一章

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悪魔の戦略

 マーシャとタリク、そしてザイドが、それぞれ死線の配置へと散っていった後。

 嵐の音だけが響く暗い砦の中で、たまらず口を開いたのはカディルだった。


「……殿下。やはり、狂気の沙汰です」

 窓際に立つファリードの背中へ、カディルは祈るような、すがるような声を絞り出した。


「素性も知れぬ異邦人の小童や、スラムの盗賊に殿下の命を預けるなど……! 今からでも私が外へ出ます。せめて彼らが失敗した時のための、盾に――」

「動くな、カディル」


 闇の中で、ファリードの静かな声が響いた。

 数時間前まで死の恐怖に怯えていた少年の声には、もう微かな揺らぎすらない。


「お前が動けば、その甲冑の音で陣地が完全に悟られる。今はただ、この高台で息を潜めるんだ。両軍を完璧に泥濘へ引きずり込むための、最大の囮として」


 カディルが暗闇でギリッと奥歯を噛み割る音がした。騎士としての誉れも、自らの手で主君を守る実権も奪われ、ただ黙って事態を見守るしかないという屈辱と恐怖。

 その重苦しい沈黙を破るように、部屋の隅からカチャリ、とすり鉢を置く乾いた音が聞こえた。


「ヒッヒッヒ。お堅い騎士殿には、あの小童の描いた極悪非道な絵図は胃が痛むでしょうな」

 暗がりの中、イブンが痺れ毒を小瓶に移しながら、ひっそりと喉を鳴らした。


「ですがね、私にはあの者の真っ黒な瞳が、外にいる三千の正規軍よりもよほど恐ろしい化け物に見えましたぞ。……案外、我々はとんでもない悪魔と契約してしまったのかもしれませぬな」


「黙れイブン! 騎士の誉れもない、あのような泥臭い騙し討ちが成功するものか!」


「……成功するさ」


 ファリードは、先ほどマーシャが乱暴に地図を叩いた机の上の跡を、じっと見つめていた。

 初めて会った、得体の知らない軍師。だが、ファリードの掌には、銀の毒杯を叩き落とされた時の、火傷しそうなほどの熱がまだ生々しく残っている。


「彼は……必死だった。生きることに」

 静かな砦の中に、ファリードのぽつりとした声が落ちる。


「自分が生き残ることにも、皆を死なせないことにも。どんなに醜く足掻いてでも絶対に諦めない……そう、瞳が言っていた」


それは、綺麗に死のうとしていたファリードが持ち得なかった、ひどく熱くて真っ直ぐな命の輝きだった。


「……私たちはただ、彼らを信じて待つだけだ」


 荒れ狂う雨音の中、ファリードはそっと目を閉じた。

 この嵐の向こうで、あの小さな悪魔が一体どんな地獄の蓋を開けるのか。それを待つファリードの胸中にあるのは、恐怖ではなく、自らの運命を他者に委ねたことへの不思議なほどの静寂だった。


 

 真夜中、――大河シャジャルの潮が、音もなく引き始めていた。

 砦の南側、大河との間に広がる湿地帯から、水が引いた後の泥の生臭い匂いが、冷たい夜風に乗って這い上がってくる。


 雨が降りしきる暗闇の中、ザイドは音もなく泥の上を滑っていた。一歩間違えれば敵の陣中のど真ん中、命取りだ。

 南に布陣するシャジャル帝国正規軍。

 等間隔で配置された篝火の光と雨音の隙間を縫うように、彼は身を低くして斥候の背後へ忍び寄る。大群から少し離れた位置で一人、ぼんやりと篝火を見ている初老の衛兵。  


 狙いはあいつにするか......。

 ヒュッ、と雨を切り裂く微かな風切り音。


 ザイドの手から放たれた投げナイフが、見張りの兵の喉元に深々と突き刺さった。声も出せずに崩れ落ちる体を抱きとめ、彼は手慣れた動作で死体を暗がりへと引きずり込む。

 こういった隠密行動は大得意だ。幼い頃スラムの底辺で生まれ育った彼は、人間の悪意に晒されながらも、それらとは真正面で戦わないことを学んだ。代わりに、自身の身を守り、日銭を稼ぐための手業や技術を磨く。

 だから、窃盗や脅迫、演技なんかはお手のものだ。


(さて、大将の寝床はどこかね……)


 暗闇と豪雨の中、この規模の軍勢から指揮官の天幕を見つけ出すのは、素人には不可能に近い。

 だが、裏社会で金の匂いを嗅ぎ分けてきたザイドにとって、軍隊の構造などスラムの縄張り争いと大差なかった。


 彼は泥を這いながら、兵士たちの視線の向き、雨合羽を着た伝令が走っていく方角、そして何より――この湿地帯の泥臭さの中で、お得意の鼻を効かせて微かに漂う上等な獣脂の蝋燭や香辛料の効いた肉の匂いを辿る。

 末端の兵士が冷たい泥水を啜る中、そんな贅沢を許されているのは、陣営の中心にいる人間だけだ。


(ひどい鉄の臭いだ……。だが、これで役者は揃ったな)


 ザイドは泥だらけの指で、まだ温かい死体から胸当てと兜を素早く剥ぎ取り、自身のしなやかな体へ無理やり被った。サイズが合わずガチャガチャと鳴るが、パニック状態の闇夜であれば十分な偽装だ。

 彼は顔に敵の血糊を無造作に塗りたくり、わざと息を乱しながら、匂いの元である豪奢な天幕へと向かって泥の中を駆け出した。


「た、大変だッ!!」


 ザイドの悲痛な叫び声が、雨の陣営を切り裂いた。


「北の蛮族が、抜け道を見つけて砦に突入したぞ! このままでは、逆賊の王子の首が奪われる!!」


 バサァッ、と乱暴に天幕が跳ね上げられ、血相を変えた正規軍の指揮官が飛び出してきた。


 現王マレクが血まみれのクーデターで玉座を奪ってから、約三ヶ月。

 帝都では今、新王に忠誠を示し、空いた要職の椅子を巡る醜い権力争いが繰り広げられていた。


 この辺境警備に追いやられていた指揮官にとって、前王の忘れ形見である第二王子の首は、ただの武功ではない。何もない辺境から抜け出し、帝都の中枢で栄華を極めるための、絶対に逃せない切符だった。


 もし、こんな雷雨で足踏みをした挙句、横から湧いて出た野蛮な騎馬民族などにその手柄を横取りされたとなれば。

 ......出世どころか、冷酷な新王マレクから無能の烙印を押され、一族もろとも粛清されかねない。


「……ッ、おのれ薄汚い蛮族どもめ!! 陣形など構うな! 全軍、直ちに砦へ突撃しろ!! 王子の首を我らの手で奪い取るのだ!!」


 王子の首。出世への強烈な渇望と、マレクへの恐怖。

 マーシャの予測通り、スラムのネズミが流した偽情報は、指揮官の焦燥と欲望を完全に突き破り、三千の重装歩兵を死の淵へと突き動かした。

 功を焦った怒号が響き渡る。


 「お、お待ちください閣下!」

 冷静な副官が慌てて制止の声を上げた。

 「南の砦と大河の間は湿地帯です! さらにこの大雨。夜明けで潮が引いたばかりのあの場所は、地盤がどうなっているか分かりません。まずは斥候を出して足場の確認を――」

 「黙れ! 臆病風に吹かれたか!」


  指揮官は副官を怒鳴りつけ、自身の腰の剣を乱暴に叩いた。

 「我らは大帝国シャジャルが誇る無敵の重装歩兵団だぞ! 泥ごとき、鉄の軍靴で踏み潰して進めばよい! 斥候など出している間に、あの野蛮な騎馬民族どもに手柄をすべて奪われても良いというのか!」


 その猛烈な欲と見栄の前に、副官は言葉を飲み込むしかなかった。 何百という分厚い鋼の鎧を着込んだ重装歩兵たちが、大地の泥がどのような状態になっているかも確認せぬまま、盲目的に砦の南側湿地帯へと行軍を開始した。


* 


 南の陣が騒がしくなり始めたのと同時刻。

 砦の北、なだらかな丘陵地帯に広がる蒼き狼騎馬隊の陣では、小柄な暗殺者と巨漢の盾持ちが死線を潜っていた。


 雨は本降りとなり、視界は最悪だ。

 マーシャは泥に両手を突っ込み、顔面から首筋にかけて冷たい泥をたっぷりと塗りたくった。人の肌の白さは、闇夜で最も目立つ的になるからだ。

 『泥を被ることを恐れるな。視界を奪い、倒れた敵の頸動脈に刃を突き立てろ』

 かつて師匠ルスランから叩き込んだ殺しの教えが、冷たい雨の中でマーシャの血肉を熱く沸き立たせる。

 

  加えて、天の恵みとも言えるこの激しい雷雨。雨音は彼らの足音を完全に掻き消し、分厚い雨のカーテンは篝火の光すらも遮断していた。


 視覚と聴覚を奪われた騎馬隊の陣営において、泥と同化したマーシャは完全に気配のない透明な死神と化していた。 

 彼女は四つん這いの獣のように地を這い、油断していた騎馬隊の見張りの足元へ潜り込む。


 そして、立ち上がる反動を利用し、師匠から受け継いだ双短剣を敵の喉笛へクロスさせるように突き立てた。肉を断つ嫌な感触と共に、噴き出した熱い血がマーシャの泥だらけの顔を洗う。

 そのまま悲鳴を上げる間も与えず、音もなく次々と見張りを処理していく。


 「……チッ」


 だが、闇夜でも鼻の利く蛮族の斥候が、血の匂いに気づいた。

 三人。マーシャへ向かって同時に弓を引き絞る。

 弦が弾ける音。マーシャが泥へ飛び込もうとした瞬間、彼女の頭上を覆うように、巨大な鉄の壁が立ち塞がった。


 ――ガァンッ!!


 巨漢のタリクが構えた大盾が、三本の矢を分厚い鉄で弾き返す。

「いけ」という彼の無言の気配に呼応し、マーシャは盾の死角から弾丸のように飛び出した。雨で滑るぬかるみを逆利用して敵の懐へ滑り込み、下段から双短剣で二人の膝の腱を同時に刈り取る。

 崩れ落ちた敵の顔面を、タリクが巨大な盾の縁で躊躇なく叩き潰した。


「……上出来だ」


 血路が開かれた。陣の深部、数百頭の馬が繋がれている巨大な天幕。

 タリクが背負っていた壺から、どろりとした黒い油――水に反発し、決して消えない粘り気のある松脂を、雨の当たらない天幕の内部と、乾いた飼葉に向かって大量にぶち撒ける。


 マーシャが天幕の奥へ滑り込み、火打ち石を強く叩いた。

 カチッ、という硬質な音と共に飛んだ火花が、黒い油に触れた瞬間。

 ボウッ、と生まれた小さな炎は、天幕の内部で爆発的な火柱へと姿を変えた。


 直後、大河から吹き付ける強烈な夜風が、火だるまになった天幕の布を豪快に吹き飛ばす。

 風に煽られた炎は、雨を物ともせずに猛威を振るった。こぼれ落ちた油は泥水の上に浮き、雨が降れば降るほど水溜まりに乗って広がり、瞬く間に馬屋の周囲を燃え盛る泥の海へと変えていく。


 「ヒヒィィィィンッ!!」

 絶対に燃えるはずのない雨の泥濘が炎を上げるという異常な光景。

 その火の熱と煙に狂った数百頭の軍馬が、パニックに陥り、悲鳴のような嘶きと共に繋がれていた柵を次々と蹴り破った。


「な、何事だ!? なぜ雨の中で火が……ッ!」


 火の熱と煙に狂った数百頭の馬が、いななきと共に暴れ狂い、繋がれていた柵を次々と蹴り破った。

 寝込みを襲われ、燃え盛る天幕から這い出してきた騎馬隊の兵士たちは、泥水の上を這い回る炎に絶望的な顔を向けた。

 

 寝込みを襲われ、燃え盛る天幕から這い出してきた騎馬隊の兵士たちは、パニックに陥りながらも、騎馬民族の生存本能から咄嗟に自身の馬へと飛び乗った。

 炎から逃れるため、手綱を引く余裕すらなく、ただ盲目的に泥濘の中へと馬を走らせるしかない。


 だが、それが致命的な判断ミスであった。 完全に炎の恐怖に支配された馬たちは、熟練の騎兵の手綱すら一切受け付けなかったのだ。

 「止まれ! 落ち着けェッ!」


  馬上にしがみつく兵士たちの悲鳴を乗せたまま、数百の馬の群れは完全に統率を失った怒涛の暴走状態へと突入した。逃げ遅れた味方の兵士を蹄で踏み潰しながら、騎馬隊は陣地を阿鼻叫喚の地獄へと変えていく。

 本能で炎から逃れようとする馬たちには、もはや逃げ道が一つしか残されていなかった。


 背後には燃え盛る巨大な火柱。

 横には砦の堅牢な石壁。


 必然的に、馬の群れは火の手も障害物もない唯一の空間――大河沿いの断崖に沿った低地へと、背中に人間を乗せたまま雪崩れ込んだ。

 そこは砦を大きく迂回し、南の湿地帯へと直結する死の回廊だった。


 騎兵たちは手綱を引いて止まろうと必死にもがいたが、後ろから押し寄せる数百頭の馬の波に押され、止まることなど到底不可能だった。


 パニックに陥った騎馬隊の怒涛の奔流が、そのままの勢いで、泥濘と正規軍が待ち受ける南の死の罠へと一直線に激突していったのである。

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