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黒曜の軍師と白金の王 ~盤上の駒は故郷を乞う~  作者: *しおり*


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悪魔の戦略


 『南の陣に潜り込め。敵の足を、泥濘に引きずり込むんだ』

 ーその下知が下された瞬間。


 淀んだカビの臭気が充満していた砦の一室で、完全に沈み込んでいた死を孕む空気感が、生への希望へと転換した。


 床に片膝をついていたカディルが、剣の柄を握る手をピタリと止め、目を見開いた。王族の誇り高き死こそが唯一の道だと信じて疑わなかった忠臣の瞳に、激しい動揺と、ほんのわずかな熱が浮かぶ。

 部屋の隅で毒を調合していたイブンは腕を組み顔を上げ、巨漢のタリクがゆっくりと閉じていた瞼を開いた。


 「……上出来だ」


 マーシャは、床に散らばった毒の染みを一瞥し、ターバンの奥で獰猛な笑みを浮かべた。

 感傷に浸る時間は一秒もない。彼女は机上の地図を指で叩き、即座に戦術の歯車を回し始める。


 「ザイドは単身で南の陣へ。敵の欲を突け。私とそこのデカブツは北の騎馬隊の陣へ向かい、火を放つ。……殿下とそこの二人は、残った兵と共にこの扉を内側から塞ぎ、絶対に音を立てずに息を殺していろ。外から扉を叩かれても、私の声がするまでは絶対に開けるな」

 それは提案ではない。戦場を支配する軍師としての、絶対的な命令だった。


 マーシャが出ていった後の静まり返った砦の中。

 カディルは扉の前に立ち、暗闇の中でギリッと歯軋りをした。

「……殿下。やはり危険すぎます。素性も知れぬ異邦人の小童や、スラムの盗賊に殿下のお命を預けるなど。今からでも私が外へ出て、せめてあの者の盾に……」

 「動くな、カディル。お前が外へ出れば、音で正規軍に気づかれる」

 ファリードの静かな声が、闇の中で響いた。数時間前まで死の恐怖に震えていたはずの少年の声には、今はもう微かな揺らぎすらない。 部屋の隅からは、イブンがすり鉢を片付けるカチャリという音が聞こえた。

 「ヒッヒッヒ。お堅い騎士殿には、あの軍師殿の極悪非道な絵図は胃が痛むでしょうな。ですが、私にはあの者の目が、大帝国の正規軍よりもよほど恐ろしい化け物に見えますぞ。……案外、我々はとんでもない悪魔と契約してしまったのかもしれませぬな」

 「黙れイブン! 騎士の誉れも何もない、あのような泥臭い騙し討ちが成功するものか!」


 「……成功するさ」

 ファリードは、先ほどマーシャが乱暴に叩いた地図の跡を、暗闇の中でじっと見つめていた。

「彼には、絶対に生き残るという異常なまでの渇望がある。……私たちはただ、彼の盤面を信じて待つだけだ」


 

 真夜中、――大河シャジャルの潮が、音もなく引き始めていた。

 砦の南側、大河との間に広がる湿地帯から、水が引いた後の泥の生臭い匂いが、冷たい夜風に乗って這い上がってくる。


 雨が降りしきる暗闇の中、ザイドは音もなく泥の上を滑っていた。

 南に布陣するシャジャル帝国正規軍。等間隔で配置された篝火の光と雨音の隙間を縫うように、彼は身を低くして斥候の背後へ忍び寄る。大群から少し離れた位置で一人、ぼんやりと篝火を見ている初老の衛兵。  

 狙いはあいつにするか......。

 ヒュッ、と雨を切り裂く微かな風切り音。

 ザイドの手から放たれた投げナイフが、見張りの兵の喉元に深々と突き刺さった。声も出せずに崩れ落ちる体を抱きとめ、彼は手慣れた動作で死体を暗がりへと引きずり込む。こういった隠密行動は大得意だ。幼い頃スラムの底辺で生まれ育った彼は、人間の悪意に晒されながらも、それらとは真正面で戦わないことを学んだ。代わりに、自身の身を守り、日銭を稼ぐための手業や技術を磨く。だから、窃盗や脅迫、演技なんかはお手のものだ。


(ひどい鉄の臭いだねぇ……。だが、これで役者は揃った)


 ザイドは泥だらけの指で、まだ温かい死体から胸当てと兜を素早く剥ぎ取り、自身の細い体へ無理やり被った。サイズが合わずガチャガチャと鳴るが、パニック状態の闇夜であれば十分な偽装だ。

 彼は顔に敵の血糊を無造作に塗りたくり、わざと息を乱しながら、南の陣の中心、指揮官の天幕へと向かって泥の中を駆け出した。


 「た、大変だッ!!」


 ザイドの悲痛な叫び声が、雨の陣営を切り裂いた。


 「北の蛮族が、抜け道を見つけて砦に突入したぞ! このままでは、逆賊の王子の首が奪われる!!」


 天幕から飛び出してきた正規軍の指揮官の顔色が、松明の光の中で一瞬にして変わった。


 王子の首。それは、現王マレクから莫大な恩賞が約束された、絶対的な〈手柄〉だ。今後、彼を重要な役職へと取り立ててもらえるかもしれないそれを、野蛮な騎馬民族などに横取りされるわけにはいかない。

 マーシャの予測通り、偽情報は指揮官の欲望を完璧に突き破った。


「なんだと!? 陣形など構うな! 重装歩兵団、直ちに砦へ向かえ! 王子の首を我らが押さえるのだ!!」


 功を焦った怒号が響き渡る。

 「お、お待ちください閣下!」 冷静な副官が慌てて制止の声を上げた。

 「南の砦と大河の間は湿地帯です! さらにこの大雨。夜明けで潮が引いたばかりのあの場所は、地盤がどうなっているか分かりません。まずは斥候を出して足場の確認を――」

 「黙れ! 臆病風に吹かれたか!」


  指揮官は副官を怒鳴りつけ、自身の腰の剣を乱暴に叩いた。

 「我らは大帝国シャジャルが誇る無敵の重装歩兵団だぞ! 泥ごとき、鉄の軍靴で踏み潰して進めばよい! 斥候など出している間に、あの野蛮な騎馬民族どもに手柄をすべて奪われても良いというのか!」


 その猛烈な欲と見栄の前に、副官は言葉を飲み込むしかなかった。 何百という分厚い鋼の鎧を着込んだ重装歩兵たちが、大地の泥がどのような状態になっているかも確認せぬまま、盲目的に砦の南側湿地帯へと行軍を開始した。


* 


 南の陣が騒がしくなり始めたのと同時刻。

 砦の北、なだらかな丘陵地帯に広がる『蒼き狼』の騎馬隊の陣では、小柄な暗殺者と巨漢の盾持ちが死線を潜っていた。


 雨は本降りとなり、視界は最悪だ。

 マーシャは泥に両手を突っ込み、顔面から首筋にかけて冷たい泥をたっぷりと塗りたくった。人の肌の白さは、闇夜で最も目立つ的になるからだ。

 『泥を被ることを恐れるな。視界を奪い、倒れた敵の頸動脈に刃を突き立てろ』

 かつて師匠ルスランから叩き込んだ殺しの教えが、冷たい雨の中でマーシャの血肉を熱く沸き立たせる。

 

  加えて、天の恵みとも言えるこの激しい雷雨。雨音は彼らの足音を完全に掻き消し、分厚い雨のカーテンは篝火の光すらも遮断していた。


 視覚と聴覚を奪われた騎馬隊の陣営において、泥と同化したマーシャは完全に透明な死神と化していた。 

 彼女は四つん這いの獣のように地を這い、油断していた騎馬隊の見張りの足元へ潜り込む。


 そして、立ち上がる反動を利用し、師匠から受け継いだ双短剣を敵の喉笛へクロスさせるように突き立てた。肉を断つ嫌な感触と共に、噴き出した熱い血がマーシャの泥だらけの顔を洗う。

 そのまま悲鳴を上げる間も与えず、音もなく次々と見張りを処理していく。


 「……チッ」


 だが、闇夜でも鼻の利く蛮族の斥候が、血の匂いに気づいた。

 三人。マーシャへ向かって同時に弓を引き絞る。

 弦が弾ける音。マーシャが泥へ飛び込もうとした瞬間、彼女の頭上を覆うように、巨大な鉄の壁が立ち塞がった。


 ――ガァンッ!!


 巨漢のタリクが構えた大盾が、三本の矢を分厚い鉄で弾き返す。

「いけ、マーシャ」という彼の無言の気配に呼応し、マーシャは盾の死角から弾丸のように飛び出した。雨で滑るぬかるみを逆利用して敵の懐へ滑り込み、下段から双短剣で二人の膝の腱を同時に刈り取る。

 崩れ落ちた敵の顔面を、タリクが巨大な盾の縁で躊躇なく叩き潰した。


「……上出来だ」


 血路が開かれた。陣の深部、数百頭の馬が繋がれている天幕周辺。

 タリクが背負っていた壺から大量の油をぶち撒け、マーシャが火打ち石で火を放つ。


 ボウッ、と生まれた小さな炎。

 その時、大河シャジャルから吹き付ける強烈な夜風が、砦を叩いていたのと同じ風が、丘陵の炎を恐ろしい勢いで煽り立てた。

  炎は油の川を走り、瞬く間に天幕と馬屋を巨大な火柱で包み込む。


 「ヒヒィィィィンッ!!」

 火の熱と煙に狂った数百頭の馬が、いななきと共に暴れ狂い、繋がれていた柵を次々と蹴り破った。

寝込みを襲われ、燃え盛る天幕から這い出してきた騎馬隊の兵士たちは、パニックに陥りながらも、騎馬民族の生存本能から咄嗟に自身の馬へと飛び乗った。


 だが、それが致命的な判断ミスであった。 完全に炎の恐怖に支配された馬たちは、熟練の騎兵の手綱すら一切受け付けなかったのだ。

 「止まれ! 落ち着けェッ!」


  馬上にしがみつく兵士たちの悲鳴を乗せたまま、数百の馬の群れは完全に統率を失った怒涛の暴走状態へと突入した。逃げ遅れた味方の兵士を蹄で踏み潰しながら、騎馬隊は陣地を阿鼻叫喚の地獄へと変えていく。

 本能で炎から逃れようとする馬たちには、もはや逃げ道が一つしか残されていなかった。


 背後には燃え盛る巨大な火柱。

 横には砦の堅牢な石壁。


 必然的に、馬の群れは火の手も障害物もない唯一の空間――大河沿いの断崖に沿った低地へと、背中に人間を乗せたまま雪崩れ込んだ。

 そこは砦を大きく迂回し、南の湿地帯へと直結する死の回廊だった。


 騎兵たちは手綱を引いて止まろうと必死にもがいたが、後ろから押し寄せる数百頭の馬の波に押され、止まることなど到底不可能だった。


 パニックに陥った騎馬隊の怒涛の奔流が、そのままの勢いで、泥濘と正規軍が待ち受ける南の死の罠へと一直線に激突していったのである。

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