悪魔の契約
「死なせない。生き残って、勝つよ。……私の指示に、絶対に従いなさい」
その言葉が落ちた瞬間。ファリードの時間は、ピタリと止まった。
優秀すぎた兄の幻影。逆賊という逃れられない汚名。自分が無能なばかりに仲間を死なせたという、底知れぬ絶望と自責の念。この逃げ場のない砦の中で、誰もが彼に王族らしい誇り高き死を望み、彼自身も冷たい死の淵へと身を沈めようとしていた。
(……この世界で。誰一人として私に『生きろ』とは言わなかった、この世界で)
ただ一人、泥と血に塗れたこの小柄な悪魔だけが。
ファリードの無能さも、無意味な王族の誇りもすべて泥で塗り潰し、「生き残って勝つ」と、暴力的なまでの熱量で彼を現世へと引きずり上げたのだ。
ファリードの胸の奥底。完全に凍りついていたはずの心臓が、ドクン、とひどく熱く、激しい音を立てて脈打った。
ずっと水底に沈んでいた肺に、無理やり酸素をねじ込まれたように呼吸が荒くなる。
毒の匂いよりも濃い、マーシャが纏う泥と血の匂いが、ファリードの脳を焼くような強烈な生の劇薬となって全身を駆け巡った。
「殿下、よく見ろ」
マーシャの泥だらけの指先が、机に広げられた地図の一点を強く叩く。
「南の正規軍と、北の騎馬隊。両軍の目的は殿下の首。今は牽制し合ってるけど、互いに手柄を独占したいはずだ。これは、付け入る最大の綻びになる」
「……綻びだと? 戯言を」
マーシャの言葉を遮るように、カディルが殺気立った声で吐き捨てた。
「三千の大軍に完全に包囲されているのだぞ! この数十名の負傷兵ばかりの戦力で、一体何ができるというのだ!」
「――カディル。剣を引け」
嵐の音と怒号を切り裂くように響いたのは、低く、しかし決して逆らうことのできない静かな命令だった。
カディルが息を呑み、マーシャが少しだけ目を丸くして顔を上げる。
ファリードは、先ほどまで毒杯を持っていた震える自らの手を強く握り締め、真っ直ぐにマーシャの黒曜石の瞳を見つめ返した。
もはや、黙って死を待つ少年の瞳ではない。それは、地獄の底で生きる意味を見出した、若くとも、覇王の片鱗が見える光だった。
カディルがギリッと歯軋りをする。
だが、マーシャは彼を一瞥もせず、ファリードの金色の瞳だけを真っ直ぐに射抜いた。
彼の左手首には、泥に塗れて元の色もわからないボロボロの紐が巻かれている。彼は無意識に、右手の親指でそのミサンガを強く、血が滲むほどに押し込んでいた。
「正面からぶつかれば一秒で全滅する。だから、大河とこの雨を使う」
「大河を……?」
マーシャの泥だらけの指先が、地図の中央を横断する太い線――南の大帝国と北の大平原を隔てる、この辺境の盆地をなぞった。
「鼻が良いなら嗅いでみなよ。湿ったこの泥と草の匂いを」
言われて、ファリードは小さく息を吸い込んだ。
ひどく重く、濃密な土の匂い。数分前まで彼が溺れかけていた無機質で冷たい死の匂いとは真逆の、過剰なまでに暴力的な生命の匂いがそこには充満していた。
「南からの湿った風が山脈にぶつかって、この時期、ここには分厚い雨雲が溜まり続ける。一ヶ月降り続く雨が、山の豊かなミネラルを平地に削り落としてくるからだ。雨季が明ければ、ここは帝国一の収穫量を誇る巨大な穀倉地帯になる」
トン、と。彼の指が、砦の南側に広がる空白地帯を叩く。
「だが、今はただの底なしの泥濘だ。……南の叔父君が誇る、ピカピカの重装歩兵がどうなるか分かる? 鉄の鎧を着込んだ彼らは、この肥沃な泥に足を取られ、自身の重さで勝手に自滅していく」
「……では、北の騎馬隊はどうだ! 奴らは機動力の化け物だぞ!」
カディルの悲痛な反論を、マーシャはひどく冷たい瞳で一蹴した。
「馬鹿だね。彼らの蒼き狼の機動力は、乾いた平原にあってこそだ。こんな泥沼に馬を引き込めば、足を取られて馬の脚の骨が折れる。そんなこと、北の連中が一番よく分かってるはずだ」
「分かっていながら、なぜこんな雨季に南下してきたと言うのだ……!」
言いながらハッと気づいたファリードに、マーシャは鼻で笑い、彼の黒曜石のような瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「あんたの叔父が、北の軍馬と南の穀物の交易ルートを重税で断ち切ったからだよ。連中は、部族を食わせるために、自分たちの土俵じゃないと分かっていながら泥沼に突っ込んでくるしかなかったんだ。飢えと焦りで、奴らの指揮官の目は完全に曇ってる」
ファリードの背筋に、ゾクリと粟が立った。
この小柄な男は、目の前の兵士の数や陣形など見ていない。地形、気候、土壌、さらには敵の兵站と政治的な飢えに至るまで、この世界そのものを盤面として見下ろしているのだ。
「明日の明け方、大河の潮が引けば、南の湿地帯はすべてを飲み込む最悪の罠に変わる。そこへ、両軍を同時に引きずり込んで衝突させる。……泥と血でぐちゃぐちゃの、最高の相打ちの舞台を作ってやるよ」
マーシャは机に両手をつき、顔をファリードの目の前まで近づけた。
彼から、雨の冷たさと、鉄の錆びた匂いが漂う。
「兄の代わりとしてここで綺麗な死体を晒すか。見苦しく足掻いてでも、あいつらの喉笛掻き切って生き残るか。……選べ」
突きつけられた二つの道。
だが、目の前に立つ小柄な男の放つ熱量が、ファリードの網膜を容赦なく焼いた。とうの昔に灰の中に埋め、見ないふりをしてきた希望。それを力ずくで目の前に叩きつけられた衝撃に、目の裏が白くチカチカと瞬く。
息が詰まる。直後、ドクンと耳の奥で痛いほどの大きな鼓動が反響した。
凍りついていた血が沸騰し、彼が胸の底に落とした小さな火種が、凄まじい勢いで酸素を吸い込んで爆ぜる音がする。
喉を焼くような、圧倒的な生の実感。
仄暗い絶望の底から自分を引き摺り上げた眩しい光から、もう視線を外すことはできなかった。
ファリードは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
カビと泥の匂いが肺を満たす。それは、生きているものだけが嗅げる匂い。
叔父の圧政に苦しみ、飢えた末に泥沼へ足を踏み入れる北の民。そして、何も知らずに鎧の重みで自滅していく南の兵たち。血みどろの光景を想像し、ファリードはゆっくりと目を伏せた。
痛ましい事実だ。
だが、自分の代わりに死んでいったあの若い兵士の安らかな微笑みが、そして目の前で泥に塗れながら自分を引きずり上げたこの男の熱が、彼に王としての決断を突きつけていた。
床の隙間に染み込んでいく、甘い毒酒の跡から視線を切る。
何千という命を泥に沈める策。
そのおぞましい罪の重さに、組んだ指先が血の気を失うほど白く強張り、微かに震えていた。だが、ファリードはそれを自身の腿に強く押し付け、無理やり震えを殺す。
(この策で流れるすべての血の業は、命じた”私”が背負う)
「――分かった」
絞り出した第一声は、まだ微かに震えていた。だが、真っ直ぐにマーシャを見据え、続く言葉を口にした瞬間。
「貴殿の策に乗ろう」
その声から、先ほどまでの怯えは完全に消え去っていた。
膝を震わせながらも必死に背伸びをし、ようやく見つけた王としての覚悟。凪いだ湖面のように静かで、底知れぬ凄みを持った主君の顔つきに、背後のカディルがハッと息を呑む。
「……上等。じゃあ、サクッと仕事を割り振るよ」
血と泥に塗れた小柄な軍師は、獰猛な笑みを浮かべて地図に短剣の柄を叩きつけた。
「まずは南の正規軍。鉄ダルマどもを、陣形を組む暇もなく泥濘に突っ込ませるための極上の餌がいる。……そこの、スラム上がりだろう、あんた」
視線を向けられたザイドが、なぜ分かったんだと「へっ」と面白そうに犬歯を見せて笑う。
「あんたは南の陣に潜り込め。夜明け前の一番暗い時間に、『北の蛮族が、抜け道を見つけて砦に突入した』『逃亡王子が南の湿地帯を抜けて逃げようとしている』、なんでもいいが、内側から彼らの欲を駆り立てて誘導するんだ。敵の兵糧が見つかれば火を放ちながらな。新王の恐慌政治の中、手柄に飢えてる奴らは、足元の確認もせずに泥沼へ飛び込んでくる」
「……チッ。人使いの荒いこった。任せな」
マーシャは頷き、次に地図の北側を指差した。
「次は北の蒼き狼。確実に南の歩兵どもと衝突させるため、私が直接、奴らを泥濘のど真ん中へ誘導する。……そこの大柄な無口、あんたは私に同行して」
指名されたタリクが、無言のまま静かに頷く。
「無口な盾役がいないと、私が誘導中に流れ矢で死ぬからね。そこのヤブ医者はここに残って、後で使えるように湿地帯の泥水になんか毒でも撒いておきな」
「ヒッヒッヒ……お任せを」
実質的な初対面。名前すら知らないはずのこの小柄な男が、一瞬の観察だけで陣営の適性を見抜き、次々と盤面の駒として配置していく。
流れるようなその采配は、この100日間、ただ闇雲に逃げるしかなかったファリードたちにとって、初めて明確に示された、生き残るための道筋だった。
「そして、殿下と、そこのお堅い騎士」
男の黒曜石の瞳が、ファリードを真っ直ぐに射抜く。
「あんたたちは、このまま――この砦に立て籠って、両軍から一番目立つ最大の囮になってもらう。南の歩兵も、北の騎馬も、あんたの首を狙って泥沼の中心で完璧に激突する」
「殿下を囮にするだと!? 危険すぎる!」
猛反発するカディルを、ファリードは片手で静かに制した。
「構わない。命を危険に晒すのは皆同じだ。……頼む、カディル。私の背中を守ってくれ」
「っ……!! 御意……ッ!!」
主君の真っ直ぐな瞳と声色に、カディルはついに抗うことをやめ、その場で深く、力強く片膝をついた。
パキリ、と。
大帝国正規軍と、蒼き狼。強大すぎる二つの勢力に対する、対抗策が完成した音がした。
大河からの風が一段と強く吹き込み、砦の古い松明の炎が、まるで反逆の狼煙のように大きく、熱く燃え上がった。




