悪魔の契約
その言葉が落ちた瞬間。 ファリードの時間が、ピタリと止まった。
優秀すぎた兄の幻影。逆賊という逃れられない汚名。 自分が無能なばかりに仲間を死なせたという、底知れぬ絶望と自責の念。 この逃げ場のない砦の中で、誰もが彼に〈王族らしい誇り高き死〉を望み、彼自身も冷たい死の淵へと身を投げようとしていた。
(……この世界で。誰一人として私に『生きろ』と言わなかった、この世界で)
ただ一人、泥と血に塗れたこの小柄な悪魔だけが。 彼の無能さも、無意味な王族の誇りもすべて泥で塗り潰し、「生き残って勝つ」と強引に、暴力的なまでの生きる熱量で彼を現世へと引きずり上げたのだ。
ファリードの胸の奥底、完全に凍りついていたはずの心臓が、ドクン、と熱く、激しい音を立てて脈打った。 のちに、大帝国全土を巻き込み、彼の人生のすべてを狂わせることになる、途方もなく重い熱が、燃えあがった瞬間だった。そして、突如現れた彼が、ファリードの人生を動かす大きな歯車となるには知らずに。
彼はそう吐き捨てると、外套の内側から、雨から死守していた一枚の羊皮紙を乱暴に机に広げた。近隣の地形が精緻に書き込まれた、粗末な地図だった。
「殿下、よく見ろ」
彼の泥だらけの指先が、ファリードの目の前で地図の一点を強く叩く。
「南の正規軍と、北の騎馬隊。両軍の目的は『殿下の首。今は牽制し合ってるけど、互いに手柄を独占したいはず。これは、付け入る最大の〈綻び〉になる」
「……綻びだと? 戯言を。三千の大軍を前に、この戦力で何ができるというのだ」
カディルがギリッと歯軋りをする。だが、マーシャは彼を一瞥もせず、ファリードの金色の瞳だけを真っ直ぐに射抜いた。
彼の左手首には、泥に塗れて元の色もわからないボロボロの紐が巻かれている。彼は無意識に、右手の親指でそのミサンガを強く、血が滲むほどに押し込んでいた。
「正面からぶつかれば一秒で全滅する。だから、大河を使う」
「大河を……?」
「この砦の南側、大河との間に広がる湿地帯。この地形を最大限利用する。明日の明け方、大河の潮が引けば、あそこは底なしの泥濘に変わる」
マーシャの瞳の奥に、生きることへの凄絶な執着と、理知的な光が宿る。
「隠密行動が得意そうなやつ......お前だな。夜明け前に南の陣に忍び込んで、『北の蛮族が抜け道を見つけて砦に突入した』と偽の情報を流せ。功を焦った叔父の重装歩兵は、慌てて砦に殺到する。……そして、泥濘に足を取られて鉄の塊と化す」
マーシャの鋭い視線を浴びて、窓際のザイドが、ニヤリと口角を上げて投げナイフを弄った。
「北の騎馬隊には、私とこのデカブツで火を放つ。馬は火に狂う。混乱したまま南下した騎馬隊が、泥濘で身動きの取れない正規軍と激突すれば、あとは放っておいても勝手に殺し合うだろう」
マーシャは入り口付近でじっとその様子を眺めていたタリクを指差し、言った。淡々と、流れるように紡がれる凄惨な戦図。
それは、誇り高い騎士道の欠片もない、徹底して敵の心理と地形を利用した、今までの戦術の教科書では見たことのないような、生き残るためだけの戦術だった。二つの強大な敵に狙われているというその絶望を逆手に取り、その敵同士をぶつけるという変わった戦法。
イブンが、すり鉢の手を止めて「……悪辣な」と嬉しそうに低く呟いた。
「だが、最後に決めるのは雇い主である殿下だ」
マーシャは机に両手をつき、顔をファリードの目の前まで近づけた。
彼から、雨の冷たさと、鉄の錆びた匂いが漂う。
「『兄の代わり』としてここで綺麗な死体を晒すか。見苦しく足掻いてでも、あいつらの喉笛掻き切って生き残るか。……選べ」
突きつけられた二つの道。
だが、目の前に立つ小柄な男の放つ熱量が、ファリードの網膜を容赦なく焼いた。とうの昔に灰の中に埋め、見ないふりをしてきた〈希望〉。それを力ずくで目の前に叩きつけられた衝撃に、目の裏が白くチカチカと瞬く。
息が詰まる。直後、ドクンと耳の奥で痛いほどの大きな鼓動が反響した。
凍りついていた血が沸騰し、男が胸の底に落とした小さな火種が、凄まじい勢いで酸素を吸い込んで爆ぜる音がした。喉を焼くような、圧倒的な生の実感。仄暗い絶望の底から自分を引き摺り上げた眩しい光から、もう視線を外すことはできなかった。
ファリードは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
カビと泥の匂いが肺を満たす。それは、生きているものだけが嗅げる匂いだった。
「……ザイド」
ファリードの声には、もう先ほどの掠れはなかった。
「へい、殿下」
「南の陣に潜り込め。敵の足を、泥濘に引きずり込むんだ」
マーシャの唇に、獰猛な笑みが浮かぶ。
大河からの風が一段と強く吹き込み、砦の古い松明の炎が、まるで反逆の狼煙のように大きく燃え上がった。




