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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
一章

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3/42

砦での絶望

 大河シャジャルから吹き付ける夜風が、朽ちかけた石造りの砦を亡者のように叩き続けていた。

 風のたびに、蔦の絡まる窓枠がガタガタと悲鳴を上げる。淀んだ泥の匂いと、雨に濡れたカビの臭気が、密閉された空間に重く立ち込める。


 かつて、北方の騎馬民族蒼き狼の侵攻を防ぐために築かれた大帝国最北の防衛要塞。だが、長い平和の中で放棄され、今や蔦が絡まるだけのカビ臭いこの廃城こそが、王都グラナダから一千キロの過酷な逃避行を強いられたファリードたちの、最後の墓所になろうとしていた。


 部屋の中央に置かれた粗末な木机の前に、ファリードは座っていた。

 十四歳の華奢な肩には、数ヶ月前に戦死した兄王子の形見である、豪奢な銀の甲冑が乗せられている。骨格に合わないそれは、彼が呼吸をするたびに鎖帷子と擦れ合い、じゃらり、じゃらりと冷たく鈍い音を立てた。まるで、決して逃れられない呪いの鎖の音のように。


 「……南の帝国正規軍は、砦を半包囲する形で野営を張りました。北の丘陵地帯には、蒼き狼の騎馬隊の篝火が見えます。夜が明ければ、両軍同時に攻め込んでくるでしょう」


 部屋の隅から、感情の抜け落ちた声が響く。

 大黒柱兼、最前線指揮のカディルだ。


 彼は薄暗いランプの光の端で、床に片膝をついたまま自身の長剣に油を引いていた。シュッ、シュッと布が鋼を滑る規則正しい音が、ファリードの胃の腑をじわじわと削り取っていく。  

 カディルの傍らには、彼自身の剣の他に、刃の欠けた短い双剣の片割れと、焼け焦げた黒い矢尻が大切に置かれていた。  

 かつて王宮で、大人しい少年だったファリードにいつも陽気に笑いかけてくれた、二人の若き近衛騎士たちの形見だ。あの血塗られた夜、彼らはファリードたちを逃がすためにマレクの軍勢に呑み込まれ、二度と帰ってはこなかった。

 ランプの微かな光に照らされたその形見を見るたび、そして自身の持つ、兄がいつも身につけていた銀の印章指輪の欠片に触れるたび、ファリードの胸は鋭い刃で抉られるように痛んだ。左手に握りしめた亡き兄の形見――焼け焦げた銀の装飾が、ひどく冷え切った彼の手のひらの中で、火傷しそうなほど熱く脈打っているように錯覚した。


 兄が死んでから約百日。死に物狂いで炎に包まれた王宮を脱出した際に五百名いた近衛兵は、戦闘や飢え、裏切り、過酷な逃亡の果てに百五十名まで削り取られた。  

 ――そして数日前。他でもないファリード自身の無謀な指揮によって、彼らはついに三十名にまで減ってしまったのだ。


 (……すべては、私のせいだ)

 ギリッと血が滲むほど唇を噛み締め、ファリードは机の上に置かれた小さな銀の杯へと、重い視線を落とした。  

 致死量の毒が溶けた、冷たい銀の杯。

 それを見つめるファリードの脳裏に、数日前の凄惨な死闘が鮮明にフラッシュバックする。  


 軍全体を俯瞰して盤面を描く戦略家の不在。

 「王族である私が彼らを導かねば」と、王宮の書庫で叩き込んだ兵法書の知識だけを頼りに、彼は自ら指揮を執った。教科書通りの、最も美しく強固な密集陣形。

 だが、実戦の戦場において、その定石こそが致命的な悪手だった。雨を含んで底なしの泥濘と化した地面に足を取られ、機動力を完全に失った陣形は、斜面に潜んでいた敵の伏兵にとって、ただの巨大な的でしかなかったのだ。


「……陣形を崩すな! 密集して盾を合わせろ!!」


 視界を白く染める豪雨の中、必死に声を張り上げた。だが、その声は味方の断末魔に容易く掻き消された。

 泥に足を取られた兵たちが、次々と伏兵の凶刃に喉を裂かれ、泥水の中へと沈んでいく。


「やめろ……っ! 立て、私を庇うな!!」


 自身を庇って崩れ落ちた同年代の若い兵士の腕を、咄嗟に掴んだ。

 だが、その腕からは急速に命の熱が抜け落ちていく。自身の震える指先からズルリと、意思を持たないただの重い肉の塊が滑り落ちていく、あの悍ましい感触。

 直後、ファリードの白い頬に、べしゃりと生温かい液体が張り付いた。生まれて初めて浴びる、自身を庇って死んだ味方の返り血。鉄錆のような血の匂いと、腹の底を掻き回すような泥の悪臭に、胃の内容物をすべて泥水の中へと吐き出した。


『殿下のせいではありません。……どうか、ご無事で』


 胸に矢を受け、口から血の泡を吹きながらも、その若い兵士は恨み言一つ口にせず、優しく微笑んで事切れた。

 泥に塗れたその安らかな微笑みは、どんな罵倒よりも残酷な呪いとなって、ファリードの心臓をズタズタに引き裂いたのだった。


(……私が生きている限り、皆が死ぬ。私をかばって)

 そして不運は重なった。

 辺境の酒場で賞金首の噂を聞きつけ、北の丘陵地帯から蒼き狼が南下してきたのだ。その逃走劇は結果として南から正規軍を引き込み、北からは賞金稼ぎの蛮族を呼び寄せてしまった。

 完全なる挟み撃ち。

 砦に残された兵は、わずか数十名。

 対する追手は南北合わせて三千に迫る。食糧は三日前に底をつき、負傷兵たちの呻き声が、薄い床板の下から絶え間なく響いてきている。


 数日前、逃亡中の彼らは密偵ザイドが拾い集めてきた一つの噂――『どんな劣勢の盤面でも必ず敵の急所に刃を届かせる、異邦の悪魔の軍師がいる』という噂に、陣営の最後の命運を懸けていた。

 王族の誇りなどとうに捨て、ファリードは辺境の薄汚い傭兵酒場へ日参し、血生臭い傭兵たちに舌打ちされながらも、あの小柄な男に「私の軍師になってくれ」と泥水を啜るような思いで何度も頭を下げ続けた。

 だが、その唯一の希望であった悪魔にすら、「他人の命は背負わない。沈みかけの舟に乗る趣味はない」と冷酷に見放されてしまったのだ。


 完全に手札を失い、彼らはこの逃げ場のない廃砦へと追い詰められた。

ーーもはや、この盤面をひっくり返す手立てはどこにも残されていない。

 ファリードの視線の先には、机に置かれた小さな銀の杯があった。

 軍医であるイブンが調合した、致死量の毒が溶けた葡萄酒だ。甘ったるい果実の匂いの奥に、舌が痺れるような薬草の鋭い香りが隠れている。


「殿下」

 カディルが、使い込まれた長剣を鞘に納めた。

 カチャリ、という硬質な音が、死を待つ静寂の中にひどく冷酷に響く。  


 ゆっくりと顔を上げた彼の左頬には、揺れる松明の火に照らされて、醜く赤黒い火傷の痕がひきつるように浮かび上がっていた。かつて王宮が業火に包まれた夜、彼が大切な人たちを救えなかった代償として刻まれた、決して消えない悔恨の印だ。

 松明の炎がパチリとはぜるたび、カディルの屈強な肩が微かに強張り、長剣から離れた彼の手は、行き場を失ったように固く握りしめられている。


 言葉などなくても、ファリードには痛いほどに伝わってきた。

 実直で誇り高いこの騎士が、今、どれほどの絶望と自己嫌悪でその身を切り刻んでいるか。あの業火の夜に続き、最後まで守り抜くと誓ったはずの主君すら生かすことができず、自らの口から死を勧めなければならないという地獄。

 奥歯を噛み割らんばかりに食いしばったカディルの悲痛な横顔が、ファリードの胸の奥をさらに重く、息苦しくさせた。


「……殿下。逆賊として叔父君の軍に捕らわれれば、どのような辱めを受けるか分かりません。北の蛮族に首を取られるのもまた然り……」


 カディルは血を吐くようにそう告げると、自身の震える右手を隠すように、もう片方の手で強く抑え込んだ。革手袋が軋む音が、彼の喉の奥でせき止められた慟哭の代わりに鳴る。  

 彼はファリードの瞳を見ることができず、ただ足元の泥に汚れた石畳を見つめていた。その横顔を見て。


 「……分かっている」

 ファリードの喉から出た声は、ひどく掠れていた。肺の奥に灰が詰まっているかのような、自身のものとは思えぬ響き。


 「亡き兄君であれば……」


 カディルの言葉が、そこで一度途切れた。彼は自身の左頬の傷跡を、無意識に指先でなぞる。指先に残る幻の熱さが、彼の思考を強制的に”完璧だった太陽”へと引き戻す。


 「……亡き兄君であれば。敵の手に落ちて王家の名を汚す前に、自ら誇り高く、その血を散らされたでしょう」


 カディルの言葉は、冷えた銀の針となって、ファリードの剥き出しの心臓を容赦なく貫いた。

 彼は重い鎧を鳴らして膝をつくと、震える手で、石机の上の毒杯をファリードの方へとわずかに押しやった。それが彼にできる、最後にして唯一の、残酷な忠義であった。


 兄君であれば。


 その言葉を投げつけられるたび、ファリードは自身が空っぽの、王位継承者の後釜でしかないことを突きつけられる。

 部屋の入り口では、巨漢のタリクが巨大な盾を抱えたまま、岩のように目を閉じている。彼が抱える大盾には、無数の矢が突き刺さり、大きくひしゃげている。

 窓際では、ザイドが落ち着かない様子で自身の爪をガリガリと噛み、外の無数の篝火を睨みつけていた。   部屋の奥では、イブンが新たな薬草をすり鉢で摺っている。ゴリ、ゴリという鈍い音が、ファリードの死への秒読みのように聞こえた。


 誰も、ファリードに「生きろ」とは言わない。

 それが、この絶対的な死地における唯一の慈悲なのだと、頭では理解していた。


 十四歳の華奢な肩に乗る、兄の遺した豪奢な銀の甲冑。サイズが合わず、動くたびに肩の肉を削り、血が滲んでいる。だが、その物理的な痛みすら、己の無能な采配で死なせてしまった何百という兵士たちの命の重さに比べれば、取るに足らないものだった。

 ひび割れた唇をきつく噛み締め、震える指先を銀の杯へと伸ばす。

 杯の表面は、氷のように冷たかった。冷気が指先から全身へと這い上がり、奥歯がカチカチと鳴りそうになるのを、必死に顎の筋肉を強張らせて耐える。

 飢えと疲労で頬がこけ、どんな苦境に立たされても自分を守ろうとする四人の忠臣たち。自分がこのまま生きていれば、彼らはその優しさと忠誠ゆえに、最後まで己の命を削り続けるだろう。私が、彼らを殺しているのだ。


 砦の外からは、もはや風の唸りすらも掻き消すほどの重い地鳴りが迫っていた。

 南からは、大河の覇者として数百年の栄華を誇ったシャジャル帝国正規軍の、地を揺らす重装歩兵の行軍音。北からは、騎馬民族蒼き狼の騎馬隊が打ち鳴らす、耳障りな銅鑼の音。


 血の純潔を重んじ、神聖視されてきたシャジャル王家の血脈は、今や簒奪者である残忍な叔父マレクの裏切りによって、この辺境の朽ちた砦で完全に途絶えようとしていた。

 この毒を飲み干せば、自身が最後に残された正当な王位継承者であるという事実と共に、誇り高き大帝国の正史は永遠に闇に葬られる。叔父はファリードを逆賊として仕立て上げ、歴史を都合よく書き換えるだろう。


 だが、毒の杯を口元へ引き寄せた、その瞬間。

 不思議なことに、外の怒号も、絶望的な銅鑼の音も、まるで遠い異国の出来事のようにスッと遠ざかっていった。

 代わりに鼻腔を満たしたのは、甘ったるい果実と、鋭い薬草が混ざった毒の匂い。


 (……ああ。これを飲めば、彼らの傷を終わらせてやれる。この重すぎる甲冑から、解放される)


 不思議と、カチカチと鳴りそうだった奥歯の震えが、ぴたりと止まった。

 王宮の暗い書庫の隅で、ただ古びた羊皮紙をめくるためだけにあった自分の白い手。

 この三ヶ月の逃避行で、その手はすっかり泥と血に汚れ、幾つもの無惨な裏切りと、吐き気のするような悪意に触れてきた。本の中の美しい英雄譚などどこにもない、残酷で理不尽な外の世界。


 それでも。

 この掃き溜めのような世界で、彼ら四人だけは、何の力もない自分を最後まで裏切らずに守り抜いてくれた。その事実だけが、今のファリードにとって唯一の、そして絶対的な救いだった。


もはや、ここまでだ。

 長かった逃避行。失われた平和な王宮での日々。その全てが今では、夢の中にいたように感じる。

 雪の降る夜のような、ひどく冷たくて静かな安堵感だけが、彼を優しく包み込もうとしていた。


 ファリードは、氷の静寂の中へと沈み込むように、ゆっくりと目を閉じ――


 (……兄上。 私は、最期まであなたのようにはなれませんでした。カディル、タリク、ザイド、イブン。無能な私を、どうか許してくれ)


 心の中でひっそりと謝罪を紡ぎ、杯を口元へ運ぼうとした、その時だった。

 ――バァァァァァンッ!!


 次の瞬間。

 分厚い木の扉が、蝶番ごと弾け飛ぶ凄まじい轟音と共に蹴り破られた。

 ファリードの鼓膜を優しく包んでいた氷の静寂が、無惨に粉砕される。


 外から吹き込んだ暴風雨と、天を裂く雷光。

 白く飛んだ視界のど真ん中に、頭から泥水と敵の返り血を被り、肩で激しく息をする小柄な影が立っていた。

 マーシャだ。

 彼のターバンで巻かれた黒い髪はターバンごと雨で顔にへばりつき、薄汚れた外套からはぽたぽたと濁った水滴が落ちている。


「マー、シャ……? 」


 ファリードは、虚を突かれたように目を見開いた。

 思考が、完全に停止する。

 なぜだ。彼は「沈みかけの舟には乗らない」と、私を見捨てたはずだ。

 この三千の軍勢に包囲された絶望の砦へ”戻ってくる”ために、一体どれほどの死線を潜り抜けてきたというのか。


 呆然とするファリードの瞬きより早く、雷光に照らされたその小柄な影は、一直線にこちらへと踏み込んできた。

 その血に濡れた姿は、ファリードの目に、かつてすべてを奪い去ったあの夜の燃え盛る業火そのもののように映った。だが、今の彼に向かってくるその炎は、恐ろしいほどの熱量で彼を死の淵から迎えに来る、暴力的なまでの命の光だった。


 「……雇い主が勝手に死のうとしてるなんて、最悪の職場だな」


 吐き捨てるような低い声。

 直後、ガシッと強引な力が働き、ファリードの震える手から銀の杯がひったくられた。

 その一瞬、荒れた指先がファリードの手に触れる。


(……熱い)


 ひどく冷え切っていたはずのその指先には、ファリードの石のような冷たさとは対極の――血をたぎらせて死線を越えてきた人間の、火傷しそうなほどの強烈な命の熱があった。

 冷たく静かな死の世界へ沈みかけていた首根っこを掴まれ、泥臭く痛みに満ちた、生きるための地獄へと、力ずくで引きずり戻される。


 マーシャは杯の中身を、石畳の床に無造作にぶち撒けた。

 ジュゥゥッ、と嫌な音を立てて、毒酒が石の隙間に吸い込まれていく。

 甘く鋭い毒の匂いを、むせ返るような泥と血の匂いが、あっという間に上書きして塗り潰していった。


 蝶番ごと吹き飛んだ扉の残骸から、外の荒れ狂う暴風雨が一気に部屋の中へと雪崩れ込んでくる。

 室内の空気を重く支配していた死の静寂が、叩きつけるような雨音と雷鳴によって強制的に蹂躙され、塗り潰されていく。


「貴様ッ……! 何の真似だ! 殿下の誇りを土足で汚す気か!」


 激昂したカディルが、血を吐くような咆哮と共に半ばまで剣を抜き放つ。主君の美しく誇り高い最期を見届けるという、身を切るような覚悟を泥足で踏みにじられた、怒りと混乱が入り交じった悲鳴だった。

 だが、その前にタリクが素早く腕を差し出し、無言でカディルの動きを制止する。いつもは温厚なタリクの目も、あり得ないものを見るように大きく見開かれていた。


「誇り?」


 嵐の轟音の中、マーシャの冷ややかな声が奇妙なほどはっきりと鼓膜を打った。

 彼は腰の双短剣には手を触れず、顔にへばりついた血と泥を手の甲で乱暴に拭いながら、カディルを鼻で笑い飛ばす。


「誇りで腹が膨れるなら、死ぬまでその剣でもかじってれば? 私は嫌だね。あんたたちの自己満足の綺麗な最期につき合ってやる義理はない」


 軍隊も、国も、守るべき陣形も、家族も臣下も。

 この100日間で持っていたものをすべて喪い、ついに自らの命すら手放そうとしていたファリード。空っぽになったはずの彼の手のひらに、今、強烈な泥と雨の冷たさが生々しく残っている。

 ファリードは、雷光を背負って立つその小柄な影から、どうしても目を逸らすことができなかった。


 マーシャは真っ直ぐにファリードの目を射抜いたまま、懐から丸めた羊皮紙を取り出し、乱暴に机の上へと叩きつけた。バンッ、と重い音が響く。

 それは、彼女が自身の命を懸け、この暴風雨と敵の血飛沫の中から死守してきたのであろう、一枚の粗末な地図だった。


「ここから反撃する。……盤面を見ろ、私の雇い主」


 ファリードの凍りついていた心臓が、嵐の雷鳴に呼応するように、ドクンと大きく、ひどく熱い音を立てて跳ねた。

 叩きつけられた地図越しに、ファリードは泥と血に塗れたマーシャの顔を見上げた。

 薄暗いランプの火に照らされたその瞳は、黒曜石のように深く、暗闇で獲物を狙う獣のようにギラリと獰猛な光を放っている。


 絶対に目を逸らそうとしない、圧倒的な生の引力。絡み合った視線が火花を散らすようにぶつかり合い、ファリードの肺から、堪えきれないような震える息が漏れた。


 背後で、剣を握っていたカディルが絶句し、ハッと息を呑む音がした。

 常に冷静なタリクも、窓際のザイドも。壁際で目を閉じていたイブンすらも目を見開き、押し黙ったままその小柄な背中を凝視している。

 砦の中を満たしていた重苦しい死の空気が、彼が放つ強烈な覇気によって完全に上書きされ、全く別のものへと変質していくのを、そこにいる全員が肌で感じ取っていた。


「……数日前の話、受けてあげるよ、殿下」


 雷鳴の合間を縫うように、低く、はっきりと響く声。


「え……」


「あんたの軍師になってやるって言ってるの。ただし、条件が一つある」


 マーシャは両手を机につき、ファリードに向かってグッと身を乗り出した。

 至近距離で交錯する視線。吐息が届くほどの距離で、外の湿った泥と血の匂いの中に、決して折れない強靭な覚悟の匂いがした。


「死なせない。生き残って、勝つよ。……私の指示に、絶対に従いなさい」


 外の嵐が一層激しく砦を叩き、天を裂く稲妻が室内の影を白く切り裂いた。

 その眩い閃光の中で、完全に止まっていた運命の歯車が、重々しい悲鳴を上げて力強く逆回転を始める。


 誰もが諦めていた理不尽な死の盤面をひっくり返す、悪魔の軍師と若き覇王の、これが血塗られた反逆の始まりの夜だった。

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