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黒曜の軍師と白金の王 ~盤上の駒は故郷を乞う~  作者: *しおり*


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3/7

砦での絶望

 大河シャジャルから吹き付ける夜風が、朽ちかけた石造りの砦を亡者のように叩き続けていた。

 風のたびに、蔦の絡まる窓枠がガタガタと悲鳴を上げる。淀んだ泥の匂いと、雨に濡れたカビの臭気が、密閉された空間に重く立ち込める。


 かつて、北方の騎馬民族〈蒼き狼〉の侵攻を防ぐために築かれた大帝国最北の防衛要塞。だが、長い平和の中で放棄され、今や蔦が絡まるだけのカビ臭いこの廃城こそが、王都グラナダから一千キロの過酷な逃避行を強いられたファリードたちの、最後の墓所になろうとしていた。


 部屋の中央に置かれた粗末な木机の前に、ファリードは座っていた。

 十四歳の華奢な肩には、数ヶ月前に戦死した兄王子の形見である、豪奢な銀の甲冑が乗せられている。骨格に合わないそれは、彼が呼吸をするたびに鎖帷子と擦れ合い、じゃらり、じゃらりと冷たく鈍い音を立てた。まるで、決して逃れられない呪いの鎖の音のように。


 「……南の帝国正規軍は、砦を半包囲する形で野営を張りました。北の丘陵地帯には、蒼き狼の騎馬隊の篝火が見えます。夜が明ければ、両軍同時に攻め込んでくるでしょう」


 部屋の隅から、感情の抜け落ちた声が響く。

 大黒柱兼、最前線指揮のカディルだ。


 彼は薄暗いランプの光の端で、床に片膝をついたまま自身の長剣に油を引いていた。シュッ、シュッと布が鋼を滑る規則正しい音が、ファリードの胃の腑をじわじわと削り取っていく。  

 カディルの傍らには、彼自身の剣の他に、刃の欠けた短い双剣の片割れと、焼け焦げた黒い矢尻が大切に置かれていた。  

 かつて王宮で、無力だったファリードにいつも陽気に笑いかけてくれた、二人の若き近衛騎士たちの形見だ。あの血塗られた夜、彼らはファリードたちを逃がすためにマレクの軍勢に呑み込まれ、二度と帰ってはこなかった。


 ランプの微かな光に照らされたその形見を見るたび、ファリードの胸は鋭い刃で抉られるように痛んだ。


 兄が死んでから約百日。王宮を脱出した際に五百名いた近衛兵は、戦闘や飢え、裏切り、過酷な逃亡の果てに百五十名まで削り取られた。  

 ――そして数日前。他でもないファリード自身の無謀な〈指揮〉によって、彼らはついに三十名にまで減ってしまったのだ。


 (……すべては、私の無能のせいだ)

 ギリッと血が滲むほど唇を噛み締め、ファリードは机の上に置かれた小さな銀の杯へと、重い視線を落とした。  

 致死量の毒が溶けた、冷たい銀の杯。

 それを見つめるファリードの脳裏に、数日前の凄惨な死闘が鮮明にフラッシュバックする。  


 軍全体を俯瞰して盤面を描く戦略家の不在。

 「王族である私が彼らを導かねば」と、王宮で叩き込んだ兵法書の知識を頼りに自ら指揮を執る決意をした彼は、南から追ってくる正規軍の追撃から逃れるため、美しい定石通りの陣形を命じた。だが、実戦経験のない十四歳の少年の〈机上の空論〉は泥沼の戦場では全く通用せず、実戦の泥沼ではその陣形が逆に足枷となり、敵の伏兵の格好の的となってしまったのだ。


 「……陣形を崩すな! 兵法書の定石通り、密集して盾を合わせろ!!」

 雨音を掻き消すように、あの日ファリードは必死に声を張り上げた。

 王宮の書庫で叩き込んだ知識。歴代の将軍たちが残した戦術書。それらを頼りに、彼は自身の手で残された兵を指揮し、なんとか生き残ろうと足掻いていた。 だが、その「教科書通りの美しい陣形」こそが、致命的な悪手であった。

 雨を含んで底なしの泥濘と化した地面に足を取られ、機動力を完全に失った密集陣形は、斜面に潜んでいた敵の伏兵にとって、ただの巨大な的でしかなかったのだ。

「ぎゃあっ!」

 「殿下、お逃げを――ッ!」

 泥に足を取られた味方の兵たちが、次々と伏兵の凶刃に喉を掻き切られ、泥水の中へと沈んでいく。

 「やめろ……っ! 立て、私を庇うな!!」

 ファリードは泥に足を取られながら、自身を庇って倒れゆく若い兵士の腕を咄嗟に掴んだ。 だが、その腕から急速に命の熱が抜け落ち、自身の震える指先からズルリと、どうしようもなく重い肉の塊となって滑り落ちていく。 直後、彼の白い頬に、べしゃりと生温かい液体が張り付いた。 生まれて初めて浴びる、自身を庇って死んだ味方の返り血。 鉄錆のような血の匂いと、腹の底を掻き回すような泥の悪臭。      


 自身の「無能な机上の空論(采配)」のせいで、大切な仲間たちがただの肉塊に変わっていく。その圧倒的で理不尽な現実の重さに、ファリードは地面に這いつくばり、胃の内容物をすべて泥水の中へと吐き出してしまった。

 また、泥の中で、彼を庇って胸に矢を受けた同年代の若い兵士も。ファリードが「私の指示のせいで……すまない」と泣き崩れると、その兵士は口から血の泡を吹きながらも、恨み言一つ口にせず、優しく微笑んで息絶えた。

 『殿下のせいではありません。……どうか、ご無事で』

 その血に濡れた安らかな微笑みは、どんな罵倒よりも残酷な呪いとなって、ファリードの心臓をズタズタに引き裂いた。


 そして不運は重なった。

 辺境の酒場で賞金首の噂を聞きつけ、北の丘陵地帯から騎馬民族『蒼き狼』が南下してきたのだ。

 その逃走劇は結果として南から正規軍を引き込み、北からは賞金稼ぎの蛮族を呼び寄せてしまった。

 完全なる挟み撃ち。

 砦に残された兵は、わずか数十名。

 対する追手は南北合わせて三千に迫る。食糧は三日前に底をつき、負傷兵たちの呻き声が、薄い床板の下から絶え間なく響いてきている。


 数日前、逃亡中の彼らは密偵ザイドが拾い集めてきた一つの噂――『どんな劣勢の盤面でも必ず敵の急所に刃を届かせる、異邦の悪魔の軍師がいる』という噂に、陣営の最後の命運を懸けていた。

 王族の誇りなどとうに捨て、ファリードは辺境の薄汚い傭兵酒場へ日参し、血生臭い傭兵たちに舌打ちされながらも、あの小柄な男に「私の軍師になってくれ」と泥水を啜るような思いで何度も頭を下げ続けた。

 だが、その唯一の希望であった悪魔にすら、「他人の命は背負わない。沈みかけの舟に乗る趣味はない」と冷酷に見放されてしまったのだ。


 完全に手札を失い、彼らはこの逃げ場のない廃砦へと追い詰められた。

 ーーもはや、この盤面をひっくり返す手立てはどこにも残されていない。

 ファリードの視線の先には、机に置かれた小さな銀の杯があった。

 軍医であるイブンが調合した、致死量の毒が溶けた葡萄酒だ。甘ったるい果実の匂いの奥に、舌が痺れるような薬草の鋭い香りが隠れている。


「殿下」

 カディルが、使い込まれた長剣を鞘に納めた。

 カチャリ、という硬質な音が、死を待つ静寂の中にひどく冷酷に響く。  


 彼はゆっくりと顔を上げた。

 揺れる松明の火に照らされたその左頬には、かつて第一王子を救えなかった〈あの夜〉の業火が刻んだ、醜く赤黒い火傷の痕がひきつるように浮かび上がっている。  

 松明の炎がパチリとはぜるたび、カディルの脳裏には常に、崩れ落ちていく王宮の西塔と、そこで白百合のように微笑んでいたはずの『あの人』の絶望の叫びが幻聴となって木霊していた。


 あの日、愛する人を炎から救い出せなかった自身の非力な手が、たまらなく憎い。  

 そして今、最後まで守り抜くと誓ったはずの主君を生かすことすらできず、自らの手で死を勧めなければならないのだ。


「……殿下。逆賊として叔父君の軍に捕らわれれば、どのような辱めを受けるか分かりません。北の蛮族に首を取られるのもまた然り……」


 カディルは血を吐くようにそう告げると、自身の震える右手を隠すように、もう片方の手で強く抑え込んだ。革手袋が軋む音が、彼の喉の奥でせき止められた慟哭の代わりに鳴る。  


 彼はファリードの瞳を見ることができず、ただ足元の泥に汚れた石畳を見つめていた。その横顔には、主君に死を強いる者特有の、深すぎる苦渋が刻まれている。


 「……分かっている」

 ファリードの喉から出た声は、ひどく掠れていた。肺の奥に灰が詰まっているかのような、自身のものとは思えぬ響き。


 「亡き兄君であれば……」


 カディルの言葉が、そこで一度途切れた。彼は自身の左頬の傷跡を、無意識に指先でなぞる。指先に残る幻の熱さが、彼の思考を強制的に”完璧だった太陽”へと引き戻す。


 「……亡き兄君であれば。敵の手に落ちて王家の名を汚す前に、自ら誇り高く、その血を散らされたでしょう」


 カディルの言葉は、冷えた銀の針となって、ファリードの剥き出しの心臓を容赦なく貫いた。

 彼は重い鎧を鳴らして膝をつくと、震える手で、石机の上の毒杯をファリードの方へとわずかに押しやった。それが彼にできる、最後にして唯一の、残酷な忠義であった。


 兄君であれば。


 その言葉を投げつけられるたび、ファリードは自身が空っぽの、王位継承者の後釜でしかないことを突きつけられる。

 部屋の入り口では、巨漢のタリクが巨大な盾を抱えたまま、岩のように目を閉じている。彼が抱える大盾には、無数の矢が突き刺さり、大きくひしゃげている。

 窓際では、ザイドが落ち着かない様子で自身の爪をガリガリと噛み、外の無数の篝火を睨みつけていた。   部屋の奥では、イブンが新たな薬草をすり鉢で摺っている。ゴリ、ゴリという鈍い音が、ファリードの死への秒読みのように聞こえた。


 誰も、ファリードに「生きろ」とは言わない。

 それが、この絶対的な死地における唯一の慈悲なのだと、頭では理解していた。


 十四歳の華奢な肩に乗る、兄の遺した豪奢な銀の甲冑。サイズが合わず、動くたびに肩の肉を削り、血が滲んでいる。だが、その物理的な痛みすら、己の無能な采配で死なせてしまった何百という兵士たちの命の重さに比べれば、取るに足らないものだった。

 飢えと疲労で頬がこけ、どんな苦境に立たされても自分を守ろうとする四人の忠臣たち。自分がこのまま生きていれば、彼らはその優しさと忠誠ゆえに、最後まで己の命を削り続けるだろう。私が、彼らを殺しているのだ。


 ファリードは、ひび割れた唇をきつく噛み締め、震える指先を銀の杯へと伸ばした。

 杯の表面は、石のように冷たかった。冷気が指先から全身へと這い上がり、奥歯がカチカチと鳴りそうになるのを、必死に顎の筋肉を強張らせて耐える。


 砦の外からは、もはや風の唸りすらも掻き消すほどの重い地鳴りが迫っていた。

 南からは、大河の覇者として数百年の栄華を誇ったシャジャル帝国正規軍の、地を揺らす重装歩兵の行軍音。北からは、略奪と殺戮を好む『蒼き狼』の騎馬隊が打ち鳴らす、耳障りな銅鑼の音。


 血の純潔を重んじ、神聖視されてきたシャジャル王家の血脈は、今や簒奪者である残忍な叔父マレクの裏切りによって、この辺境の朽ちた砦で完全に途絶えようとしていた。

 この毒を飲み干せば、自身が最後に残された正当な王位継承者であるという事実と共に、誇り高き大帝国の正史は永遠に闇に葬られる。叔父はファリードを逆賊として仕立て上げ、歴史を都合よく書き換えるだろう。


 だが、毒の杯を口元へ引き寄せた、その瞬間。

 不思議なことに、外の怒号も、絶望的な銅鑼の音も、まるで遠い異国の出来事のようにスッと遠ざかっていった。

 代わりに鼻腔を満たしたのは、甘ったるい果実と、鋭い薬草が混ざった毒の匂い。


 (……これを飲めば。もう、誰も死なせずに済む。この重すぎる甲冑から、解放される)

 恐怖は、とうに消え失せていた。

 この砦の一室に佇む四人の忠臣たち。

 カディルは肩を震わせ、いつもおちゃらけてふざけているザイドまでもが皆俯き、目を閉じている。

 誰も一言も発しない。

 沈黙の中、ファリードは思った。


 もはやここまで......

 長かった逃避行。

 失われた平和な王宮での日々。

 その全てが今では、夢の中にいたように感じる。


 雪の降る夜のような、ひどく冷たくて静かな〈死への安堵感〉だけが、彼を優しく包み込もうとしていた。

 ファリードは、氷の静寂の中へと沈み込むように、ゆっくりと目を閉じーー

 (……兄上。 私は、最期まであなたのようにはなれませんでした。カディル、タリク、ザイド、イブン。無能な私を、どうか許してくれ)


 心の中でひっそりと謝罪を紡ぎ、杯を口元へ運ぼうとした、その時だった。

 ――バァァァァァンッ!!


 次の瞬間。

 分厚い木の扉が、蝶番ごと弾け飛ぶような凄まじい音を立てて蹴り破られた。

 ファリードの鼓膜を包んでいた死の静寂が、突如として粉砕される。

 入り口に立つタリクがわずかに目を見開き、窓際のザイドが弾かれたように振り返った。


 そこに立っていたのは、頭から泥水と血を被り、肩で激しく息をする小柄な影。

 マーシャだ。

 彼のターバンで巻かれた黒い髪はターバンごと雨で顔にへばりつき、薄汚れた外套からはぽたぽたと濁った水滴が落ちている。


「マー、シャ……? なぜ、ここに……」


 ファリードは、虚を突かれたように目を見開いた。

 ずっと、彼は自身の無力な采配を恥じ、「私の軍師になってくれ」と泥水を啜るような思いでこの悪魔に頭を下げ続けた。 だが彼は、「沈みかけの舟に乗る趣味はない。他人の命は背負わない」と冷酷に言い放ち、一足先にこの砦を去っていたはずだったのだ。断られたはずだ。完全に、見捨てられたはずだった。


 その彼が、今、敵の返り血に塗れ、満身創痍の姿でここに立っている。 この三千の軍勢に完全に包囲された絶望の砦に『戻ってくる』ために、彼がどれほどの死線を潜り抜けてきたのか。その理解不能な事実が、ファリードの冷え切っていた思考を激しく揺さぶる。


 ファリードが瞬きをするより早く、彼は音もなく床を滑るように机に歩み寄った。


 「……雇い主が勝手に死のうとしてるなんて、最悪の職場だな」


 吐き捨てるような低い声と共に、彼の泥だらけの手が、ファリードの震える手から銀の杯を強引にひったくった。 その際、彼の荒れた指先がファリードの手に触れる。

 雨に打たれ、ひどく冷え切っていたはずのその指先には、死を受け入れようとしていたファリードの石のような冷たさとは対極の――血をたぎらせて死線を越えてきた人間の、火傷しそうなほどの『強烈な命の熱』があった。

 冷たく静かな死の世界へ足を踏み入れようとしていたファリードの首根っこを掴み、強引に、熱くて泥臭い『生きるための地獄』へと引きずり戻す、強烈な生存本能。


 マーシャは杯の中身を、石畳の床に無造作にぶち撒けた。

 ジュゥゥッ、と嫌な音を立てて、毒酒が石の隙間に吸い込まれていく。甘く鋭い匂いが、一気に部屋に充満した。


「貴様ッ……! 何の真似だ! 殿下の誇りを土足で汚す気か!」

 カディルが激昂し、半ばまで剣を抜き放つ。タリクが素早くカディルの前に腕を差し出し、無言でその動きを制止した。

 「誇り?」

 マーシャは、自身の腰の双短剣には手を触れず、血と泥に塗れた顔でカディルを鼻で笑った。

 「誇りで腹が膨れるなら、死ぬまでその剣でもかじってれば? 私は嫌だ。あんたたちの綺麗な最期につき合ってやる義理はない」

 マーシャは真っ直ぐにファリードへ向き直ると、雨から死守してきたのであろう一枚の羊皮紙を乱暴に机に広げた。近隣の地形が精緻に書き込まれた、粗末な地図だった。


 「……数日前の話、受けてあげるよ、殿下」

「え……」

 「あんたの軍師になってやるって言ってるの。ただし、条件が一つある」

 

 彼の黒曜石のような瞳が、ランプの火を受けてギラリと獰猛な光を放つ。


 「死なせない。生き残って、勝つよ。……私の指示に、絶対に従いなさい」

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