酒場での決裂
私が冷たく拒絶した翌日も、そしてその次の日も。
吹き溜まりの傭兵酒場に、あの白金色の髪をした少年は現れた。
雨上がりで一段とひどくなった、湿っぽい汗とカビの臭いが充満する店内。外の冷気が入り口から吹き込むたび、安酒の饐えた匂いが足元をねっとりと這い回る。
少年は、酒場の粗暴な傭兵たちにわざと肩をぶつけられ、舌打ちをされながらも、私の座る一番暗い死角のテーブルへと真っ直ぐに向かってきた。
「……何度来ても同じだ。帰れ」
私が干し肉から目を離さずに言い放っても、少年は向かいの粗末な丸椅子に座り、ただじっと私を見つめてきた。
その瞳の奥にある、縋るような、けれど決して折れない強い光。それがひどく目障りだった。
「お願いだ! 誇りも何もかも捨てる。だからどうか、あなたの知恵を貸してほしい……!」
少年は、泥に汚れた極上の絹の外套を固く握りしめ、その細い肩に世界のすべてを背負わされたような重圧に耐えかねるように、深く、深く頭を下げた。
「私の無力な采配では、もう彼らを死地から逃がせない。私をどう罵ってもいい。だが、残された兵たちだけは……っ!」
切実なその姿に、背後に立つ長身の剣士の顔の火傷痕が、怒りと屈辱で赤黒く引き攣った。 チャキッ、と長剣の鍔鳴りが響く。
「ッ……! このような薄汚い小童に、あなた様が何度も頭を下げるなど……! このカディル、見過ごせませんぞ......!」
剣士は屈辱に奥歯を噛み砕かんばかりに軋ませ、私を射殺さんとする鋭い眼光と共に、不快そうに舌打ちをした。主君の誇りが泥に塗れることに、彼自身が耐え切れないのだ。
私は干し肉を飲み込み、冷たく凪いだ黒曜石の瞳で少年を見下ろした。
さっさと断って、この場を立ち去る。そのつもりだった。
だが、頭を下げた少年の、微かに震える金色の瞳と視線が絡んだ瞬間。テーブルの下で組んでいた私の指先が、微かに、本当に微かにまた強張った。
少年の瞳は、自身の無力さに対する怯えと絶望で揺らいでいる。
だが、完全に死に絶えてはいなかった。その奥底には「死にたくない」「仲間を生かしたい」という、ひどく純粋で、泥臭い激情が確かに燻っていたのだ。
それは、誇り高い王族の目ではない。
かつて採石場で、震える手で血まみれの岩を握りしめ、ミサンガを胸に抱えて発狂する寸前だった、無力な自身の瞳と、ひどく似ている。
(……やめろ)
私は内心で、自身の甘さを鋭く殴りつけた。
感情移入など、死への入り口でしかない。あの目は、助けを求める溺死者の目だ。手を伸ばせば、今度こそ自分自身が暗い水底へと引きずり込まれる。
私はゆっくりと立ち上がり、腰に帯びた師匠の形見である〈双短剣〉の柄に左手を触れた。
冷たい鉄の感触が、師匠の腹から溢れ出した生温かい血の感触と、強烈な鉄錆の匂いを強制的にフラッシュバックさせ、私の心を再び冷酷な氷で閉ざしていく。
「……何度お願いされようとその話を受けることはできない。それに、この酒場に何度も来られるのは不快だ。失礼する」
氷のように冷たく言い放つと、私はすがるような少年の視線を強制的に振り切り、酒場の喧騒の中へと背を向けた。
厄介なのは、彼一人ではなかった。
少年が来ない時間帯には、彼の取り巻きたちが次々と私の前に姿を見せ始めたのだ。
ある時は、頭に薄汚れたターバンを巻いた男だった。
スラムで生き抜いてきた野良猫のように細くしなやかな体躯を持ち、油断のならない飄々とした笑みを口元に張り付かせている。密偵だろうか、彼は音もなく私の隣に座ると、ピカピカに磨かれた銀貨を一枚、テーブルの上を滑らせてきた。
『うちの雇い主、ああ見えて結構頑固でさ。兄貴、一回だけでも話を聞いてやってくれないか?』
ある時は、あの長身の剣士だった。
歴戦を物語る使い込まれた革鎧を纏い、顔の左半分を覆う赤黒く生々しい火傷の痕が痛々しい。彼は店の入り口から、私を射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつけ、無言の圧力をかけてきた。
またある時は、見上げるほどの巨漢が現れた。
岩のように分厚い胸板と丸太のような腕を持つ彼だが、その無骨で大きな手はひどく慎重に動いた。
彼は私のテーブルに湯気を立てる温かい豆のスープを無言でコトリと置き、微かに頭を下げて去っていった。
さらには、得体の知れない薬草の匂いと紫色の煙の残り香を漂わせた、ひょろりと痩せこけた男が現れた。偏屈そうなシワの刻まれた顔に怪しげな笑みを浮かべ、少し離れた席からニヤニヤと私の脈打つ首筋を観察してきたりもした。医術師か、あるいは毒使いか。
(……変な連中だ)
傭兵の寄せ集めとは違う。それぞれが全く別の生き物でありながら、あの今にも壊れそうな美しい少年を中心にして、奇妙な引力で繋がっている。
五日目の夜。
外では雷雨が酒場の屋根を激しく打ち据えていた。
少年は、ずぶ濡れの麻のフードを被ったまま、また私の前に座った。雨の冷気と、上質な絹が濡れた匂いが漂う。
「……頼む。南の正規軍の動きが早い。私の軍略では、もう彼らを死地から逃がせない。これで最後だ。お前の力が必要なんだ」
饐えた麦酒と羊の脂が焦げる煙が充満するテーブル越し。
絞り出すような声に、私は干し肉をかじる手を止め、顔面を蒼白にさせて頭を下げる彼の顔をじっと見つめた。
(……そもそも、おかしい)
私は、油ランプの火を避けるように目を細めた。
私が〈異邦の軍師〉として名を馳せているのは、血生臭い裏社会や、末端の傭兵界隈だけの話だ。王宮という美しい鳥籠で育ったはずのこの少年が、なぜ私の存在を知っている? 誰が彼に、私という毒薬の噂を吹き込んだのか。
背後に立つ顔に傷のある剣士も、こんな薄汚れた小間使いのような私に、主君が頭を下げることをひどく嫌悪している。
不気味だ。関われば、間違いなく底なしの泥沼に引きずり込まれる。私はとっておいた最後の切り札を使うことにした。
「あんた、自分の立場が分かっているのか」
限界まで低く絞り出した声。
私はため息をつき、腰に帯びた双短剣の柄を指先でなぞった。
私の低い声に、少年がビクッと肩を震わせる。
「最近、この酒場で面白い噂を聞いた。大河を支配する大帝国シャジャルで政変があったそうだな。先代の王が死に、弟が玉座を奪った。そして、正当な王位継承者である王子は『逆賊』の汚名を着せられ、辺境へ追放された……と」
少年の顔から、さっと血の気が引くのが分かった。
テーブルの下で、彼の膝が微かに震えている。
「その美しい顔。手入れされた白金色の髪。隠しきれない上質な絹の服。……あんた、シャジャルの逃亡王子だな」
図星だった。少年の金色の瞳が、恐怖で大きく見開かれる。
私は身を乗り出し、テーブル越しに彼の顔に近づいた。
「いいか。私があんたを助ける義理は一つもない。それどころか、今ここで私が『シャジャルの王子がいるぞ』と叫べばどうなると思う? あんたの叔父が懸けた莫大な賞金目当てに、この店の傭兵どもが束になってあんたの首を刎ねに来る。私自身が、あんたの首を現王に売り渡した方が、よっぽど割の良い仕事になる」
……脅しだった。
これ以上私に関わるな。他人の命など背負いたくない。さっさと絶望して、私の前から消えろ。
甘やかされた王族なら、ここで泣き叫ぶか、護衛の後ろに隠れて逃げ出すはずだ。
だが。
少年は逃げなかった。
彼は血の気の引いた青白い顔のまま、ガチガチと鳴りそうになる奥歯を必死に噛み締め、テーブルの上で両手を強く、爪が食い込んで血が滲むほどに握りしめた。
「……私の首で、金が手に入るなら。それでいい」
掠れた、けれど確かに芯のある声。
私は、思わず息を止めた。
「私の首を売って構わない。だが、その金で……どうか、残されたあの三十人の兵たちと、私を支えてくれた四人を逃がしてくれないか。彼らは、私のような無能な王族のために死んでいい命じゃない」
少年の瞳には、死への純粋な恐怖があった。だが同時に、自分を犠牲にしてでも仲間を生かしたいという、ひどく不器用で、泥臭い覚悟が燃えていた。
「――殿下ッ!! 何を……何を仰るのですか!!」
私の前で、悲痛な、喉を引き裂くような叫びが上がった。
背後に立っていた長身の剣士だ。彼は血相を変え、雨に塗れた冷たい床板にガシャンと両膝を突き、少年の細い肩を縋るように掴んだ。
「あなた様の御首を売るなど……っ! 我らはあなた様の盾! 共に地を這いずり、この命を散らしてでも、最後までお守りすると誓ったのですぞ!!」
剣士の顔の半分を覆う火傷の痕が、激しい絶望と自責の念で赤黒く引き攣っていた。
彼の身に纏う使い込まれた革鎧からは、雨の冷気と共に、ひどく生臭い血の匂いが漂ってくる。それは彼自身の血だけではない。今この瞬間も、限界を超えて戦い続けている仲間たちの血の匂いなのだろか。
「……カディル、もう限界なんだ」
少年は、縋り付く剣士の震える腕を、力なく、けれど優しく握り返した。
「タリクの大盾は砕け、ザイドは泥水を漁って食糧を探し……イブンは野営の溝で、死にゆく兵たちのうわ言を聞き続けている。……私の誇りのために、これ以上彼らを殺せない」
誇り高い王の振る舞いではない。
ただ、大切なものを守るために、苦境に立たされても掻こうとする人間の、剥き出しの命の色だった。
(……やめろ)
私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
脳裏に、自身の腹を槍で貫かれながらも、私を逃がすために血まみれで笑った師匠の顔がフラッシュバックする。
『こんなところで、立ち止まるな』という師匠の呪いが、手首のミサンガを通じて私の全身を焼く。
主君の自己犠牲に涙を流して絶望する剣士と、仲間のために自身の命を差し出す少年。
彼らの姿に、私が命懸けで蓋をしてきた「過去の亡霊」が重なって見えた。私の胸ぐらを掴んで揺さぶってくる、この少年の〈生〉への執着。十五歳の「ましろ」だった頃の私と同じ、泥臭い渇望。
完全に凍りついていたはずの私の心に、ひびが入る音がした。
「……馬鹿なことを言うな。死人の依頼なんか受けるか」
私は乱暴に立ち上がり、椅子を蹴るようにして背を向けた。
動揺を悟られないように。無意識に震えそうになる自分の両手を、外套の下で強く握りしめる。
「二度と来るな。次に顔を見せたら、本当に首を刎ねる」
氷のように冷たく言い捨て、私は雷雨の夜の闇へと逃げるように歩き出した。
背中越しに、少年が深く、痛いほど深く絶望の溜息をつく気配と、剣士が己の無力さを呪って床を叩き割る鈍い音が、雨音に混じっていつまでも響いていた。
私は断った。正しく断ったはずだった。
だが――それから三日後。
彼の陣営が敵の追手に完全に包囲され、大河のほとりの砦に追い詰められたという噂を聞いた時。
私は気づけば、自身の誓いを破り、血まみれになりながらもあの絶望の砦へと向かって地を蹴っていたのだった。




