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黒曜の軍師と白金の王 ~盤上の駒は故郷を乞う~  作者: *しおり*


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1/6

始まりの酒場

 シャジャル帝国の北の辺境に位置する、吹き溜まりのような傭兵酒場。

 えた麦酒が染み付いた床板が、歩くたびにねちゃりと嫌な音を立てる。安煙草のヤニと、羊肉の脂が焦げる煙が視界を黄色く濁らせ、目と喉をチカチカと刺激していた。


「……おい、聞いたか。また矢尻の相場が跳ね上がったぞ」

「北の〈蒼き狼〉どもが、国境の村を三つばかり略奪しやがったせいだ。おかげで鉄屑まで品薄になりやがる」

 濁った麦酒のジョッキを乱暴に打ち合わせながら、傷だらけの傭兵たちが忌々しげに安煙草の煙を吐き出す。

「西も酷ェもんだよ。銀甲冑の十字軍ども、異教徒の浄化とかうそぶいて、また一つ村を灰にしやがったらしいぜ」

「ケッ、神の教えが腹を満たしてくれるのかね」


 ドンッ、と。

 その喧騒の中、不意に、通路ですれ違おうとした二人の男の肩が激しくぶつかり合った。

 一人は太陽神の護符を首から下げた帝国の流れ者。もう一人は、十字軍から逃げ出してきたとおぼしき、異教の銀の装飾を纏った男だ。

「……どこ見て歩いてやがる、異端者が」

「あァ?」

 一瞬にして、周囲の空気がピリリと凍りつく。互いの手が腰の短剣の柄にかかり、むき出しの殺意と鉄錆の匂いが酒場に充満した。

 だが、店主が太いステッキでカウンターを激しく叩き鳴らすと、二人は舌打ちをして互いに反対方向へと唾を吐き捨て、喧騒の中へ紛れていった。日常茶飯事の一触即発。ここには、三つ巴の覇権争いに引き裂かれた大陸の縮図が、そのまま掃き溜めとして煮詰まっている。


 「……で、俺たちは結局どこに付くのが一番手堅いんだ?」

 気を取り直したように男の一人が、声を潜めて周囲を伺う。

 「決まってんだろ。勝ち馬の尻尾に乗って、ヤバくなったら一番にバックれる。俺たち傭兵は、誇りなんて犬に食わせて、地べたを這ってでも生き残った奴が勝者なんだよ」

 下品な笑い声と怒号、そして硬貨がぶつかる音が再び交錯する。

 「それにしても、大河の覇者も地に落ちたもんだな。玉座の主がすげ替わったって噂、マジなのか?」

 「......ああ。なんでも、正当な第一王子を、弟の第二王子が暗殺したらしいぜ。『兄殺しの逆賊』として、今は新王の追っ手が血眼になって探し回ってるって話だ。関われば命がいくつあっても足りねェよ」


 その血生臭い噂話が飛び交う、薄暗い店内の最も光の届かない隅の席。

 薄汚れたターバンを巻いた小柄な傭兵が、喧騒に溶け込むようにして無言で硬い干し肉をかじっていた。     

 ーー十九歳になったマーシャだ。

 彼女は周囲の男たちが放つ恐怖も、浅ましい打算も、すべてを冷めた黒曜石の瞳で視界の端に収めながら、ただ淡々と、顎を動かすことだけを続けていた。


 ”あの日”以来、彼女は一切の〈戦術指南〉を断り、単独で動く暗殺の下働きだけで日銭を稼いでいた。どれほど多額の金貨を積まれても、絶対に他人の隊列の采配を振るうことはなかった。



 その時、突如としてギィィッ、と。

 分厚い木造の扉が重い音を立てて開かれ、外の凍えるような夜風が、酒場内の熱気とヤニの臭いをスゥっと外へ洗い流した。

 揺らぐ油ランプの光と影。その入り口に立った二つの人影を見た瞬間、酒場の喧騒は、水を打ったようにピタリと止まった。


 (……なんだ、この静けさは)

 一番暗い隅の席で干し肉を噛んでいたマーシャは、視線だけをゆっくりと入り口へ向けた。

 傭兵たちの濁った瞳が、一斉に現れた〈獲物〉を値踏みしている。彼らの視線は、入り口に立つフードを深く被った小柄な人影の、泥に汚れてはいるが明らかに極上の艶を放つ絹の外套と、腰に帯びた細工の細かい宝剣に縫い付けられていた。

 ――上等な身なりの、金づる。

 何人かのならず者が下劣な笑みを浮かべ、腰の短剣に手をかけようと腰を浮かせた。だが、次の瞬間には彼らは息を呑んで硬直することになる。


 小柄な影の背後から、冷気と共に音もなく進み出た長身の剣士。

 顔の左半分に生々しい火傷の痕を持つその男が、酒場全体を舐め回すように一瞥しただけで、空気がカチンと凍結した。男の手には既に抜身の長剣が握られており、その切っ先から滴る生温かい血が、床板にポタリと黒い染みを作ったのだ。

 外の追っ手を数人、音もなく処理してきた血の匂い。

「……チッ、本物の『死神』だ。関わるな」

 傭兵たちが忌々しげに舌打ちをして視線を逸らし、再び自身のジョッキへと顔を伏せる。

 

 圧倒的な暴力の庇護下にある、ひどくアンバランスな小柄な影。

 二人は、逃げ道を探すように店内を見渡し――やがて、最も光の届かない暗がりに座る、マーシャのテーブルへと真っ直ぐに向かってきた。


 「……やっと、見つけた。お前が、〈異邦の軍師〉と噂されるマーシャだな」

 濡れた絹の匂いと、雨の冷気を纏いながら、まだ声変わりしきっていない涼やかな声が降ってきた。

 フードがふわりと滑り落ち、油ランプの光を弾く白金色の髪が露わになる。


 フードの奥から覗く素顔は、ため息が出るほど整っていた。太陽の光を編み込んだような白金色の髪。長い睫毛に縁取られた、大粒の琥珀のような金色の瞳。透き通るような白い肌には、戦場の泥よりも、王宮の豪奢な絨毯がよく似合う。

 だが、その肩幅はひどく華奢で、座った時の目線は、一五〇センチ台である小柄な私とほとんど変わらなかった。

 (……面倒事だ)

 それが、マーシャの最初の感想だった。マーシャは干し肉を噛む顎の動きを一切止めず、冷たく凪いだ黒曜石の瞳で彼を一瞥した。


 すると、長身の剣士が無言のまま、マーシャのテーブルの上に、ずしりと重い革袋を置く。

 ジャラッ……と、中から零れ落ちたのは、この辺境ではおよそ見ることのない、王室の刻印が入った純度の高い金貨の束だった。

 「これでも、ほんの一部だ。南の陣営に囚われている残りの私財も、砦を取り戻せばすべてお前にやろう」

 剣士の横で、白金色の髪をした少年が、絞り出すような声で言った。

 「私の陣営に来て、軍師として力を貸してほしい。……あの南の砦の包囲網を破り、残された三十人の兵を救うための盤面を描いてくれ」


 マーシャは、積まれた金貨の山を全く見なかった。

 彼女の視線は、テーブルの端を掴んでいる少年の手にのみ向けられていた。

 剣を振り続けた者にできる分厚い剣ダコが一つもない、白く滑らかなその指。〈焦げた銀の装飾品〉を、指の関節が白く抜け落ち、皮膚が破れるほど強く握りしめている。小刻みに震え、爪がその装飾品に食い込んで微かに血が滲んでいる。


 ……自身の命への恐怖ではないのだろうか? マーシャは疑問に思った。

 自分を生かすために死んでいった者たちの「呪い」に圧し潰されそうになりながらも、それでも這いつくばって足掻こうとするような、そんな切実な渇望。


 かつて発狂する寸前だった、十五歳の自身の瞳と同じ色。

 マーシャはゆっくりと立ち上がり、腰に帯びた双短剣の柄に左手を触れた。


 「……人違いだ。どれだけ金を積まれようが、沈みかけの舟に乗る趣味はない」  

 マーシャの声は、どこまでも平坦で冷酷だった。

 「その震える手で、何人の命を背負っているかは知らないがな。私は、私の命以外、もう二度と背負わない」

 すがるような少年の視線を強制的に振り切り、マーシャは金貨を一瞥もせずに背を向けた。

 これが、逃亡の王子ファリードと、心を閉ざした軍師マーシャの、最悪の出会いだった。

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