始まりの酒場
太陽暦七百八十二年。
シャジャル帝国の北の辺境に位置する、吹き溜まりのような傭兵酒場。
饐えた麦酒が染み付いた床板が、歩くたびにねちゃりと嫌な音を立てる。安煙草のヤニと、羊肉の脂が焦げる煙が視界を黄色く濁らせ、目と喉をチカチカと刺激していた。
「……おい、聞いたか。また矢尻の相場が跳ね上がったぞ」
「北の”蒼き狼”どもが、ここ数日で国境の村を三つも灰にしやがったせいだ。おかげで鉄屑まで品薄になりやがる」
濁った麦酒のジョッキを乱暴に打ち合わせながら、傷だらけの傭兵たちが忌々しげに安煙草の煙を吐き出す。
「三つだと? 俺は五つって聞いたぜ。……おい、いくらなんでも南下しすぎじゃねェか? この街だって、いつあの騎馬隊に踏み潰されるか分かったもんじゃねェぞ」
一人の若い傭兵が、怯えたように声を潜めて周囲を見回した。
「……無理もねェさ。この三ヶ月、重税と武力弾圧で北の豊かな放牧地は根こそぎ帝国軍に奪われちまったって話だ。あいつら、今や故郷を追われて飢え死に寸前なんだとよ」
「あの誇り高き北の”蒼き狼”が、今やただの野盗か。落ちぶれたもんだな」
「馬鹿野郎、声がでけェよ! 殺されるぞ!」
古参の傭兵が、慌てて男の口を塞ぐように凄んだ。
「あいつらをただの野盗と舐めてると痛い目見るぜ。今の族長は、女子供を食わせるために完全にプライドを捨てて賞金稼ぎに成り下がってやがる。……守るもののために誇りを捨てた、飢えた獣ほど恐ろしいもんはねェ」
「ああ。あいつらの馬術は異常だ。馬と人間が完全に一つの生き物みたいに動きやがる。平原で出くわしたら最後、歩兵の俺ら傭兵は逃げる間もなく踏み躙られて終わりだな。敵に回したくはねぇな」
恐怖を孕んだその言葉に、酒場の熱気がスッと数度下がったような錯覚が起きる。
そんな空気を紛らわすように、乾杯ッと濁った麦酒のジョッキを乱暴に打ち合わせながら、傭兵の一人が自身の持っていた煙草の先を灰皿に押し付ける。
「西も酷ェもんだよ。銀甲冑の十字軍ども、異教徒の浄化とか嘯いて、また一つ村を灰にしやがったらしいぜ。狂信者ども、自分たちの神を信じねェ奴らを片っ端から広場に引きずり出して、生きたまま火あぶりにしてるらしい。……異端審問ってやつさ。あいつら、人間の肉が焼ける臭いを嗅ぎながら、神への祈りを捧げて歓喜してるって」
男はジョッキを握りしめながら、どこか思い当たったように遠い目をした。
「……そういえば俺もよその仲間から聞いたことあるな。帝国の西から流れてきた商人が、ガタガタ震えながら言ってたって。最近、あっちの空は一日中、嫌な煙で曇ってると。」
「ケッ、神の教えが腹を満たしてくれるのかね。まぁ、西側のことなんて帝国様の国境防衛線があるうちは俺らには関係のねぇ話だぜ」
ドンッ、と。
その喧騒の中、彼らのテーブルから少し離れた通路で不意に、すれ違おうとした二人の男の肩が激しくぶつかり合った。
一人は太陽神の護符を首から下げた帝国の流れ者。もう一人は、噂の十字軍から逃げ出してきたとおぼしき、異教の銀の装飾を纏った男だ。
「……どこ見て歩いてやがる、異端者が」
「あァ?」
一瞬にして、周囲の空気がピリリと凍りつく。互いの手が腰の短剣の柄にかかり、むき出しの殺意と鉄錆の匂いが酒場に充満した。
一発触発。
だが、店主が太いステッキでカウンターを激しく叩き鳴らすと、二人は舌打ちをして互いに反対方向へと唾を吐き捨て、喧騒の中へ紛れていった。様々な地方の流れものが行き着くこの辺境の酒場では日常茶飯事の争い事。
ここには、三つ巴の覇権争いに引き裂かれた大陸の縮図が、そのまま掃き溜めとして煮詰まっているのだ。
「……で、俺たちは結局どこに付くのが一番手堅いんだ?」
気を取り直したように男の一人が、声を潜めて周囲を伺う。
「決まってんだろ。勝ち馬の尻尾に乗って、ヤバくなったら一番にバックれる。俺たち傭兵は、誇りなんて犬に食わせて、地べたを這ってでも生き残った奴が勝者なんだよ」
下品な笑い声と怒号、そして硬貨がぶつかる音が再び交錯する。
「それにしても、大河の覇者も地に落ちたもんだな。玉座のケツを温める奴がすげ替わったって噂、マジなのか?」
一人の傭兵が、酸っぱい匂いのする安酒を煽りながらニヤリと笑った。
「......ああ。なんでも、正当な第一王子を、弟の第二王子が暗殺したらしいぜ。兄殺しの逆賊として、今は新王の追っ手が血眼になって探し回ってるって話だ。蒼き狼の野盗かぶれも元を辿れば、帝国の仕業だろうな」
「へっ、雲の上の連中が身内で殺し合おうがなんだろうが、俺たちの今日の麦酒の味が変わるわけじゃねェ。……ただよ」
男は下劣な笑みを浮かべ、ドンッと乱暴にジョッキを木机に叩きつけた。
「そのお尋ね者の王子サマの首には、一生遊んで暮らせるほどの莫大な懸賞金が懸かってるそうだぜ。もし俺たちの前にその”歩く金貨の山”が転がり込んできたら、即座に首を刎ねて、王都の高級娼館で三日三晩豪遊してやらァ!」
「違いねェ! どっかに落ちてねェかな、ひ弱な王子サマの首!」
下品な哄笑とジョッキのぶつかる音が、カビと汗の臭いが充満する酒場に響き渡る。
大帝国の悲劇など、彼らにとってはただの酒の肴であり、一攫千金の笑い話でしかなかった。
そんな血生臭い噂話が飛び交う、薄暗い店内の最も光の届かない隅の席。
薄汚れたターバンを巻いた小柄な傭兵が、喧騒に溶け込むようにして無言で硬い干し肉をかじっていた。
ーー十九歳になったマーシャだ。
(……兄殺しの新王、か)
木屑のように味気ない肉を奥歯で噛み潰しながら、彼女は冷めた黒曜石の瞳で、一攫千金に浮かれる男たちを視界の端に収めていた。こんなきな臭い話を聞いたのも何度目であろうか。
大河を数百年に渡り支配してきた巨大な帝国が、今、内側から致命的な亀裂を走らせている。玉座を奪った新王がどれほどの暴君かは知らないが、遠からず、この大陸全土を巻き込む巨大な戦乱の嵐が吹き荒れるだろう。
だが、玉座の主が誰になろうと、マーシャにはどうでもいいことだった。
ーー彼女の目的はただ一つ。この狂ったような世界で、誰の目にも留まらずに生き残り――元の世界へと帰ること。
マーシャは無意識に、左手首に隠された色褪せたミサンガを見つめた。
”あの日”の、肺を焼くような血と煙の匂いが鼻の奥に蘇る。盤面の上で他人の命を動かすということは、己の采配一つで、誰かの背中を無惨な肉塊に変えるということだ。
だから彼女は、あの日以来、一切の戦術指南を断り、単独で動く暗殺の下働きだけで日銭を稼いできた。
どれほど多額の金貨を積まれようと、重すぎる他人の命を握る気は、もう二度となかった。
(私はもう、誰の命も背負わない。ただの影として息を潜め、帰るための切符を探すだけだ)
周囲の男たちが放つ恐怖も、浅ましい打算も。すべてを冷たい思考の底に沈め、マーシャはただ淡々と、顎を動かすことだけを続けていた。
その時、喧騒を切り裂くように突如としてギィィッ、と。
分厚い木造の扉が重い音を立てて開かれ、外の凍えるような夜風が、酒場内の熱気とヤニの臭いをスゥっと外へ洗い流した。
揺らぐ油ランプの光と影。その入り口に立った二つの人影を見た瞬間、酒場の喧騒は、水を打ったようにピタリと止まった。
(……なんだ、この静けさは)
一番暗い隅の席で干し肉を噛んでいたマーシャは、視線だけをゆっくりと入り口へ向けた。
傭兵たちの濁った瞳が、一斉に現れた獲物を値踏みしている。フードを目深に被っているため姿形は分からないが、小柄な少年だろうか。彼らの視線は、入り口に立つその人影の、泥に汚れてはいるが明らかに極上の艶を放つ絹の外套と、腰に帯びた細工の細かい宝剣に縫い付けられていた。
――上等な身なりの、金づる。
何人かのならず者が下劣な笑みを浮かべ、腰の短剣に手をかけようと腰を浮かせた。だが、次の瞬間には彼らは息を呑んで硬直することになる。
小柄な影の背後から、冷気と共に音もなく進み出た長身の剣士。
顔の左半分に生々しい火傷の痕を持つその男が、酒場全体を舐め回すように一瞥しただけで、空気がカチンと凍結した。男の手には既に抜身の長剣が握られており、その切っ先から滴る生温かい血が、床板にポタリと黒い染みを作ったのだ。
外の追っ手を数人、音もなく処理してきた血の匂い。
「……チッ、本物の死神だ。関わるな」
傭兵たちが忌々しげに舌打ちをして視線を逸らし、再び自身のジョッキへと顔を伏せる。
圧倒的な暴力の庇護下にある、ひどくアンバランスな小柄な影。
その影が纏う空気は、この下賤の集まりとも言えるこの吹き溜まりの酒場には、あまりにも不釣り合いだった。
すっぽりと被った麻のフードは泥に汚れ、雨に濡れそぼっている。だが、歩くたびに微かに覗く裏地の絹の光沢や、足元の悪い床板を歩き慣れていないおぼつかない足取り。そして何より、血と泥の匂いに混じって微かに漂ってくる、白檀のような高貴な香りの名残り。
酒場の傭兵たちは皆、上等な獲物の匂いがプンプンする彼らに手元のジョッキに視線を落としたまま、油断なく目を光らせるハイエナのように値踏みしていた。
護衛の男が放つ絶対的な殺気がなければ、一秒で身ぐるみ剥がされて裏路地に転がされているだろう。それほどまでに、その小柄な影は無防備で、この辺境にはあり得ないほど綺麗すぎた。
マーシャは一番光の届かない隅の席で、無機質に干し肉を噛み砕きながら、その様子を冷めた目で傍観していた。
彼女は気配を消している。呼吸も、衣擦れの音も、ランプの光すらも計算して、完全にこの酒場の背景と同化した、誰の目にも留まらない、ただの影。
――だというのに。
入り口で立ち止まったその小柄な影は、逃げ道を探すように店内を見渡す……ことはしなかった。
フードの奥の視線が、迷うことなく店内の一点を――最も暗い死角であるはずの、マーシャのテーブルだけを正確に射抜いた気がした。
(……は?)
マーシャの咀嚼する顎が、ピタリと止まった。
偶然ではない。相手は周囲のハイエナどもの視線など一切気にする様子もなく、確信に満ちた足取りで、真っ直ぐにマーシャの潜む暗がりへと向かってくる。
完璧な隠蔽を、初手で見破られた。
いや、違う。あんな子供に、暗殺者の気配が読めるはずがない。誰かが、極めて正確に”私の居場所”と”特徴”をこの少年に教え込んだのだ。
全身の毛穴が粟立ち、マーシャの背筋を氷のような悪寒が駆け上がった。
「……やっと、見つけた。お前が、〈異邦の軍師〉と噂されるマーシャだな」
濡れた絹の匂いと、雨の冷気を纏いながら、まだ声変わりしきっていない涼やかな声が降ってくる。
フードがふわりとわずかに滑り落ち、油ランプの光を弾く白金色の髪が露わになる。
その奥から覗く素顔は、ため息が出るほど整っていた。太陽の光を編み込んだような白金色の髪。長い睫毛に縁取られた、大粒の琥珀のような金色の瞳。透き通るような白い肌には、戦場の泥よりも、どこかの貴族邸の豪奢な絨毯がよく似合う。
だが、その肩幅はひどく華奢で、座った時の目線は、一五〇センチ台である小柄な私とほとんど変わらなかった。
(……面倒事だ)
それが、マーシャの最初の感想だった。マーシャは干し肉を噛む顎の動きを一切止めず、冷たく凪いだ黒曜石の瞳で彼を一瞥した。
すると、長身の剣士が無言のまま、マーシャのテーブルの上に、ずしりと重い革袋を置く。
ジャラッ……と、中から零れ落ちたのは、この辺境ではおよそ見ることのない、帝国の刻印が入った純度の高い金貨の束だった。
「これでも、ほんの一部だ。南の陣営に囚われている残りの私財も、砦を取り戻せばすべてお前にやろう」
剣士の横で、白金色の髪をした少年が、絞り出すような声で言った。
「私の陣営に来て、軍師として力を貸してほしい。……あの南の砦の包囲網を破り、残された三十人の兵を救うための盤面を描いてくれ」
マーシャは、積まれた金貨の山を全く見なかった。
彼女の視線は、テーブルの端を掴んでいる少年の手にのみ向けられる。
剣を振り続けた者にできる分厚い剣ダコが一つもない、白く滑らかなその指。でもその指に不釣り合いな焦げた銀の装飾品を、指の関節が白く抜け落ち、皮膚が破れそうなほど強く握りしめている。小刻みに震え、爪がその装飾品に食い込んで微かに血が滲んでいる。
(……ひどい震えだ。武者震いなんかじゃない)
暗殺者として数え切れないほどの死に際を見てきたマーシャには、一目でわかった。
本能が「ここから逃げろ」と悲鳴を上げているのに、無理やり理性を総動員して、その恐怖をねじ伏せようとしているのだ。
温室で育ったようなこの子供を、ここまで切羽詰まらせ、吐き気を催すほどの恐怖に耐えさせている理由は何か。
(……面倒事だ)
マーシャはゆっくりと立ち上がり、腰に帯びた双短剣の柄に左手を触れた。
(……背後に立つ男の重心の置き方はただの傭兵じゃない。洗練された騎士の構えだ。それに、この少年の隠しきれない品の良さ……)
ふと、先ほど酒場の男たちが笑い飛ばしていた血生臭い噂話が、マーシャの脳裏をよぎった。
――新王の追っ手が血眼になって探し回る、莫大な懸賞金が懸かった逃亡王子。
(まさか。……冗談じゃないぞ)
最悪の勘が、警鐘をけたたましく鳴らした。これ以上関われば、間違いなく底なしの泥沼に引きずり込まれる。
「……人違いだ。どれだけ金を積まれようが、面倒事に乗る趣味はない」
マーシャの声は、どこまでも平坦で冷酷だった。
「血と泥で誤魔化しているつもりだろうが、あんたたちの立ち振る舞いはこの吹き溜まりには上品すぎる。その震える手で、どんな厄介な追っ手から逃げ回っているかは知らないがな。――私は、私の命以外、もう二度と背負わない」
すがるような少年の視線を強制的に振り切り、マーシャは金貨を一瞥もせずに背を向けた。
これが、逃亡の王子ファリードと、心を閉ざした軍師マーシャの、最悪の出会いだった。




