過去三
あの地獄から抜け出して、数ヶ月が経っていた。
私を金貨で買い取った隻眼の男は、名をルスランと名乗った。彼は特定の主人を持たず、各地の戦場や隊商の護衛を渡り歩いて日銭を稼ぐ、流れの傭兵だった。
私は荷物持ち兼「弟子」として彼に連れられ、赤茶けた荒野を放浪することになった。
ルスランは、私がどこから来たのか、なぜあんな採石場にいたのか、私の過去についてはただの一度も聞かなかった。
ただ、私を買い取った初日。
私の黒い髪と深い黒曜石のような瞳、そしてこのオリエントの大陸では珍しい、凹凸の少ない平坦な顔立ちを見るなり、彼は自身の荷物から薄汚れた長い布を無造作に投げ渡してきた。
『その珍しい黒髪と顔立ちは、余計な好奇の目や、悪意を持った人買いを引き寄せる。……お前の故郷ではありふれた顔なのかもしれないが、彫りの深い顔立ちが多いこの大陸では、その磁器のように滑らかで平坦な造形は、ひどく神秘的な「異国の美女」として裏社会で高値がつく』
ルスランは唯一の目で私を射抜き、冷酷な事実を告げた。
『女だと、それも上玉だとバレれば、一晩で貴族のベッドに縛り付けられて終わるぞ。ターバンとして頭に巻き付けろ。……ただの小汚い、地元のガキに見えるようにな』
平和な日本では美人だなんて一度も言われたことがなかったが、この狂った世界では、私の顔はただの〈呪い〉でしかないらしい。 言われるがままに顔の半分と髪を布で隠し、胸にきつくサラシを巻き、私は「少年傭兵マーシャ」としての偽装を固めていった。
そして、日々の過酷な旅の道すがら、ルスランは私に「身を守り、敵の命を確実に絶つための武術」を文字通り身体に叩き込んだ。
それは、王宮の騎士たちが学ぶような美しく誉れ高い剣術などではない。生きるか死ぬかの極限状態において、どうすれば相手の喉笛を掻き切れるかという、徹底して泥臭い殺しの技術だ。
「立て。死者には息をする必要などないぞ、小娘」
頭上から降ってきたのは、地鳴りのように低い、声。
ましろは咳き込みながら、震える両腕で地面の泥に手をつき、必死に身体を起こす。彼女の右手には、刃を潰された模擬戦用の重い短剣が握られていたが、その切っ先は情けないほどに震えていた。
ルスランは、悠然と見下ろしてくる。その顔の半分には古い刃傷が走り、残された片目が、鷹のように鋭くましろの弱点を射抜いていた。
「……っ、あぁっ!」
ましろは泥を蹴り立て、無我夢中で師匠の胸元へ短剣を突き出した。
平和な日本で育った彼女の頭にある戦いとは、剣と剣を打ち合わせるものだ。
だが、その常識は次の瞬間にへし折られる。
師匠はましろの短剣を真っ向から受けることはしなかった。
軽く身をかわし、ましろの突進の勢いを利用して、彼女の膝の裏を重い軍靴の踵で容赦なく蹴り払ったのだ。
「がっ……!?」
体勢が崩れ、顔面から泥の中へ叩きつけられる。
すかさず、師匠の分厚いブーツの底がましろの背中を踏みつけ、肋骨が軋むほどの圧力をかけた。
「……っ、ぐ、あ……!」
肺の空気が強制的に絞り出される。
ましろは背中を踏み躙られながらも、泥だらけの爪で師匠のブーツの底を必死に引っ掻いた。
爪が割れ、血が滲む。
「ひどい……私を、殺す気か……ッ!」
「そうだ。殺す気で来い。相手の慈悲にすがるような甘ったれた奴は、明日には野盗の慰み者になって死ぬぞ」
背中を踏み躙られ、呼吸すらままならないましろの耳元で、師匠は冷酷に事実を叩きつける。
「何度言えばわかる。お前のような小柄な女が、正面から俺のような巨漢と打ち合って勝てるわけがない。正々堂々と戦うな。一撃で腕の骨を折られて終わるぞ」
「……ッ!!」
「泣き言を言う暇があるなら、俺の足の指でも噛みちぎってみせろ! 騎士道などという甘ったるい幻想は、あの採石場に置いてきたはずだ。お前は犬だ。泥を被ることを恐れるな。地面を這いずり、敵の目を泥で潰せ。視界を奪い、装甲の薄い膝裏の腱を斬れ。そして、倒れた敵の頸動脈に刃を突き立てろ」
圧力が消え、ましろは泥水を吐き出しながら荒い息を繰り返した。
涙と鼻水、そして泥で顔がぐちゃぐちゃになっている。だが、彼女の瞳の奥底にある黒い執念の炎は、決して消えていなかった。
それが、この見知らぬ狂った世界で、ましろが生き残るための術を学ぶための、血反吐を吐くような日々の始まりだった。
*
荒野の夜は、昼間の凶悪な熱気が嘘のように、骨の髄まで凍りつくような冷気に包まれる。
岩陰に身を寄せ、身を潜めるようにして焚かれた小さな野営の火。パチパチと爆ぜる乾いた木の枝の音が、夜の静寂に吸い込まれていく。
ましろは焚き火のそばに胡座をかき、師匠から放り投げられた硬い干し肉をかじっていた。
唾液でふやかさなければ噛みちぎることもできない、塩と獣の臭いがきつい肉。だが、採石場で啜っていた泥水に比べれば、それは生きていることを実感できる極上の晩餐だった。
ふと見ると、師匠が齧っている干し肉よりも、私に放り投げられたものの方が、ほんの少しだけ分厚く切られている気がした。
気のせいかもしれない。
それに彼は、煙が私の目に染みないよう、先ほどから無言で焚き火の風上へと腰を下ろし直してくれている。
こんな地獄のような世界で、そんな甘い感傷などあるはずがないと自分に言い聞かせながらも。
火の明かりに照らされたましろの姿は、すでにかつての面影を完全に失っている。
師匠の命令により、胸は分厚い麻のサラシできつく締め上げられ、呼吸をするたびに鈍い痛みを放っている。顔の下半分を汚れたターバンで覆い、喉の奥を意図的に押し潰すことで、掠れた低い声しか出さないように訓練されていた。
「女だとバレれば、どんな手練れでも寝首を掻かれて終わる。今日からお前は、性別を持たない傭兵だ」
それが、師匠が彼女に与えた唯一の装甲だった
ふと、肉をかじるましろの右手首が、焚き火の赤い光に照らされた。
そこには、泥と血でどす黒く変色し、所々が擦り切れかけた『ミサンガ』が巻かれていた。採石場の看守に千切られそうになりながらも、彼女が発狂してまで死守した、両親とのお揃いの紐。
ましろは無意識に、左手の指先でその擦り切れた糸をそっと撫でていた。
「……まだ、そんな汚い紐を捨てずにいるのか」
水筒の酒を煽っていた師匠が、焚き火越しにましろの手首を見据えて言った。
ましろはビクリと肩をすくめ、とっさに右手首を自身の外套の袖に隠そうとした。この世界では、感傷は弱さだ。隙を見せれば、この師匠にすら見捨てられるかもしれないという恐怖が常に付きまとっている。
だが、師匠の声には、いつものような厳しい叱責の響きはなかった。
「……約束、なんだ」
ましろは、訓練した低い掠れ声で、ぽつりとこぼした。
「絶対に、切らしちゃいけない。……これを手放したら、私は、私が何者だったか、全部忘れてしまう気がするから」
元の世界へ帰れる。両親、そして友人たちに会う。
その途方もなく遠い希望だけが、彼女を精神が狂ったバケモノに堕ちることから、ギリギリのところで繋ぎ止めている命綱だった。
師匠は無言のまま、焚き火に太い薪を一本放り込んだ。
火の粉が夜空へ舞い上がり、彼の残された片目に宿る、深く古い悲しみの色を照らし出した。
「……俺にも、昔、家族がいた」
不意に紡がれたその言葉に、ましろは顔を上げた。
常に鉄の鎧を纏い、感情の揺らぎなど見せたことのない隻眼の男の、初めて見せる背中だった。
「妻と、娘が一人。……生きていれば、ちょうどお前と同じくらいの年頃だっただろうな」
師匠の視線は、ましろではなく、揺らめく炎の奥の、遠い過去を見つめていた。
「ここは、奪うか奪われるかしかない世界だ。俺はかつて、大帝国の最も深い闇の中で、感情を殺して人殺しの技術だけを教え込む教官だった。……だが、妻と出会い、初めて人間としての心を知って組織を抜けた」
淡々と語られる凄惨な過去。
「だが、闇は裏切りを許さなかった。俺が村を空けていた隙に、組織の残党狩りに遭った。……戻った時には、妻も娘も、俺が手塩にかけて育てたかつての部下たちの手によって、黒焦げの肉塊にされていたよ」
淡々と語られる凄惨な過去。
ましろは、肉を噛むのをやめ、ただじっとその言葉に耳を傾けた。
悲しみというよりは、もはやどうにもならない諦観。この残酷な世界で、数え切れないほど繰り返されてきたであろう不条理の歴史が、男の傷だらけの顔に刻み込まれていた。
「俺があの採石場で、お前を金貨で買った理由がわかるか?」
師匠が、視線を炎からましろへと移した。
「哀れな小娘に、娘の面影を重ねたからじゃない。……あの時、お前は仲間の奴隷の頭を砕かれても声を出さなかった。だが、その腕からあの紐が奪われそうになった瞬間、初めて狂ったように牙を剥き、倍以上ある男の首を噛みちぎった」
師匠の片目が、ましろの右手首のミサンガを鋭く射抜く。
「お前は、自分の命のためじゃなく、その過去への繋がりを守るためだけに発狂した。……そのどうしようもなく醜く、ひたむきな執念が、俺には酷く眩しく見えたんだ」
師匠は水筒の蓋を閉め、ゆっくりと立ち上がった。
巨木のような背中が、星空を隠すようにましろの前に立つ。
「その紐が、お前を『人間』として生かす鎖なら、絶対に手放すな」
低く、しかしこれまでにないほど確かな熱を帯びた声が、夜の荒野に響いた。
「お前がどこから来たのか、どこへ帰りたいのか、俺にはわからない。だが、帰りたい場所があるなら、何が何でも生き延びろ。誰かに奪われる前に、お前が奪え。……自分の血を流したくなければ、他人の血を頭から浴びろ」
それは、娘を守れなかった一人の男が、生きるために修羅の道を選んだ少女へ贈る、最も残酷で、最も優しい祝福と言えるだろう。
「……ああ」
ましろは、右手首のミサンガをもう一度、強く握りしめた。
擦り切れた糸の感触が、手のひらに食い込む。
キーキーと鳴る自転車のブレーキ。
茉莉と笑い合った退屈な恋バナ。
そして、キンキンに冷えたみかんジュース。
その鮮やかな記憶に、意図的に蓋をする。
今日から、その記憶を取り出すことは二度とない。
この地獄を抜け出し、元の世界への扉を開くその日まで。
「私は、帰る。……そのために、あんたの技術を全部盗んで、生き抜いてやる」
(……そして、私を庇って頭を砕かれたあの子の命を、こんな泥沼で終わらせたりしない。彼女が教えてくれた生きる術とこの名前を、私が世界に刻みつけてやる)
ターバンの下で、ましろ――いや、『マーシャ』は、暗殺者のように冷たい瞳で師匠を見据え、獣のように低く唸った。
「言ったな。なら、明日は泥臭く生き残る方法から教え直してやる。覚悟しておけ、マーシャ」
師匠が鼻で笑い、外套にくるまって岩陰に横たわる。
焚き火の熱が、冷え切ったましろの頬を微かに温めていた。
彼女は自身の右手首を胸に抱き寄せるようにして目を閉じた。この日から、彼女は完全に日本人であることを捨て、他者の命を刈り取るための刃として、その形を研ぎ澄ましていくことになるのだった。




