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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
少年王子編 番外編

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番外編 カディル 四

 その夜、王都グラナダの空は異常なほどの熱を孕み、不気味な茜色に染まっていた。パチパチとはぜる木材の音、崩れ落ちる石柱の轟音と、そして、絶叫と剣戟が響き渡る。


「マレク将軍が謀反を起こされた! 国王陛下は既に……毒牙にッ!」


 血まみれの伝令がファリードの目の前で絶命と共に崩れ落ちた時、大帝国シャジャルの平和は完全に終わりを告げた。  王宮の廊下を、怒涛のごとくマレクの私兵たちが雪崩れ込んでくる。  

 さらにファリードを絶望させたのは、その反乱軍の先頭に立っているのが、昨日まで共に国を守ると誓い合っていたはずの『大帝国近衛騎士団』の半数以上の顔だったことだ。    


 理由は明白だった。  

 シャムスらによる裏帳簿の調査が核心に迫っていることに気づいたマレクが、証拠を突きつけられる前に、すべてを力でひっくり返す強硬手段に出たのだ。


 マレクが裏で心優しき先王の『他民族への寛容政策』と、北方部族の血を引くシャムスやファリードの存在を「帝国の血を汚す弱腰」と糾弾し、純血主義の旧貴族たちを煽り立てていたのは知っている。  

 だが、今夜のこの迅速すぎる王宮の制圧は、ただの貴族の扇動だけで成し得るものではない。


(なぜだ……! なぜこれほど多くの近衛兵たちが、マレクの側に立っているんだ……!)


 炎の中で、ファリードは戦慄していた。  

 兄シャムスでさえ、武器の横流しや一部の兵の不審な動きには気づいていた。だが、帝国の足元に広がる”影の深さ”までは見通せていなかったのだ。


 国王が全民族の平和を謳うその裏側で、暗殺やならず者たちの後処理といった、きな臭い汚れ仕事をすべて一手に押し付けられていたのは、他ならぬマレクであった。  


「綺麗事で国は守れない」――その偽善に対する強烈な憎悪と絶望を抱いたマレクは、表の平和な王宮には見えない暗がりで、長年着々と己の牙を研いでいたのである。  


 彼は、この平和政策の大多数の幸福のために犠牲になった少数の者たちや、裏社会のならず者たちを、直属の暗殺部隊『黒百合』や私兵として密かに拾い上げ、手中に収めていった。  

 そして彼らを、時間をかけて『大帝国近衛騎士団』の内部へと潜り込ませ、大帝国の軍部そのものを、自らの手足として完全に掌握しきっていたのである。


 マレクが暗闇の中で束ね続けた、綺麗事に対する差別意識と狂信、それらが、兄シャムスの輝かしい英雄のカリスマすらも飲み込むほどの巨大な反逆の炎となって、今夜一気に爆発した。


 ......父上が死んだ。

 道中で聞いた血まみれの伝令の絶叫が、頭の中で何度も反響し、ファリードを極限のパニックに陥れていた。  


(父上が……? あの、優しい父上が?)


 他民族や下層民にも寛容で、争いを好まなかった心優しい父。  

 亡き母の面影を誰よりも色濃く受け継いだファリードを、「何があっても傷つけてはならない」と、この王宮の最も安全な温室へと閉じ込めた人だった。厳しい武芸の鍛錬や血生臭い政治から意図的に遠ざけられ、ただ美しい絹の服と書物だけを与えられてきた日々を与えた人だった。


 それが次期国王としての期待などではなく、亡き妻の幻影を追うような『執着に近い溺愛』だと、幼いながらに気づいていた。その過保護さが、自分を誰からも期待されない空っぽの鳥籠の鳥にしているのだと知っていても。  

 ファリードは、自分を壊れ物のように抱きしめ、頭を撫でてくれた父の、あの大きくて温かい掌を心から慕っていたのだ。


(嫌だ、父上……ッ! 嘘だと言ってくれ……っ!)


 燃え盛る熱気が肺を焼き、ポロポロとこぼれ落ちた涙が、煤にまみれた頬に黒い筋を作っていく。  

 愛する父が命を奪われたという理不尽な現実が、少年の心臓を、鋭い刃で内側からズタズタに引き裂いていた。


「見つけたぞ! 第二王子だ! 殺せ!」  


 曲がり角の先から、黒い甲冑を着たマレクの私兵たちが雪崩れ込んでくる。


「殿下、お逃げくださ――がはっ!」  


 ファリードを背中で庇った使用人が、無惨にも槍で胸を貫かれ、血飛沫と共に崩れ落ちた。


「あ……っ」  


 ファリードは腰を抜かし、冷たい大理石の床にへたり込んだ。

 凶刃が迫り来る。もう逃げられない、死を覚悟し、金色の瞳をきつく閉じた、その刹那。


――ガァァンッ!!


「……私の弟に、汚い手で触れるなッ!!」  


 烈火の如き怒号と共に、ファリードに迫っていた凶刃が凄まじい力で弾き飛ばされた。


「あ、兄上……っ!」  


 ファリードが目を見開く。

 そこに立っていたのは、返り血で真っ赤に染まった白銀の甲冑を纏う、第一王子シャムスだった。そしてその後ろには、息も絶え絶えになりながら敵を斬り伏せる近衛騎士カディルの姿がある。


「ファリード……! 探したぞ。生きていてくれて、本当によかった……っ!」  


 シャムスは血まみれの長剣を投げ捨て、へたり込む弟の細い身体を骨が砕けるほど強く抱きしめた。  

 大帝国最強と謳われたシャムスの身体は、ひどく熱く、そして小刻みに震えていた。左腕と腹部からは、痛ましいほどに大量の赤黒い血が流れ落ちている。  

 そしてファリードは、遅れて駆け寄ってきたカディルの顔を見て、ヒュッと息を呑んだ。


 王宮に上がってから一度も表情を崩さなかったあの武骨ながらも端正な顔の左半分が、無惨に焼け爛れ、血を流していたのだ。


「カディル……! その顔、それに、ジャシムとナディームはどうしたんだ!?」  


 ファリードの問いに、カディルは目を伏せると、ギリッと奥歯を噛み砕かんばかりに軋ませた。


「……ナディームが、マレクの放った毒矢の雨から殿下を庇い、全身を貫かれて絶命いたしました……。そして、ジャシムは……殿下の血路を開くため、単騎で敵陣の最奥へ突撃し……行方不明です。おそらく、すでに……」  


 カディルの喉の奥から、獣のような嗚咽が漏れた。


「そして……あろうことかマレクは、逃げ道を塞ぐため、ルルア様を人質に取り、我々の前に立たせたのです……」

「ルルア義姉上が!?」

「殿下は剣を捨て、彼女を助けようと手を伸ばしました。私も炎の中に飛び込みましたが……マレクの凶刃は、我々の目の前で、ルルア様の胸を容赦なく……ッ!」


 味方の突然の裏切り、共に笑い合った友の死、そして目の前で命を散らした愛する婚約者、情の厚い彼にとって、それは心をズタズタに引き裂き、剣の冴えを完全に奪うのに十分すぎる地獄だったであろう。  


 マレクの毒刃を受け、瀕死の重傷を負いながらも、シャムスが地獄と化した王宮を這いずり回ってここまで辿り着いたのは、ただ一つ。唯一残された希望である、愛する弟ファリードを絶対に救い出すという、血を吐くような執念だけだ。


「殿下! ここはもう持ち堪えられません! 裏門に生き残りの兵三百を集めました! 殿下とファリード殿下だけでも、どうか……ッ!」  


 カディルが叫んだ、その直後だった。


――ズドォォォォォォンッ!!!


 彼らの背後で、地響きと共に王宮の巨大な大天守が炎の柱を上げて崩れ落ちた。  

 それに巻き込まれるように、ファリードがいつも窓際に座って読書をし、庭師と共に植物を育てていた平和の象徴――ガラス張りの温室も、天塩にかけて育ててきた美しい草花が、無数の美しい破片となって粉々に砕け散り、業火の中に呑み込まれていく。  

 大帝国の平和な時代と、ファリードが守られていた安全な鳥籠が、完全に終わりを告げた音だった。


「……あぁ」

 

 すべてを悟ったシャムスの金色の瞳が、一瞬だけ絶望に揺らぎ、そして、静かに凪いだ。


「……いや。私は行かない、……いや行けない」


 シャムスは静かに首を振り、燃え盛る大天守を背にして、ファリードへと向き直った。


「兄上、駄目です! 一緒に……一緒に来てください!」  


 ファリードは泣き叫び、兄の血と煤に塗れた腕に必死にしがみついた。


「無理だ、ファリード。私の身体にはすでにマレクの毒が回っている。足手まといになるだけだ」

「そんなことありません! 私が背負います、だから……っ!」

「それに、次期国王である私がいれば、奴らは地の果てまで全軍で追ってくる。……私がここで時間稼ぎをしなければ、お前が逃げ延びるための時間すら、作れなくなってしまう」

「嫌だ、兄上っ……!!!」


 なおも力任せに腕を引こうとするファリードだったが、シャムスはすがりつく弟の細い両手を、自身の血に濡れた大きな手でそっと包み込んだ。  そして、しゃくりあげる弟の顔を覗き込むように、真っ直ぐに視線を合わせる。


 その金色の瞳とぶつかった瞬間、ファリードは弾かれたように息を呑んだ。  

 全身に猛毒が回り、すでに立っているのもやっとの限界であるはずなのに。兄の瞳には、大帝国を背負う次期国王としての決して曲げない死への覚悟と、不器用な弟をどこまでも慈しむ、途方もなく温かい太陽の光が宿っていたのだ。


(……ああ。兄上は、私を生かすために、もうここから一歩も動くつもりはないのだ)

 どんなに自分が泣き叫ぼうとも、この気高き太陽の決意を覆すことなど絶対にできない。  

 その残酷すぎる絶対の真実を悟った瞬間。ファリードの喉からヒュッと空気が漏れ、兄の腕を白くなるほど握りしめていた指先から、ズルリ……と力なく手が滑り落ちた。


 抵抗を諦め、ただ絶望に打ちひしがれて立ち尽くす弟に、シャムスは血まみれの手で、自らが身に纏っていた『白銀の甲冑』の留め具を外し、ガシャンと重い音を立ててそれをファリードの華奢な肩へと強引に被せた。


「あ、兄上……重いです、こんなもの……っ」

「重いだろう。だが、これがこれからの世界を生きるための重さだ」


 シャムスはさらに、自身の腰から『太陽の紋章』が刻まれた一振りの短剣と、床に落ちていたルルアの焼け焦げた銀の装飾品を拾い上げ、震えるファリードの両手に痛いほど強く握らせた。


「いいか、ファリード。私のために、復讐など考えるな。玉座を取り戻すために血の道を歩む必要もない」 「兄上……っ?」

「まずは生きろ。地に這いつくばってでも生き延びて、この広い世界を知れ」


 シャムスは、血に汚れた手で、ファリードの頬を優しく包み込んで震える弟と至近距離で目を合わせた。


「お前は泣き虫で、優しすぎる。……だが、他者の痛みに共に涙を流せるお前のその優しさは、いつか必ず、この大帝国の暗闇を照らす”真の強さ”になる」

「っ……あぁ……っ」

「私の代わりになろうとするな。……いつか、お前が愛したあの温室のように、誰もが安心して笑える国を……お前自身の手で、創ってくれ」


 シャムスは、幼い頃から何度もそうしてきたように、ファリードの白金色の髪をぐしゃりと撫でる。  

 自分が愛したすべてを失い、これから死にゆく者の顔とは到底思えない、太陽のように眩しく、温かな笑顔だった。  

 それが、あまりにも優しく、温かい手つきであったから、ファリードの喉から、ひゅっと空気が漏れるような、心が引き裂かれる悲鳴が上がった。

 

 最後に、第一王子シャムスは弟の細い肩を強く掴んだ。彼の美しい濃い白金色の髪は黒い灰に汚れ、左腕からは痛ましいほどに血が流れ落ちている。

 だが、その金色の瞳だけは、絶望の淵にあってもなお、周囲の燃え盛る炎に照らされながら太陽のように力強く輝いていた。


「カディル」  


 背を向けたまま、シャムスが己の長剣を拾い上げる。柄を握る手はカタカタと小刻みに痙攣し、剣の切っ先が重く石床を擦って鈍い音を立てた。  

 毒が完全に回りきった横顔は土気色に濁り、額からは限界を超えた脂汗が滝のように流れ落ちている。呼吸をするたびに、喉の奥から血の泡が弾けるようなヒュー、ヒューという不気味な音が漏れていた。  


 それでも。  

 シャムスは震える両足に無理やり力を込め、松明の炎を揺らして迫り来る黒い甲冑の精鋭たちへ向けて、ピタリと刃を構え直した。その金色の瞳だけは、死の淵にあってもなお、大帝国を背負う太陽のように強烈な光を放っていた


「我が悪友にして、最高の盾よ。……我が半身を頼む。必ず、生かして逃がせ!」

「……っ、殿下ッ!!」

「共に生きて明日も笑えという、私の掟を忘れるな! 行けェッ!! カディル!!」


 主君からの、最後の命令にカディルは、己の下唇を血が滴るほど強く噛み破った。  

 ギリッ、と革手袋が悲鳴を上げる。固く握りしめた彼の拳は自身の爪が肉に深く食い込み、手袋の隙間から赤黒い血がボタボタと石床にこぼれ落ちていた。


「……っ、お許しをッ!!」

「兄上ェェッ!! 嫌だ、嫌だぁぁぁッ!!」  


 絶叫し、炎の中へ飛び込もうとするファリードの細い腕を、カディルは無言で掴み取った。  

 カディルの左頬には、燃え盛る木片が掠めた醜い火傷が赤黒く爛れ、肉を焦がす匂いとジリジリとした熱を放っている。

 だが、彼はその激痛に顔をしかめることすらしない。  

 半狂乱になって暴れ、カディルの鎧を叩き続けるファリードを、力任せに肩へ担ぎ上げる。そのカディルの双眸からは一切の光が抜け落ち、まるで無機質な硝子玉のように、ただ真っ直ぐに前方の暗闇だけを見据えていた。


 背後から、幾重にも重なる剣戟の音と、敵の怒号が響き渡る。  

 カディルは一度も、ただの一度も後ろを振り返らなかった。  血の滲む唇を真一文字に結んだまま、彼は自身の血が落ちる大理石の床を重く踏みしめ、ただ単調な足音だけを裏門へと響かせていった。


 外の空気は、炎熱の王宮とは対照的に、肌を刺すほどに冷たい。

 裏門の暗闇の中で待ち受けていたのは、傷つき、煤に塗れたわずか三百の近衛兵たち。かつて大帝国の威信を背負っていた彼らの目には、底知れぬ恐怖と絶望が宿っていた。


「……ファリード殿下」


 夜風が吹きすさぶ中、カディルは膝をつき、震えが止まらないファリードを見上げた。

 ファリードはもう、声を出して泣くことすらできなかった。琥珀色の瞳からは光が失われ、ただガチガチと歯の根を鳴らしながら、兄から託された太陽の短剣を、指の関節が白く透けるほどの力で抱きしめることしかできない。


 カディルは、その冷たくなりきった小さな手を、自身の血に塗れた両手でしっかりと包み込んだ。


「……生き延びましょう。いかなる苦難が我々を待とうとも」


 その声は、生真面目な響きは微塵もなく、地獄の底から這い上がってきた亡霊のような、低く、暗い響きを帯びていた。


「亡きシャムス殿下より託された命。……私が、貴方様をお守りします。この身が灰に変わろうとも」


 漆黒の闇夜の中。

 背後で赤々と燃え盛る王宮の炎を背に、すべてを失った少年と、心の一部を炎に焼かれた騎士は、わずかな残兵三百と共に、あてのない冷たい荒野へと足を踏み出した。


 シャジャルを照らす太陽が墜ち、血塗られた覇道が幕を開けた、長くて暗い夜の始まりであった。

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