葉山真白の日常1
――キーンコーンカーンコーン
五時間目の終わりを告げるチャイムの音が、中学校の平和な理科室に響き渡った。
「はい、今日の授業はここまで。次回は今日やった単元の小テストをするから、しっかり復習しておけよ」
実験のために白衣を着た理科の安藤先生がそう締めくくって教室を出ていくのを傍目に、葉山真白は机の一番後ろの席で、ニヤニヤしながらノートに書き留めていた。昼休み明け、給食後の五時間目は大体毎日眠いのが相場と決まっているのに、今日は全然眠くならなかった。
なぜならーーー
『銅(Cu)= 青緑色』
ノートの隅っこには、授業と黒板の板書そっちのけで、ボールペンでカリカリと描かれた謎の陣形図と燃え上がる炎のイラストが所狭しと落書きされている。
(……すごいっ、これ、めちゃくちゃ使えるじゃん)
周りの生徒たちが教室を出るための準備をして騒がしい中、真白は一人、自分の想像の世界から離れられずに授業中と同じ姿勢のままフリーズしていた。
(もし私が戦記の世界に転生したとして、夜襲をかける時、普通の赤い炎じゃ味方か敵か見分けがつかないけど、この銅の粉末を火にぶち撒ければ、夜空に”青緑色の炎”が上がるってことだよね? これを本陣への撤退の合図にしたり、敵に「神の魔法だ!」って畏怖させたりする目くらましにも絶対使える……!安全な後方の天幕で『真白様、次のご指示は?』なんて仰がれちゃって、イケメンの騎士たちに守られながら指示を出すだけで勝てちゃうかも!神が起こした奇跡の御技だって崇め奉られて......きゃー! これって異世界で無双できるってやつじゃない??)
「真白ー? なに一人でニヤニヤしながらポケーっと訳わからない両立してるのよ。またお父さんの歴史の本の妄想?早く行くよー」
親友、中野茉莉が呆れたように覗き込んでくる。いつの間にか茉莉は移動するための準備を終えたのか、教科書とノートと筆箱を抱えて真白の席の横に立っていた。
「違うって茉莉。 今、良いこと思いついちゃって。 私の頭の中で完璧な夜襲の陣形が組み上がったの! この炎色反応を使えば、敵の指揮系統を完全に混乱させて――」
「あーはいはい。真白、そんな物騒な知識、この平和な日本でいつ使うのよ」
茉莉はやれやれと大袈裟にため息をつくと、話題を変えるように真白の落書きだらけのノートを閉じるとシャーペンと消しゴムを筆箱に片付け、雑にノートと教科書を閉じるとその上に筆箱を置いた。
「それよりさ、今日の放課後、駅前のクレープ屋さん寄って帰らない? 期間限定のイチゴチョコ出たらしいよ!」
「おっ、行く行く。 ……ん? あれ、でも茉莉、今日は拓海先輩の部活見に行くって言ってなかったっけ?」
茉莉は大袈裟にああっと手を顔に当ててしくじったという顔をした。
「ああっ、そうだった。 クレープは明日!今日はバスケ部で汗を流す先輩の華麗な姿を目に焼き付けないといけない日だった……」
「あはは、茉莉最近すっかり先輩に夢中だね〜」
「だってカッコいいんだもん! そもそも、私が先輩を好きになったのって、元を辿れば真白のおかげだしね!」
「えっ、私?」
真白が不思議そうに首を傾げると、茉莉は「そうだよ!」と笑いながら真白の肩を小突いた。
「ほら新学期の春頃、体育館の裏を通った時。 真白が『武田の騎馬隊はね!』って前も見ずに熱弁しながら歩いてたせいで、バスケ部から飛んできたボールに顔面から突っ込んでいったじゃん。あの時、慌てて駆け寄ってきて『大丈夫?』って汗を拭いながら真白に手を差し伸べてくれた先輩……あの瞬間、後光が差すみたいにキラキラのオーラが見えたんだから」
「あー……あったね、そんなこと。私はボールが顔面にクリーンヒットして、陣形どころか星が飛んでたからオーラなんて見えなかったけど……」
「もう、真白ったら本当にドジなんだから。 でも、あの時の”名誉の負傷”には感謝してるよ。 ……あ、そういえばバスケ部といえばさ、昨日もウザ絡みしてきた隣のクラスの佐々木! あいつ、先輩と同じ部活だからってちょっと調子乗ってない?」
「あー、昨日ね。廊下でやったらとスカしてたよね」
佐々木とは、真白と茉莉のクラスメイトの男子だ。授業を抜け出したり先生に反発したりと反抗期真っ盛りの結構な問題児なのだが、どこか抜けていて憎めない三枚目なところがあり、女子たちからも「また佐々木がバカやってる」と面白半分にちゃかされるような、妙な愛され感のある奴だった。
「そうそう。 ほんとムカつく! ……あ、ねえ真白、あの昨日の佐々木の真似してよ。 真白のモノマネ、めっちゃ似てるんだから」
「えー? あんまり人のこと悪く言うのは好きじゃないんだけどなぁ。……まあ、しょうがないか。ちょっと待ってね〜」
真白はコホンと一つ咳払いをすると、スッと表情からいつもの表情を消した。一つ咳払いをすると、重心を少し斜めに落とし、片足を貧乏ゆすりするように動かしながら、前髪の隙間から茉莉を見下ろすように鼻で笑った。
「『チッ、なんだよお前ら。俺のジャンプシュートが凄すぎて見とれてたのかよ。……怪我すんなよ?』」
低く、彼特有の憎めないけど絶妙に嫌味な声と本人の特徴を的確に捉えた演技に、茉莉は腹を抱えて爆笑した。
「あーっはははは! 似てる、 似すぎ! 真白、ほんと演技上手いよね。 役者になれるよ」
「あはは、でしょでしょ」
真白は悪党の如く「……っふ」と鼻で笑ってみせると、そのままピースサインを作った。
真白がモノマネを得意とするのには、実はちょっとした理由がある。
幼い頃、仕事から疲れて帰ってきてリビングでぐったりしていたお父さんをどうしても笑わせたくて、一緒に見ていた歴史ドラマの、強面な戦国武将の真似を全力でやってみたことがあったのだ。
眉間にシワを見よう見まねで寄せ、幼いながらに低くドスを効かせた声で言い放ったセリフを見たお父さんは、一瞬ぽかんとした後、腹を抱えて大爆笑し、「ははは! さすが俺の娘だ、そっくりじゃないか」と大きな手でわしゃわしゃと頭を撫でてくれた。キッチンで晩御飯の用意をしていたお母さんまで振り返り、一瞬ポカンとした後、笑い転げていた。
大好きな家族が笑ってくれるのが嬉しくて、それからというもの、真白は密かに大河ドラマの登場人物や先生、クラスメイトの特徴なんかを観察しては、持ち前の度胸と演技力で周囲を笑わせるようになっていたのだ。
他人の仕草や声色を真似するこの技は、彼女にとっては周りのみんなを笑顔にするための、ちょっとした特技である。
……が、最近の真白は、この特技に別の壮大な可能性を見出していた。
(この真白様の素晴らしい演技力と歴史の知識があれば……もし戦記モノの世界に突然タイムスリップしちゃっても、絶対役に立つよね! 『私は未来を知る神の使いです』とか神秘的に振る舞えば、麗しいイケメンたちを上手く丸め込んで、ふかふかな天幕の中でチヤホヤされながら生きていけるはず! あわよくば、絶世の美男子のお殿様に見初められちゃうかも……!)
真白の頭の中はいつだって、ご都合主義のファンタジーとお花畑な空想でいっぱいなのだ。
持ち前の人間観察力も演技力も、すべては平和ボケした脳内妄想シミュレーションのために日々磨かれているといっても過言ではない。
続けて真白は、声を顰めて茉莉の耳に手を当てると囁いた。
「でもね、佐々木くんがああやって斜めに構えてるのって、実はその直前に廊下で盛大に躓いたのを誤魔化すための、カモフラージュだと思うよ。転んでダサかったっていう恥ずかしい事実から目を逸らさせるための、目眩しってわけ」
「なにそれ。じゃあただの照れ隠しじゃん」
腹を抱えて笑う茉莉の隣で、「お前らなぁ……」と呆れ顔で振り返ったのは、理科の授業で同じ班の男子生徒、坂井健太だ。真白と茉莉、そして健太の三人は小学校からの同級生であり、中学生になった今でもお互いを気兼ねなく下の名前で呼び合う仲だった。
ふと気がつけば、いつの間にか理科室からは他の生徒たちの姿が消え、残っているのは真白たち三人だけになっている。
それもそのはず、真白がさきほどの実験で見た炎色反応から『異世界に転生して青緑色の炎で夜襲をかける』という空想世界にどっぷりと飛んでボーッとしていたため、完全に出遅れてしまったのだ。そこに茉莉が声をかけてなんだかんだとお喋りが始まり、結果として健太以外のクラスの生徒はさっさと理科室を出て次の教室へと向かってしまっていた。
「お前ら相変わらずピーチクパーチクおしゃべりしやがって。準備おせーな。真白、ヒソヒソ話してるつもりかもしれないが、丸聞こえだぞー。また佐々木の真似してやがるし。お前、相変わらずそういうとこ変に鋭いよな」
「そう? なんとなく、わかっちゃうんだよね。 顔の引きつり具合とかで、あっ、今焦ってんなーって直感で」
「普通はそこまで気づかねえよ。この前の三者面談の時もさ。お前、忘れ物取りに教室戻ってきて、廊下からうちの親をチラッと見ただけだろ? なのに、オカンが俺の成績表見てキレる直前の”目が笑ってない笑顔”と”声のトーンが下がる”やつ、完コピして『健太くん、今日は帰ったら命ないかもね』って警告してきたじゃん。マジでエスパーかよって思ったわ」
「ふふん! 『目は口ほどに物を言う』ってやつだよ。 相手のちょっとした呼吸とか、目の泳ぎ方を見れば、次に何考えてるかなんてなんとなく分かっちゃうんだから。 ……ああっ!」
得意げに語っていた真白が、シンクの隅を見て突然「ひゃっ」と素っ頓狂な声を上げた。
「ごめん茉莉、私が洗うの忘れてた試験管、まだそこにあった!?」
「もう。真白、口だけ動かしてないで手も動かしてよ。 先生の話聞いてなかったの!?」
「う、うるさいなー。ちょっと頭の中で完璧な陣形組むのに忙しかったの。 すぐ洗うから!」
慌ててスポンジを手に取った真白の姿に眉を吊り上げて文句を言いながらも茉莉は笑っており、真白も「面目ない!」とおどけながら慌てて試験管を洗い始めた。
「こらこら、お前たち。いつまで理科室で油売ってるんだ」
ふいに開いたままの後ろのドアから声がして、三人揃ってビクッと肩を揺らした。振り返ると、一足先に教室を出て行ったはずの理科の安藤先生が、白衣のポケットに手を入れたまま呆れ顔で立っていた。
「まだお前たち残ってたのか? 早くしないと、6時間目に間に合わなくなるぞー。ほら、急げ急げ」
「っ、はい! すみませんでした! ただいま超特急で片付けます」
真白はビシッと背筋を伸ばし、泡だらけの右手を額に当てて、おどけたようにピシッと敬礼してみせた。
その滑稽な姿に、安藤先生もやれやれと苦笑いを浮かべて去っていく。
「ほら見ろ、先生に見つかったじゃねーか。俺もすすぐの手伝うから、とっとと終わらせるぞ」
「ありがとう、健太、恩に着る」
「私もカゴ持ってくるねー」
三人の他愛のない笑い声が、誰もいなくなった理科室に響き渡った。
*
その後ギリギリ次の6時間目の授業に間に合った後、無事に授業が終わってホームルームが終わると、教室は一気に放課後のざわめきに包まれた。
机の上にペラリと置かれたのは、『進路希望調査票』と太字で書かれたプリントだ。
真白はそれを前に、シャーペンをくるくると回しながら机に突っ伏した。
「げー、ついに出た進路調査ー。まだ中学2年生なのに将来の夢なんてまだ分かんないよー。みんな、こういうのパッと思いつくものなの?」
「うーん、真白は歴史好きだし、お父さんみたいな公務員とか?」
帰り支度をしながら、茉莉が覗き込んでくる。
「絶対無理! 私はもっとワクワクしたいの。 絶対椅子に大人しく座ってられないし、淡々と作業やらされるのも嫌い。歴史研究家なんていいかも!フィールドワークに繰り出して、隠された文献探したり、戦があった場所を調査しちゃったり……いや、いっそ軍略専門家??」
「なにその職業? マニアックすぎない? 聞いたことないんだけどー」
「あ! じゃあ、戦記ものとかRPGとかのファンタジーゲーム制作会社とか良さそう!! そこで天才的な戦闘のシナリオ提案するの。 ……でも、ゲーム会社の世界って狭き門だよねー。うわーどうしよう、全然決まんない」
真白がプリントの上で頭を抱えて唸っていると、茉莉がクスクスと笑いながら彼女の背中をパシンと叩いた。
「まあまあ。まだ受験生じゃないんだし、高校くらいなんとなく書いとけばいいじゃん」
「……そっか、だよねー。じゃあ、とりあえず茉莉と同じ高校に行くことにするわ」
「えーテキトーだな。 まあ、真白と高校も一緒だったら毎日退屈しなさそうだけどさ」
真白はそう言って、第一志望の欄に茉莉と同じ地元の高校の名前だけを書き込み、将来の夢の欄は真っ白に近い状態で先生のデスクの回収箱にテキトーに放り込んだ。
「よーし、終わった。 茉莉、部活ないし今日先輩見にいくんでしょ?」
「うん。真白もだよね?」
「そう! 剣道部、今日は道場がワックスがけでお休み」
ちなみに真白が剣道部に入った理由は、「武道ってなんかカッコいいし、竹刀を振ってれば歴史上の剣豪になった気分になれそう!」という、実に歴史オタクらしい不純な動機からだ。弱小部で地区大会で勝ち上がれるかどうかも怪しく、実際は素振りばかりで軍略もへったくれもないのだが、それはそれで楽しくやっている。
「よし、それじゃあこのまま体育館寄ってこう。 バスケ部で汗を流す先輩の姿を目に焼き付けてから、真白の部屋行っていい? 『告白大作戦』、もっと具体的に練りたい」
「オッケー! 私にお任せあれ。作戦テーマはかねてよりの『補給線確保からの自然な奇襲』作戦です! 先輩の今日の動線と疲労度を分析して、部活終わりに一番絶妙なタイミングでスポーツドリンクを渡すシミュレーションをするからね。常に陣形をアップデートしていかないと」
「さっすが大軍師様、頼りになるね」
真白たちは鞄を持ち上げると、まだ教室に居残りして黒板に絵を描いたり、ダラダラとおしゃべりをしている友人たちに向かって手を振った。
「ばいばーい! みんなまた明日ね」
「おー、真白ちゃん、茉莉ちゃん、また明日!」
教室を出た二人は、並んで放課後の廊下をのんびりと歩き出した。
校舎にはオレンジ色の西日が長く差し込み、空気中を舞う小さな埃がキラキラと光っている。
ピンポンパンポーン、と間延びしたチャイムが鳴り、『生徒の皆さんは、部活が終わったら寄り道をせずに気をつけて帰りましょう』という、聞き慣れた放送委員の声が響いた。
窓の外からは、グラウンドの乾いた土の匂いと共に、サッカー部や野球部の元気な声が聞こえてくる。
遠くの音楽室からは吹奏楽部の不揃いなチューニングの音が響き、廊下の掲示板には『来月の合唱コンクールに向けて!』と書かれたカラフルなポスターが画鋲で留められている。
「あーあ、来週の英単語の小テスト、嫌だなー」
「ほんとそれ! 私、もうすでに諦めモードなんだけど」
「戦国武将や英雄の名前なら秒で暗記できるんだけどなぁ」
そんな他愛のない軽口を叩き合いながら、二人は体育館へと続く渡り廊下を歩く。
やがて、ワックスの匂いと少しひんやりとした湿気を帯びた空気が肌に触れた。二人は二階のギャラリーへと慣れた足取りで向かっていった。
体育館に着くと、キュッ、キュッとバッシュが床を擦る音と、重いドリブルの音が反響する中、茉莉は手すりから身を乗り出して黄色い歓声を上げ始める。
「はぁ〜、今日の先輩もカッコいい……! 見て真白、あのスリーポイント」
「うんうん、見事な放物線だねー」
真白は手すりに顎を乗せ、ぼんやりとコート全体を眺めていた。実は隠れイケメン好きである真白だが、彼女のイケメンセンサーは、この熱気あふれるバスケ部員の中ではピクリとも反応していなかった。
(うーん……拓海先輩は確かに爽やかでカッコいいけど、私の好みとはちょっと違うんだよね。どうせなら、もっと色素が薄くて、どこか影のある絶世の美形とかいないかなぁ。長髪の剣士とか、神秘的なオーラを持った王子様みたいな……)
そんな現実離れした空想を膨らませていると、隣で茉莉が不思議そうに顔を覗き込んできた。
「真白ってさ、いつも私の恋バナの作戦ばっかり嬉々として立ててるけど、自分は好きな人作らないの? バスケ部、カッコいい人いっぱいいるのに」
「えー? 私の心ときめく殿方は、歴史の中か二次元にしかいないの。 残念ながらこのバスケ部には、私の軍師としての庇護欲を掻き立てる逸材は不在であります」
「殿方って……。はいはい、真白の理想が高すぎるだけだと思うけどねー。それじゃあ、先輩の今日の御姿もバッチリ目に焼き付けたし、真白の家に行こっか」
「いいよー! でも作戦会議しながらゲームやっていいー? 今めっちゃ良いところなんだよね」
二人は駐輪場で自転車にまたがると、夕暮れ時の街を二人で並んで走り出した。
帰り道に通る、いつもの大きなイチョウの並木道。
夕陽に照らされた黄金色の葉が、風に吹かれてハラハラと舞い落ちてくる。自転車のペダルを漕ぐたびに、制服のスカートがふわりと揺れ、秋の少し冷たい風の匂いがした。
「あー、お腹すいた!。コンビニで肉まん買ってこうよ。 あ、ポテチとオレンジジュースも追加で」
「賛成! 先輩のハートを射止めるには、まず腹ごしらえからだね」
二人は笑い合いながら、並木道を駆け抜けていった。




