番外編 カディル 二
それから時は瞬く間にすぎていった。
木々が陽光を遮る鬱蒼とした辺境の森を、四騎の軍馬が静かに進んでいた。
その日は、大帝国シャジャルが誇る伝統行事『大狩猟儀式』が行われる日であった。十八歳の成人を迎えた第一王子シャムスの武勇を諸侯に示すための、いわば壮大な仕込み芝居のような狩りだ。入念な事前調査の網をすり抜けて王子の前に引きずり出されるのは、手負いの手頃な獲物だけのはずだった。
「――それにしてもさぁ、今日の森、マジで退屈すぎません? 安全確認済みの見栄えの良い獲物だけ残してるお遊戯会だってのは分かってますけど、これじゃあ剣の腕が鈍っちまう」
馬上から身を乗り出し、大げさに首を振ってみせたのはジャシムだ。
陽に焼けた健康的な浅黒い肌に、人懐っこい笑みを浮かべながら、腰に佩いた二振りの曲刀の柄を手持ち無沙汰に指で叩いている。家柄の力ではなく、天性の身軽さと剣の冴えだけで近衛まで這い上がってきた男。十三歳のあの日から、カディルがどれほど「馴れ合うな」と氷の視線で威嚇しようとも、一切空気を読まずに肩を組んできた図太い男である。
「ジャシム。貴様、殿下の御前だぞ。口を慎め」
カディルは手綱を握る手にギリッと力を込め、前方から視線を外さずに冷たく言い放った。
「それに索敵は我々の任務だ。文句を垂れる暇があるなら、周囲の警戒に集中しろ」
「ほーら始まった、カディルちゃんの小言。お前さ、王宮に上がったその日から一言目には『掟』か『任務』だよな。もう少し脳みそを柔らかくほぐしたらどうだ? 相変わらずつまんねーやつだな」
「誰の脳が干からびていると……!」
「まあまあ、二人とも。カディルの小言は今に始まったことじゃないだろう? いい加減慣れなよ」
ジャシムの茶化す声に、もう一騎の馬を並べていたナディームが、穏やかな、けれど明確に面白がっている笑みを浮かべて肩をすくめた。 切れ長で涼やかな目元と、理知的な顔立ち。書記官の家系という武門らしからぬ出自ながら、その卓越した知力と弓の腕でシャムスに見出された男だ。
一見するとカディル寄りのおとなしい常識人に見えるが、実はこの男が一番タチが悪いことを、カディルは身をもって知っている。
「はははっ、カディルもそうカリカリするな。ジャシムの言う通り、確かにこの作られた狩り場では少し退屈だ」
険悪になりかけた(といってもカディルが一方的に怒っているだけだが)空気を、明るくよく通る声が掻き消した。
先頭を進むシャムスが、スラリと伸びた長身を振り返らせて悪戯っぽく笑いかけてくる。
彼の顔立ちは、北方の母の面影を色濃く残す、繊細でどこか中性的な美貌を持つ弟のファリードとは全くの対極にあった。
父親譲りの、彫りが深く精悍で男らしい顔立ち。広い肩幅と、剣の鍛錬によって健やかに引き締まったしなやかな体躯。
王宮の回廊を歩けば、すれ違う女官や貴族の令嬢たちが皆一様に頬を赤らめて黄色い歓声を上げ、うっとりと振り返ってため息を漏らすほどの、誰もが認める美丈夫である。
だが、彼をそれほどまでに魅力的にしているのは、美しい容姿だけではない。 父王から受け継いだ万民を慈しむ温厚さに加え、次期国王としての強い意志が宿った、内側から溢れ出るようなカリスマ性。
透き通る金色の瞳と、太陽の光を編み込んだような髪を輝かせて笑うその姿は、眩しく鮮烈な『大帝国の太陽』そのものであった。
彼の瞳は、臣下をたしなめる主君のそれではなく、ただの友人に向けた気安い親愛と、若者らしい遊び心に満ちていた。
「どうだお前たち、せっかくの狩りだ。ここらで一つ、一番でかい鹿を仕留めた奴の勝ち、という勝負にしないか?」
屈託のない提案に、ナディームが穏やかな、けれど明確に面白がっている笑みを浮かべて肩をすくめた。
「殿下。御身の武勇を示す儀式で、近衛が殿下よりでかい獲物を仕留めたら、後で古狸の文官たちに私が何を言われるか分かりませんよ」
「構わんさ! 私が負けたら、今夜の酒代は私が奢ろう。その代わり、私が勝ったら――」
「よっしゃ乗った! 俺が勝ったら、来月のご成婚の祝宴で、ルルア姫の隣の席をもらいますよ!」
ジャシムの調子の良い宣言に、カディルが「貴様ッ、不敬にも程があるぞ!」と叫ぶが、シャムスは腹を抱えて笑った。
「あははっ、いいぞ! だがルルアは意外に気が強いからな。この前王宮に遊びに来た時も、お前の口説き文句を淑やかな笑顔で華麗にスルーしていただろう? 姫の隣に座ったところで、お前はまた冷たくあしらわれて泣かされるだけだぞ」
シャムスとルルア姫は政略結婚とはいえ、頻繁に面会を重ねており、すでに気心の知れた良好な関係を築いていた。よく王宮を訪れる彼女の気さくな人柄は、ジャシムたち近衛の三人もよく知っている。
「それに、ジャシム。お前には侍女のヤスミンがいるじゃないか」
シャムスがニヤリと悪戯っぽく笑うと、隣のナディームも「そうだね」と楽しげに乗っかった。
「また君が昨夜グラナダの踊り子に鼻の下を伸ばしていたと知れたら、彼女、今度こそ君のその自慢の曲刀をへし折るんじゃないかな」
「げっ……! な、なんでそこでアイツの名前が出るんすか! アイツはただの同郷の腐れ縁っていうか、口うるさい幼馴染で……!」
ジャシムが図星を突かれたように慌てて声を上げ、馬上で妙に姿勢を正した。
ヤスミンは、ジャシムの故郷から一緒に王都へ出てきた幼馴染であり、今は王宮侍女として働いている。
近衛騎士の宿舎はシャジャル王宮の敷地内の一画にあり、王宮侍女は主に王宮内の給仕、洗濯や掃除、小間使いと行動範囲が広く、仕事内容も多々に及ぶので、王宮内で、訓練場で、とにかく偶然出くわすことも多かった。
顔を合わせれば口喧嘩ばかりしている二人だが、ジャシムが他の女性を追いかけては玉砕するたび、ヤスミンは呆れ果てた顔をしながらも、結局は彼の破れた外套を縫ってやっているのだ。
互いに憎からず想い合っているくせに、近すぎる距離のせいで一歩を踏み出せない。そんな二人のもどかしい関係性を、シャムスもナディームもすっかり見抜いて面白がっていた。
「おや、そうか? この前も中庭で、お前がヤスミンから手作りの菓子を貰って、ものすごく嬉しそうに尻尾を振っているのを見た気がするが?」
「素直になればいいのに。君がフラれるたびに呆れながらも待ってくれている彼女の優しさに、そろそろ報いてあげなよ、ジャシム」
「ち、違ッ……! 殿下もナディームも、面白がってテキトーなこと言わないでくださいよ!」
顔を真っ赤にして狼狽えるジャシムを見て、シャムスとナディームが声を上げて笑う。黙って前を向いていたカディルでさえ、呆れたように小さく鼻で笑う気配を見せた。
「そもそも、大体ルルア姫様は俺のジョークのセンスが分かってないだけっすよ! ……ていうか、俺よりそろそろカディルの心配をした方がいいんじゃないですか? 殿下がご成婚されたら、こいつどうするんです?」
完全に旗色が悪いと悟ったジャシムは、照れ隠しのように強引に話題を捻じ曲げ、矛先を生真面目なカディルへと向けた。
「あー、確かに」
ナディームも乗っかる。
「こいつ絶対、殿下の初夜の寝所にまで『護衛任務にございます』とか言って、真顔で部屋の隅に立ち尽くす気だよ」
「ははっ……流石にそれはルルアが泣いてしまうな」
シャムスが涙目になって笑いながら、カディルの肩をバンバンと叩きにくる。
「いいぞカディル、その時はルルアの侍女の中で、一番口うるさくて気が合いそうな子をお前に紹介してやろう! ルルアにも頼んでおいてやるからな!」
「なっ……!? 殿下まで何を仰るのです! 私は一生、誰とも契りを結ぶ気など――そもそも、寝所を覗き見するなどという破廉恥な真似をするわけがなかろうッ!!」
普段は鉄面皮を崩さないカディルが顔を真っ赤にして激昂すると、それがたまらなく面白いらしく、三人は馬上でゲラゲラと声を上げて笑い転げた。
囲まれたカディルは、眉間に深いシワを寄せて天を仰ぐ。
(……どうしてこうなった)
生きた盾として、ただひたすらに主君を守るためだけに王宮へ上がったはずだった。
それなのに、気付けばこの眩しすぎる太陽のような君と、遠慮というものを知らない二人の悪友のペースに完全に巻き込まれ、共に机を並べ、汗を流して木剣を打ち合い、こうして同じ目線で馬鹿みたいに笑い合うようになってしまっている。
我が家門の掟に反している、情に絆されて弱くなっている、許されないことだ、そう頭では分かっていながら、カディルはこの騒がしくも温かい場所を、いつの間にか己の心臓よりも大切に想ってしまっていた。
(この他愛のない時間が、明日も明後日も、当たり前のようにずっと続いていく)
心のどこかでも、それでもそんな人生も、悪くないなと思っていた。あれだけ彼らに反発して、距離を置いていた己が嘘のようだ。いつの間にか、彼らがそばにいて笑い合っている日々を大切に思っている己がいた。
「……ん?」
ふと、ナディームの穏やかな声から、スッと温度が消えた。
彼が笑顔を消し、抱えていた大弓を無意識に握り直す。それを見たジャシムも即座に口を閉じ、カディルも背筋に冷たい電流が走ったのを感じた。
「どうした、ナディーム」
シャムスの声からも、先ほどまでの明るさが消え失せる。
「……少し、様子がおかしいですね」
ナディームは目を細め、木々の隙間、そして切り立った崖の上を睨みつけた。
「鳥の羽ばたきはおろか、虫の音一つ聞こえない。……嫌な風が吹いています」
カディルもまた、無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。骨の髄まで叩き込まれた暗殺への警戒心が、肌を刺すような違和感を捉えている。お遊びの狩猟場にしては、空気が重すぎる。
彼らが切り立った崖に挟まれた、狭い獣道へ差し掛かった――その瞬間だった。
頭上から、鼓膜を震わせる轟音が響いた。
崖の上が爆ぜたような地響きとともに、巨大な岩石の塊が雨のように降り注ぐ。
「――殿下ッ!!」
思考より先に、カディルの身体が動いていた。鋭く拍車を当てて馬を割り込ませ、シャムスの頭上を覆うように自身の背を丸める。
視界を覆い尽くすほどの土埃と、凄まじい落石の衝撃音が鼓膜を叩いた。地響きが収まり、激しく咳き込みながら顔を上げると、最悪の光景が視界に飛び込んできた。
崩落した巨岩の壁が、完全に路を断ち切っている。後方に控えていた数百の警備隊と、先頭を走っていた自分たち四人が、完全に分断されていた。
「――くそっ、待ち伏せか!」
ジャシムの声から軽薄さが消え、金属音が鋭く響いた。
背中から引き抜かれた双曲刀が、鈍い光を放つ。
土埃の向こうから、獣臭が立ち込めてきた。崖の影、岩の隙間から、音もなく姿を現したのは数十頭の巨大な狼の群れだった。
だが、その様子は明らかに異様だった。目は赤く血走り、口からはだらしなく泡混じりのよだれを垂らしている。恐怖も痛覚も失ったような、ただ目の前の肉を喰らい尽くすためだけに狂わされたような。
「……背後を完全に塞がれましたね」
ナディームが大弓の弦をギリギリと引き絞る。その額には冷や汗が滲んでいたが、金色の瞳は冷静に状況を計算していた。
「事前調査の網を潜り抜けた偶然、とは思えません。明確な意図を持った罠だ。……それに、この数は僕たち三人で捌ききれる限界をとうに超えています」
退路はない。加勢も見込めない。周囲の数の暴力が、四人を包囲していく。
異常な獣の臭いと濃密な殺気に当てられ、これまで数々の狩りを経験してきた優秀な軍馬たちが、恐怖で狂ったように嘶き、前足を高く振り上げた。
「くっ……! 馬がもたない、降りろ!」
カディルたちの制止も虚しく、手綱を振り切った馬たちはパニックを起こし、我先にと岩の隙間を縫って逃げ去っていく。
土埃が舞う中、地に足をついた四人は完全に孤立した。
血走った目と泡立つ牙、薬物によって完全に狂乱状態にあるはずの数十の凶獣たちは、何故かすぐには襲いかかってこなかった。
理性を飛ばされながらも、野生の狩猟本能だけは鋭く残っているのだろう。落馬して陣形を立て直そうとする獲物たちの退路が完全に断たれたことを確認するように、低く不気味な唸り声を上げながら、じりじりと包囲の輪を縮めてくる。
数の優位を確信し、一斉に飛びかかる一瞬の隙を窺うような、息の詰まる膠着状態。
その張り詰めた死の空気の中、カディルの心臓だけは、ひどく冷たく、平坦なリズムを刻み始めていた。
(私が盾となり、肉を喰らわれている間に……殿下を逃がす)
胸の奥で、幼い頃から刻まれてきた楔が疼く。自分は生きた道具だ、主の代わりに死ぬために、今日まで刃を磨いてきた。ここで命を捨てることこそが、己の存在意義だ。
カディルは腰の長剣を引き抜き、冷徹な拒絶の瞳で正面の狂獣を見据えた。
ふと視線を巡らせれば、隣に立つジャシムの重心は低く地を這い、ナディームの矢先は微塵の揺らぎもなく獣の眉間を捉えている。
十三の時から、生真面目な自分にウザ絡みを続けてきた悪友たち。馴れ合うつもりなど毛頭なかったはずの彼らの背中が、今は酷く明瞭に視界に焼き付いていた。
彼らもまた、一歩も引く気はないのだ。カディルと同じ、近衛の覚悟をその瞳に宿して。
「殿下は直ちにお逃げを!! ここは我々が死に物狂いで食い止めます!」
血走った目と泡立つ牙、完全に狂乱状態に陥った数十の凶獣が、地響きを立てて一斉に躍りかかってくる。
「……すまない!」
その悲痛な声と共に、背後でザッ、と泥を蹴る足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
第一王子であるシャムスが、カディルたちの言葉に従い、一人岩壁の方へと身を翻して駆け出したのだ。
獲物が散ったことで、獣たちの殺気が一瞬だけブレる。
主君が生き延びる道を選んでくれた。その事実にカディルは安堵し、ジャシムとナディームと共に長剣を構え、迫り来る獣の群れを真正面から迎え撃った。
(私が死に、彼らが死ぬまでの数分間……その間に、殿下だけでも岩壁を登って逃れられれば、それでいい)
生きた盾。主君の身代わり。物心つく前からそう叩き込まれ、感情を殺して生きてきた。 十三歳のあの日、温かい手で「友人になってくれ」と笑いかけてくれた彼を、何度も冷たく突き放してきた。
これでいい。これが正しいのだと、そう信じて疑わなかった彼の背中を――。
「こっちだ、野蛮な獣ども!!」
戦闘の最中、突如、遠ざかったはずの背後――岩壁の斜面の上から、空気を切り裂くような大音声が響き渡った。
カディルが弾かれたように振り返ると、そこには逃げたはずのシャムスの姿があった。
彼は逃走したのではなく、岩壁の起伏を蹴って駆け上がり、あえて凶獣の群れの側面の死角へと大きく回り込んでいたのだ。
シャムスは自身の美しい長剣を岩肌に激しく打ち付けて火花と甲高い音を散らし、強引に「獲物が散った」と誤解させて群れの殺意を自分へと向けさせた。 突然の側面の動きに獣たちの陣形が乱れ、完全に動きが掻き乱された、その一瞬の隙。
背後から駆け抜けてきた一陣の風が、カディルのその完璧な”死に場所”から、容赦なく肩を掴んで力ずくで引き戻した。
「馬鹿を言え、カディル!」
逃げたはずの第一王子、シャムスであった。
濃い白金色の髪をなびかせた、十八歳の若き次期国王は、カディルたちの真横に並び立ち、自身の長剣を抜いて躍りかかってきた獣一匹を一斬りすると不敵に笑い放ったのだ。
「で、殿下ッ!? 何故戻られたのですか! 貴方様の命に比べれば、我々などただの捨て駒――!」
「捨て駒だと!?」
ドンッ! と。
シャムスはカディルの胸ぐらを力任せに掴み上げ、その透き通る金色の瞳に激しい怒りと、痛切な悲哀を滲ませて怒鳴りつけた。
「お前たちのような、私に剣を教え、馬鹿話で共に笑い合った最高の悪友たちを置いて逃げ帰り、王宮で一人寂しく飯を食う王に……一体誰がついてくるというのだ!」
「っ……!」
「私のために勝手に死のうとするな、堅物。盾に隠れて生き延びる命など、私には必要ない」
激昂して泣き叫びそうになるカディルの言葉を、シャムスは真っ向から怒鳴り潰した。
彼にとってカディルたちは、国を守るための便利な道具などではない。己の血肉を分け合った、かけがえのない半身なのだ。
シャムスはカディルを突き放すようにして前へ向き直ると、革手袋で包んだ大きな手で、カディルの背中をバンッと力強く叩いた。
「私と共に生きて、明日も一緒に笑え。それが私の、お前への新しい掟だ!」
ドクン、と。
カディルの胸の奥で、十数年間、分厚い氷で覆い隠してきた心臓が、痛いほどに激しく脈打った。
(ああ……)
視界が滲む。ずっと、自分に呪いをかけてきた。自分はただの壁だ、人間ではない、彼らの眩しい光に当てられれば、いつか壊れてしまうと。
だが違った。共に机を並べ、木剣を打ち合い、くだらない冗談で笑い合った日々、彼らは一度だって、自分をただの盾としてなんか扱わなかった。
盾なんかじゃない。ただの、血の通った一人の人間として、彼らは自分を求めてくれていたのだ。
「――ジャシム! 右舷を頼む!」
「おうよッ! 俺の背中は任せたぜ、カディルちゃん!」
感傷に浸る間もなく、巨大な獣の群れが次から次へと波のように押し寄せる。
だが、カディルの身体は今までにないほど軽く、そして熱かった。全身が震えるのを感じた。今なら、どんなことが起こっても乗り越えられると。
「ナディーム、頭上だ!」
「分かっているよ!」
ナディームの放った矢が、シャムスの頭上から襲い掛かろうとした獣の眉間を正確に撃ち抜く。その落下地点を予測していたように、ジャシムが地を這うような低い姿勢で滑り込み、双曲刀で獣の腱を瞬時に断ち切った。
体勢を崩した獣の首を、シャムスが渾身の力で斬り飛ばし、その横合いから食らいつこうとした別の獣の牙を、カディルの長剣が凄まじい衝撃と共に弾き返す。
四人の間に言葉はなかったが、幼い頃から共に泥まみれになり、幾千回と剣を交えてきた彼らの動きは、阿吽の呼吸だった。
誰かが攻めれば、誰かが必ず死角をカバーする。一人が盾になれば、残る三人が容赦なく敵の急所を抉る。
「カディル、左が空いているぞ!」
「問題ありません! 殿下こそ、踏み込みが半歩浅い!」
死線の中にあってなお、いつもの演習場のようなやり取りが交わされる。
カディルの頬を獣の爪が掠め、生温かい血が流れた。だが、恐怖はない。
ただ一方的に守るだけではない。守られ、背中を預け、そして共に敵を打ち倒す。自分は今、彼らと並び立っている。
主君と臣下である前に。
俺は、俺たちは――「仲間」、そしてかけがえの「友」なのだ。
その事実を魂が理解した瞬間。
十数年間、己を縛り付けていた冷たく分厚い呪縛が、音を立てて粉々に砕け散るのを感じた。
代わりに全身の血管を駆け巡ったのは、今まで感じたことのない圧倒的な高揚感と、どこまでも飛んでいけそうなほどの不思議な全能感だった。
幼い頃から必死に殺し、凍りつかせてきた感情が、熱を帯びた血となって心臓から一気に爆発する。
胸が、身体が、全身が焼け焦げるように熱い。
この四人でなら、絶対に負けることはない。どんな絶望的な死地すらも越えて、必ず明日を笑い合える。
その揺るぎない確信が、堪えきれない涙となって目頭から熱く込み上げてきた。
「うおおおおおおおおッ!!」
王宮に上がってから一度たりとも表情を崩さなかった鉄面皮の若き騎士が、ボロボロと大粒の涙をこぼし、獣のような雄叫びを上げて剣を振るった。
血の通った一人の人間として覚醒した瞬間、己の意志で、愛する仲間を絶対に守り抜くという強い”想い”が乗ったその剣撃は、これまでの洗練されただけの型を遥かに凌駕する、恐ろしいほどの重さと冴えを放っていた。
空気を切り裂き、迫り来る狂獣の分厚い骨肉ごと、一刀の元に両断する。
ジャシムも、ナディームも、そしてシャムスも、泥と血にまみれながら、同じように泥臭く、必死に笑いながら剣を振るう。
彼らはもう、主君と護衛という檻にはいなかった。
四人でただ一つ。
誰一人欠けることを許さない、大帝国で最も強靭で、最も不器用な、魂の仲間たちだった。




