番外編 カディル 一
大帝国シャジャル。
大陸の中央を貫く大河シャジャルの豊かな恩恵を受け、王都グラナダは古くから多様な文化と莫大な富が集積する世界の中心であった。
その政治の頂点に君臨するシャジャル王家は、代々、圧倒的なカリスマと寛容さをもって多種多様な民を束ねてきた。現国王もまた、他民族や下層民にも寛容な心優しい名君であり、この百年間は帝国の歴史上でも稀に見る平和と繁栄を享受していた。
その平和の象徴とも言えるのが、国王のただ一人の王妃であった。
彼女は元々、北方で勇猛を轟かせていたとある部族の族長の娘であった。度重なる国境の小競り合いを終結させるための友好条約の証として、大帝国へと嫁いできたのだ。
政略結婚ではあったが、国王はその絶世の美女であった異民族の王妃に心底惚れ込み、生涯ただ一人の伴侶として大切に慈しんだ。彼女の存在は、帝国と北方部族との間に強固な絆をもたらし、国はさらなる安泰へと向かった。
二人の間には、二人の王子が誕生した。
第一王子シャムスと、第二王子ファリードである。
だが、幸福の絶頂は長くは続かなかった。ファリードがまだ幼い頃、北方の冷涼な気候で育った王妃は、王都グラナダの風土の病に倒れ、若くしてこの世を去ってしまったのだ。
愛する妻を失った国王の悲しみは計り知れなかった。
国王は長男であるシャムスにも深い愛情を注いでいたが、幼いファリードに対するそれは、愛情という枠を超えた「執着」に近い溺愛となっていった。太陽の光を編み込んだような白金色の髪に、透き通るような肌。ファリードの容姿は、亡き王妃の面影を誰よりも色濃く受け継いでいたからだ。
「この子だけは、何があっても傷つけてはならない」
国王は、母を失った幼い息子を不憫に思うあまり、彼を王宮の最も安全な温室へと閉じ込めた。
厳しい武芸の鍛錬や、血生臭い政治の陰謀が渦巻く表舞台から意図的に彼を遠ざけ、ただ美しい絹の服を着せ、書物に囲まれた穏やかな日々だけを与えたのだ。
だが、その過保護すぎる愛情は、皮肉にも残酷な結果をもたらした。
大帝国シャジャルは、古くから王族の血は純血で神聖であるという特権階級の驕りが根強い国である。北方部族の族長の娘を母に持つ二人の王子は、誕生した時から一部の旧貴族たちの冷ややかな視線に晒されていた。
しかし、第一王子シャムスは違った。
剣を振るえば誰もがその洗練された技に感嘆し、言葉を発すれば誰もがそのカリスマ性に魅了され、自然とついていきたくなるような完璧な人物。彼は次期国王として文武両道に輝かしい才能を見せつけ、己の圧倒的な実力と武勇で、貴族たちの純血至上主義すらも完全にねじ伏せてみせたのだ
一方で、父王の過保護によって何一つ政治的・軍事的な役割を与えられず、温室に引きこもっていたファリードの存在は、宮廷内で浮き彫りになっていった。
いつしか周囲の貴族たちは、日陰で本を読んでいるだけのファリードに対し、「大帝国の血を汚す、野蛮な血が混ざった王子」「美しいだけの木偶の坊」と呼び、遠慮のない侮蔑と冷ややかな陰口を叩くようになったのだ。
しかし、ファリードの心は決して歪むことはなかった。
王をはじめとする周囲の人間から無条件の深い愛情を注がれて育ったが故に、彼の根底には他人を疑わない純粋さと、誰にでも分け隔てなく接する人懐っこさが育まれていたのだ。身分を問わず、侍女や下働きの者たちにも優しく微笑みかけるその性質は、貴族たちの陰口とは裏腹に、王宮の裏方たちからは密かに深く愛されていた。
そして何より、彼が卑屈にならずに済んだのは、兄であるシャムスの存在があったからだ。シャムスは、弟に対する周囲の悪意を誰よりも敏感に察知し、自らが盾となって彼を庇い続けたのだった。
――そんな、弟を守るために気高く立つ彼の姿を、常に一歩後ろの影から見つめ続けている一人の青年がいた。
のちに彼らの側近となる若き近衛騎士、カディル・アル=アサドである。
『王族の盾というものは、決して自らの意志を持ってはならない』
代々シャジャル王家を守る近衛騎士の筆頭家系に生まれたカディルは、物心ついた時から父にそう教え込まれてきた。悲しみも、喜びも、恐怖も。
すべての感情は剣の冴えを鈍らせる不純物だ。ただ主君の前に立ち、その命に代えて刃を受ける「生きた盾」となれ、と。
カディルには、兄弟がいなかった。
近衛の筆頭家系でありながら、跡取りが一人しかいないという事実。それが、近衛騎士団長であった父を狂信的なまでの厳格さへと駆り立てた。本来ならば複数の兄弟で競わせ、最も優秀な者を王族の側近として献上するところを、父はたった一人の幼い息子に、一族のすべての重圧と業を注ぎ込んだのだ。
「お前はシャジャルの剣ではない。盾だ。盾に心など要らぬ」
それが、父の口癖だった。父は家門の中で、絶対的な存在だった。母でさえ、父には何も意見することはなかった。
カディルが剣の稽古で転んで泣き声を上げれば、容赦なく木刀で打ち据えられた。血を流して痛みに顔を歪めれば、「感情は隙を生む」と真冬の冷水を頭から浴びせられた。褒められたことなど、一度もない。
日々の生き地獄のような訓練の中で、幼いカディルは生き残るために心を殺す術を学んだ。自身の辛い、苦しい、そんな盾となるために不要な感情を封じ込め、ただ命令に従い、痛みすらも事実として処理するだけの完璧な「道具」へと、自らを削り上げていったのだ。
そして、彼が同年代の第一王子シャムスの側近候補として、初めて王宮に上がった日。
豪奢な絨毯の上で、一切の感情を殺して深く平伏する十三歳のカディルに対し、シャムスは身分差など気にも留めずに歩み寄ってきた。
「顔を上げてくれ。君が、今日から私の側近候補かい?」
大帝国を背負って立つ者にふさわしい、透き通るような金色の瞳。顔を上げたカディルの無機質な瞳を見て、幼いシャムスは驚いたように目を丸くし、そしてどこか悲しそうに眉を下げた。彼はカディルの度重なる稽古で剣ダコができ、新しい傷も多々見られる手を取ると、無邪気に笑いかけた。
「私の盾になる前に、まずは私の友人になってくれ」
その言葉に、コトンとカディルの心臓が微かに、不規則な音を立てた。友人。それは、主君の盾となり、家門のために生きる道具として育てられたカディルにとって、最も不必要で、理解し難い概念だった。
「……お言葉ですが、殿下。私は殿下をお守りするための盾にございます。友として並び立つことなど、許されません」
「許すよ、私が」
「なりません。それは、近衛の掟に反します」
どれほどシャムスが屈託なく笑いかけても、カディルは頑なに一線を引いた。
それからというもの、カディルはシャムスの影として、常に一歩後ろを付き従うようになった。彼らは共に机を並べて、帝国の歴史や戦術、そして他国の言語など、王族としての高度な学問の授業を受けた。
シャムスはまさに利発で時期王に相応しい少年だった。剣を振るえば誰もがその洗練された技に感嘆し、学問においても教師を唸らせるほどの聡明さを見せた。
そんな退屈な座学の最中、シャムスはふとペンを止め、隣に座るカディルに向けて、羊皮紙の端に描いた不格好な「居眠りをする老教師」の似顔絵をこっそりと滑らせてくることがあった。
「どうだ、似ているだろう?」
そのまま隣のカディルに同意を求めるように小声で悪戯っぽく笑い、背後に控える若き護衛を見上げる。
兄に構ってほしくてじゃれつくような、子供らしい笑顔だった。普通の大人であれば、幼い王子の愛らしさに微笑みをこぼすか、機嫌を取って笑い合う場面だ。
だが、カディルはピクリとも表情を変えず、淡々と主君の羊皮紙を机に伏せさせた。
「殿下。授業に集中なさいませ。王族たるもの、そのような遊戯は時間の無駄にございます」
「……お前は本当に、堅物で面白味がないな」
シャムスはつまらなそうに頬杖をつきながらも、その金色の瞳には決して嫌悪の色はない。むしろ、シャムスはカディルのその融通の利かない不器用な真面目さを、「お前のその実直さが、私の背中を預けるのに一番安心できる」とでも、誰よりも好ましく思っているような。
剣術の稽古でも同じだった。
砂だらけになって木剣を打ち合い、シャムスが「どうだ、今の私の一撃は!」と汗を拭いながら爽やかに笑いかけてきても、カディルはただ恭しく頭を下げて剣を納めるだけだった。
「見事な剣筋にございます。ですが、右の踏み込みが半歩浅く……」
「わかったわかった! お前の小言は父上より厳しいな!」
シャムスはカディルの肩を気安く組もうとするが、カディルはサッと身をかわし、「殿下、御身に汚れが移ります」と徹底して臣下としての距離を崩さなかった。
(私は、彼と並び立つ者ではない。彼という太陽を、暗闇から守るためのただの壁だ)
カディルは内心でそう自分に呪いをかけるように言い聞かせていた。踏み込まれそうになるたびに距離を置くのは、シャムスのその眩しすぎる光に当てられれば、せっかく殺し切った自分の心が溶かされ、自分という存在が壊れてしまうのではないかという、底知れぬ恐怖があったからだ。
「いつかお前のその鉄面皮を剥がして、大笑いさせてやるからな、カディル」
「殿下の御期待には、一生応えられそうにありません」
シャムスが眩しく笑い、カディルが眉間にシワを寄せて一歩下がる。
王宮の温室で繰り返される、光と影の決して交わらない平行線の日常。
しかし、そんな頑ななカディルの心の奥底の氷が音を立てて粉々に打ち砕かれる日が、ついに訪れることとなる。




