少年編完
それから数ヶ月。
かつて大帝国の循環器と呼ばれた大都市ハディードは、強固な城壁の内側で黄金色の活気を取り戻していた。
アミーナのいるザルカとの強固な交易ルートが確立し、王都へ流れるはずだった莫大な富と兵糧が、ハディードの金庫へと雪崩れ込む。
大河シャジャルを行き交う無数の商船がもたらす莫大な富。正規軍として統率のとれた数万の兵士たちの力強い足音。サフィヤをはじめとする仲間たちが、この都市の血肉となって躍動している。
そして何より、ファリード自身が変わった。
軍議の場ではマーシャの戦術をただ聞くのではなく、以前にも増して自ら地形や兵糧の数値を暗記し、彼女の隣に立って堂々と議論に参加するようになった。 自ら広げた羊皮紙の地図に短剣を突き立て、諸将たちと意見を戦わせるその姿は、誰もが疑わぬ『若き獅子』――玉座にふさわしい王の器であった。
そんな、すべてが順調に、彼らの望む舵通りに進み始めた、ある日の夕暮れ。
太守の館の作戦室で、数時間に及ぶ軍議を終えたファリードは、自らが統べる、この美しく豊かな現在の風景を眺めようと、作戦室を出て、館の最上階へと続く階段を上った。
お気に入りの、大河シャジャルを一望できる広大なバルコニー。
夕暮れ時、館の最上階にある広大なバルコニーへ足を運び、眼下の風景を眺めること、それはファリードの大切な日課であった。
かつて前の太守の横暴な統治により、飢えに喘いでいた街は、いまや血紅の夕陽を浴びて黄金色の活気を取り戻している。
路地裏から上がる飯炊きの煙、民のささやかな笑い声、それらは全て、かつて亡き兄王子シャムスが愛したような、温かく生きた世界だった。
(みんなのおかげだ。……そして、彼女の)
自らが統べる、この美しく豊かな現在の光景を愛おしそうに金色の瞳に映しながら、ファリードはふっと扉を開けた。
しかし、石造りの手すりに身を乗り出している小柄な人影を見つけ、その足が止まる。
先客がいた。
吹き抜ける生温かい風が、彼女のダボついた外套を揺らしている。
「――マーシャ。こんなところで何をしていたんだ? 連日の貿易の差配で、天幕に籠もりきりだと思っていたが」
思わぬ先客に、ファリードは、どこか弾んだ声音で隣へと歩み寄った。
「ん?」
マーシャは風に薄汚れたターバンをはためかせながら、のそりとファリードを振り返った。
ダボついた男物の外套を羽織った恐ろしい悪魔の軍師。けれど今日の彼女は、何かが違った。
彼は気づいてしまった。
自分があれほど愛おしく、誇らしく眺めていた、この黄金に輝くハディードの美しい街並みを――彼女の黒曜石の瞳は、微塵も映していない。
まるで目の前の豊かな日常などすべて透過してしまっているかのように、彼女の視線は空と水が交わる、その先の遠い遠い地平線だけを、焦がれるように細めて見つめているのだ。
その時、ふと、彼女の左手首に、ファリードの視線が止まった。
マーシャは吹き抜ける生温かい西風を遮るように、左手首を手すりに乗せていた。そこに巻き付けられた、今にも千切れそうな薄汚れたミサンガが、黄金の西日を浴びてひどくみすぼらしく浮き上がっている。
――出会った時からずっと巻き付けられている、薄汚れたミサンガ。豪奢な絹織物や黄金が溢れる今のハディードには全くそぐわない、今にも千切れそうなみすぼらしい紐だった。
「……マーシャ。出会った時から気になっていたのだが」
ファリードは隣に並び立つと、何気なく口を開いた。
「ん?」
「なぜ、そんなボロボロの紐をずっと着けているんだ? もう千切れかかっているじゃないか。ここまでの礼だ、ハディードの宝物庫から新しい宝石の腕輪でも見繕ってやろう」
その唐突な問いかけに、マーシャはふっと息を吐き、左手首のミサンガを右手でそっと覆い隠した。
まるで、この世界でたった一つ残された、一番大切な宝物を庇うかのように。
そして、ターバンの奥から覗く黒曜石の瞳を細め、大河のずっと先――空と水が交わる遠い地平線を、焦がれるように見つめた。
「宝石なんて、重くて剣が振りにくくなるだけだ。……それに、こいつはただの紐じゃない。私の『遠い故郷』へ帰るための、たった一枚の切符なんだ」
その横顔を見た瞬間、ファリードは思わず息を呑んだ。
軍議の場では、誰よりも不遜に諸将を煽り、血まみれの戦場を悪魔のように駆け抜ける強靭な姿しか見せない彼女が。
今は、背後から血紅の夕日を透かし、まるで蜃気楼のように輪郭がぼやけて見えたのだ。
それはかつて、あの冷たい湧水池で月光に照らされていた、ひどく無防備で、この血生臭い世界からいつかふっと消えてしまいそうな『異邦の少女』の姿そのものだった。
「故郷……?」
「ああ」
マーシャは西風に目を細め、なんでもないことのように、ぽつりとこぼした。
ハディードでの激戦を経て、主従の枠を超え、互いの魂の底まで触れ合ったと信じていた「唯一の共犯者」だからこそ、彼女はふと、その重い鉄の仮面を緩めた気がした。
「あんたを無事に玉座に就けて、約束の莫大な報酬をもらったら。私はこれを持って、自分の家に帰るのさ。海を越えた、ずっと遠くへ」
振り返った彼女の瞳は、どこまでも凪いでいた。
「......きっと、もう二度と会うこともないだろうな」
ヒュッ、と。
ファリードの喉が引き攣り、呼吸の仕方を忘れた。
夕陽の温かさも、眼下から聞こえる自身の国の喧騒も、一瞬にして遠のいていく。
代わりに蘇ったのは、あの絶望の砦の冷たい石床の感触だった。
自ら毒杯を煽ろうとした自分から無理やり杯を叩き落とし、「生き残って、勝つよ」と強引に現世へ引きずり戻してくれた、あの時の彼女の手のひらの熱。
自分に息をさせ、立ち上がらせ、生きる熱を与えてくれた唯一の光。
――私が王になれば、彼女は、消える?
この手で大帝国を掴み取ること。それはすなわち、己の命綱を、世界の果てへ永遠に手放すという残酷な儀式。
心臓を冷たい氷の刃で撫で斬りにされたような悪寒が全身を駆け巡り、玉座へ手を伸ばしかけていた少年の足元が、音を立てて崩れ落ちていった。
血のように赤い夕陽が、荒野を燃やすように染め上げている。
砦の高台、吹き抜ける生温かい風に男物の外套をはためかせながら、マーシャは石造りの手すりに身を乗り出した。
「――すべてが終わったら、私は私の家に帰りたい」
ぽつりとこぼれ落ちたその声は、風に攫われそうなほど軽かった。
ファリードの心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
視界がふらつき、冷たい刃を胃袋にねじ込まれたような悪寒が走る。
(嫌だ。行かないでくれ。お前がいなければ、私は――)
呼吸が浅くなる。
父と兄を失い、国を追われ、辺境を這いずっていた自分を拾い上げてくれた、たった一本の命綱。それを失う恐怖が、十五歳の少年の心を吹き飛ばそうとしていた。
行くな。お前がいなければ、私は立てない。玉座になんて意味はない。
無意識のうちに、ファリードの腕が、彼女の細い肩を力ずくで引き留めようと持ち上がりかけた。
だが、その手が彼女に触れる直前。
不意に横顔を照らした強い西日に、ファリードは息を呑んだ。
燃えるような夕陽に透ける、彼女の黒曜石の瞳。
彼はその中に、どこか哀愁を帯びた孤独な瞳を見た。
彼女が見つめているのは、この空のずっと先。この狂った戦乱の世界には存在しない、遠くて優しい、彼女だけの『帰るべき場所』。
(……ああ)
肺から、すとんと空気が抜け落ちた。
陣営の誰一人として、彼女の過去を知らない。これほど共に死線を潜り抜けてきたというのに、彼女が己の昔話をしたことなど、ただの一度もなかった。
その理由を、ファリードは今、肌が粟立つほどの鮮烈さで理解したのだ。
――あんなにも女の身一つで傷つき、戦い続けながら。彼女はずっと、あの遠い空だけを見て、一人で戦ってきたのだ。
持ち上がりかけたファリードの右手が行き場を失い、宙で微かに震えた。
引き留めようとした己の幼さと、彼女をこの地獄に引き留めようとした浅ましさに一瞬呼吸が止まる。
ファリードはぐっと奥歯を噛み締めると、彼女に向かっていた右手を乱暴に振り下ろし、自身が寄りかかっていた石の手すりを鷲掴みにした。
ガリッ、と石の角が食い込み、皮膚が破れる。
指の関節が白く抜け落ちるほど、痛いほどに力を込める。彼女にすがりつこうとする己の弱さを、その痛みで強引に押さえつけた。
「……ファリード?」
不審に思ったのか、マーシャが振り返る。
ターバンの奥から覗く、年上の、底知れぬ悪魔の軍師の顔。けれどファリードにはもう、それがただ一人の、不器用で孤独な迷子にしか見えなかった。
血の滲む手すりから静かに手を離し、ファリードは外套の裾を翻して彼女へ向き直る。
背中から血紅の夕日を浴びて、少年の白金色の髪が光の輪のように輝いた。
そして彼は、すべてを悟り、すべてを飲み込んだ、穏やかで、これ以上なく優しい微笑みをマーシャへと向けた。
「……そうか。なら、その切符は失くさないように、大切に持っておくといい」
かすかに震えそうになる声を抑えて、ファリードは彼女の黒曜石の瞳を見つめ返す。
彼女が一番望む場所へ無事に送り届けるためにこそ。自分は光り輝く玉座に座らねばならないのだ。
驚きに見開かれた黒曜石の瞳を、ひどく優しい金色の瞳が真っ直ぐに射抜く。
「私が玉座を奪還し、この大帝国を平定した暁には。海を越える船も、そのための安全な航路も、すべて私が作り出してみせる。……君の故郷へ続く道を、私が必ず作り出してみせる」
驚いたように目を丸くする彼女の顔を真っ直ぐに見つめる。
それは、少年の幼い依存を殺し、彼女の、いや、この大陸全土の背中を照らすための”王”が産声を上げた、運命の黄昏時だった。
* * *
ハディード陥落の夜、ファリードが暗殺部隊の生き残りに持たせた裏帳簿の脅迫により、王都のマレクは己の保身のために身動きが取れなくなり、大帝国の大陸全土は奇妙な膠着状態へと突入した。
――そして、三年後。
辺境で爪を研ぎ息を潜めていた白銀の若獅子が、ついに大帝国の喉元へその巨大な牙を突き立てる時がやってくるのであった。
〈少年編完〉




