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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
五章

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41/42

見てはならぬもの

 月明かりだけが頼りの暗がりを歩いていく。 

 宴の熱気はとうに届かず、冷たく澄んだ夜風が、アルコールで微かに火照ったファリードの頬を心地よく撫でていく。  

 両手に持った銀の杯の中身をこぼさぬよう、ファリードは慎重に獣道を進み、池の手前にある二本の枯れ木の間に差し掛かる。


(……この杯を渡したら、なんと言葉をかけようか)


「お前の戦術のおかげで勝てた」と、純粋な戦友としての感謝を真っ直ぐに伝えるべきか。  

 それとも、「大人と同じように酒を飲める年齢になったのだから、もう私をただ守られるだけの子供とは呼ばせないぞ」と、共に国を創る対等な王としての意地を見せてやろうか。  


 早く、あの頼もしい軍師に一人前の男、そして、王として認められたい。そしていつか、いつも自分の前を歩いているあの背中に追いつき、肩を並べて共に覇道を歩みたい。  

 そんな、純粋な高揚感と背伸びの熱を胸に抱きながら、岩陰を抜けて湧水池のほとりへと足を踏み出そうとした、その時だった。


 強い夜風が吹き上げ、頭上の蔦を大きく揺らした。

 ファリードは無意識に、揺れた蔦を避けるようにして一歩横へ逸れた。


 彼が知る由もないことだが、その逸れた足元の泥の中には、占領直後に仕掛けられた、極細の鋼糸に繋がれた”隠し鳴子”が張られていた。 大柄なカディルであれば確実に糸を引っかけ、裏社会育ちのザイドであればその異常な殺気に気づき、決してこの獣道には足を踏み入れなかっただろう。  

 もし風が吹かず真っ直ぐ歩いていれば、ファリードはその糸に触れ、池の周囲に警報が鳴り響いていた。

 しかし、歴戦の暗殺者であるマーシャの完璧な警戒網を、ファリードは運命のいたずらにより、無自覚にすり抜けてしまったのだ。  


 岩陰から湧水池へと視線を向けた、その瞬間。

 ファリードの心臓が、肋骨を突き破りそうなほどの激しい鼓動を打ち鳴らし、呼吸が完全に停止した。


 ーそこには、月明かりを浴びて、水を被る人影があった。  


 ――幻想的で、そして、決して見てはならぬもの。  

 澄んだ水面に、満月の青白い光が降り注ぎ、周囲の岩肌を銀色に縁取っている。

 その光の中心。

 いつも頭を厳重に覆い隠していた薄汚れたターバンはなく、きつく胸を縛っていたサラシも、男物の外套も、岩の上に無造作に脱ぎ捨てられている。


 (……マーシャ、なのか?)


 ファリードが最初に奪われたのは、その髪だった。

 水を被り、ターバンから解き放たれたその髪は、まるで濡れた黒真珠のように妖艶な艶を放ち、黒い絹の幕のように白い背中へと広がっている。 

 水面から顔を上げた彼女の素顔も、ファリードがこれまで見てきたこの国の女性たちとは決定的に異なっていた。  彫りの深いこの大陸の人間とは違う、凹凸の少ない滑らかな輪郭。

 それは、陣営で聞かされていた十九歳という実年齢を忘れさせるほどに、時が止まったような神秘的であどけない異国の顔立ちだった。


 ターバンから解き放たれた、腰まで届く美しい艶やかな黒髪が、濡れた黒真珠のような光沢を放って白い背中へと広がっている。  


 この大陸にも黒髪の人間はいる。

 だが、乾燥した風に晒された彼らの髪とは違い、彼女の髪は異常なほどに真っ直ぐで、月の光を吸い込むように艶めいていた。  

 なぜ彼女が、戦場において邪魔になるほど髪を伸ばし続けていたのか。ファリードはその理由を直感的に悟った。  

 中途半端に短く切ってしまえば、そのサラサラとした異質な髪がターバンの隙間からこぼれ落ち、ひと目で高級な愛玩物として野盗に狙われてしまう。

 だからこそ、長く伸ばしてきつく編み込み、ターバンの奥底に分厚く丸め込むことで、こぼれ落ちるのを防ぎ、同時に男としての頭の骨格を偽装するための緩衝材として利用していたのだ。


 そして、濡れた長い睫毛の奥にある、黒曜石の艶めいた瞳。  

 悪魔の軍師として戦場に立つ時の、あの勝気に釣り上がった不機嫌そうな眼差しはそこにはない。

 静かに水面へと伏せられたその艶めいた不思議な黒い瞳は、どこまでも儚く、触れれば消えてしまいそうなほどに脆く見えた。


 水滴が、彼女の華奢な鎖骨から、隠されていた柔らかな女性の曲線へと滑り落ちていく。  


 ーーー女、だった。

 大帝国を震え上がらせ、敵を容赦なく泥濘に沈めてきた非道極まりない『悪魔の軍師』の正体は、息が止まるほど美しい、異国の少女だったのだ。


 その圧倒的な事実が脳髄を貫いた瞬間。

 ファリードの全身を巡っていた初めての酒の甘い熱は、まるで頭から氷水を浴びせられたように一瞬にして引いていった。  

 酔いで微かに揺らいでいた思考が極端にクリアになり、彼の頭の中で、これまでの不自然だった言動のすべてが、激しいフラッシュバックとなって結びつき始めた。


 『――距離が近い! 暑苦しいから離れろバカ殿下!』

 戦いに勝つたび、自分が男の親友に対するように無防備に肩を組み、抱きついた時の彼の激しい拒絶。

 『――声が上擦ってる! もっと吐息を混ぜろ!』

 アミーナを篭絡する際、なぜ彼が男を狂わせる手練手管をあそこまで生々しく、手取り足取り教えることができたのか。

 そして、あのいつも無理に押し潰すようにして出していた、掠れた低い声。

 男所帯の陣営の中で、決して肌を晒さず、常に一人で人目を避けていた理由。


 すべては、女というこの世界で最も弱い立場で生き抜くために、彼女が命懸けで張り巡らせていた防衛線だったのだ。

 点と点が繋がり、ファリードは血の気が引くのを感じた。

 自分がどれほど無神経に、秘密を抱えた彼女のパーソナルスペースに踏み込み、無邪気に甘えて彼女を困らせていたのか。

 だが、息が止まるほど美しいその姿と同時に、ファリードの瞳に最も残酷な光景が焼き付いた。


 ――痛々しいまでの、無数の凄惨な傷跡。

 月光に照らされた白い背中から脇腹にかけて、幾重にも重なる赤黒い鞭の痕。鋭利な刃物で抉られたような、古い刺し傷の跡が、彼女の過酷な過去を雄弁に物語っていた。


 「……ッ」

 ファリードは音を立てないように口を両手で強く塞ぎ、岩陰にへばりついた。


 (あんなにも華奢で、痛々しい傷だらけの背中に……)

 ファリードの胸の奥から、彼女へ魅入っていた自分に対しての、喉を掻き毟りたくなるような猛烈な自己嫌悪と後悔がこみ上げてきた。


 毒の杯を煽ろうとした自分を泥水の中から殴り飛ばして引きずり上げ、自分が王としての手を汚さぬよう、いつも彼女が真っ先に冷徹な悪魔として、すべての憎悪と血の業を一人で引き受けてくれていた。

 たった一人の、か弱く美しい異国のあどけない少女に、自分は『大帝国をひっくり返す軍師』という、どれほど重く残酷な役割を背負わせていたというのか。

 

 (私は……何も見ていなかった。彼女の本当の痛みを、何も、何一つ知らなかった)


 今すぐ彼女の元へ駆け寄り、その傷だらけの細い肩を抱きしめて謝罪したい。

 そんな強烈な衝動に駆られたが、ファリードは岩を掴む指から血が滲むほど力を込め、必死に自身をその場に縫い留めた。

 今ここで声をかければ、彼女が血反吐を吐きながら守り抜いてきた男の、軍師としての尊厳を、自分が完全に壊してしまうことになるからだ。


 ファリードは、月光に晒された彼女の秘密を胸の最奥に厳重に封じ込め、足音を一切立てぬよう、震える足で一歩、また一歩と後ずさりした。  

 だが、その心は圧倒的な衝撃と自己嫌悪、そして強烈な熱によって激しく揺さぶられていた。

 行きは運命のいたずらで潜り抜けられた罠を、激しい動揺によって踏み抜く。

 

 ――ピィン。  

 後ずさったファリードのブーツの踵が、見えない鋼糸を弾いた。  


 チリン……と、闇の中で微かに隠し鳴子が鳴る。

 「っ……!」  

 ファリードは顔から血の気を引かせ、完全に呼吸を止めて岩陰の深くへ身を沈めた。  


 そのわずかな音に対する、水面にいたマーシャの反応は恐ろしいほどに速かった。  

 先ほどまでの儚げな少女の顔は一瞬にして冷徹な暗殺者のそれへと変貌し、彼女は音もなく水から上がると、岩の上に置いてあった双短剣を瞬時に掴み取った。


 「……誰だ」  

 月光の下、水滴を滴らせながら短剣を低く構えるその姿は、息を呑むほど妖艶で、そして危険だった。  

 マーシャは黒曜石の瞳を鋭く細め、鳴子が鳴った獣道の方角をジッと睨みつける。  

 ファリードは岩陰で己の口を両手で強く塞ぎ、自身の心臓の音すらも殺して石のように硬直していた。   


 今ここで姿を見せれば、彼女が血反吐を吐いて守り抜いてきた『男の軍師としての尊厳』を、自分が完全に壊してしまうことになる。絶対に、気づかれるわけにはいかない。

 数分ほどの、永遠にも似たヒリつくような沈黙。  


 やがて、マーシャは周囲に更なる気配がないことと、殺意が向けられていないことを確認すると、チッと短く舌打ちをした。  

 「……酔っ払いの傭兵でも迷い込んだか。面倒な」  

 彼女は警戒を解かぬまま、素早く分厚い麻のサラシを手に取り、再び自らの柔らかな胸を息が詰まるほどきつく縛り上げ始めた。

 その気配を確認し、ファリードはようやく、決して彼女に気づかれぬよう、深く暗い都市の闇の中へと静かに逃げ帰った。


 「……私が、前に立たなければ。これ以上、あの背中にばかり、この世界の業を背負わせてはおけない」  


 自身の不甲斐なさに対する猛烈な自己嫌悪と、彼女が一人で引き受けてきた残酷な血の業を、今度は自分がすべて奪い取り、肩代わりしてやりたいという焦燥にも似た重苦しい渇望だった。  


 大帝国を救うという清廉だった王の大義、それが消え去ったわけではない。

 だが、この瞬間からその大義は、「彼女がこれほどの血を流して私を玉座へ導こうとしてくれているこの国を、何が何でも、彼女が二度と傷つかない平和な世界として完成させなければならない」という、逃れられない呪いのような執念へと完全に同化した。

 運命の夜であった。



 翌朝。

 都市の喧騒が遠く聞こえる、ハディード本丸の薄暗い一室。

 マーシャは一人、硬い椅子にあぐらをかき、手元の〈双短剣〉を油布で静かに拭い清めていた。


 昨夜、月明かりの下、冷たい湧水池に浸かっていた彼女は、水面に揺れる月影を静かに眺めていた。


 氷のように冷たく、けれど吸い込まれそうなほどに澄み切った美しい満月。

 見知らぬ残酷な異世界に落とされ、数え切れないほどの血と泥にまみれてきた。それでも、夜空に浮かぶこの月の静かな輝きだけは、遠い故郷の日本で見ていたものと何一つ変わらない。

 その変わらぬ光を見つめていると、不器用で言葉足らずだったが、誰よりも温かかった師匠ルスランの分厚い背中が自然と脳裏に蘇ってくる。


 だが、その静寂な追憶の直後。

 彼女の頭を占めたのは、地下火薬庫でファリードと共に刃を交えた、漆黒の暗殺部隊のことだった。

 皇帝マレク直属の暗殺部隊『黒百合』。

 情報を漏らさぬよう舌を抜かれ、感情と痛覚を完全に排除された人間兵器たち。だが、彼らが見せた足音を消す無音の歩法や、死角から正確に頸動脈を狙う殺しの手口は――マーシャの身体の奥底に染み付いているものと、完全に同質の技術だった。


 マーシャは、冷たい双短剣の柄尻を親指の腹でそっと撫でた。

 そこには、長年使い込まれて摩耗してはいるが、不気味な百合を模した紋章が微かに刻み込まれている。


「……あんたの教え子たちは、相変わらず可愛げのない化け物ばかりだったよ、ルスラン」

 ぽつり、と。

 誰もいない部屋に、彼女本来の涼やかな声が溶けた。

 舌を抜かれた末端の使い捨ての暗殺者たちとは違い、言葉を話し、大帝国の最も深い闇の中で彼らを鍛え上げる教官だったのであろう隻眼の男。

 それが、自分に泥水をすすってでも生きる術を叩き込んでくれた師匠、ルスランの正体だった。


 師匠ルスランは、自身の過去の核心を決して語らなかった。

 自身が帝国の暗部から逃亡した暗殺者であったことも、村を焼かれたのが組織からの無慈悲な見せしめだったという残酷な真実も。

 けれど、夜の荒野で時折炎を見つめるその孤独な瞳が、不器用で分厚い背中が、彼の人生の壮絶さを言葉以上に雄弁に物語っていたのだ。


『……俺にも、昔、家族がいた』

 いつかの凍えるような夜。

 焚き火越しに聞いた、彼の低く掠れた声が脳裏に蘇る。

 暗殺の教官として他人の血を浴びてきた彼が、妻と出会い、初めて人間の心を知って組織を抜けたこと。

 だが、闇は裏切りを許さなかった。

 彼が村を空けていた隙に、自分が手塩にかけて育てた『黒百合』のかつての部下たちによる残党狩りに遭い……戻った時には、愛する妻と、生きていればマーシャと同じ年頃だった娘が、黒焦げの肉塊にされていたという凄惨な過去。


(……哀れな小娘に、死んだ娘の面影を重ねたわけじゃないって、あんたは言ってたけどさ)

 家族を守れなかった途方もない後悔と諦観を抱えていた彼が。

 過去の繋がりを守るためだけに発狂した自分を金貨で買い戻し、「その紐が人間として生かす鎖なら絶対に手放すな」と、生き残るためのすべてを叩き込んでくれた。

 不器用で、ひどく痛ましいほどの彼なりの愛情が、今なら痛いほどよくわかる。


 師匠から人間としての幸せを奪い、人生を完全に狂わせた大帝国シャジャルという巨大な理不尽。

 マーシャの胸の奥で、静かな、しかし決して消えることのない冷たい怒りの炎と、師匠への深く痛切な哀悼が滾っていた。


『お前は、こんなところで立ち止まるな』


 マーシャは、研ぎ澄まされた冷たい刃を鞘にカチンと納めた。

 あの絶望の谷底で、自身の腹を大槍で貫かれながらも、「俺が殿しんがりだ」と血を吐きながらこの双短剣を託してくれた、温かく巨大な背中。


 大帝国最高峰の暗殺部隊を鍛え上げる男が、辺境の荒野でたった一人、奴隷だった十五歳の少女に、四年間という途方もない時間をかけて己の持つ暗殺術のすべてを骨の髄まで叩き込んだのだ。  

 マーシャがこの狂った世界で、並み居る敵を屠り生き抜いてこれた理由。彼ら人間兵器を相手にしても一歩も引かずに互角以上に戦える絶対的な強さの根拠が、そこにあった。


「……見ててくれよ、師匠。あんたが残したこの双短剣で、あんたの過去の業も、この狂った大帝国も……全部私が終わらせてやる」


 彼女は決意と共に立ち上がり、分厚い麻のサラシで胸を締め上げると、ダボついた男物の外套を羽織る。

 薄汚れたターバンで顔を隠し、再び冷徹な『悪魔の軍師』の仮面を深く被った。


 

 占領したばかりの大都市ハディードの本丸。

 豪奢なペルシャ絨毯が敷かれた作戦室で、ファリードは一人、石机に広げられた地図を見下ろしていた。


 そこへギィ、と重い扉が開く音がする。

 「……おはよう、殿下。随分と朝から熱心だな」

 現れたのはいつもの男物のダボついた外套を着込み、頭をターバンで厳重に覆ったマーシャであった。

 いつものように欠伸を噛み殺しながら入ってくるその姿に、ファリードは静かに顔を上げる。

 

 昨夜、湧水池で見てしまった光景――月光に照らされた、神秘的で滑らかな横顔と、その華奢な背中に刻まれた痛々しい無数の傷跡が脳裏を過る。

 だが、今のファリードの金色の瞳に、動揺は微塵もなかった。

 あるのは、この残酷な世界で女性であることを隠し、自らの手を血に染めてまで自分を導いてくれた彼女への、底知れない敬意だけだ。


 「大都市を掌握したとはいえ、下層の不満分子が完全に消えたわけじゃない。……まずは私が下層の酒場に潜り込んで、裏工作を仕掛けてくる」


 マーシャがいつものように、最も危険で汚れ役となる潜入任務を淡々と提案した。

 かつてのファリードなら、その恐ろしい知略にただ頷くか、カディルたちと共に止めていただろう。

 だが、ファリードはゆっくりと首を横に振った。


 「……却下だ」

 「あ?」

 「君のその頭脳は、今や我が軍の心臓とも言えるものだ。下層の些末な工作のために、君を前線に出して失うリスクは到底見合わない。……ザイド。お前が行け」


 ファリードが視線を向けると、部屋の隅で銀貨を転がしていたザイドが「へェッ!?」と素っ頓狂な声を上げた。


 「な、なんで俺なんだよ殿下! それは兄貴の策で――」

 「君は裏工作の天才だろう? 君が一番生き生きと動ける〈適材適所〉というやつだ。違うか?」


 かつてマーシャがザルカの宿で語った兵法を、そっくりそのまま”王の采配”として投げ返す。

 そのあまりにも理路整然とした反論に、マーシャは目を丸くし……やがて、ターバンの奥で満足げに唇を吊り上げた。


 「……なるほどな。手持ちの駒の価値を計算し、合理的に使い潰す。随分と立派な王様になったじゃないか、殿下」

 「君の教育の賜物だよ」


 ファリードは静かに微笑み、マーシャの視線を真正面から受け止めた。

 過保護に彼女を遠ざけるのではない。

 自らが真の王として戦況を支配することで、これ以上彼女に不必要な泥を被らせないという、十五歳になったばかりの少年なりの静かな誓いだった。


 ハディード陥落から数日後。

 都市の混乱を収め、自らの執務室にカディルとザイド、そしてマーシャを呼んだファリード。

 彼は、今までずっと身につけていた〈亡き兄の豪奢な銀の甲冑〉の留め具を静かに外し、大理石の床へとガシャンと重い音を立てて脱ぎ捨てた。


 「殿下!? なぜ兄君の形見を……」と驚くカディルに対し、ファリードは静かに、しかし確かな意志を帯びた声で告げる。


 「もう、この借り物は要らない。カディル、今の私の身体に合う、私自身の鎧を打たせてくれ」


 ファリードのその言葉には、かつてサイズが合わずに肩から血を流していた無力な少年の面影は見当たらなかった。


「私はずっと、兄上の代わりに過ぎないと思っていた。だが、マレクや太守の圧政で飢え、絶望していたハディードの民の姿を見て分かった。……兄上が生きておられれば、彼らをあんな風に泣かせはしなかった。マレクが奪い、壊したものの重さを、私が玉座から引きずり下ろして教えてやる」


 単なる復讐ではなく、兄の愛した民と優しい国を自分が代わりに完成させるという『遺志の継承』、そして静かな、けれど確かな怒りを込めて彼は宣言した。

 そして、ファリードは視線を動かし、壁際で驚いたように立ち尽くしているマーシャを、真っ直ぐに、熱を帯びた金色の瞳で射抜いた。


 その視線を受けた瞬間、マーシャはふと、小さな違和感に気がついた。  

 辺境の酒場で出会った頃、十四歳だった彼の目線は、一五〇センチ台の小柄なマーシャとほとんど変わらなかったはずだ。  


 だが十五歳を迎え、ハディードでの激動を乗り越えた今。

 遅咲きだった彼の身体は、溜め込んでいたエネルギーを爆発させるように、急激な成長期を迎え始めていた。


 (……いつの間に)  

 気づけばマーシャは、彼の金色の瞳を”少し見上げる”形になっていたのだ。  


 脱ぎ捨てられた兄の甲冑。

 その重荷から解放された彼の身体は、もはや華奢な少年ではなく、これからぐんぐんと天を突くように伸びていくであろう、若き王の骨格を確かに備え始めていた。


 「……そしてマーシャ。お前が私を王にするために、その背中にすべての罪を被るというのなら」


 ファリードは彼女に近づき、その傷をすべて知っているという想いを込めて、低く、力強く宣言する。


「私が、お前の業をすべて背負えるほどの強大な器になろう。……この狂った世界の仕組みごと、私が書き換えてみせる」


 ファリードは、足元に転がる兄の甲冑を一瞥し、そして前を見据えた。

 「私はもう、優秀な兄の代理ではない。……私は、私の意志で、大帝国の王になる」


 その揺るぎない宣言に、作戦室の空気がビリリと震えた。  

 マーシャは圧倒されながら、ふと視線をファリードの横に立つ二人の男――カディルとザイドへと向けた。

 「……御意に。このカディルの命、最後まで殿下の盾として捧げましょう」  

 深く頭を垂れた長身の剣士、カディル。  


 出会った頃の彼は、過去の亡霊に囚われ、常にピリピリと張り詰めた過保護な親鳥のようだった。

 だが今の彼は違う。

 ファリードの成長を認め、ザルカの女戦士レイラとの交流を経て憑き物が落ちたように、その立ち姿には静かな、将軍としての渋みと包容力が備わっている。


 「へへっ、どこまでもついていきやすぜ、俺たちの王様」  

 壁際で銀貨を弾いていたザイドが、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。  


 かつてはマーシャと大して変わらない、細いスラムのネズミだったはずの彼も、いつの間にか背が伸び、その肩や腕には戦場と裏社会を生き抜いたしなやかな筋肉がついていた。飄々とした態度は相変わらずだが、密偵たちを束ねる裏社会の元締めとしての、凄みと危険な大人の気迫を確かに纏い始めている。


 (……なんだ、こいつら)  


 マーシャはターバンの奥で、自身の身体をギュッと抱きしめるように腕を組んだ。  

 いつの間にか、自分以外の全員が頼もしい骨格と威圧感を身につけ、自分を見下ろすようになっている。  

 頼りなかった少年や、傷ついていた男たちが、こんなにも分厚く、頼もしい存在へと成長していることへの誇らしさ。


 だが同時に。  

 胸を分厚いサラシで締め上げ、小柄な少年の皮を被り続ける自分だけが、少しも成長できずに時間が止まっているような錯覚を覚えた。  


 ファリードたちの放つ圧倒的な男の熱と成長の前に、自分だけが異邦の迷子のままであるという微かな疎外感が、マーシャの胸の奥をチクリと刺す。


 (……本当に、デカくなりやがって)  

 マーシャは彼らに悟られぬよう、意図的に低くドスを効かせた声で、強がって鼻で笑った。  


「……頼もしいことだ。せいぜい、私が描く盤面の最高の駒として、最後まで立派に働いてもらうぞ」

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