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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
五章

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40/42

ハディードの宴

 ……太守の自爆と内乱により、堅牢を誇った軍事要塞都市『ハディード』は、ついにファリード陣営の手に落ちた。

 戦後処理は、ファリードの公約通りに迅速かつ正確に行われた。

 本丸の火災はタリクとハディードの兵士たちが協力して速やかに鎮火し、イブンが負傷者たちの手当てに走り回った。


 そしてカディルとレイラが中心となって指揮を執り、略奪を一切許さぬ厳格な軍律を敷きつつも、ザルカから持ち込んだ莫大な富によって、ハディードの傭兵たちへ未払いの給金が即座に支払われたのだ。

 昨日まで血を流し合っていた者たちの間にあった深い溝は、若き王の現実的な恩恵によって、急速に埋まっていった。


 そうして迎えた、宴の夜。

 外郭に広がる巨大な広場には無数の篝火が焚かれ、夜空を焦がすような熱狂的な祝宴が開かれていた。

 

 「へへっ、飲め飲めェ! 今日からあんたらもファリード殿下の正規軍だ! あのクソ太守のケチな給金より、ずっと割のいい仕事にしてやるぜ!」

 「おう! まさか俺たちが、大帝国の王子様に仕えることになるとはな!」


 広場の中心では、ザイドが太守の貯蔵庫から運び出された極上のワイン樽の上に立ち、ハディードの傭兵たちとすっかり肩を組んで意気投合していた。

 大鍋では羊の肉や豆が香草と共にグツグツと煮込まれ、香ばしい脂の匂いが空腹だった民や兵士たちの胃袋を満たしていく。


 「おらおら、次はサイコロ勝負だ! 俺に勝てたらこの金貨をくれてやるぜ!」


 ザイドがいかさまサイコロを転がして歓声を浴びている横で、イブンが怪しく濁った薬瓶を掲げて忍び寄る。


 「ヒッヒッヒ……宴の興を添えるために、私の特製”幻覚キノコ酒”を振る舞いましょうかな。一口飲めば、三日は天国を飛べますぞ」

 「ええい、貴様ッ! 兵士たちを狂乱させる気か! 殿下の御前であるぞ!」


 すかさずカディルが血相を変えて飛んできて、イブンの首根っこを引っ掴む。 いつもと全く変わらない、見飽きたようなやりとりに周囲がワッと沸く。

 だがそこへ、ザルカの親衛隊長レイラが艶やかな笑みを浮かべて横から滑り込んできた。


 「あら、堅物騎士さん。街の制圧も終わったんだから、たまには鎧を脱いで羽を伸ばしたら? ほら、飲んだ飲んだ!」

 「なッ、無理やり口に押し込むな女狐! 私は軍の規律を――むぐッ!?」


 むせ返って咳き込むカディルに、レイラは悪戯っぽくウィンクを投げた。


 「でも、助かったわ。城門の前……約束通り、アンタの背中は絶対に裏切らない、最高の盾だった」  

 

 その言葉に、カディルは顔の赤みを酒のせいにして誤魔化しながら、そっぽを向いてボソリと返す。


 「……貴様の舞うような剣撃も、盾を構える者としては、悪くない連携だった」

 

 不器用すぎるカディルなりの最大限の賞賛に、それでもレイラは嬉しそうに目を細め、さらに彼のグラスに強い酒を注ぎ込んだ。

 真っ赤になって、またさきほどの続きの説教をしようとしたカディルの口に、レイラが強い果実酒をさらに容赦なく流し込み、周囲の兵士たちが「やっちまえー!」とゲラゲラ笑い声を上げる。


 その騒がしくも温かい喧騒の中。

 ザイドが、太守の貯蔵庫で見つけた一際豪奢な装飾が施されたワインボトルと、幾つかの銀の杯を抱えて、ファリードの元へ滑り込んできた。


「へへっ、お待ちどうさま! 約束の品だぜ、殿下!」


 ザイドがなみなみと深紅のワインを注ぐと、むせ返っていたカディルや、無言のタリク、怪しく笑うイブンも、自然とファリードを囲むように集まってきた。


「あの日、荒野の焚き火の前で誓った約束……。太守の館の極上のワインで、俺たちの王様の十五歳を祝うって約束だ!」

 ザイドの言葉に、カディルが乱れた襟元を正し、誇らしげに深く頷く。


「ええ。殿下、十五歳のお誕生日、まことにおめでとうございます。我らが真の王に、この勝利の美酒を捧げましょう」


 将軍たちが一斉に杯を掲げる。少し離れた場所からマーシャも歩み寄り、ターバンの奥で柔らかく目を細めると、無言で自身の杯をファリードの銀杯へとコツンと合わせた。


「……ありがとう、皆」


 ファリードは、杯の中で揺れる極上のワインを見つめ、感慨深げに金色の瞳を潤ませた。

 かつては「まだ早い」と子ども扱いされ、果実水しか許されなかった自分が、今、この難攻不落の大都市を落とし、最高の仲間たちと共に美酒を手にしている。


「……少しは、背も伸びただろうか」


 照れくさそうに笑いながら、ファリードは初めてのワインを一口含んだ。

 芳醇な葡萄の香りと、喉の奥を焼く微かな熱。それは、彼が一つ大人の階段を上り、真の王へと近づいた確かな味だった。


「ギャハハ! まだまだ俺たちには追いつかねェけどな!」

「ヒッヒッヒ、背丈だけでなく、立派な王の風格も備わりましたぞ」


 大人たちの笑い声に包まれながら、ファリードはもう一度、弾けるような笑顔で杯を高く掲げた。 


 そこから少し離れたところで兵士や民の子供たちに笑顔で果実を配っている少女の姿があった。豪奢なドレスを脱ぎ捨て、街の娘たちが着る動きやすい平服に着替えたサフィヤだ。  

 ファリードたちとの乾杯を終えた巨漢のタリクは、静かな足取りで彼女の傍らへと戻ってきた。

 そして、無言で巨大な肉の塊を咀嚼しながら、子供たちと笑い合うサフィヤの姿を穏やかな瞳で見守っていた。


 サフィヤは、先ほどタリクの分厚い手から渡された干しイチジクを口にしながら、ふと彼が腰の袋に大切に結びつけている古い血染めの布切れに気がついた。  

 擦り切れて色褪せてはいるものの、そこにはハディードの都市を守護する『双頭の鷲と大盾』の紋章が微かに残っていた。かつての部隊旗の切れ端だ。  

 それを見た瞬間、サフィヤは、彼の持っているものと毎朝父の書庫で盗み読みしていた過去の記録を、瞬時に結びつけてしまった。


(あの紋章……間違いないわ。十年以上前、王都の貴族の謀略によって補給線を絶たれ、最前線で見殺しにされたという第三防衛線の部隊旗……!)  


 サフィヤの脳裏に、古い羊皮紙に記されていた凄惨な陣中報告書の文字が蘇る。


『矢は尽き、兵たちは自らの馬の血をすすり、泥水を噛んで飢えを凌いでおります。……ですが、我らハディードの盾は、誰一人として逃げ出す者はおりません』  


 最後まで都市を守るために戦い抜き、全滅したと記録されていた部隊。  

 サフィヤはハッとして、タリクの岩のような巨躯を見上げた。

 彼が常に”巨大な大盾”を構えて皆を守ろうとすること。

 そして、誰よりも仲間の飢えに敏感で、常に陣営の者に自分の食べ物を分け与えようとする、あの不器用な優しさの理由。  


 すべてが、一本の線に繋がった。


 ……目の前にいるこの優しき巨漢こそが、かつて父・ザヒールに見捨てられ、地獄のような飢餓を味わった部隊の、ただ一人の生き残りなのだ。


 「……あなたは、お父様を憎んでいないの?」

 震える声で、サフィヤはぽつりと問うた。  


 父の弱さが彼から奪った仲間の命の重さと、彼が味わった絶望の深さに耐えかね、サフィヤは痛切な罪悪感に沈んで深く俯いた。  

 自分は、彼からすべてを奪った憎き太守の娘なのだ。恨まれて当然だと思った。  

 だが、その彼女の頭に。  不意に、大きくて分厚く、温かい手がポンと優しく置かれた。


 ハッとして顔を上げると、タリクの穏やかな瞳と視線が交差した。  

 タリクの脳裏に、数時間前の崩落する本丸の地下での記憶が静かに蘇る。  


 瓦礫と泥の中に転がっていた、かつての仇であるザヒールの無惨な首。積年の恨みを晴らすどころか、大帝国の呪いに壊されたその男の最期に無言の哀悼を捧げ、己のマントを被せて隠してやったこと。  

 そして、その首のすぐ後ろで、親の因果など何も知らずに炎と恐怖に震え上がっていたサフィヤの細い身体を、己の巨大な大盾で庇い、抱き上げた時の確かな命の重み。


(親の罪は、子には背負わせない。……今度こそ、守り抜く)


 あの炎の中で誓った新たなる盾の決意は、微塵も揺らいではいない。  

 タリクは無言のまま、過去の亡霊を完全に断ち切った静かで力強い眼差しで、ゆっくりと首を横に振った。  

 そして彼は、自身の持っていた果実を半分に割り、サフィヤと、彼女の足元に抱きついているあの黒岩族の小さな少女の両手へ、そっと握らせたのだ。


 『もう、誰も飢えさせない。そして、お前は父親の罪を被る必要はない』

 

 過去の憎しみの連鎖を断ち切り、血の繋がりを超えて自分を「新しい家族」として受け入れてくれたその限りない優しさに、サフィヤは胸が熱くなり、涙をこらえて力強く頷いた。  

 言葉を持たない巨漢からの、不器用すぎる許しと肯定。

 今、彼女がこうして心の底から笑って子供たちに果実を配れるのは、彼がくれた温かい許しがあったからだった。


 「サフィヤ。怪我の具合はどうだ?」


 そこへファリードが静かに歩み寄り、声をかけてきた。


 「ファリード様! ええ、イブン様の薬草のおかげで痛みはすっかり引きました。……それより、見てください」

 サフィヤは、果実を受け取って笑う子供たちを見つめながら、弾けるような笑顔を向けた。


 「私、今までずっと高い塔の部屋から見下ろしているだけでした。でも今、こうして自分の手で皆さんの役に立てている気がするんです。……自分の足で歩くって、こんなにも嬉しいことなんですね」

 彼女の紫水晶の瞳には、鳥籠にいた頃の死んだような生気のなさはもう一欠片もない。


 ファリードは、彼女がただ保護されるだけの姫君ではなく、共に大帝国を変える対等な仲間として、この陣営に確かな居場所を見つけたことを悟り、優しく微笑み返した。


 「君の勇気が、この都市を救ったんだ。これからも頼りにしているよ、サフィヤ」

 「はいっ!」


 広間の喧騒から少し離れた、積み上げられた荷箱の上。

 マーシャは男物の外套を着崩し、薄い果実酒の杯を傾けながら、その光景を静かに見下ろしていた。

 赤蠍の砦で肩を寄せ合っていた泥舟の乗組員たちは、今や難攻不落の大都市を飲み込み、さらに大きく、騒がしい家族へと成長している。


 「……やれやれ。大所帯になったものだ」

 マーシャのターバンの奥で呟かれた声は、呆れているようでいて、どこかひどく温かい響きを帯びていた。

 やがて、酒と血の匂いが混ざる熱気に少し酔いを感じたのか。

 マーシャは空になった杯を置き、一人静かな場所を求めて、太守の館の裏手へと音もなく歩み去っていった。


 ――そして。  

 兵士たちの熱狂的な祝宴が落ち着き、深い夜の帳が巨大な都市を包み込んだ深夜。

 大広間と中庭を埋め尽くしていた喧騒も、今は心地よい微睡みの空気へと変わりつつあった。  

 ファリードは、宴の輪を一つひとつ丁寧に回り、死線を共に越えた仲間たちと労いの言葉を交わし終えたところだった。


「へへっ、殿下! これで堂々と酒飲みの仲間入りだな! ほら、もっといけるだろ!」

 

 ザイドが嬉しそうに肩を叩き、イブンが「ヒッヒッヒ、祝いの追加に私の特製酒はいかがですかな」と怪しい瓶を勧めてくるのを、タリクが無言で巨大な手でブロックする。  


 サフィヤとは温かい主従の言葉を交わし、レイラに絡まれ、酔って真っ赤になっているカディルからは、「殿下! 十五の御生誕、ならびに御飲酒の解禁、このカディル、何度祝っても感無量にございますゥッ!」と、またしても大音声と涙の暑苦しい祝福を受けた。ちなみに、この夜でもう三回も聞いた言葉である。


 大帝国シャジャルの厳格な法において、真の成人として国を背負うのは十八の年だが、神と人々の前で正式に酒を酌み交わすことが許されるのは、十五の年を迎えてからである。  

 ハディード陥落まで固く誓って我慢していた酒を、今夜ついに解禁したファリードだったが……仲間たちから次々と注がれる祝いの酒を口にするうちに、早くも彼の白い頬は朱に染まり、視界が微かに熱く揺らぎ始めていた。  

 無理して背伸びをしているものの、彼は決して酒に強い体質ではなかったのだ。


(……いけないな、少し酔いが回ってきたか)

 

 賑やかな喧騒の中で、ファリードの金色の瞳は、広間のどこを探しても見当たらない一人の姿をずっと追い求めていた。  

 視線の先にあるのは、主のいない空席と、手つかずのまま置かれた薄い果実酒の杯。

 思えば、彼と共に歩んできたこの数年間は、決して綺麗事だけで済むものではなかった。  


 大河の廃砦。己の采配で味方を死なせた絶望から毒杯を煽ろうとしたあの夜。彼は扉を蹴り破って現れるなり、私の手から強引に杯をひったくり、『死なせない。生き残って、勝つよ』と怒鳴りつけて、私を生きるための地獄へと引きずり戻した。

 彼は私を王として扱うどころか、事あるごとに『ヒヨッコ』『馬鹿殿下』と呼び、容赦なくファリードを叱り飛ばした。  

 行軍中に足の痛みを隠して強がれば、『見栄を張る暇があるなら自分の身体の管理くらいまともにやれ』と水袋を投げつけられ。慣れない軍馬から泥の中へ振り落とされれば、『馬に舐められているうちは玉座は遠いぞ』と鼻で笑われた。


 だが、その口の悪さと冷徹な仮面の奥には、誰よりも不器用で、深い優しさが隠されていたことを、ファリードは知っている。


 初めて己の策で人を死なせ、その業の重さに震えていた夜。彼はそっと私の手に自らの小さな手を重ね、『その震えと罪悪感を忘れない限り、痛みの分かる立派な王様になれる』と、暗闇にいた私を光の差す方へと導き、救い上げてくれた。  

 そして常に、『お前は一番安全な本陣の奥にいろ』『私が悪魔としてすべての業を被ってやる』と、私を無傷で玉座に座らせるためだけに、自ら犠牲を被り、あらゆる罵倒や汚点を一人で背負おうとしていた。


 怯えて泣くしかできなかった私に王としての背骨を与え、時に叱り、時に慰め、時にこの勝利へと導いてくれた。

 その彼にこの節目に改めてお礼を言いたいのに、先ほど皆で杯を合わせたあと、すぐにスッと姿を消してしまっていたのだ。


(……彼のことだ。また一人で人混みを避けているのだろう)

 

 ファリードは酔い覚ましを口実に席を立つと、太守の貯蔵庫から見つけ出した極上の赤ワインを、手に持った二つの銀の杯に並々と注ぎ込んだ。  芳醇な葡萄の香りが、夜の冷気の中で甘く漂う。


(皆との祝杯も嬉しかったが……この大都市を手に入れた美酒は、やっぱり改めてお前と二人でゆっくりと酌み交わしたかったんだ)


 喧騒を背に、ファリードは音もなく太守の館の裏手――澄んだ湧水池のある庭園へと一人で足を踏み入れた。

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