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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
五章

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39/42

魂の叫び合い

 ――ズドォォォォォォンッ!!

 

 ファリードの長剣とマーシャの双短剣が、最後の一人の暗殺者を血祭りに上げた、その瞬間だった。  

 太守の投げ込んだ松明による大爆発から数分。ついに本丸の地下火薬庫を支えていた太い石柱が、紅蓮の業火に耐えきれずにひび割れ、耳をつんざくような爆音と共に致命的な崩落を始めた。  


 天井からは巨大な瓦礫が雨霰あめあられのごとく降り注ぎ、視界は濃密な黒煙と舞い上がる火の粉によって完全に遮断される。


 息を吸い込めば肺が焼け爛れそうになるほどの熱波が、彼らを逃げ場のない燃え盛る炎の中へと完全に閉じ込めようとしていた。


(……ここまでかッ!)  

 ファリードがサフィヤを庇うようにして身構えた、その時。


「殿下ァァァッ!!」


 地獄の釜の底のような炎の轟音を切り裂いて、血を吐くような叫び声が響いた。  

 直後、ドガァァァンッ!! という凄まじい衝撃音と共に、火薬庫の分厚い石壁が外側から物理的に粉砕された。  


 もうもうと舞い上がる粉塵と煙の向こうから現れたのは、巨大な鉄盾を構えた巨漢のタリクと、血相を変えたカディルだった。

 彼らは主君を救出するため、炎に包まれた本丸の壁を外から強引にぶち破り、血路を切り開いて飛び込んできたのだ。


「ここだカディル! 彼女を頼む!」


 ファリードは崩れ落ちる天井の破片を長剣で弾き飛ばしながら、自身の背後で震えていたサフィヤを、駆けつけてきたカディルの腕へと力強く託した。  

 続いて自身も脱出しようと振り返った、その瞬間。視界の端で、極限まで身体を酷使し、暗殺者たちを屠ったばかりのマーシャが濃密な煙に巻かれ、微かに体勢を崩して膝をつくのが見えた。  

 彼の頭上から、業火に焼かれて限界を迎えた巨大な大理石の柱が、悲鳴のような轟音と共に崩れ落ちてくる。


「マーシャッ!」


 ファリードは一切の躊躇なく、安全な出口とは逆――燃え盛る炎の奥底へと再び深く踏み込んだ。  

 そして、彼の小柄な身体を自身の腕の中へ強引に引き寄せると、頭上に迫り来る数トンもの瓦礫の雨を、渾身の力を込めた白銀の長剣の一撃で力任せに薙ぎ払ったのだ。


「馬鹿っ、私に構うな! 早く飛べ!」

「君を置いていくわけがないだろうッ!!」


 ガガァンッ!と重い石の砕ける音が響く中、ファリードはマーシャをガッチリと抱きかかえ、タリクがこじ開けておいた石壁の風穴を目指して、決死の跳躍を敢行した。  

 直後。彼らのすぐ背後で、今まで立っていた地下火薬庫が、凄まじい爆音と紅蓮の炎と共に完全に崩落し、圧潰する。  

 その猛烈な爆風と熱波に背中を激しく押されるようにして、ファリードとマーシャは、間一髪のところで炎の鳥籠から外へと転がり出た。


 ――本丸の外。第一城壁の広場。  

 肌を焼くような灼熱の地獄から一転、そこには暴動の熱を帯びながらも、ハディードの夜の冷たく新鮮な風が吹き抜けていた。  

 頭上には、赤く燃え盛る城壁の炎越しに、冷ややかな星空が広がっている。  

 ファリードは泥と敵の血、そして真っ黒な煤にまみれた身体を二つに折り曲げ、むせ返るような煙から解放された肺へ夜の空気を限界まで吸い込み、激しく咳き込んだ。


(……助かった。誰も、死なせずに済んだ)  


 鼻を突く血と焦げた肉の匂いが、夜風に流されていく。

 ファリードは背後の冷たい石壁にずるりと寄りかかり、肺の奥に溜まっていた煤混じりの息を、長く、ゆっくりと夜気へ吐き出した。

 

 大きく息を吸い込もうとした、その時だった。


 ――ガァンッ!!

「っ……!?」  


 背中の石壁に激しい衝撃が走り、ファリードの肺から空気が弾き出された。

 土埃を巻き上げて突っ込んできた小柄な影が、ファリードの軍服の胸ぐらを両手でわし掴みにし、力任せに壁へと叩きつけたのだ。


「ふざけるなッ! 私の盤面を無視して、他人のために命を投げ出すなと言っただろうが……ッ!!」


 夜の闇を劈いたのは、無残にひび割れ、上擦った絶叫だった。

 ファリードは目を瞠る。

 眼前に迫るマーシャの口元から、ヒュッ、ヒュッ、と浅く短い呼吸が漏れ続けている。喉が引き攣り、過呼吸のように激しく上下する肩。ダボついた男物の外套が、今の彼の身体にはひどく大きくて、不釣り合いに見えた。


 ファリードの胸ぐらを握りしめる彼の十指は、骨の関節が白く抜け落ちるほどに食い込んでいる。にもかかわらず、その腕全体が、カタカタと音を立てんばかりに小刻みに痙攣していた。

 ターバンの奥の黒曜石の瞳は、限界まで見開かれている。 

 その瞳孔はファリードの顔の輪郭をなぞるようにせわしなく動き、背後で燃える炎の赤い光を反射しながら、水面のようにぐらぐらと揺れ続けていた。

 下唇を、血が滲むほどに強く噛んでいる。


「……また私の計算違いで……お前まで死んだら、私は……ッ!」


 掠れた声が、途切れた。

 ファリードは、己の胸元から伝わってくる彼の手のひらの温度を感じていた。炎の熱気のただ中にいるというのに、その指先は氷のように冷たい。

 普段の彼は、どれほど凄惨な死地にあっても、ターバンの奥で感情の読めない薄笑いや、敵を嘲る獰猛な笑みしか浮かべたことがなかった。  常に一歩引いた安全圏から、他人の命を数字として冷徹に切り捨てる『悪魔』。


 だが、ファリードは薄々気づいていた。  

 その冷酷な仮面が、味方の血を流さないためにすべての業を一人で背負おうとする、ひどく不器用で痛ましい強がりであることを。  

 今、自分の胸ぐらを乱暴に掴み、大切な相棒を失う恐怖に顔を歪めて怒鳴り散らしている、このなりふり構わない姿。計算も建前もすべて放り投げて必死にすがりついてくるこの感情を爆発させた姿こそが。分厚い氷の下でずっと息を潜めていた、本来の彼の素顔なのだ。


(……ようやく、お前の本当の芯に触れられた気がする)


 痛いほどに壁に押し付けられているというのに、ファリードの首筋の力は、ふっと抜けていた。

 彼はゆっくりと両腕を上げる。

 剣の素振りで手のひらが分厚くなり、骨格もようやく成長し始めた自身の大きな手を広げ、自身の胸ぐらを握り込んで離さないマーシャの両手を、上からガシッと力強く包み込んだ。


 ガクガクと震える彼の小さな拳をすっぽりと覆い隠し、己の規則正しく、力強い心音を直接叩き込むように、ぎゅっと強く押さえ込む。


「……すまない」


 ファリードは血と煤で汚れた顔を歪め、ふにゃりと、年相応の無防備な顔で笑った。


「だが、少しも怖くなかった」


 重ねた両手に自身の体温を移すように、いっそう強くその拳を握り込む。


「お前が必ず、助けに来てくれると分かっていたからだ」


 ピタリ、と。

 胸ぐらを掴んでいたマーシャの指先から、不意に強張りが消えた。

 限界まで見開かれていた黒曜石の瞳が微かに揺らぎ、張り詰めていた肩が、糸を切られたようにスッと落ちる。

 ファリードの熱を帯びた手の下で、彼の手のひらがゆっくりと開かれ、掴まれていた軍服のシワがほどけていく。


 「…………馬鹿野郎」


 不意に、ぽつりとこぼれたその声は、ひどく湿っていた。

 マーシャは力なく壁に手をつき、ターバンの庇で目元を深く隠すようにうつむくと、震える唇から、長く、深い呼気を、夜の闇へと溶かしていった。


「軍師殿、なんという無礼なッ!!」


 少し離れた場所で周囲の警戒に当たっていたカディルの顔が、怒りに引き攣った。

 主君の胸ぐらを掴み上げるという凶行。カディルは血相を変え、長剣の柄に手をかけて止めに入ろうとする。

 だが、抜刀しかけたその腕を、巨漢のタリクが無言で押さえ込んだ。

 丸太のような太い腕でカディルの肩をガシッと掴み、タリクは静かに首を横に振る。

 炎と夜風が渦巻く中、互いの熱をぶつけ合う二人のわずかな空間だけが、今は誰にも踏み込めない絶対的な結界に守られているようだった。


 その場にへたり込んだまま、大盾の背後からその静寂を見つめていたサフィヤは、己の胸にそっと手を当てた。

 煤と汗で汚れたドレスの下で、心臓が痛いほどに早鐘を打っている。

 絶対的な権力を持つ実の父に、ただの道具として見捨てられ、燃え盛る炎の底へ突き落とされた冷たい絶望。それを打ち砕いたのは、己の身を盾にして泥まみれで炎へ飛び込んできた、彼の手の凄まじい熱だった。


『君は権力の道具じゃない! 自分の意志で空を飛べる、一人の人間だ!!』


 耳の奥で反響する、魂を揺さぶるような咆哮。

 炎に照らされた彼の横顔は、王宮の物語に出てくるような優雅な白馬の王子様などではない。血と泥に塗れた、ただの荒々しい覇王だ。

 だが、暗闇の鳥籠の中で息絶えようとしていた彼女の心を強引にこじ開け、外の世界へ引きずり出してくれた彼こそが、サフィヤにとって生涯忘れることのない唯一の光――運命の英雄となったのだ。


 熱病に浮かされたような紫水晶の瞳で、サフィヤはファリードの姿を食い入るように見つめていた。

 しかし、その瞳は同時に、決定的な”違い”をも残酷に映し出してしまう。

 自分を救い出した時に彼が見せた、王としての真っ直ぐな”慈愛の光”。それに対し、今、胸ぐらを掴み合う小柄な軍師へ向けているのは――泥の底で互いの血肉を分け合うような、理屈も建前も剥き出しにした”熱”だった。


(……私には、あのお二人が共有している地獄の底へは、決して立ち入れない)


 サフィヤの胸の奥で芽生えたばかりの淡い初恋が、音を立てて灰に変わる。

 それは圧倒的な敗北感だった。身分や性別などという薄っぺらい壁ではない。互いの命を天秤に乗せ、同じ死線を越えてきた者同士にしか共有できない、血の滲むような魂の共鳴。

 綺麗なドレスを着て鳥籠の中で生きてきた自分には、彼が背負う本当の痛みや業に触れる資格など、最初からなかったのだと直感で悟らされたのである。


 サフィヤはゆっくりと伏目になり、煤で真っ黒に汚れた己の手のひらを見つめた。

 そして、小さく震えるその手で、ボロボロになったドレスの裾を、指が白くなるほどに強く握りしめる。


(……なら、私は。私のやり方で、私の戦い方で、あの美しい絆を支えてみせる)


 顔を上げたサフィヤの紫水晶の瞳からは、もう甘い未練の熱は消え去っていた。

 燃え盛る炎を背に立つ彼らを、ただ庇護されるだけの令嬢として見上げるのではない。彼らの背負う大帝国を、己の知性で根底から支え抜く一人の人間として共に生きる。

 煤に塗れた少女の心に、静かで、決して消えることのない覚悟の火が灯った瞬間だった。


 その、奇妙で温かい静寂を破るように。

「……殿下、軍師殿! ご無事ですか!!」  

 本丸の門を破壊し、広場を制圧したザイドたちが、新たな松明を掲げて駆け寄ってきた。  


 カディルもハッと我に返り、「火の手から逃れようと這い出してきた、暗殺部隊”黒百合”の生き残りです。自害しようとしたところを、タリクが気絶させて捕らえました」と、泥と血にまみれ拘束された男を引き立てた。  

 ファリードはマーシャから離れ、顔を引き締めると暗殺者の前へと歩み寄った。


 暗殺者の懐からは、太守から奪っていたマレクへの裏帳簿が転がり落ちていた。

 ファリードはそれを拾い上げると、パラパラと中身を一瞥し、そして自身の腰の長剣を抜いた。自身の怪我から流れた血糊を、剣の切っ先から裏帳簿の空白のページへと無造作に擦り付ける。


「な、何を……」

 意識を取り戻し、呻く暗殺者を見下ろし、ファリードは氷のような声で告げた。

「貴様は生かして帰す。……この血に染まった裏帳簿の切れ端を、王都で震えているマレクへ届けろ」


「殿下ッ!?」

 カディルが血相を変えた。

「なりませぬ! 殿下の生存がマレクに知れれば、奴は即座に大軍を差し向けてきます! 我々が力を蓄えるための猶予が――」

「問題ない」

 ファリードはカディルを手で制し、暗殺者に向かって、大気を震わせるような圧倒的な覇気を放った。


「マレクに伝えろ。難攻不落のハディードは、このファリードが落とした。そして、貴様が横領し、太守を脅迫していたすべての裏帳簿は、私が握ったとな」


 暗殺者の感情の抜け落ちた瞳に、初めて明らかな恐怖と焦燥の色が浮かんだ。


「……っ!?」

「もし私を討つために大軍を動かせば、その瞬間にこの裏帳簿の写しを、大帝国全土の貴族たちへばら撒く。簒奪者であるマレクが、どれほど私腹を肥やし、貴族たちを裏切っていたか……帝国中が知ることになるだろう。そうなれば、反乱が起きるのは辺境ではなく、王都のど真ん中だ」


 単なる武力の誇示ではなく、大帝国の政治の急所を完全に把握し、相手の首根っこに刃を突きつける脅迫。


「私が力を蓄え、大帝国をひっくり返す軍を興すまでの数年間。せいぜい玉座の上で疑心暗鬼に怯えながら、動かぬ軍を抱えて震えて待つがいい」


 ファリードは血塗られた手帳の切れ端を、暗殺者の足元へ投げ捨てた。


「大帝国第二王子ファリード・アル・シャジャルの名において……次はお前の首を獲る。行け」


 その死の宣告に。

 暗殺者はガタガタと震えながら血の切れ端を掴み、夜の闇へと逃げるように走り去っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、マーシャは男物の外套の中で、小さく、だが心の底からの感嘆の息を吐き出した。


(……正体を隠すという私の定石を捨て、あえて生存を明かすことで、敵の政治的弱点を盾にして膠着状態を強制したか。……とんでもない政治の駆け引きを仕掛けやがる)


 軍師の計算すら飛び越え、自らの決断で時間を買い取った若き王。もはや彼は、守られるだけのヒヨッコではない。

 マーシャはターバンの奥で、頼もしく成長した少年の背中を、誇らしげな、そして眩しそうな瞳で見つめていた。


 だが、彼らが浸れる感傷の時間はそこまでだった。


「……殿下、軍師殿! 前方を!」

 周囲の警戒に当たっていたカディルが、鋭い声を上げる。


 崩落して炎上する第一城壁、本丸の正門前。

 そこには、太守への怒りで完全に暴徒と化していた外郭の傭兵や中層の商人たちの軍勢が、黒山の人だかりとなって押し寄せてきていた。


 彼らは太守の死を知らず、血走った目で松明と武器を掲げ、怒号を上げている。このままでは統率を失った数万の暴徒が、都市のすべてを略奪し、破壊し尽くしてしまうだろう。


「……行くぞ」


 ファリードはカディルの制止を手で遮り、まだ熱を持ち煙を上げる城門の瓦礫の最も高い場所へと、単身で歩み出た。

 夜明け前の暗闇の中、血と泥に塗れた白銀の甲冑が、炎に照らされて神々しい光を放つ。その圧倒的な存在感に、押し寄せていた暴徒たちの最前列がどよめき、少しずつ怒号が止んでいく。


「ハディードの民よ、そして剣に生きる者たちよ! 剣を収めよ!!」


 ファリードの凜とした、大気を震わせるような威厳を帯びた声が、巨大な要塞都市の隅々にまで響き渡った。


「私腹を肥やし、貴様らを使い捨てにした太守は死んだ! 圧政は、今この瞬間をもって完全に終わったのだ!!」


その宣言に、数万の群衆が激しくどよめいた。

「た、太守が死んだ……?」


 だが、戸惑いと同時に「ふざけるな! じゃあ俺たちの未払いの給金はどうなるんだ! 誰が責任を取る!」と、再び暴発しかける怒りが渦巻く。

 再び怒りが再燃しようとした群衆に対し、ファリードは胸を張り、最も誇り高く堂々とした声で自らの名を名乗った。


「私の名はファリード! 大帝国シャジャルの正当なる王位継承者、第二王子である!!」


 王子の名が響き渡った瞬間、暴動の熱気は冷水を浴びせられたように完全に凍りついた。死んだはずの大帝国の王族が、なぜこの辺境の地にいるのか。群衆の間に深い疑念が走る。


 その、一触即発の沈黙を破ったのは。


「この方は、本物の王子様です!!」


 戸惑う群衆の前に、ファリードの隣に一人の少女が進み出た。

 太守の娘、サフィヤだった。彼女の豪奢なドレスは汚れ、髪も乱れている。だが、父親の恐怖支配に怯えていたかつての彼女はもうどこにもいなかった。

 それでも彼女は決して目を伏せることなく、眼下の群衆を真っ直ぐに見下ろして高らかに叫んだ。


「私の父の圧政を終わらせ、私を権力の鳥籠から救い出してくれた……この方こそ、この都市を、そして大帝国を正す真の王です! 父の罪は、娘である私が償います! だからどうか皆様、剣を収めてください!」

 それは、ただ保護されるだけの無力な姫君からの、完全な脱却を意味した。


『自分の意志で空を飛べ』


 ファリードから与えられたその言葉が、彼女の魂を真に解放し、自らの足で立つ一人の人間へと生まれ変わらせたのだ。

 太守の実の娘自らが反旗を翻し、過去の因習を断ち切り、新たな王の正統性を証明した決死の宣言は、疑心暗鬼に狂っていた都市の民の心を強く打った。

 その事実に、傭兵や商人たちの武器を持つ手が迷い、ゆっくりと下がっていく。


 ファリードは、サフィヤの勇気ある行動に応えるように、迷える彼らに向かって力強く手を差し伸べた。

 王宮の温室で育った綺麗な王子としての言葉ではなく、自ら泥水を啜り、血みどろの死線を潜り抜けてきた、一人の傷だらけの若き王としての熱を込めた絶叫だった。


「太守への反乱の罪は、私がすべて赦す! 私の軍門に降るならば、未払いの給金はすべてザルカの富で即座に支払い、大帝国を正すための我が正規軍として、お前たちに名誉と誇りを約束しよう!!」  


 ファリードは血と煤に汚れた白銀の甲冑の胸を、ドンッと力強く叩いた。


「私はもう、誰も使い捨ての駒にはしない! 共に戦い、共にこの腐った帝国をぶっ壊す、対等な『家族』として私についてこい!!」


 太守の娘の保証、ザルカの莫大な富という現実的な利益と、辺境の傭兵から大帝国の正規軍に返り咲けるという確かな名誉。  

 そして何より、傷つき泥に塗れながらも、炎を背負って圧倒的なカリスマを放つファリードの姿は、疑心暗鬼と絶望に狂っていた都市の民の心を、完全に、そして魂の底から支配した。


「……おおおおおっ!!」

「真の王に、忠誠を!」

「ファリード殿下、万歳!!」


 カラン、カランと、誰かが落とした剣の音が響き。  

 やがてそれは波紋のように広がり、無数の武器が地に置かれる音が連鎖していく。そして、数万の民と兵士たちが一斉に大理石の広場に膝をつき、若き王にひれ伏す地鳴りのような歓声へと変わった。  

 難攻不落の大都市ハディードが、名実ともにファリードの前に陥落した瞬間だった。


 少し離れた瓦礫の影。  

 その神々しいまでの光景を見上げていたマーシャは、男物の外套の中で、深く、ひどく熱い息を吐き出した。

(……見事なものだな)

 ターバンの奥の黒曜石の瞳が、月明かりの下で微かに潤みを帯びる。  


 彼女の脳裏にフラッシュバックするのは、あの大河の砦での記憶だ。  

 兄の遺したサイズの合わない重すぎる甲冑に潰されそうになりながら、自身の無力さに絶望し、ガタガタと震えながら毒杯を仰ごうとしていた、あの温室育ちのひ弱な少年の姿。


(あの、私たちの背中に隠れて怯えていたヒヨッコが。……ほんの一年やそこらで今や数万の暴徒を、己の言葉と大義だけで平伏させる、本物の王になりやがった)


 そのあまりにも眩しく、残酷な世界を生き抜くために彼が身につけた強大な姿に、マーシャは誇らしさと、ほんの少しの寂しさが入り混じったような、複雑で優しい笑みをこぼした。  

 そして、ファリードの横では、自らの意志で立ち上がり、彼の覇道を支えると決意した太守の娘サフィヤが、泥だらけの顔で誇らしげに並び立っている。


(それに、自分の意志で立ち上がった太守の娘……この巨大な都市を内側から治めるのに、これ以上ない最高で有能な協力者を手に入れたな)


 自らの手で国を治める王の器が完全に完成した瞬間。  マーシャは、頼もしく成長した少年の背中と、その隣に並び立つ少女の姿を、いつまでも眩しそうに見つめていた――。

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