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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
五章

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38/42

紅蓮の戦い

 二人は音を立てずにサフィヤの部屋を抜け出し、最上階の奥区画――太守の執務室へと続く大理石の廊下へと足を踏み出した。  

 外郭からの暴動の喧騒は分厚い城壁に阻まれ、ひどく遠い波音のようにしか聞こえない。だが、今の本丸を支配していたのは、暴動の熱気よりもさらに恐ろしい、氷のように冷たく不気味な静寂だった。


(……この異常な気配。やはり、すでにあの『化け物たち』が入り込んでいる)  


 ファリードは全神経を研ぎ澄まし、油断なく周囲の暗がりを睨みつけた。  先ほどサフィヤの部屋へ向かう途中で遭遇した、足音を完全に消した不気味な衛兵。血の匂いを纏った、マレク直属の暗殺部隊『黒百合』の気配だ。  一歩でも足音を鳴らせば、あるいは気配を悟られれば、闇の中から無慈悲な刃が飛んでくる。


 ファリードは泥に汚れた給仕の服のまま、かつてマーシャが荒野で見せていた『暗殺者の歩法』とザイドのスラムの技術を頭に思い起こしながら、自身の呼吸と足音を夜の闇へと完全に溶け込ませた。  

 そして、サフィヤの白い手をしっかりと引きながら、松明の光が届かない死角から死角へと、流れるように滑り込んでいく。  

 その淀みなく洗練された動きは、血みどろの荒野を生き抜き、悪魔の軍師と共に死線を越えてきた〈覇王〉としての、確かな強さと頼もしさだった。


(ファリード様……)  


 サフィヤは、自身の手を引くその分厚く温かい手のひらの感触に、鼓動が早まるのを感じていた。  

 恐怖で足がすくみそうになる彼女を、絶対に転ばせないように、そして何があっても護り抜くという強い意志で導いてくれる大きな背中。鳥籠の中で完全に絶望していた彼女にとって、それはまさに暗闇に差し込んだ一筋の鮮烈な光だった。


 やがて、二人は太守の執務室へと続く廊下の最終コーナーへと辿り着いた。  

 そっと壁越しに覗き込むと、黄金の細工が施された分厚い鋼の扉の前に、大帝国直属の屈強な近衛兵が二名、長槍を交差させて立ち塞がっている。


「……待っていてくれ」  


 ファリードはサフィヤを柱の影に留まらせると、音もなく長剣の柄に手をかけた。  

 血の匂いをさせれば、徘徊する黒百合に居場所を悟られるため抜刀はしない。   


 カディルからの厳格な正統剣術、バアトルから叩き込まれた荒々しい馬術、マーシャの無駄のない暗殺術、そしてザイドの他者の心理と死角を突く密偵の技術。  

 過酷な逃走劇の最中も、蒼き狼を平定し陣営が安定してからの半年間も。彼は一日たりとも欠かさず夜の素振りを続け、血反吐を吐くような特訓を、弱音ひとつ吐かずにただ淡々とこなし続けてきたのだ。  

 王宮の温室で本ばかり読んでいたひ弱な少年は、己の身を泥に沈め、執念と根性だけでそれらすべての技術を己の血肉へと変えていた。


 ファリードは呼吸を極限まで浅くし、近衛兵たちの視線が反対側を向いたほんの一瞬の隙を突いた。


 ――ヒュンッ。  

 まるで風が吹き抜けたかのような、一切の無駄がない神速の踏み込み。  

 気づかれた時には、ファリードはすでに二人の近衛兵の真後ろ――死角へと潜り込んでいた。彼は鞘に収まったままの長剣の柄尻を使い、左右の衛兵の延髄を正確無比に打ち据えた。


「がッ……」  


 悲鳴を上げる間も与えない、無音の制圧。  意識を刈り取られ、崩れ落ちそうになる二人の巨体を、ファリードは床に音を立てさせないように自身の身体を使って静かに寝かせた。


(……すごい。あんなに屈強な兵士たちを、一瞬で……)  


 息を呑むサフィヤへ、ファリードは「大丈夫だ」と頷き、執務室の重い鋼の扉をゆっくりと押し開けた。

 部屋に入ると、外の飢えと死の気配をまるで感じさせない、最高級の香料の甘い匂いと、細かく意匠を施された装飾が二人を包み込んだ。  

 サフィヤは迷うことなく、部屋の最奥に掛けられた希少な白虎の毛皮へと駆け寄る。  

 その毛皮を退けると、重厚な石壁の裏に、冷たい鉄で造られた隠し扉が姿を現した。


「ここよ。このカラクリの歯車を……」


 突然サフィヤが震える手で、本丸の分厚い城門へと続く抜け道の内鍵へ手を伸ばそうとした、まさにその時だった。


「――サフィヤ!!! やはり、貴様もザルカの金で買収されたスパイだったかァッ!!」


 大理石の部屋の扉が乱暴に蹴り破られ、血走った眼をした太守が、数人の近衛兵と共に雪崩れ込んできた。 猜疑心に完全に狂わされた彼の目には、給仕の姿をしたファリードと娘の密会は、恐ろしい裏切りの現場にしか見えなかったのだ。


「ち、父様! 違います、私はただ――ッ!」

「黙れ! 外様のゴミ共め、私の城を、財産を奪おうというのか!」


 太守は狂乱したまま、実の娘であるサフィヤの細い腕を乱暴に掴み上げると、部屋の奥にある冷たい鉄の扉――本丸の地下深くへと続く『火薬庫』の中へと、彼女を情け容赦なく突き落とした。


「サフィヤ!」


 ファリードが咄嗟に飛び込み、彼女の身体を抱きとめる。二人は暗く冷たい石段を転がり落ち、火薬庫の冷たい床へと叩きつけられた。


 だが、地獄はそれだけでは終わらなかった。

 ファリードが顔を上げた瞬間、上の部屋の空気は一変していた。


「……な、何者だッ!? ぎゃあっ!」

「ひぃッ、姿が見えな――」


 聞こえてきたのは、激しい剣戟の音ではない。大帝国でも屈指の精鋭であるはずの太守の近衛兵たちが、 

 金属を打ち合わせる暇すら与えられず、くぐもった短い悲鳴と共に次々と崩れ落ちていく音だった。

 肉を断ち、血が噴き出す不気味なほど湿った音だけが、石室に連続して響き渡る。


(なんだ、この異常な気配は……!)


 ファリードは石段の下で息を呑んだ。音がないのだ。足音も、衣擦れの音すらも一切立てず、ただ確実な死の気配だけが上の部屋を蹂躙し尽くしている。


「……な、何者だ貴様らッ!?」

 石段の上から、太守の絶叫が響いた。ファリードが見上げると、そこには音もなく這い寄る、漆黒の装束を纏った者たちの姿があった。


(あの装束と無駄のない動き……大帝国の暗殺部隊『黒百合』か!)


 叔父マレクが、以前から太守の横領を疑って極秘に派遣していた帝国直属の暗殺部隊。彼らは外の傭兵の反乱という絶好の隠れ蓑に乗じて、証拠隠滅のために太守を暗殺しに侵入してきたのだ。


「ヒッ……! くるな、くるなァッ!!」


 黒百合に追い詰められ、完全に狂気に呑まれた太守ザヒールは、火薬庫の入り口で松明を振りかざして絶望の哄笑を上げた。


「誰にも、何も渡さんッ! 裏帳簿も、この城も……全部私のものだァァァッ!!」


 彼が狂乱のまま、松明の火を火薬庫の導火線へと投げ込もうと腕を振り上げた、その刹那。


 彼の血走った視界の端に、冷たい石段の下で、娘のサフィヤをその背に庇い、たった一人で暗殺部隊に向けて長剣を構える給仕姿の少年――ファリードの姿が映った。

 みすぼらしい服は泥と血に塗れ、その身体は恐怖と疲労で震えている。だが、少年の金色の瞳には、背後の弱き者(娘)を絶対に守り抜くという、揺るぎない覚悟と気高き誇りの炎が燃え盛っていたのだ。


(……ああ。なんだ、あの目は)


 そのファリードの姿を見た瞬間。ザヒールの脳裏を支配していた狂乱の熱が、スッと引いていくのを感じた。

 松明を振り上げたまま、ザヒールの時間がゆっくりと引き延ばされていく。少年の姿に重なって幻視したのは、彼がまだ若かった頃。王都の貴族たちに見捨てられながらも、泥と血に塗れたこの最前線で、ボロボロになりながらも民と部下を守るために必死に剣を振るっていた、数十年前の『誇り高かった自分自身』の姿だった。


(……そうか。私は、どこで間違えたのだろうな)


 かつての自分と同じ目をした若者が、自分が道具として売り飛ばそうとした娘を、命懸けで守ろうとしている。

 ザヒールの視線が、ファリードの背後で震える娘、サフィヤへと移った。

 ふと、数日前に彼女が自らの執務室へ乗り込んできた時の言葉が脳裏に蘇る。


『お父様は関税を私財として横領しておられる。これ以上中層と外郭に圧をかければ、都市の内部から反乱が起きます!』


 自分は、その進言を鼻で笑い、彼女を大理石の床へ力任せに殴り飛ばしてねじ伏せた。

『女の分際で政治に口出しするな。貴様は政略結婚の道具に過ぎん』と。


 だが、どうだ。

 マレクの恐怖政治に屈し、誇りを捨てた自分が、裏帳簿の知識を己の浅ましい保身と強欲のためだけに使って破滅しようとしているのに対し。

 都市の構造を理解できる知恵を持っていた娘は、同じ帳簿の数字から都市の死を正確に読み取り、民を救うために必死に足掻いていたのだ。


(……愚かだったのは、私の方か)


 ザヒールの胸の奥に、猛烈な後悔と、取り返しのつかない自嘲の念が広がっていく。

 女だと、道具だと見下し、暴力で押さえつけてきた娘。それから目を背けず、彼女の言葉に耳を傾けていれば。あるいは、自分がかつての誇りを失わずにいれば、この都市が内側から燃え上がることもなかったのかもしれない。


 マレクの恐怖に屈し、金と権力に魂を売り渡し、誇りを捨てた自分。

 その見苦しい末路が、今、暗殺者の冷たい刃となって背後に迫っているのを感じた。


 ヒュンッ、と。

 音もなくザヒールの背後に滑り込んだ漆黒の刃が、無慈悲な銀閃を描く。

 だが、ザヒールはもう逃げようとはしなかった。彼は、振り上げていた松明を持つ手の力をフッと抜き、かつて大帝国最前線の盾と呼ばれた名将としての、穏やかで自嘲気味な笑みを浮かべた。


「……若造の時代だ。私の時代は、とうに終わっていたのだな」

 静かな、憑き物が落ちたような最期の呟き。

「ご苦労だったな、強欲な豚め」


 感情の抜け落ちた暗殺者の声と共に、ザヒールの首が呆気なく宙を舞った。

 石段を転がり落ちる頭部。だが、その顔にはもはや狂気はなく、すべてを悟ったような安らかな表情だけが残されていた。

 そして、彼の手から滑り落ちた松明が、無造作に火薬庫の導火線へと転がり落ちていく――。


――ズドォォォォォォンッ!!!


 鼓膜を破るような大爆発と共に、本丸の地下は一瞬にして紅蓮の炎に包まれた。

 崩れ落ちた瓦礫が入り口を完全に塞ぎ、ファリードとサフィヤは、燃え盛る炎の檻に退路を断たれてしまった。


「ああ……っ、嫌、いやぁッ! 死にたくない……っ!」

 急速に充満する熱と煙に巻かれ、サフィヤが絶望して泣き崩れる。

 だが、ファリードは炎の熱に怯むことなく、彼女の肩を強く、痛いほど強く抱きしめた。


「サフィヤ、私を見ろ! 泣くな!」

「だって、こんなの……っ、結局私は、父親の道連れになるだけの道具――これで終わりよ、全部、全部!」

「違う!!」

 ファリードの強い声が、炎の爆ぜる音を切り裂いた。

「君は権力の道具じゃない! 自分の意志で空を飛べる、一人の人間だ!!」


 彼はひどく咳き込みながらも、己の信念を、熱を込めて語りかけた。


「私も、何も持たない絶望の底にいた。だが……暗闇の中で、決して諦めない仲間たちが私の手を引いてくれたんだ! だから君も、生きることを諦めるな! 私が必ず、君を外の世界へ連れ出す!!」


 魂からの叫びは、暗闇に閉ざされていたサフィヤの心に差し込んだ、強烈な一筋の光だった。炎に照らされたファリードの真っ直ぐな爛々と輝く金瞳だけが、この炎の中で一際輝いていた。


* * *


 一方、本丸の外。

 暗闇に沈んでいた第一城壁から突如として上がった巨大な火柱と爆発音に、包囲網を敷いていたマーシャは顔面を蒼白にさせていた。


「太守が自ら城を燃やすだと……!?」


 本丸から上がった巨大な火柱を前に、マーシャは次の采配を計算しようと無意識に動かしていた指先をピタリと止めた。  

 あり得ない。太守の性格と戦力差を数字で考えれば、選ぶべき最適解は絶対的な籠城だ。自ら死を選ぶという非合理的な変数は、彼女の中には存在しなかった。


「完全に計算外だ……! あいつが、まだ中にいるのに!」


 ドクン、と。マーシャの心臓が嫌な音を立てて跳ねる。  

 鼻腔の奥に、かつて絶望の谷底で嗅いだ、生温かい血と肉が焦げる匂いが強烈に蘇ってきた。自身の腕の中で急速に冷たくなっていった、師匠ルスランの重い身体の感触が、両手に生々しく蘇る。


 彼女は左手首のミサンガを服の上から強く握りしめた。だが、指先の小刻みな震えは全く止まらない。  

 常に安全な後方から戦場を俯瞰し、他人の命をただの数字の増減としてあえて処理してきたはずの彼女の呼吸が、過呼吸のように浅く、荒く乱れていく。  

 頭の中で必死に次の陣形や勝率を弾き出そうとするが、思い浮かぶのは、あの不器用な金色の瞳の少年が炎に巻かれる光景ばかりだ。


『また私のせいで、誰かの背中を死なせるのか!?』


「……クソがッ!!」


 マーシャの口から漏れた感情剥き出しの咆哮。  

 それは、意図的に喉の奥を潰して作っていた少年の声ではなく、大切なものを奪われる恐怖に耐えきれず悲鳴を上げる、等身大の彼女のひび割れた声だった。

 マーシャはターバンが乱れるのも構わず、もたつく男物の外套を乱暴に脱ぎ捨てると、腰の双短剣を抜き放った。  

 計算も、陣形も、自らの安全も。何万もの命を操ってきた軍師の仮面をすべて空へと放り投げ、彼女は自ら燃え盛る死地へ向かって大地を蹴り上げた。


「カディル! タリク! 私に続け! 道を開けろォォォッ!!」

「は、はッ!!」


 前衛の兵を盾にすることすら忘れ、なりふり構わず最前線へと駆け出していく小柄な背中。  

 常に盤面の外から絶対的な指示を下していた悪魔が、自ら死地へと飛び込んでいくという異常事態に、カディルとタリクは一瞬息を呑み――そして、即座にすべての理性を放り捨てた。


 行く手を阻むのは、炎に包まれた本丸の巨大な城門。  

 それは、かつて第三防衛線で死にかけていたタリクたちを見捨て、太守ザヒールが内側から固く閉ざした『絶望の扉』そのものだった。


「――ッ!!」  

 普段は決して己を主張することのない、ただ静かな盾であるタリク。だが、この時ばかりは違った。彼は身の丈ほどもある巨大な大盾を前方に構えると、一切の言葉を発することなく、獣のような怒涛の勢いで燃え盛る城門へと猛然と突進したのだ。


 その岩のような背中からは、かつてあの大平原で飢えと渇きに苦しみながら死んでいった戦友たちの『無言の慟哭』が、凄まじいオーラとなって立ち昇っているようだった。


 ズガァァァァァンッッ!!!


 爆発音にも似た重い衝突音。  

 タリクのすべてを懸けた突進と巨大な盾の質量は、数十人の兵がかりで開けるはずの分厚い鋼の城門を、蝶番ごと粉砕した。

 その、ただの防御用の盾が強固な城門を打ち砕くほどの、凄まじい気迫と執念。  

 隣を並走して突撃していたカディルは、その圧倒的な光景を前に、直感で悟っていた。


(……タリクが、過去を壊しに行っている)


 決して言葉には出さない、盾持ちの男の血を吐くような清算の重み。  

 彼ら自身の過去の業と、大切なものを失う恐怖。陣営の大人たちは、炎の熱気よりもさらに熱い狂気に当てられたように、粉砕された城門の奥へと、小柄な軍師の背中を追って雪崩れ込んでいった。


* * *


 その頃、炎と煙が渦巻く地下火薬庫。

 崩れた瓦礫の隙間から、火の手を逃れようと地下へ降りてきた『黒百合』の暗殺部隊の生き残り数名が、音もなく着地した。爆発の衝撃を逃れ、確実に標的の死と証拠隠滅を見届けるために降りてきたのだ。

 彼らは炎の明かりに照らされたファリードの姿――その隠しきれない高貴な顔立ちと、白金色の髪、金色の瞳を見て、驚愕に見開き、そして歓喜に顔を歪めた。


(……馬鹿な。その顔、死んだはずの第二王子ファリード……!?)

(なんと運がいい。こんな辺境の穴倉に極上のネズミが隠れていたとは! 最高の獲物だ、ここでその首を戴き、裏帳簿と共に王都へ持ち帰るぞ!)


 圧倒的な殺気を放つ凄腕の暗殺者たち。

 ファリードはサフィヤを自身の背後に庇うと、給仕の服の下にただ一振り隠し持っていた長剣を抜き放った。


「サフィヤ、私の背中から離れるなよ。……それに、あの裏帳簿をマレクの元へ持ち帰らせるわけにはいかないッ!」


 だが、相手は大帝国直属の最高峰の殺人兵器だ。

 ヒュッ、と音がした次の瞬間には、三人の暗殺者が完全に死角から同時に襲いかかってきた。


「くっ……!」


 ファリードは必死に剣を振るい、サフィヤへ向かう刃をすべてその身で弾き返す。だが、息をする間も与えない流れるような死の連携攻撃に、ファリードは防戦一方に追い込まれる。  

 炎の熱と煙に急速に体力を奪われ、ファリードの肩を短剣が深く抉り、足に鋭い切り傷が刻まれた。白い給仕の服が、彼自身の鮮血で赤く染まっていく。


(……速い。これが、帝国が誇る暗殺部隊……!)


 逃亡生活が始まってから、血反吐を吐くような努力でカディルたちから技術を叩き込まれ、覇王としての片鱗を見せ始めていたファリードだったが。相手は幼い頃から舌を抜かれ、ただ殺すことだけに生涯を捧げてきた純粋な人間兵器だ。  

 背後にサフィヤを庇っているため回避行動すら満足に取れず、圧倒的な経験と実力差の前に、ファリードの体力は完全に限界を迎えようとしていた。


「ファリード様……っ! 私のことはいい、逃げて……!」

「馬鹿を言うな! 私はもう……誰の命も見捨てないッ!!」


 血を流し、膝を折られそうになりながらも、決して彼女を守る盾を退かない若き王。サフィヤの目には、炎の中で身を呈して自分を守り抜く彼が、生涯忘れることのない絶対的な英雄として焼き付いていた。


 だが、無情にも現実は残酷だった。

 カキンッ!  重い金属音が響き、体力の限界を迎えていたファリードの長剣が、ついに暗殺者の重い一撃によって大きく弾き飛ばされた。  カラン、と虚しい音を立てて、命綱であった白銀の刃が炎の中へ転がっていく。


 暗殺者の凶刃が、ファリードの無防備な首元へ迫る。  

 もはや回避は間に合わない。絶体絶命の瞬間。


(……ここまで、か)  


 ファリードの脳裏に、ゆっくりと引き伸ばされた時間の中で、暗く重い諦念がよぎった。

 嫌だ。まだここでは終われない。  

 私はまだ何も成し遂げていない。マレクから大帝国を取り戻すことも、私のために血を流してくれた仲間たちに報いることもできていないのだ。  


 何より、あの雨の降る絶望の廃砦、毒杯を煽ろうとした私の手から杯をひったくり、『死なせない。生き残って、勝つよ』と私の世界を焼き尽くすほどの熱量で私を現世へと引きずり戻してくれた、あの小さな悪魔の軍師。

 お前を玉座に座らせてやると笑った彼に、私はまだ、何一つ恩を返せていないのに。


(……すまない、マーシャ。君との約束を、守れそうにない)  


 迫り来る死の冷気を感じながら、若き王が己の無力さを呪い、静かに目を閉じた、その刹那だった。


――ズシュッ!


 煙を切り裂いて現れた小柄な黒い影が、ファリードの首元に迫っていた暗殺者の喉笛へ、容赦なく双短剣を突き立てた。


(がはッ……!?)


 血飛沫と共に暗殺者が崩れ落ちる。

 その背後から現れたのは、泥とススにまみれ、肩で激しく息をするマーシャだった。彼は血濡れた双短剣を構えたまま、背後によろめいたファリードの背中を、ガシッと力強く、自身の華奢な背中で支えた。マーシャはファリードの長剣を炎の中から拾い上げて彼に手渡した。


「……遅いぞ、軍師」


 ファリードが血を流しながらも、泥だらけの顔でニッと笑う。


「文句を言うな、ヒヨッコ! 私の許可なく死ぬことは許さん!」


 マーシャはターバンの奥で、泣き出しそうな安堵と、激しい怒りをないまぜにした声で叫び返した。


 炎が二人の周囲を囲む。

 残る暗殺者たちが、再び無音の殺気を放ってジリジリと距離を詰めてきた。


 「……彼らは正面から打ち合って勝てる相手じゃない。ここは燃え盛る火薬庫だ、この環境ごと盤面にするぞ」


 マーシャは双短剣を低く構えたまま、ファリードの背中越しに小声で早口に告げた。


 「お前のその目立つ白銀の髪と、大振りな王の剣術が最高の囮になる。私が合図をしたら、敵の頭上めがけて思い切り剣を振り下ろせ。……同時に、足元の灰と瓦礫を蹴り上げて視界を奪え」

 「……なるほど。相手の意識を上に釘付けにして、隙を作る気だな」

 「そうだ。敵の意識が逸れたその一秒で、私が下から刈り取る。……いけるか?」

 「愚問だ。私の背中は、すべて君に預ける」


 紅蓮の檻の中で結ばれた、命を懸けた熱い絆、炎に包囲される中、暗殺者たちが三方向から無音の跳躍で襲いかかってきた。  

 ファリードは逃げなかった。

 その瞬間、彼の金色の瞳と、足元の死角に滑り込んでいたマーシャの黒曜石の瞳が、火花が散るような一瞥を交わす。  


 言葉は一切ないが、その視線の交差だけで、互いのタイミングと命のやり取りを完全に理解し合っていた。

 ファリードが王宮の洗練された剣術――大上段の構えから長剣を振り下ろす。


(……温室育ちの剣撃など、見え透いている!)  


 暗殺者たちが心の中で嘲笑い、ファリードの刃を躱して一気に喉笛を掻き切ろうと踏み込んだ、その刹那。  

 ファリードのブーツが、床の大量の灰と火の粉を、暗殺者たちの顔面めがけて猛烈な勢いで蹴り上げたのだ。


(なッ……! 王族が、目潰しだと!?)  


 予想外の彼の一手に暗殺者たちの視界が塞がれた、その一秒。

 ファリードの影から弾丸のように飛び出したマーシャの双短剣が、無慈悲に彼らの膝裏の腱を薙ぎ払った。


「がぁッ!?」  


 崩れ落ちる暗殺者たちの脳裏に、かつてない屈辱と絶望が走る。

 最高峰の兵力である自分たちが、王族の埃もへったくれもない目潰しと、暗殺者の下段攻撃という、あり得ないコンビネーションの前に完全に手玉に取られたのだ。


 そして、膝から崩れ落ちた暗殺者の一人と、至近距離でマーシャの視線が交錯した。  

 暗殺者の感情の抜け落ちた瞳が、マーシャの構える双短剣の柄に刻まれた微かな意匠を捉え、驚愕に大きく見開かれる。  

 マーシャ自身も、暗殺者の手から滑り落ちた短剣を見て、ハッと息を呑んだ。


(この短剣の反りの角度、重さ、そして刃の鍛造……私が師匠ルスランから受け継いだ形見と、全く同じだ!)  


 孤児から育て上げられたという大帝国直属の暗殺部隊『黒百合』。名前を聞いた時から、自身の双剣の紋章と同じだとは思っていた。

 その彼らが持つ凶器が、なぜ一介の流れの傭兵だった師匠の手にあったのか。  


 (……いや、違う)  


 マーシャの脳内で、バラバラだった情報が急速に一つの最悪な形となって結びついていく。


『俺が戦場に出ている間に、住んでいた村が帝国の残党狩りに遭った。……戻った時には、妻も娘も、黒焦げの肉塊になっていたよ』  


 夜の荒野の焚き火の前で、師匠が遠い目をしながら語った過去の凄惨な記憶。  

 それはきっと、ただの残党狩りなどではなかったのだ。

 大帝国の暗部である黒百合から逃亡し、人間としての幸せを手に入れようとした彼に対する、組織からの無慈悲な粛清だった。  

 だからこそ、彼はあれほどまでに冷酷で泥臭い殺しの術を熟知しており、誰にも素性を明かさず、感情を殺して修羅の道を歩むしかなかった。


(……師匠。あんたも、この大帝国の理不尽な呪いに人生を狂わされた一人だったんだな)  


 マーシャの黒曜石の瞳に、深い哀悼と、大帝国の理不尽に対する底知れぬ怒りの炎が燃え上がる。


「これで、終わりだッ!」  


 ファリードの長剣が隙を見逃さず無防備な暗殺者の一人の首を刎ね飛ばし、同時にマーシャの双短剣が、師匠の無念を晴らすかのように、もう一人の頸動脈を深く、容赦なく切り裂いた。


 王宮の洗練された剣術を囮として使い、スラムの暗殺術で死角から刈り取る。  

 相反するはずの二人の戦法が、敵の計算を上回る仲間への絶対的な信頼によって、阿吽の呼吸で噛み合ったのだ。  

 

 二人の息の合った猛攻の前に、圧倒的だったはずの『黒百合』の精鋭たちは、反撃の糸口すら掴めぬまま、ついに一人、また一人と紅蓮の炎の中へ沈んでいった。

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