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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
五章

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37/42

説得

 第一城壁の奥深く。

 太守の館の冷たい大理石の部屋で、一人の少女が豪奢な天蓋ベッドの端に膝を抱えていた。

 艶やかな栗色の髪と深い紫水晶のような瞳を持つ彼女は、豪奢な絹の衣を纏いながらも、その表情には生気というものがまるで感じられなかった。


 「……サフィヤ様。どうか、一口でもお召し上がりください。このままではお体が持ちませんし、何より太守様がお怒りになります」


 ”あの日”から食事をも召し上がらなくなってしまったサフィラに、ファティマが震える手でスープの椀を差し出す。


 「ファティマ.....、ありがとう。 気持ちだけ受け取るわ。……お父様がどうせ私に食事を与え、着飾らせているのは、高く売るために綺麗に嫁に出すための準備でしょう? だから、.....いらない。」

 サフィヤが力なく自嘲した、その時だった。


 バンッ!!と、分厚い扉が乱暴に蹴り開けられた。

 「ひぃッ!」とファティマが震え上がるが、それでも彼女のそばを離れずに立っていた。

 現れたのは、血走った目で苛立ちを隠そうともしない、この都市の絶対権力者――太守だった。


 「この役立たずめ。外のゴミ共が私の城を包囲しおって……っ! だが安心しろ、サフィヤ。お前を王都のマレク派の老将、あの好色な豚の元へ嫁がせてやる。あの男の性癖を満たしてやれば、すぐに鎮圧の援軍を引き出せるだろう」

 「……え?」

 サフィヤは息を呑み、血の気が引いた顔で父親を見上げた。

「お父様、嘘でしょう……? あの老将は、これまでに何人もの妻を使い潰してきたと……私は、あなたの娘なのに……っ」

 「黙れッ!」

 太守の怒声が部屋をビリビリと震わせ、サフィヤは恐怖に身をすくませた。

「私がお前をこの砦の中で大切に飼育してきたのは、いざという時に大帝国の有力者へ売り飛ばす『政略の道具』にするためだ! 娘などと勘違いするな、お前は私の権力を維持するための、血の通った駒に過ぎん。せいぜい綺麗に着飾って、男を悦ばせる手練手管でも磨いておけ!」


 冷酷に言い放ち、太守は踵を返して部屋を出て行った。

 バタン、と重い扉が閉まる音が、サフィヤの心に最後の一撃を振り下ろした。


(……外がどうなろうと、私の運命は変わらない)


 サフィヤはいつものように冷たい窓枠に額を押し当てた。

 「サフィヤ様.....」

 ファティマが心配そうにサフィヤを見つめるが、次の仕事へ向かうために一礼すると部屋をそっと出ていった。


 自分の逃げ道はどこにもない。    

 短剣で自らの首を掻き切り、死んで抗議するか。  


 いや。

 サフィヤはすぐにその考えを打ち消した。それは一番無意味で、愚かな逃げだ。私がここで誇り高く死んだところで、外郭で飢えているサミールたちの腹は膨れない。父の強欲も止まらず、都市は確実に崩壊する。


(なら、私は……どう動くべきなの)  


 サフィヤは紫水晶の瞳からこぼれ落ちる涙を乱暴に拭い、ギリッと血が滲むほど唇を噛み締めた。  

 そして、恐怖で麻痺しかけている己の頭脳を、無理やり思考回路を切り替えた。


(……お父様が私を『王都の老将に援軍を引き出すための道具』として売るというのなら。私は、その道具としての価値を最大限に利用するしかない)


 王都へ嫁ぎ、顔も知らない好色な老将のベッドに縛り付けられる。  

 想像するだけで、胃の腑が裏返るような激しい吐き気と、身の毛のよだつ悪寒が全身を駆け巡った。まだ十五歳の彼女にとって、それは己の人間としての尊厳を完全に殺す、死以上の地獄だ。  


 けれど、もし私のこの顔と若さが、あの男を狂わせる”武器”になるのなら。

 老将に媚びへつらい、恥じらいを捨ててその欲望を完全に満たし、彼を私の操り人形にできれば。  

 王都の国庫からハディードの外郭へ、サミールたちのために莫大な麦と給金を送らせるよう、状況を動かせるかもしれない。


(……お母様。ごめんなさい)


『知識と思いやりは、誰にも奪えない翼になる』と教えてくれた、母の優しい顔が思い浮かぶ。  

 でも、その綺麗な翼を持っても、私はただこの流れに身を委ねることしかできない。


(私は、誇りも尊厳も売り渡して、権力者に媚びる娼婦になるわ。……それで一人でも、あの子たちが救われるなら)  


 だが、決意を固めたはずの身体は、氷のように冷え切り、ガタガタと制御不能な震えを起こしている。   

 怖い。気持ち悪い。誰か、助けて。  

 一人きりの部屋で、自らを道具に貶める計算をしながらも、少女の心は声にならない悲鳴を上げ、完全に壊れかけていた。



 その時。コン、コン。

 控えめなノックの音と共に、給仕の少年が銀の盆を持って入ってきた。


 「……いらない。下げて」


 サフィヤは振り返りもせず、機械的に答えた。

 だが、給仕の少年は部屋を出ていくどころか、静かな足取りで彼女の背後へと近づき、盆をテーブルに置いた。


 「毒は入っていません。……それに、私は食事を運びにきたわけではない」

 少し低く、どこか不思議な響きを持った声。 こんな給仕の声は聞いたことがない。


 サフィヤが不審に思って振り返った瞬間――彼女の明晰な頭脳は、眼前にある情報量のあまりの矛盾に、完全に思考をショートさせた。


(……え?)  


 給仕の粗末な服は泥と赤黒いワインの澱に塗れ、鼻が曲がるほどのひどい悪臭を放っている。

 だが、その悪臭とは対極に。  

 薄暗い部屋の間接照明に照らされたその少年の顔立ちは、太陽の光を閉じ込めたような金色の瞳を持ち、絶望に沈んでいた彼女の視界を一瞬で奪い去るほど、息を呑むほど美しかったのだ。


(なんなの、この人は……)  


 十五歳の少女としての本能が、その美貌と、彼が放つ神々しいまでの気品に魅入られ、数秒間、完全に時を止めてしまった。  

 だが、すぐに持ち前の冷徹な理性が警鐘を鳴らす。


 汚物とワインの匂い。

 つまり彼は、外の汚水か地下の貯蔵庫から、正規のルートを通らずに潜り込んできた侵入者だ。  

 それなのに、あの瞳の奥にある決して折れない真っ直ぐな光と、真正面から自分を見据える静かな威圧感は、下層の盗賊のそれでは絶対にない。  

 突如として異物が割り込んできたようであった。


「……ッ」  


 サフィヤは魅了されかけた己をビンタするように我に返ると、自身の弱さと動揺を覆い隠すように顔を険しく強張らせた。

 そして、傍らのテーブルにあった銀の燭台を、護身用の武器として素早く構える。


 「あなたは……誰? 泥棒? それとも父の暗殺者?」

 「私の名はファリード。……大帝国シャジャルから逆賊として追放された、第二王子だ」

 「大帝国の……王子……?」


 サフィヤは一瞬呆然としたが、すぐに顔を強張らせ、傍らのテーブルにあった銀の燭台を彼に向けて剣のように突き出した。


 「嘘よ! そんなひどい臭いのする王子様なんているはずがないわ。私を騙して誘拐し、父から身代金でも取る気ね! それに大帝国の王子はとっくに死んだはずよ! 来ないで、大声を出すわよ!」


 激しい警戒と拒絶、予想していたその当然の反応に ファリードは無理に距離を詰めようとはせず、その場に静かに跪いた。


 「大声を出せば、私は衛兵に殺されるだろう。……だが、その前にこれを見てほしい」


 ファリードは懐から、一つの銀の指輪を取り出し、サフィヤの足元へそっと転がした。


 「それは……」

 「シャジャル王家直系の血を引く者だけが持つ、太陽の刻印の指輪だ。王都の老将に嫁ぐ予定だった君なら、それが本物かどうか分かるはずだ」


 サフィヤは震える手で指輪を拾い上げた。精緻な太陽の意匠と、偽造不可能な王室の紋章。

 本物だった。


「どうして、死んだはずの王子様がこんな粗末な格好で……。それに、私に何の用なの?」

「今の私は、すべてを奪われ、辺境のなんとか生き延びてきただけのただの反逆者に過ぎない」


 ファリードは真っ直ぐにサフィヤを見上げた。


「君の言う通り、私には君の手引きが必要だ。この城の城門の内鍵を開けてほしい。……だが、無理強いはしない。君を誘拐して、我々の戦いのための新たな『道具』にすることもしない」

「え……?」  


 予想外の言葉に、サフィヤは怪訝そうに瞬きをした。


「君が父親によって、顔も知らない王都の老将へ、政略結婚の道具として嫁がされると聞いた。……君がこの美しい鳥籠の中で、どれほどの絶望と孤独を抱えているか。私には、痛いほどよく分かるんだ」

「どうして、私のことを……。それに、大帝国の王子様である貴方に、私の何が分かるというの……?」 「私はずっと、優秀な兄の代わり……誰からも期待されない、ただの『道具』でしかなかったからだ」


 その言葉に、サフィヤの紫水晶の瞳が大きく揺れた。


(道具……。この人も、私と同じ……?)


 ファリードの脳裏に、遠い王宮での記憶が甦る。

 ファリードの父である先王は、他民族や下層民にも寛容で、平和を愛する心優しい王だった。


 彼は北方部族の族長の娘であったファリードたちの母を、生涯ただ一人の伴侶として深く愛し抜いた。    

 しかし、その愛する母が若くして風土病でこの世を去ると、父王は計り知れない悲しみのあまり、亡き母の面影を誰よりも色濃く受け継いだ幼いファリードを、「何があっても傷つけてはならない」と、王宮の最も安全な温室へと閉じ込めてしまったのだ。

 そして、その優しさゆえに冷酷な叔父マレクに付け込まれ、玉座と命を奪われた。


 第一王位継承者であった亡き兄は、まさに太陽のような人だった。

 剣を振るえば誰もがその洗練された技に感嘆し、言葉を発すれば誰もがそのカリスマ性に魅了され、自然とついていきたくなる。


 そんな完璧で眩しすぎる兄が次期国王として輝かしい才能を見せれば見せるほど、父の過保護によって一切の政治的・軍事的な役割を与えられなかったファリードの存在は、宮廷内でひどく歪に浮き彫りになっていった。  


 いつしか周囲の貴族たちは、日陰で本を読んでいるだけのファリードを〈美しいだけの木偶の坊〉、あるいは〈有事の際の兄のスペア〉として冷ややかな陰口を叩くようになったのだ。


 兄は決してファリードを見下さず、むしろそんな悪意からいつも彼を優しく庇ってくれた。

 けれど、その優しさが余計に彼を苦しめた。


 太陽のようにキラキラと輝く兄に強烈な憧れを抱きながらも、自分は決してあのように成ることはできないという、劣等感が常に付き纏った。 それに、心優しい彼は、庭で死んでいる小鳥を見つけてはポロポロと涙をこぼし、剣の稽古で木剣を落としては情けなさに泣きじゃくるような、筋金入りの”泣き虫”だった。


 だからファリードは、兄と近衛騎士たちが中庭で汗を流して鍛錬するのを、いつも分厚い本を抱えながら、王宮の冷たい柱の陰からこっそりと見つめているような、文官のような子供だった。


 ある日、いつものように日陰に隠れて本を読んでいた彼に、兄は眩しい笑顔で歩み寄り、汗に汚れたゴツゴツした手でファリードの白金色の髪をぐしゃぐしゃに撫でて言った。

『お前は剣など振らなくていい。この国に必要なのは、お前のその賢い頭だ』

 そしてファリードが心を痛めて泣いていると、こうも言った。

『ファリードは本当に泣き虫だな。だが、他者の痛みに涙を流せるその優しさは、いつか必ずお前の強さになる』


 その言葉は確かに温かい愛情だった。

 だが同時に、自分はただのスペアであり、彼がいなくなれば誰からも必要とされない空っぽの器だという逃れられない絶望を、幼いファリードの魂に深く刻み込んでいたのだ。


「誰からも期待されず、ただ王室の血を繋ぐためだけの代用品。……自分の無力さを呪い、すべてを諦めて死のうとした夜もあった」


 ファリードが自らの傷口を晒すように紡いだその痛切な告白の数々は、サフィヤの胸の奥の最も柔らかい部分を真っ直ぐに貫いた。

 親の権力維持のために出荷されるのを待つだけの自分と、兄のスペアとして生きることを強いられてきたこの美しい王子。

 住む世界は違えど、二人が抱えていた”道具としての絶望”は、痛いほどに同じ色をしていた。


 だが、ファリードの金色の瞳には、過去の絶望を焼き払うような、静かで確かな熱が宿っていた。


 「……けれど、私は救われたのだ。三千の敵に完全に包囲され、誰一人として私に『生きろ』と言わなかったあの廃砦で、すべてを諦めて毒杯を仰ごうとした雷雨吹き荒れるあの夜」


 ファリードの脳裏に、冷たい死の静寂を蹴り破って現れた、あの泥臭く凄惨な光景が蘇る。


 「私の手から毒杯をひったくり、強引に、ものすごい熱量で私を生きるための地獄へと引きずり戻してくれた者がいた。……敵の返り血と泥に塗れながら『死なせない。生き残って、勝つよ』と。ただの空っぽの器だった私に、自分の意志で、この世で足掻く理由と、生きる熱を与えてくれたのだ」


 ファリードは静かに立ち上がり、サフィヤの瞳を、確かな熱を込めて見つめた。

 「サフィヤ。君は、父親の権力を守るための道具じゃない。政略結婚のための駒でも、この鳥籠の愛玩動物でもない。……君は、自分の意志で空を飛べる、一人の人間だ」

 「私の……意志で……」

 「外の世界は、君が思っているよりもずっと広く、そして温かい。……もし君が、もう誰かの道具として生きることを良しとしないのなら。君自身の意志で、この鳥籠の扉を開けてほしい。私は、そのための手を貸す」


 ファリードは床に片膝をついたまま、真っ直ぐに右手を差し出した。  

 その手のひらは泥と赤黒いワインの澱にまみれ、鼻を突くような酸い悪臭を放っている。大帝国の王子が令嬢に差し出すには、あまりにも無作法で汚れた手だ。  

 だが、彼女を見上げるその金色の瞳には、相手を甘く籠絡しようとする色気も、憐れみも一切ない。  

 ただ、同じ暗闇を知る者として、彼女が自ら一歩を踏み出すのを、真っ直ぐな祈りのような眼差しで静かに待っている。


(……この人は、私に『選べ』と言っているの?)


 サフィヤは息を呑んだ。  

 父親にとって、自分は老将に高く売るための傷一つない美しい商品でしかなかった。だから誰も、彼女を泥の中に引きずり込もうとはしなかったし、彼女自身の意志など一度も問われたことすらなかったのだ。  

 それなのに、目の前の少年は、その綺麗な白い手を泥で汚してでも、自身の足で共に歩こうと真っ直ぐに求めてきている。


「……お父様は、私のことを娘だと思ったことなんて、一度もなかったわ」


 絞り出した掠れ声と共に、サフィヤの紫水晶の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。  

 自分にできることはもうないと思っていた、このまま自分の翼が腐り落ちるのを待っているだけだと、この置かれた場所で心を殺して最善を尽くすだけだと、そう覚悟を決めていた。  

 それが、目の前に突然現れた少年の体温を伴った誠実さの前に、強がりが音を立てて完全に崩れ去っていく。


 サフィヤの両手から完全に力が抜けた。  


カラン……ッ。  

 護身用として、自身と外界を隔てるように必死に構え続けていた銀の燭台が、大理石の床へと虚しい音を立てて転がり落ちる。


 かつて大河の砦で、絶望して死の淵にいたファリードの手から、泥と血に塗れた小さな悪魔が強引に毒杯を叩き落とし、生きる熱を与えてくれたように。  

 今度はファリードが、自らを道具に貶めようとしていた一人の少女の前に、泥だらけの手で明日への光を差し出している。

 決して強引に奪い取るのではなく、彼女の誇りを信じ、自ら立ち上がるのを待つという、彼らしい優しさをもって。


 サフィヤは、ポロポロと涙をこぼしながら、自身の綺麗な白い手を迷うことなく伸ばした。  

 そして、ファリードのその大きな手を、震えながらも、両手でしっかりと握り返したのだ。


「……ええ。私が、開けるわ。……誰の道具でもない、私自身の意志で!」


 冷え切っていたサフィヤの指先に、ファリードの分厚く大きな手から、火傷しそうなほどの力強い熱が流れ込んでくる。  鳥籠の令嬢が、自らの足で立つ一人の人間として完全に生まれ変わった瞬間だった。


「ありがとう。サフィヤ」


 ファリードの顔に、十五歳の少年の無防備さと、絶対的な王の頼もしさが入り混じった、微笑みが広がった。  

 彼はサフィヤの手を、もう二度とこの暗闇に落ちないように、痛いほど強く握り返した。


 「でも、具体的にどうやってファリード様のお仲間を中へ招き入れるの? 本丸の正面の鋼の城門は、常に数十人の近衛兵が固めているわ。私一人の力では、とても開錠用の巨大な滑車を回すことなんてできない……」


 サフィヤが不安げに問うと、ファリードは力強く首を振った。


 「正面の城門を開ける必要はない。君の父親のように猜疑心が強く、常に保身を考えている男なら、いざという時のために自分だけが逃げられる『隠し通路』を必ず用意しているはずだ。……心当たりはないか?」

 サフィヤはハッとして、紫水晶の瞳を大きく見開いた。

 「……あるわ。お父様の執務室の奥よ。希少な白虎の毛皮の裏に、いざという時に城壁の外へ……大河の船着き場へと続く隠し通路の大扉があるの」

 毎朝、夜明け前に父の執務室へ忍び込み、帳簿を読み解いていた彼女だからこそ気付けた城の暗部。


 「あの隠し扉の内鍵は、ただの鍵穴じゃないわ。執務机の引き出しの奥に隠された三つの歯車を、特定の順番と回数で操作しないと開かない精巧なカラクリになっているの。……お父様が操作しているのを見たことがあるから、私なら手順が分かるわ」

 「その通路の出口は、外壁のどのあたりだ?」

 「北側の、崖に面した古い水路の傍よ」

 「完璧だ。そこなら、暴動の喧騒に乗じて、私の仲間たちを誰にも気付かれずに招き入れることができる」


 ファリードは金色の瞳に理知的な光を宿し、深く頷いた。


 「見張りの兵が手薄になる、夜半過ぎの交代の時間が狙い目ね。その隙を突いて私が執務室に忍び込み、仕掛けを解いて扉を開けておくわ。……そこからなら、お父様の寝所はすぐ目の前よ」

「危険な役目を任せてすまない。だが、君のことは私が必ず守り抜く」


 これで、彼女が夜の闇に紛れて太守の執務室にある隠し通路の内鍵を開け、本丸の最深部へとファリード陣営を導き入れる手筈が整った。


* * *


 一方その頃。

 暴動の熱気に包まれたハディードの外壁部――第三城壁の正門前では、血で血を洗うもう一つの死闘が繰り広げられていた。

 都市の食糧が底を尽き、太守に見捨てられた下層の傭兵たちの一部が、略奪した財貨を抱えて都市から脱出しようと、城門をこじ開けて雪崩を打って押し寄せてきたのだ。

 だが、彼らの脱出経路は、幾重にも重なる鋼の壁によって完全に塞がれていた。


「ここから先はネズミ一匹通さないわよ! ザルカの富と誇りにかけて、押し返しなさい!」


 褐色の肌を月光に躍らせ、レイラが鋭い号令を飛ばす。彼女が愛刀のシャムシールを振るうたび、銀の円月が宙を描き、逃げ出そうとする傭兵たちの武器が次々と弾き飛ばされていく。ザルカの親衛隊長である彼女の戦い方は、まるで炎の舞のように華麗で、かつ獰猛だった。


 だが、飢えと暴動で理性を失った傭兵たちは死に物狂いだ。

 レイラが前方の敵を薙ぎ払った一瞬の隙。彼女の背後から、大斧を持った傭兵が卑劣な一撃を振り下ろそうとした。


 ――ガァンッ!!


 火花が散り、重い鋼の衝突音が夜の荒野に響き渡る。

 レイラの背後に迫っていた大斧は、横から滑り込んできた洗練された「長剣の一撃」によって、根元から正確に弾き落とされていた。


 「……大振りだ、女狐。舞うように戦うのは結構だが、踏み込みが深すぎて背後がお留守になっているぞ」

 

 顔の火傷の痕を険しく引き締め、大帝国の正統なる剣技で敵を瞬時に斬り伏せたのは、カディルだった。

 レイラは自身の背中に伝わる、分厚く頼もしい騎士の体温を感じながら、肩越しに艶やかな笑みを浮かべた。


「あら、堅物騎士さんにしては最高のタイミングじゃない。……ザルカのバルコニーでした約束、ちゃんと覚えててくれたのね?」


 だが、カディルはその艶やかな声に胸の奥を激しく揺さぶられながらも、ギリッと奥歯を噛み締め、意図的に彼女から背中を離した。


「……勘違いするな。私はただ、殿下の陣営の戦力を減らすわけにはいかないだけだ。貴様は後ろに下がっていろ」  


 あからさまに遠ざけようとする冷たい拒絶。  

 それは、カディル自身の内に芽生え始めていた、彼女への明確な惹かれに対する、強烈な自己防衛だった。  

 ザルカのバルコニーで、彼の醜い火傷の痕を「立派に生きた証」だと真っ向から肯定してくれた、太陽のような女戦士。


 彼女の笑顔を見るたびに、殺し尽くしたはずの感情が熱を持って息を吹き返してしまう。  

 だが、その熱を感じるたび、カディルの脳裏には常にあの血塗られた夜の業火がよみがえってくるのだ。


(私は……かつて主君であった兄王子とその婚約者の姫君を、炎の中から救い出すことすらできなかった不甲斐ない盾だ)  


 王宮の図書室で微笑んでいた、シャムス王子の婚約者、白真珠のように清らかなルルア姫。彼女の命を守れず、ただ炎に焼かれて崩れ落ちる西塔を見ていることしかできなかった絶望。


(私のような無力で醜い男に、再び誰かを愛し、その隣に立つ資格などあるはずがないのだ)


 彼がレイラを遠ざけようとするのは、彼女を嫌っているからではなく。

 再び大切なものを失う恐怖と、自分には幸せになる権利などないという、痛ましいまでの過去への自責の念からだった。  


 だからこそ、彼は己の感情に蓋をし、過剰なまでにレイラを背後に庇って、自分一人だけで盾になろうとしていた。  

 だが、その自己犠牲の悲壮感が、乱戦の中で致命的な隙を生んだ。


「死ねぇッ!」  


 暴徒の一人が大斧を振り上げ、カディルの死角から襲いかかる。カディルはレイラを庇うために体勢を崩しており、迎撃が間に合わない。


(……ここまでか。だが、彼女だけは……!)  

 カディルが目を閉じ、己の身を盾にしてその一撃を受けようとした、その刹那。  


 ――ガァンッ!!  火花が散り、重い鋼の衝突音が夜の荒野に響き渡った。  


 カディルの背後から滑り込んできたレイラのシャムシールが、暴徒の大斧を根元から正確に弾き飛ばしていたのだ。


「……レイ、ラ……?」  


 驚愕に見開かれたカディルの目の前で、レイラは彼の分厚い背中に、再びピタリと自身の背中を預けてみせた。


「……勝手に一人で死のうとしないでよ、馬鹿」  


 レイラの声は、いつもからかうような響きではなく、どこか怒ったような、けれど痛いほどに真っ直ぐな熱を帯びていた。


「アンタが昔、どこの誰を守れなくて後悔してるのかは知らない。でもね、カディル」  

 彼女は背中越しに、カディルの傷だらけの心を真っ向から見据えるように言った。

「私は、ただ安全な背中で守られるだけのお姫様じゃない。アンタの背中は、この私が守るわ」


 その戦場で放たれた言葉に、カディルは思わず目を見開いた。自身を縛り付けていた分厚い氷の呪縛が、いとも簡単に跡形もなく粉砕された気がした。  

 守るべき対象ではなく、互いの弱さを補い合い、共に血みどろの戦場に立つ対等の相棒。  

 振り返れば、彼女のアーモンド型の瞳が、どんな業火よりも強く、温かい光で彼を照らしていた。


(……ああ。私は、もう過去の炎に怯えなくていいのか)  


 彼女となら。

 守れなかった過去の亡霊に縛られるのではなく、共に背中を預け合い、この狂った世界を生き抜く未来を信じられるかもしれない。  


 カディルは、今まで頑なに拒絶していた彼女の背中の確かな温もりを、ようやく己の魂の底から受け入れた。  

 堅物で不器用な彼にとって、それは何者にも代えがたい、瞬間であった。


「……ふん。口の減らない女狐だ。私の背中を預けるのだ、背後からの一撃でも喰らえば承知せんぞ」  


 カディルの口元に、出会ってから初めて、微かな、けれど確かな笑みが浮かんだ。


「ふふっ、任せなさい!」  


 完全に過去の呪縛を振り切ったカディルの長剣と、レイラのシャムシール。  

 相反する二つの剣技が完璧に噛み合い、暴徒たちの行く手を絶望の壁となって阻み続けていた。


 その少し横では、巨漢のタリクが巨大な鉄盾を地面に突き立て、城門から溢れ出ようとする敵の集団を、文字通り物理的な岩壁となって単機で押し留めている。


 彼らが城外で物理的封鎖任務を遂行し、逃げ道を断っているからこそ、都市の内部は閉鎖空間となり、マーシャの蒔いた疑心暗鬼が都市の隅々まで蔓延するのだ。

 内と外、それぞれの戦場で陣営の総力が結集し、難攻不落の巨大要塞を確実に死へと追いやっていた。


 だが――彼らはまだ知らなかった。

 彼らの絆を試す、最も過酷な死闘の幕開けは、もう目の前まで迫っていることを。

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