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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
五章

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35/42

偽情報

 数日後。赤蠍の砦の作戦室。

 突如として重い扉が、バンッ!と乱暴に開け放たれた。


 「……へへっ。とんでもねェ、土産を持ってきたぜ……っ」

 立っているのもやっとという様子で転がり込んできたのは、全身泥と血だらけで顔を青白くさせたザイドだった。


 「ザイド!?」

 ファリードが血相を変えて駆け寄ろうとした――が、それよりも速かったのは、いつもは部屋の隅で不動の門番として静かに控えている巨漢、タリクだった。


 ドス、ドス、ドスッ!

 大地を揺らすような足音と共にタリクが猛然と駆け寄り、倒れ込みそうになるザイドのしなやかな身体を、その巨大で分厚い両腕でガッチリと抱き留めた。

 普段の感情の抜け落ちた岩のような顔は完全に崩れ去り、大きく見開かれた目には、ザイドの傷口から流れる大量の血に対する信じられないほどの焦燥と恐怖が浮かんでいる。

 タリクは一切の躊躇なく、自身の真新しいマントを乱暴に引きちぎり、ザイドの左腕の傷口を強い力で圧迫止血した。


 「い、痛ェよデカブツ……。お前、そんなに焦った顔もできんだな……」


 ザイドが脂汗を流しながら強がって笑うと、タリクはギリッと奥歯を噛み締め、ザイドの肩を壊れ物のように優しく、しかし確かな温もりで抱き込んだ。


 「ヒッヒッヒ、左腕の切り傷は深いですが、急所は外れております。しかし、強烈な毒の兆候が……すぐに解毒薬を打ちますぞ」

 イブンが素早くザイドの腕に薬草をすり込み、タリクが無言で温かい布を彼の肩に掛けた。

「だが覚悟なされよ。私の特製解毒薬は、毒を中和すると同時に傷口の肉を強制的に癒着させる劇薬。三日三晩、骨の髄を焼かれるような地獄の痛みが続きますぞ」

「……へへっ、上等だ。死ぬよりはマシだろ……っ!」


 ザイドは脂汗を流し、タリクの分厚い腕に縋り付きながら、その激痛に歯を食いしばって耐え抜いた。


 「無茶をしおって……。単独でハディードの本丸に潜入するなど、いくら貴様でも無謀すぎるのだ」


カディルが顔の火傷の痕を険しく歪めて叱責するが、ザイドは痛みに顔をしかめながらも、血まみれの手で懐から『数枚の羊皮紙』を取り出し、石机の上へ力強く叩きつけた。


 「無茶しただけの……価値はあるぜ。見ろよ、兄貴」


 ザイドの言葉に、マーシャがその羊皮紙を手に取ろうとした、その瞬間だった。

 ザイドを支えていたタリクの視線が、机の上に無造作に投げ出されたその手紙の一つ――血の染みと泥がこびりついた、古い陣中報告書と嘆願書の束に釘付けになった。

 彼の目が限界まで大きく見開かれ、ザイドを抱えていた巨大な腕が微かに、だが制御不能なほどガタガタと震え始める。


 「……タリク?」

 普段決して感情を乱さない巨漢の明らかな異変に気づき、ファリードが声をかける。


 タリクはハッと我に返ると、自身の震える拳を強く握り締め、ザイドの身体をそっとカディルに託した。そして、無言のままバッと顔を背け、再び部屋の暗がりへと深く退がってしまった。

 その広くて分厚い背中からは、隠しきれない激しい動揺と、深い悲痛の色が滲み出していた。


 「……どうしたんだ、あのデカブツ。俺の血を見て酔ったのか?」

 ザイドがいぶかしげに呟くが、マーシャはタリクの背中と、手元の血塗られた手紙を交互に見比べ、ターバンの奥でスッと目を細めた。


 (……なるほど。そういうことか)

 彼女の黒曜石の瞳は、この手紙の持ち主であるハディードの太守と、無口な盾持ちの巨漢との間に存在する過去の因縁を、すでに正確に見抜いていた。


 マーシャは再び羊皮紙に視線を戻し、文字を追うごとにその黒曜石の瞳にギラリと不遜な浮かべていった。


 「……でかしたぞ、ザイド。こいつは、この大都市を一発でひっくり返せる大事な鍵になる」


 「何が書かれているのだ、軍師殿」

 「一つは、太守がこの都市の傭兵や商人から不当に搾り取った税を、王都へ納めずに『自分の隠し財産』として横領していることを示す裏帳簿の断片だ」


 その言葉に、カディルが眉をひそめた。

 「太守が横領を? なぜそんなリスクを冒すのだ」


 「叔父マレクの残酷さを知っているからだ」

 ファリードが羊皮紙のもう一枚を見つめながら、事実を淡々と告げる。


 「マレクは玉座を奪った簒奪者ゆえに、権力を誇示する宮廷生活と軍事力のために莫大な資金を常に必要としている。太守は『税の納入が少しでも減れば、自分はいつでも粛清される』と恐れ、保身のために隠し財産を溜め込んでいるのだ」


 「さらに言えば」

 マーシャが、ザイドが持ち帰った最後の一枚――王室の紋章が刻まれた密書を指の腹で弾いた。


 「マレクも太守の横領を薄々疑い、密かに暗殺部隊を放つ準備をしている。太守もそれを恐れ、さらに疑心暗鬼を深めている状態だ。……ザイドが遭遇したのは、一足先に潜入していたその暗殺部隊の先遣隊だろうな」


 マーシャは石机に両手をつき、極悪非道な笑みを浮かべてファリードを見た。

 「マレクと太守の互いへの猜疑心と不信感。これこそが、あの無敵の都市の最大の綻びだ」


 沈黙が、石室に落ちた。

 外からの物理的な攻撃を完全に跳ね返す要塞都市。だが、その頭脳である太守は、マレクへの恐怖と暗殺部隊の影に怯え、すでに精神的に限界を迎えようとしているのだ。


 「……なるほどな」

 ファリードの金色の瞳に、覇気が宿る。


 「ならば、その綻びを内側から完全に引き裂いてやるまでだ。太守の疑心暗鬼に火をつけ、都市の軍事力を二分させる」

 「そういうことだ。だからこそ、この大都市攻略戦は、絶対に叔父マレクに我々の存在を悟られてはならない」


 マーシャが石机を叩いて全体の作戦を告げる。


 「我々が大都市を攻める大義名分は大帝国への反乱じゃない。あくまで『ザルカの商隊が不当な扱いを受けたことに対する、アミーナの報復だ。これにより、王都の叔父は『また辺境の女狐が金で揉めている』と軽視し、殿下の生存から目を逸らす」


 その言葉に、石室の入り口に寄りかかっていた豪奢な装いの女戦士――ザルカから派遣されてきた親衛隊長レイラが、艶やかに微笑んだ。


 「その通り。だから、この戦いの表向きの総大将は、この私レイラが務めるわ。ザルカの私兵とそっちの精鋭部隊を率いて、都市の物流を外から完全に封鎖させてもらう。……私の指示に遅れないでよね、堅物騎士さん?」

 「……女狐の指揮下に入るなど屈辱だが、殿下のためだ。私とタリクの盾で、都市に入る商隊はネズミ一匹通さん」


 レイラの悪戯っぽいウインクに、カディルは胃を押さえながらもギリッと奥歯を噛み締めて応じた。


 「外の物理的封鎖はそれでいい。だが、堅牢な軍事要塞を落とす本命は、内側からの兵糧攻めと疑心暗鬼を煽ることだ」


 マーシャの視線が、イブンとザイドへ向く。


 「イブン。例の薬は?」

 「ヒッヒッヒ……こちらもまた完璧に仕上がっておりますぞ。これを太守の備蓄している兵糧庫の麦に一滴垂らし、ネズミや虫を放てば、三日で致死性のカビが大発生します。外部からの食糧が絶たれた都市にとって、これは致命傷になりましょう」

 「よし。そしてザイドが命懸けで持ち帰ってくれたこの、横領の証拠があるなら話は早い。……イブン、これをもとに、少しだけ事実を誇張した『偽造文書』を大量に作成してくれ。太守が傭兵の給金を横領し、自分だけが逃げる準備をしているという内容でな」

 「ヒッヒッヒ、お安い御用ですぞ」


 「ザイド。傷が塞がり次第、今度はお前の土俵での仕事だ。……ハディードの下層酒場に潜り込み、その偽造文書をばら撒いて、傭兵たちの不満を爆発させろ」

 「へへっ、相変わらず人使いが荒いぜ兄貴。 偽情報で敵を煽るのはお手のモンだぜ。内側からドロドロに腐らせてやる」

 「軍師殿。我々の役割は分かった。だが……肝心の殿下はどう動かれるおつもりだ。表舞台に出られない以上、ただ本陣で隠れておられるだけでは……」


 カディルが心配そうに視線を向ける。だが、マーシャはふっと鼻で笑い、ファリードへと道を譲った。


 「私がここで指揮をとっているだけの、ただの飾りの王で終わると思っているのか、カディル」


 ファリードは机に身を乗り出し、金色の瞳を鋭く光らせた。


 「アミーナの金貨だけでは寝返らない誇り高い有能な武将や傭兵団長が、都市の防衛網の要には必ずいる。私は彼らの前にだけ、秘密裏に姿を現す。……金ではなく、大帝国の将来性と『未来の将軍の地位』を約束し、都市の防衛網を内側から我が陣営へと引き抜く。この手で直接、彼らの心を支配してみせよう」


 己の器と覇道を武器として、強者たちを心服させるという若き王の宣言とその頼もしい姿に、カディルは息を呑み、そして深く、誇らしげに頭を垂れた。


 「ただの寝返り工作だけではないぞ」


 ファリードの力強い宣言の余韻の中、マーシャが机上の地図の”第一城壁”を指先でトントンと叩いた。


 「暴動が起きれば、太守は必ず一部の側近だけを連れて本丸に籠城する。問題は、あの分厚い鋼の内扉だ。どれだけ周りを包囲しようと、外からでは絶対に破れない。……内側から扉の鍵を開けさせる『内通者』が必要だ」

 「内通者だと? だが、本丸に入れるのは太守が極度に信頼する親衛隊だけだ。金で引き抜くのは容易ではないぞ、不可能だ」


 カディルの懸念に、ザイドが痛む左腕を庇いながらもニヤリと笑って進み出た。


 「へへっ。そのことなら、いい的がいるんだぜ。太守の隠し金庫に潜り込んだ時、裏帳簿と一緒に奴の家庭事情も探っといたんだ。部下たちの情報とも完全に一致しやがった」


 ザイドは懐から、もう一枚のクシャクシャになった手紙を取り出した。


 「太守には、サフィヤって名前の十五になる一人娘がいる。だが、親子の仲は完全に冷え切っててな。太守の野郎、自分の保身のために、娘を王都のマレク派の好色な老将へ『政略結婚の道具』として売り飛ばす準備を進めてるらしい。娘は毎晩、絶望して部屋で泣き暮らしてるって話だ」

 「実の娘を、自らの権力維持のための駒にするというのか……!」


 カディルが怒りに顔を険しくする。

 マーシャは黒曜石の瞳をギラリと光らせた。


 「使えるな。父親を憎み、絶望している娘。……そいつの部屋に忍び込み、本丸の扉を開ける内通者に仕立て上げる」

 「無茶だ軍師殿! そのような深窓の令嬢が、突然忍び込んできた我々を信じて城門の鍵を開けるなどあり得ない! 大声を上げられて終わりだ!」


 カディルが激しく反発する。確かに、見ず知らずの暗殺者や傭兵が現れれば、パニックになるのが普通の令嬢だ。


 「だから、ただの傭兵じゃダメなんだよ」


 マーシャはゆっくりと視線を動かし、白銀の甲冑を纏うファリードを見据えた。


 「理屈や金じゃあ、絶望している人間の心は動かない。だから殿下、あんたの出番だ。……アミーナを落とした時みたいに、あんたのその口で、彼女の心の一番柔らかい部分を、あんたの本音で貫いてこい」  

 「私が……」


 ファリードは目を伏せ、ザイドがもたらした手紙を見つめた。

 周囲から、ただの権力維持のための道具として扱われる苦しみ。

 それは、優秀な兄の陰で息を潜めて生きてきたファリード自身が、誰よりも痛いほど理解している絶望だった。


 「彼女もまた、私と同じように大人たちの都合で盤面に置かれた駒……」


 ファリードは顔を上げ、その金色の瞳に、同じ痛みを知る者としての強い決意を宿した。


 「分かった。私が本丸に潜入し、彼女を説得する。王族の威光や色仕掛けではなく……同じ絶望を知る一人の人間として、彼女をその狂った世界から引きずり下ろしてみせよう」

 「……決まりだな。だが、決して少しでも危険を感じたら即座に脱出しろ。お前は総大将なのだからな」


 マーシャは最後に身の安全を念押しして忠告すると、満足げに唇を吊り上げた。


「さあ、盤面は整った。……大帝国の喉元を、内側から噛み砕くぞ」


 満身創痍の密偵がもたらした真実を足がけとし、いつも通りの悪辣な悪魔の戦略が本格的に幕を開けた。


* * *


 「――ほーら、丁だ! 俺の勝ちだな!」


 ジョッキを片手に愛想笑いを振りまくその顔は、以前の彼とは少し違っていた。

 イブンが調合した特殊な樹液の塗料により、顔の右半分に大きな赤黒い痣が作られ、髪は泥と油で固められている。

 匂いすらも下層の労働者特有の悪臭で上書きされ、暗殺部隊の目を欺くための完璧な「別人」へと偽装されていた。

 だが、外套の下に隠された左腕は分厚い包帯でガチガチに固定されており、動かすたびに傷口が焼けるように痛む。

 イブンの劇薬で無理やり傷を塞いだ代償だ。

 それでも、彼は一切の痛みを顔に出さず、飄々とした態度でサイコロを転がす。


「くそッ! また負けかよ!」

「今日のお前、やけにツいてやがるな、よそ者!」


 目の前で赤ら顔の傭兵たちが、悔しそうにテーブルを叩く。

 ザイドは「へへっ、俺んとこの女神が微笑んでるのさ」と愛想笑いを浮かべながら、手元のサイコロを懐へ滑り込ませた。角を微かに削り、重心をずらした自慢のいかさまサイコロだ。


「まあまあ、そう怒んなって。今日の勝ちは全部あんたらに奢ってやるよ! おい親父、ここのテーブルに一番強い酒を人数分頼む!」

 彼が景気良く銀貨を弾き飛ばすと、険悪になりかけていた傭兵たちの顔色がパッと明るくなり、「おっ、気前がいいねェ!」「お前、案外いい奴だな!」と現金な歓声が上がった。

 チョロいものだ、とザイドは内心でほくそ笑む。スラムの路地裏では、金と酒、そして上手い負け方を知らない奴から死んでいく。


ザイドは傭兵たちに酌をして回りながら、すっかり気の緩んだ彼らの懐へと、するりと滑り込んだ。


「それにしてもよォ。あんたらみたいに腕の立つ屈強な傭兵たちが、どうしてこんな下層の湿っぽい酒場で管を巻いてるんだ? この都市の太守様は、随分と気前がいいって噂だったぜ?」


 ザイドがわざとらしく首を傾げると、傭兵たちの一人がジョッキをドンと乱暴に置き、忌々しげに唾を吐き捨てた。


「ケッ、どこの噂だそりゃ! あのクソ太守、最近じゃケチりやがって、俺たちへの給金は遅れに遅れてるんだよ!」

「そうそう! そのくせ、自分は高台の館で夜な夜な贅沢な宴を開いてやがる。やってられねェよな!」


(……ビンゴだ)

 ザイドはさらに、疑心暗鬼の火種を放り込む。


「へえ、そいつはおかしいな。だって、あの太守様、最近ザルカの商隊から不当な関税をふっかけて、しこたま儲けてるって話だぜ? 商人たちが不満を漏らしてた」

「なんだと!? 関税を搾り取ってるのに、俺たちに金が回ってこねェってのか!?」

「あ、いや、俺もただの噂で聞いただけで……」


 ザイドはわざとらしく周囲を見回し、声を潜めた。

「……ここだけの話だけどよ。俺ァ、数日前に太守の館の裏手で、奇妙な『文書』を拾っちまってさ」

「文書……?」

「ああ。小難しい字だったからよく分からなかったけどよ……『傭兵への報酬削減分』を『東の別邸の隠し金庫へ送金する』……なんてことが、太守の裏判つきで書かれてたような気がするんだよな。いや、俺の勘違いかもしれないけどよ」


 その言葉が落ちた瞬間、酒場のテーブルの空気がピキリと凍りついた。

 傭兵たちの目が、みるみるうちに怒りと疑念で赤く血走っていく。


「太守の野郎……っ、俺たちを使い捨てにして、自分だけ私腹を肥やして逃げる気か……ッ!」

「おい、その文書はどこにある!? 今すぐ見せろ!!」

「ひぃッ! す、捨てちまったよ! あんなヤバそうなモン、持ってたら殺されちまう!」


 ザイドが怯えたフリをして縮み上がると、傭兵たちは「チッ! 探しに行くぞ!」と血相を変えて酒場を飛び出していった。


 ……これでよし。

 例の偽造文書は、イブンの薬で古びたように見せかけ、すでに太守の側近や傭兵団長の目につく館の裏路地に、彼の手でいくつかバラ撒いてあった。

 連中が血眼になってアレを見つけ出せば、ただの噂は〈確信〉へと変わる。

 追い詰められた太守は疑心暗鬼に陥り、弁明すればするほど怪しまれ、やがて有能な部下を自ら粛清し始めるだろう。

 剣を抜くまでもなく、この堅牢な要塞は内側から勝手に崩壊していく。


「……へへっ。相変わらず、最高にタチの悪い絵図だぜ、兄貴! 俺ってば今回大活躍だなぁ」  


 ザイドは薄暗いテーブルの片隅で、空になったジョッキを傾けた。  

 表面がすり減った古い一枚の銀貨を、右手の指の関節から関節へと、まるで生き物のように滑らせる。  


チャッ……チャッ……。  


 銀貨が指の間で微かに鳴る、その乾いた音。どれほど上等な酒を飲んでも、この音を聞くと、ザイドの鼻の奥にはいつも決まって、王都グラナダの最下層スラム――『這い虫の街』の、腐った泥水と冷たい雨の匂いが蘇ってくる。


 彼が弄んでいるこの銀貨は、元はただのいかさま道具ではなかった。  

 十歳にも満たない孤児だったザイドが、スリの相棒だった少年ナディールと二人で、初めて貴族の財布から抜き取った記念すべき『全財産』だった。


『すげェよザイド! この銀貨があれば、俺たちいつか絶対こんなイヤな場所から抜け出して、大金持ちになれるぜ!』  


 土まみれの無邪気な顔をくしゃくしゃにして笑ったのは、ナディールだった。彼のその顔を、ザイドは生涯忘れることはないだろう。


 彼らがこの、底辺の腐った世界から抜け出すために会得した手業は、決して誰かに手取り足取り教えられたものではなかった。  

 すべては、失敗すれば即座に腕を切り落とされ、ドブ川に蹴り捨てられるという極限の恐怖の中から、綱渡りを繰り返して身につけた生存本能の結晶だ。


 最初は、ただ市場でパンを盗むだけのコソ泥だった。  

 だが、幾度となく商人に棒で打ち据えられ、衛兵に追い回されて死にかけた相棒二人は、生き残るために”頭”を使い始めた。

 ゴミ山から拾い集めた、錆びついた南京錠や複雑なからくり箱。彼らは光の届かない廃屋の奥で、拾った細い針金や鳥の骨を使い、指先の皮が擦り切れ血が滲むまで、何千回、何万回と鍵の構造を弄り回した。   


 暗闇の中でも、指先の感覚とカチリという微かな音だけで、ピンが外れる瞬間を完璧に把握できるようになるまで、互いに競い合うように技術を磨き続けたのだ。


 演技やイカサマも、文字通り命懸けの「実戦」で培ったものだ。  

 ターゲットは、スラムに迷い込んだ金持ちや、傲慢な貴族たち。  

 ナディールがわざと馬車の前に飛び出して「痛い! 足が折れた!」と真に迫る涙と悲鳴で周囲の視線を完全に釘付けにし、そのわずか一秒の死角を突いて、ザイドが猫のように音もなく忍び寄り、一切の気配を殺して懐から財布を抜き取る。  他者の心理の盲点を突く、阿吽の呼吸を持つ二人だからこそできた連携技であった。

 少しでも手元が狂えば、あるいは演技が嘘だとバレれば、二人の命はそこで終わりだ。  

 実際に一度、衛兵に手首を掴まれ、ザイドが短剣で指を斬り落とされそうになった絶体絶命の夜もあった。だが、ナディールが己の身を挺して狂犬のように衛兵の腕に噛みつき、血まみれになりながらもザイドを逃がしたことで、辛くも窮地を脱したのだ。


 やがて彼らの手業は裏社会の情報屋である師匠ファサルの目に留まり、他人の歩幅を模倣して気配を消す歩法や読唇術、虚言を真実のように広める方法など、諜報の極意を叩き込まれた。  

 自分たちこそが王都の暗闇を支配していると、全能感に酔いしれた時期もあった。  


 ーーだが、彼らが抱いたささやかな夢と薄氷の自尊心は、特権階級の巧妙な罠によってあっけなく砕け散った。


 氷雨の降る夜。  

 王都の重臣の決定的な裏事情を掴んだ師匠ファサルは、莫大な口止め料の取引のため、指定された廃倉庫へザイドたちを連れて向かった。  

 読唇術や気配察知を極めた彼らは、周囲に伏兵の息遣いが一つもないことを完璧に確認した上で、その場所へ踏み込んだ。


 ……それこそが特権階級の用意した冷酷な罠だった。  

 権力者たちは、スラムの底辺どもとまともに交渉する気など最初からなかった。

 彼らは暗殺者を潜ませるのではなく、ただ周囲の退路を完全に封鎖し、廃倉庫の屋根から問答無用で大量の重油を流し込んだのである。   

 ボウッ!と、瞬く間に立ち上がった逃げ場のない炎の壁に四方を囲まれる。他人の心理を突く手業も、気配を殺す歩法も、すべてを飲み込む無慈悲な力押しの前には、何の役にも立たなかった。


 猛煙に巻かれ、むせ返りながら外へ飛び出した彼らを待っていたのは、氷雨の中にズラリと並んだ完全武装の近衛兵たちの、分厚い槍衾やりぶすまと弩弓の壁だった。


「路地裏のゴミどもに、交渉などおこがましい。一匹残らず殺せ」  


 冷酷な命令と共に、無数の矢が放たれる。

 高度な体術で数本の矢を躱したファサルだったが、圧倒的な数の暴力の前に為す術もなく全身を射抜かれ、虫けらのように絶命した。  

 そして、完全に退路を断たれた絶望の中、


「ザイド! お前だけでも生きろォォッ!」  


 ナディールが血走った目で狂ったように叫び、自ら囮となって近衛兵の槍衾めがけて決死の特攻を仕掛けたのだ。  

 鈍い肉の裂ける音と共に、親友の身体が無数の鋼に串刺しにされる。その血まみれの骸は、靴裏の泥でも払うかのように、冷たい泥水の中へ無造作に蹴り捨てられた。


 ザイドは、ナディールが命に代えて作ってくれたほんの数秒の隙に排泥溝に滑り込み、悪臭を放つ泥水に肩まで浸かった。  

 そして、師匠から叩き込まれた己の気配を殺す技術で、息を止め、血の涙を流しながら、ただその惨劇を見届けることしかできなかった。


 特権階級にとって、スラムの命はいつでも使い捨てられるゴミに過ぎない。  

 どれほど裏社会の技術を極めようと、金で買える武力と権力には勝てない、決して覆ることのない絶対的な身分の壁がある。



 その夜から、ザイドの夢と心は完全に死に、誰かの使い捨ての駒として、薄ら笑いを浮かべながらただただ生きながらえるだけの人生になったはずだった。


 チャッ……。  

 指先で弾いた銀貨が、ザイドの掌の中にピタリと収まった。

 

 目の前のテーブルでは、ザイドのばら撒いた噂に怒りを滾らせた傭兵たちが、怒号と共に酒場からなだれ出していく。  

 その熱気を見送りながら、ザイドは静かに酒杯を置いた。  

 あの雨の夜から、ずっと冷え切っていたはずの腹の底に、今は微かな、しかし確かな熱が宿っている。


 酒場の外へ出ると、ザイドは夜風に吹かれながら城壁の上を見上げた。  

 出撃の前日、白銀の甲冑を纏ったファリードは、ザイドの細い肩を両手で力強く握ってこう言った。


『ザイド。危険な役目を押し付けてすまない。……お前の働きが、我々の命を救う。頼んだぞ』


 あのお方は、大帝国の頂点に立つ血筋でありながら、自分のような底辺の人間に頭を下げ、人間として命を預けてくれたのだ。  

 特権階級の腐敗を憎み、仲間たちと同じ目線で笑い合い、誰の命も決して使い捨てにしない底抜けに純粋な王。  

 その真っ直ぐな金色の瞳に、いつしかザイドはかつて親友や師匠と共に夢見た『いつかここから抜け出すための希望の光』を見ていた。


「……ナディール。親父さん」


 ザイドは手の中の銀貨を強く握りしめ、暗い夜空を見上げながら、かつての相棒と師匠に向けて誰にも聞こえない声で呟いた。  

 そして、いつも通り、スラムで身につけた軽薄で、人を食ったような悪党の笑みを顔に貼り付ける。


「俺は今、最高に割のいい仕事に乗ってるぜ。……この俺様の磨き上げた技術で、俺たちをゴミ扱いしたあの大帝国を、まるごとひっくり返してやるのさ」


 ザイドは外套の襟を立てた。

 外の夜風には、もう泥水と血の匂いはしない。ただ、これから崩壊していく強大な要塞都市の、静かな死の気配だけが漂っていた。


 「さあて、次は商人さんたちの不満に火を点けてくるかな。……この街の太守様には、地獄の底まで落ちる最高の喜劇を用意してやらねェとな」


 暗黒の夜の街に、スラムの密偵の軽薄な、だが何よりも頼もしい笑い声が溶けていった。

 軍事要塞都市陥落のカウントダウンは、すでに止まらないところまで進んでいた。


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