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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
五章

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34/42

決死の潜入

 ――それから、半年の月日が流れた。

 今日もガレブ渓谷の風が、白亜の独立都市ザルカから運ばれてきた新しい革と鉄の匂いを、赤蠍の砦へと運んでいる。

 ザイドは自身の言葉通り、ハディードと赤蠍の砦を定期的に往復する生活を続けていた。  

 都市に配置した部下たちが集めた膨大な情報を持ち帰り、マーシャに報告して次の指示を仰ぐ。


 その定期報告で砦に帰還して羽を伸ばしているタイミングには、彼はファリードの乗馬特訓を中庭で冷やかしたり、はたまた部下たちや兵士たちにいかさま術を教えてカディルにドヤされたりして、陣営の温かい日常を共に過ごしていた。    

 そして、その半年の間に、赤蠍の砦の地下には、マーシャが新しく構築した為替のシステムを駆使して集められた数千の兵を数ヶ月は養えるだけの備蓄が積まれ、陣営は一気に大帝国と戦えるだけの強大な軍へと変貌を遂げていた。    

 情報も、軍備も、期は熟した。


「……そろそろ、本丸の奥深くに隠されたトドメの弱点を引きずり出す時だな」  


 そして今宵。

 ハディードの下層で半年間じっくりと部下たちに探らせていた都市の綻びの確証を得たザイドが、いよいよ最も危険な本丸の隠し金庫へ向けて、決死の単独潜入に挑むのだ。

作戦室を後にし、出立の準備を整えていたザイドの背中に、低く冷たい声が飛んだ。


 「……おい、ザイド」  


 振り返ると、薄暗い廊下の壁に寄りかかるマーシャと、怪しげな木箱を抱えたイブンの姿があった。  


 「へへっ、なんだい兄貴。見送りならカディルの旦那の熱い抱擁の方が――」

 「軽口を叩くな。お前が捕まれば、殿下の命が危うくなるんだぞ」  


 マーシャは男物の外套の腕を組み、ターバンの奥の黒曜石の瞳でザイドを鋭く見据えた。


 「ハディードは三重の城壁を持つ。正面からの侵入が不可能な以上、お前が狙うのは都市の汚水を大河へ排出する排泥水路だろう」

  「……ご名答。どんな立派な城でも、人間が住んでる限り排泄物とゴミを捨てる穴は必ずある。そこの鉄格子さえ抜けりゃ、あとはこの俺様の独壇場さ」  


 飄々と答えるザイドの前に、イブンがヌッと進み出た。


「ヒッヒッヒ……ですが、ハディードの排泥水路は外敵の侵入を防ぐため、完全に水没している区間が長く複雑ですぞ。普通の人間なら途中で息が絶える。……これを」


イブンが手渡したのは、怪しく濁った青い液体の入った小瓶と、鼻をつく異臭を放つ泥のような軟膏だった。


「この小瓶の薬は、神経毒を致死量の一歩手前で極限まで薄めたもの。強制的に心拍を落として酸素の消費を抑え込み、通常の三倍は息が続くようになるものです。ただし、血流が遅くなる副作用で、半日は身体が氷のように冷たくなりますがな」

「げっ……相変わらずヤバそうなモン作りやがるな」

「ヒッヒ、私の毒の腕だけではありませんぞ。……軍師殿から異国の”理科”なる概念と、強酸の理屈を教わってから半年。私の毒物学と、大帝国の錬金術の粋を掛け合わせてようやく形にした合作です」


 イブンは自慢げに、軟膏を指差した。


「そちらの軟膏は、金属の腐食を急激に早める特製の酸です。……液体のままだと鉄格子を溶かし切る前に下に流れ落ちてしまうため、軍師殿の入れ知恵で獣脂を混ぜ、金属にべったりと張り付くペースト状に仕立ててあります」


 マーシャが元の世界で学んだうろ覚えの部分も多い基礎的な理科の知識と、イブンの調合技術、そしてこの世界で培われた高度な錬金術。そのすべてを合体させ、試行錯誤の末に生み出された「化学兵器」とも言えるものである。


「……なるほどな。こいつがあれば、あの分厚い鉄格子も容易く外せる」


 ザイドは顔をしかめながらも、その二つの切り札を大切に懐へ滑り込ませた。


「……死ぬなよ、ザイド」


 すれ違いざま、マーシャがぽつりと呟いた。

 ザイドはニヤリと笑い、背越しにヒラヒラと手を振って、今度こそ本物の夜の闇へと姿を消した。



 数日後、月のない新月の夜。  

 要塞都市ハディードの巨大な三重城壁が、絶望的な壁となって夜闇にそびえ立っていた。  

 その最も外側、巡回する衛兵の松明の光が届かない死角、城壁の下部にポッカリと口を開けた排泥水路の鉄格子に、ザイドは音もなく取り付いた。  

 イブンから渡された酸の軟膏を塗りつけると、ジュゥゥゥッという微かな音と共に、分厚い鉄格子がボロボロと音を立てて崩れ落ちる。


 「……さて、ヤブ医者の薬が効かなかったら、溺死して野犬の餌だな」

 

 ザイドは青い劇薬を一息に煽ると、鼻をつまんで真っ黒な汚水の中へと音もなく潜り込んだ。

 

 息が詰まるような悪臭と、急激に薬が効いて心臓が止まりそうになるほどの氷のような冷たさに肺が限界を迎え、意識が遠のきそうになる。

 だが、スラムの底辺で生き延びてきた彼にとって、この程度の苦行はまだ手の内だ。   

 長い水没区間を泳ぎ切り、都市の最下層である第三城壁の路地裏へと浮上したザイドは、素早く黒装束の汚水を絞り、暗がりから街の様子を伺った。


 「……ひどい有様だな」

 ザイドは思わず眉をひそめた。


 大帝国の防衛の要であるはずの外郭は、泥と排泄物の臭いが充満し、まさに生きた地獄だった。

 路地のあちこちに、飢えと疲労で虚ろな目をした下層民がうずくまっている。酒場の前では、三ヶ月も給金を絶たれた傭兵たちが、濁った粗悪な麦酒を煽りながら血走った目で怒号を交わしていた。彼らの放つ殺伐とした空気は、今にも暴発しそうな熱を帯びている。


 ザイドは気配を殺して影から影へと跳躍し、外郭から第二城壁の商業区画へと侵入した。

 中層に入ると、建物の造りは小綺麗になるものの、本来あるべき活気はどこにもなかった。太守の苛烈な関税の引き上げにより、立ち並ぶ商店の棚はスカスカで、商人たちは皆、借金取りに追われるように青ざめた顔をして歩いている。


(都市の末端が完全に腐りかけてやがる。……おっ?)


 ザイドが壁に張り付いてさらに上層へ向かう経路を伺っていると、ちょうど第一城壁へ向かう荷物運搬用の巨大な昇降機の前で、数人の業者たちが荷車に荷物を積み込んでいるのを見つけた。

 太守が毎晩開いているという豪奢な宴のために、ザルカ産の極上のワイン樽や、氷で冷やされた色鮮やかな果実が次々と運び込まれているのだ。


 「おい、慎重に運べよ。このワインを一樽でも傷つけたら、太守様に首を刎ねられるぞ」

 「分かってるよ。……それにしても、おかしいぜ。外郭の傭兵どもはカビた麦の粥すら食えずに餓死しかかってるってのに、本丸じゃ毎晩こんな極上品でどんちゃん騒ぎかよ」


 見張りの目を盗み、業者の男たちが憎々しげに小声で毒づくのを、ザイドは樽の裏側に張り付いて盗み聞きしていた。


 「俺たち商人だって無茶苦茶な関税を搾り取られて、もう首が回らねェ。太守の野郎、自分だけ私腹を肥やして、この都市ごと俺たちを見捨てる気なんじゃねェか?」

「しっ! 滅多なことを言うな、殺されるぞ……ほら、昇降機が動く、押し込め!」


  業者たちの怨嗟の声と共に、ザイドの張り付いたワイン樽が昇降機へと押し込まれ、巨大な歯車の音と共に上層へと引き上げられていく。


 (へへっ、アミーナ様のおかげで、退屈な権力者の習性はよーく分かってるぜ。……それにしても、いい火種がそこら中に転がってるじゃねェか)


 昇降機が第一城壁、本丸に到着した瞬間。

 ザイドの鼻腔を突いたのは、先ほどの外郭の汚水の臭いとは対極にある、ほのかに香る乳香と果実の甘い匂いだった。

 大理石で舗装された床。純金で彩られた柱。廊下の至る所に煌びやかな絨毯が敷き詰められ、遠くの広間からは、弦楽器の優雅な調べと女たちの嬌声が漏れ聞こえてくる。


 同じ城壁の内側だとは到底思えない、狂気すら感じる豊かな富の別世界。

 下層の民から搾り取った血と肉のすべてが、この本丸の贅沢を満たすためだけに消費されているのだ。

 ザイドは猫のような身のこなしでワイン樽の影から滑り出し、すぐそばの豪華な柱の死角へと入り込んだ。

 宴の喧騒と、運び込まれるご馳走に気を取られ、城内の警備は明らかに手薄になっている。

 

 ザイドはキョロキョロと周りを見渡すと、衛兵があくびをしたその隙を突き、ザイドは太守の執務室の窓から音もなく忍び込んだ。

 窓枠からふわりと着地した瞬間、彼のブーツは足首まで沈み込むような、分厚く柔らかな真紅のペルシャ絨毯に吸い込まれた。


 「……吐き気がするぜ」

 ザイドは思わず鼻をつまんだ。


 部屋の隅にある巨大な香炉からは、王都から取り寄せたであろう最高級の香料が惜しげもなく焚き込められており、甘い匂いが充満している。

 壁には希少な白虎の毛皮や、純金で縁取られた大帝国の紋章。部屋の中央には、見たこともないほど巨大で立派な紫檀したんの執務机が鎮座していた。

 外郭の傭兵たちが太守の政策で餓死しかけているというのに、同じ城壁の内側で、この男はこれほどまでにふんだんな贅沢品の中でふんぞり返っているというのか。


 「さてと。一番見られたくねェもんは、どこに隠してある?」


 ザイドは猫のような身のこなしで部屋を探索し、すぐに壁に掛けられた巨大な絵画の不自然な隙間に気がついた。 壁の絵画の裏に隠された精巧な金庫。 だが、彼の最高の鍵開け技術をもってすれば、それもわずか数分で無防備に開け放たれた。


「ふん、こんなもんかよ。ちょろいもんだぜ。油断し切っているんじゃねぇの? よしお宝の拝見といくか」

 金庫の中を探ったザイドの手が、ふと止まった。

「……ん? なんだ、こりゃ?」


 一番手前の取り出しやすい場所に、厳重に布で包まれた古い木箱が置かれていたのだ。 

 中に入っていたのは、太守が持ちそうな金貨や宝石ではなく、血の染みや泥の汚れがこびりついた、数通のボロボロの羊皮紙の束だった。

 ザイドは眉をひそめ、薄暗い月明かりを頼りに、その手紙の文字を追った。

 裏取引の証拠などではないようだ。

 

『――ザヒール閣下。第三防衛線の死守、七日目を迎えました。蛮族の猛攻により、残存兵力はついに三割を切っております。 王都からの補給は未だ届かず、矢は尽き、兵たちは自らの馬の血をすすり、野草を噛んで飢えを凌いでおります。……ですが閣下。我らハディードの盾は、誰一人として逃げ出す者はおりません。貴方様と共に誓ったこの大帝国への忠義、最後まで貫き通す所存です。どうか、我らが全滅する前に援軍を――』


 その羊皮紙の末尾は、生々しい赤黒い血の染みによって、無惨に途切れていた。

「……なんだよ、これ」

 ザイドは息を呑み、その下にあった別の羊皮紙をめくった。


 羊皮紙をめくり、そこに書かれた文字を追うごとに、それらは十数年前、このハディードの城壁の外で北の蛮族と死闘を繰り広げていた前線の部下たちからの、悲痛な最期の陣中報告書であることが明らかになってくる。


 『王都グラナダの諸卿へ! 何故、約定の兵糧と援軍を送らぬ! 彼らは帝国の最前線で、貴様らが安全な王宮で美酒を飲んでいる今この瞬間も、命を懸けて血を流しているのだ! 彼らを辺境の田舎者と見下し、政争の捨て駒として見殺しにする気か! 私の地位も、領地も財産もすべて差し出す。だからどうか、彼らに……私の誇り高き部下たちに、明日の麦と矢を与えてやってくれ!!』


 羊皮紙が破れるほど強い筆圧で書き殴られた、血を吐くような悲痛な叫び。

 王都グラナダの貴族たちの悪辣な謀略によってわざと補給線を絶たれ、見殺しにされようとしている部下たちを救うため、太守ザヒール自身が王都へ向けて書き殴った、嘆願書の写しだった。

 だが、その願いが王都に届かなかったことは、今のザイールの噂や現状を見れば明らかだった。


「……あの強欲なクソ太守が。昔は、こんなにも部下思いの熱ェ武将だったってのか?」


 ザイドは呆れたように、重い息を吐き出した。 王都の陰謀に部下を嵌め殺され、誇りを完全にへし折られた男の絶望。


 こんな金にも権力にもならない、ただの忌まわしい過去の残骸を。

 金と権力に縋るだけの豚に成り下がったはずの太守は、一番安全な金庫の奥底で、今日までずっと大切に保管していたのだ。

 完全に捨てきれなかった、かつての自分自身の『誇り』への、惨めな未練と言えるべきものだった。


 「……だが悪いな。過去の誇りじゃあ、今のアンタが民草を苦しめてる罪は帳消しにならねェよ」

 ザイドは冷たく吐き捨てると、その手紙の束を無造作に脇へ除け、さらに金庫の奥へと手を伸ばした。


 「へへっ、こいつは俺のボーナスだぜ。命懸けの潜入なんだ、これくらい貰って行かねェと割に合わねェやな!」

 ザイドはニヤリと悪党の笑みを浮かべ、両手で宝石と金貨を掬い上げると、自身の懐とズボンの袋へパンパンになるまでちゃっかりと詰め込み始める。

 ずしりと重い戦利品に任務完了の笑みを浮かべた、まさにその瞬間だった。


 ――ゾクッ。

 ザイドの全身の産毛が逆立ち、背筋に氷のような悪寒が走った。

 音は一切ない。

 呼吸の気配すらない。

 だが、太守の私兵とは明らかに違う、”無音の殺気”が背後の暗闇から膨れ上がっていたのだ。


 (……ヤバい。こいつはただの兵士じゃねェ、死神だ!!)


 スラムの暗闇を生き抜いてきた、彼のずば抜けた生存本能が警鐘を鳴らす。

 相手は、ザイドの気配察知を完全にすり抜けて、至近距離まで接近してきた本物の化け物。

 このズッシリと重い宝石を抱えたままでは、逃走の足が鈍り、間違いなく一瞬で喉を掻き切られる。


 「……うおおお俺のシノギがあぁぁッ!!」

 ザイドは血涙を流すような思いで内心で叫び、懐に詰め込んだばかりの宝石と金貨を、背後の殺気の中心へ向かって躊躇うことなくすべてぶん投げた。

 莫大な富への未練よりも、己の命が最優先だ。


 身軽になった身体をバネのように弾かせ、ザイドが横へ転がった直後。

 ヒュッ、と。

 闇夜を切り裂く鋭い風切り音が鳴り、ザイドの頬を掠めた黒塗りの投げナイフが、目の前の石壁に深々と突き刺さった。

 もし宝石の重さで一秒でも動きが遅れていれば、間違いなく彼の頭蓋骨を貫いていた必殺の一撃だった。


 「ちくしょうッ! どいつもこいつも、しつこい野郎どもだぜ!」


 入ってきた窓からするりと外へと飛び出し、壁をよじ登ると第一城壁の屋根の上を、肺が破けそうなほど荒い息を吐きながら、獣のような身のこなしで駆け抜けていく。黒装束はあちこちが切り裂かれ、左腕からはべっとりと血が流れ落ちながら。


 背後を振り返る余裕すらない。

 ザイドは屋根の縁を蹴り立て、第二城壁の堀に向かって、決死の覚悟で夜の闇の中へ身を躍らせた。

 その瞬間にも背後から放たれる無数の毒矢が、彼の体を掠めていく。


 難攻不落の要塞都市ハディード。

 都市に潜入し、厳重な警備をすり抜けて太守の執務室の隠し金庫を開け、ヤバい代物を懐に収めたまでは良かったものの。

 出くわしたのは、太守の私兵とは明らかに動きの違う、異様な殺気を放つ謎の漆黒の集団。


「俺は……っ、殿下の目であり、耳なんだ! こんなところで、くたばるわけにはいかねェんだよッ!!」

 ザイドの身体は、冷たい堀の水の中へと激しい飛沫を上げて吸い込まれていった。

 彼はばら撒かれた宝石の雨で暗殺者の視界がほんの一瞬遮られた隙を突き、蹴り上げるようにして窓から夜の闇の中へ、決死のダイブを敢行したのだった。

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