サフィヤ
冷たい窓枠に額を押し当て、十五歳の少女ーーサフィヤは眼下に広がる巨大な都市を見下ろした。
ここは、大帝国シャジャルの北西に位置する、難攻不落の要塞都市ハディード。
過去数百年にわたり、北の騎馬民族や西の十字軍の侵攻を跳ね返し続けてきた、大帝国最前線の巨大な盾ともいえる重要拠点となっている。
視線を上げれば、都市を貫くように流れる大河シャジャルの雄大な水面が、朝日に照らされて黄金色に輝いている。
このハディードには、辺境の富と食糧が一度すべて集積され、あの大河を経由して王都グラナダへと送られる、大帝国における循環地点とも呼ばれる物流の要衝でもあった。
サフィヤの紫水晶瞳が、大河を行き交う無数の商船を静かに追う。
(……あの船は、私が一生見ることのない王都や、遠い異国へと向かっていくのね)
外敵の侵入を完全に拒絶する、階級ごとに分けられた巨大な三重城壁。
だが、その鉄壁の守りは、最上階の塔から下界を見下ろすサフィヤにとっては、自分をこの息の詰まる本丸に閉じ込めるための、分厚い鳥籠でしかなかった。
そんな最も内側、第一城壁、本丸の最上階にある豪奢な部屋で、太守の一人娘サフィヤの朝は、誰よりも早く始まる。
まだ空が白み始めたばかりの薄暗い時間。
サフィヤは音を立てずにベッドを抜け出すと、隠しておいた小さな蝋燭に火を灯し、城の書庫から持ち出した帳簿と、自身で書き溜めた分厚いメモの束を机に並べた。
「……これなら。中層の商人たちの関税を二割引き下げ、その分を外郭の傭兵への給金に回せば、都市の財政を破綻させることなく暴動は防げるはず……」
彼女の指先は震えている。
それが、サフィヤの毎朝の密かなルーティーンだった。
表向きは、王都の貴族へ嫁ぐための献上品として、一日中退屈な刺繍や楽器の練習を強いられている。
だが彼女は、夜間や早朝のわずかな時間を盗んでは、城の書庫からこっそり持ち出した都市の法典や、大河の物流を記した過去の関税記録、そして太守の裏帳簿の写しを読み解いていた。
一つは、ハディードの第二城壁、中層を管理する関税所の記録。
もう一つは、太守が王都へ提出する予定の納税報告書の写しである。
「……やはり、数字が合わないわ。それも、誤差と呼べるレベルじゃない」
サフィヤは羽ペンを握り、二つの記録を知性を感じさせる紫水晶の瞳で照らし合わせていく。
「まず、独立都市ザルカから納入された極上ワイン。先月だけで五百樽が中層の関税所を通過している。帳簿によれば、お父様はザルカの商隊に対し、通常の三倍にあたる”金貨千五百枚”もの法外な関税をふっかけて徴収しているわ 。……でも、王都への報告書には”ワイン百樽、関税三百枚”としか記されていない」
サフィヤの指先が、羊皮紙の上を滑る。
「ワインだけでなく、北方の特注の鋼鉄も、東方の絹も同じ。中層の商人たちから苛烈に搾り取った莫大な関税のうち、八割近くが王都の記録から完全に消え失せている。……差額の金貨はすべて、お父様の東の別邸の隠し金庫へ流れているとしか考えられない」
彼女は小さくため息をつき、もう一つの帳簿――都市の食糧備蓄の記録へと目を移した。
「さらに深刻なのは、麦の流通量。ハディードの備蓄庫には、数万の兵を何ヶ月も養えるだけの麦が山のように積まれているというのに、先週、第三城壁の傭兵と下層民へ放出された配給量は、わずか百袋。……都市防衛を担う彼らを維持するために最低限必要な量の、一割にも満たないわ」
数字は、嘘をつかない。
サフィヤは着飾っただけの令嬢ではなく、都市の構造を経済の循環として理解できる優れた頭脳を持っていた。
だからこそ、帳簿に並ぶ歪な数字の羅列から、彼女の父親ーハディードの太守、ザヒールの浅ましく冷酷な思考回路が完璧にトレースできてしまうのだ。
(……お父様はいつもそうだわ。自分より強い者――王都の皇帝マレク様にはひたすら恐怖して平身低頭するくせに、決して逆らえない中層の商人や下層の民からは、骨の髄まで搾り取ろうとする)
幼い頃から見せつけられてきた、保身と強欲にまみれた父の姿。
統治者としての責任など微塵も持たないその男が、自分と血の繋がった肉親であるという事実に、サフィヤは胸の奥で静かな、しかし氷のように冷たい嫌悪と怒りを煮えたぎらせていた。
(でもお父様も、昔から強欲だったわけではなく、かつては最前線で血に塗れながら都市と民を守る、傷だらけで誇り高い名将だったと聞く。……だが、どれほど血を流して国を守っても、王都の貴族たちには見下され、とどめにマレク様の始めた恐怖政治が彼の誇りを完全にへし折ってしまった。……今のあの人は、金と権力という見えない鎧を着て怯えているだけの、哀れな抜け殻だわ)
一瞬、幼い頃に一度だけ父に肩車をされて街の祭りを見下ろした記憶が蘇った。
民衆から「我らが太守様!」と歓声を浴びて誇らしげに笑っていた父の背中の記憶が鮮明に浮かぶ。URLはそんな父が心の底から誇らしかった。
ーだが、そんなのは言い訳にはならない。
「……お父様は、自分の隠し財産を増やすためだけに、ザルカの商隊と中層の商人たちから限界まで富を搾り取り、その皺寄せとして外郭の民を飢えさせている。こんな異常な搾取を続ければ……いずれ必ず、誇り高いザルカの女領主様の怒りを買い、報復を受ける。そして何より、外郭の傭兵たちが飢えの限界を超え、都市の内部から反乱が起きるわ。」
我が父ながら、あまりにも破滅的で愚かな行いだ。
生真面目な彼女の正義感は今すぐ止めなければと叫んでいる。
だが――サフィヤの紫水晶のような瞳に宿った怒りの熱は、すぐに重く暗い諦念の底へと沈み込んでいった。
(でも、それが分かったところで……力を持たない私に、何ができるというの?)
彼女は無意識に、自身の細い腕をきゅっと強く抱きしめた。
間違っていると正論で立ち向かったところで、あの父が耳を貸すはずがない。
過去に何度もそうだったように、薄汚れたゴミを見るような目で睨みつけられ、容赦のない暴力で大理石の床にねじ伏せられるだけだ。
あの男にとって、娘である自分は血の通った人間ではない。
王都の老将に高く売るための、綺麗な顔をしたただの”商品”なのだ。
どれほど正しい知性を持っていようと、どれほど民を憂いていようと、この絶対的な権力とその力で押し込められた鳥籠の中では無意味。
抵抗して状況を変えようとする気力すら、物心ついた頃からの徹底した支配によって、とうの昔に完全にへし折られていた。
サフィヤは顔を青ざめさせ、血の気の引いた指先で羽ペンを机に置いた。
「サフィヤ様。……また、そのように暗い所で難しい書物を。お目が悪くなってしまいますよ」
困ったような、しかし慈愛に満ちた声と共に、年老いた侍女・ファティマが温かい朝食の盆を運んできた。サフィヤが最も古くから心を許す乳母である。
「ごめんなさい、ファティマ。でも、どうしても放っておけなくて……わあ」
サフィヤは盆の上を見て、パッと年相応の少女らしい笑顔を咲かせた。
そこには、温かい羊乳のスープと共に、彼女の好物である無花果の蜂蜜漬けが添えられていたのだ。
「ふふっ、厨房の下働きにお願いして、少しだけ分けてもらったのです」
「いうもありがとう! 私、これ大好きなの」
無花果の甘い香りは、サフィヤにとって亡き母親との大切な思い出の味だった。
政略結婚で辺境から嫁いできた心優しい母は、冷酷な父から愛されることはなく、サフィヤが幼い頃に病でこの世を去った。
だが母は、高い塔に閉じ込められていた幼いサフィヤに、よくこの甘いお菓子を分け与えながらこう教えてくれたのだ。
『サフィヤ。私たちは鳥籠の鳥かもしれないけれど、知識と思いやりだけは、誰にも奪えない目に見えない翼になるのよ』と。
幼い頃、母はサフィヤを抱き上げて塔の上から窓の外を見せ、「私たちはこの城から出られないけれど、あの民たちの笑顔と活気が、私たちに世界を見せてくれるのよ」とよく語っていた。
母は、塔の窓から見下ろすハディードの活気ある街並みや、大河を行き交う船、そして泥臭くも力強く生きる民たちの営みを、心から愛していたのだ。
サフィヤにとってハディードの街は「亡き母の愛した景色そのもの」。民が飢えて街の活気が死に絶えることは、母との大切な思い出がこの世から完全に消えてしまうようで恐ろしかった。
サフィヤは無花果を一口かじり、その甘さに目を細めながらも、自身の食事を半分だけ小さな皿に取り分けた。
「これは、サミールに持たせてあげて。あの子、また昨日も外郭への配給が減って、家族が麦の粥しか食べられなかったって言っていたから」
ファティマは、自らの食事を迷いなく下働きの少年に分け与える姫君の姿に、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。
(……亡くなられた奥方様にそっくりですわ。お優しくて、ご聡明で……)
ファティマは、自身の荒れ果てた手を優しく包み込んでくれるサフィヤの温もりを感じるたび、残酷な運命を呪わずにはいられなかった。
この方は、いずれ見知らぬ好色な老将の元へ、ただの道具として売り飛ばされてしまうのだ。
なんとおいたわしいことか、と。
* * *
昼下がり。
「失礼します」と甲高い声と共に、空の水差しを回収しに一人の少年が入ってきた。
外郭出身の給仕の少年、サミールだ。彼はまだ十二歳ながら、すばしっこくスラムの裏事情に通じている。サフィヤにとっては、城壁の外の、血の通った情報をもたらしてくれる貴重な耳だった。
「サミール、外の様子はどう?」
サフィヤが朝に残しておいた無花果の菓子をこっそり彼の手元へ滑り込ませると、サミールは「い、いつもすんません、姫様!」と目を丸くした。
サミールは、この城の人間を全員憎んでいた。
外郭の人間を使い捨ての道具としてこき使う太守への憎悪は、彼ら下層民の骨の髄まで染み付いている。
だが、この姫様だけは違った。
外郭のドブネズミである自分を、いつも「サミール」と名前で呼び、真っ直ぐに目を見て話を聞いてくれる。
(……この人は、俺たちを同じ人間として見てくれてる。こんなすげェ姫様が、あのクソ太守の娘だなんてこの世界はおかしい)
サミールがサフィヤに特別な忠誠を抱いているのには、明確な理由があった。
半年前。
下働きの雑用として城に出入りしていたサミールは、空腹のあまり厨房から古くなったパンを一つ盗み、それが太守に見つかってしまったのだ。
激怒したザヒールは「外様のネズミめ、見せしめに腕を切り落として堀へ投げ捨てろ」と冷酷に命じた。
衛兵に押さえつけられ、泣き叫びながら死を覚悟したサミールを救ったのが、他でもないサフィヤだった。
彼女は震える足でザヒールの前に進み出ると、大理石の床に額を擦り付けて懇願したのだ。
『お父様、どうかお待ちください! その者は私が……私の専属の給仕として買い取ります! 私の小遣いをすべて返上しますから、どうか命だけは!』
太守は「たかがゴミ一匹に何をムキになっている」と鼻で笑ったが、娘の必死の懇願を鬱陶しく思い、もういい、と気まぐれにサミールの命を許した。
サフィヤは父親に反発すれば自分がどうなるかを知っていながら、それでも見ず知らず薄汚れた少年の命を救うために、必死で彼を自分の専属の給仕として引き抜いてくれたのだ。
『孤独だった私にとって、外との繋がりは、窓の下を通りかかる荷運びや下働きの子どもたちだったの。窓から顔を覗かせた私に向かって、大河で拾った綺麗な色の石や、街で流行っている安い飴玉をこっそりと窓越しに投げ入れてくれたのよ。その恩返しをしなくちゃ!』と。
その日から、サミールの命はサフィヤのものだった。
サミールはもらった菓子を大切に懐へしまい込むと、周囲に誰もいないことを確認し、声を潜めて街の惨状を伝えた。
「最悪っすよ。外郭じゃ、傭兵たちへの給金が三ヶ月も滞ってる。中層の商人たちも関税が高すぎて、外郭への麦の流通を完全に絞り始めた。……昨夜なんか、飢えた傭兵たちが酒場で暴れて、怪我人が出たって話だ。姫様が気にしていた俺の家族も、もう三日もマトモな飯にありつけてねェ」
「……給金が三ヶ月も? 関税の引き上げも限界を超えているわ。それは危険すぎる」
サフィヤは顔を青ざめさせた。
毎朝読み解いていた帳簿の数字と、サミールの市井の実際の情報がやはり一致したのだ。
都市の防衛を担う外郭の傭兵たちが飢え、中層の物流が止まれば、外敵が来る前に都市は内側から完全に崩壊する。
この難攻不落の要塞都市が内側から崩壊する瞬間は、もう目の前まで迫っている。
「ファティマ、お父様の執務室へ行くわ。……私が止めなければ、サミールの家族も、この都市を支える数万の民も死んでしまう」
サフィヤの言葉は気丈だった。
だが、彼女のドレスの裾からわずかに覗く細い膝は、小刻みに震えている。
冷酷な父親の底知れぬ恐ろしさを想像するだけで、胃がひっくり返りそうになる。
(怖い……。でも、お母様が言っていた、『知識と思いやりだけは、誰にも奪えない翼になる』と。私が、私の意志で飛ぶのなら、今しかないわ)
彼女はギュッと両手を握り込み、震えを無理やり飲み込んで毅然と顔を上げた。
部屋の扉の前に彫像のように立っていた若き護衛、ラシードがビクッと肩を揺らした。
「……サフィヤ様。越権行為はお控えください。私は太守様より、貴女様を”無傷のまま”お守りするよう命じられております」
「ラシード。私の護衛なら、私の意志に従いなさい。……お父様が間違った道を進むのなら、娘である私が止める。それが、この城に住まう者の責務よ」
反発すればどうなるか、最悪その場で殺されるかもしれない。
それでも、彼女は亡き母から教えられた知識と思いやりを頼りに、震える足で廊下へと踏み出した。
* * *
太守の執務室がある最上階の奥区画は、城内でも異様な静寂に包まれている。
黄金の細工が施された分厚い鋼の扉の前には、外郭の傭兵たちとは明らかに装備の質が違う、大帝国直属の屈強な近衛兵が二名、長槍を交差させて立ち塞がっていた。
「お待ちください、サフィヤ様。太守様は現在、来月の関税の計算でお忙しくあらせられます。お通しすることはできません」
近衛兵は、ザヒールの一人娘であるサフィヤに対しても、事務的で冷たい態度を崩さなかった。
彼らにとっての主は太守のみであり、政略結婚で売り飛ばされる予定の娘など、ただの荷物でしかないからだ。
背後のラシードが屈辱に奥歯を噛み締める中、サフィヤはギュッと両手を握り込み、震えを無理やり飲み込んで毅然と顔を上げた。
「退きなさい。……都市の命運に関わる重大な報告です。娘である私の進言を遮り、万が一手遅れになった場合、あなた方はお父様にどう責任をとるおつもりですか」
ただの箱入り娘だと思っていたサフィヤからの圧と微塵も怯まない態度に、近衛兵たちは一瞬顔を見合わせ、やがて渋々と交差させた槍を退いた。
ギィィィッ……。
重い鋼の扉が開かれると、部屋の香木の匂いがサフィヤの鼻腔を突いた。
外郭の民が麦の粥すら食べられず泥水を啜っているというのに、ザヒールの執務室は、相変わらず狂気すら感じるほどの過剰な富で埋め尽くされている。
床には足首まで沈み込むほどの真紅のペルシャ絨毯が敷き詰められ、壁には希少な白虎の毛皮や、純金で縁取られた大帝国の紋章が掛けられている。
部屋の隅にある巨大な香炉からは、王都から取り寄せた最高級の香料が惜しげもなく焚かれ、下層から立ち昇る悪臭を完全に遮断していた。
その豪奢な部屋の中央、紫檀の巨大な執務机の奥に、この都市の絶対権力者である太守ザヒールがふんぞり返っていた。
彼は娘の入室にも視線を上げず、ただ机の上に山積みにされた金貨を弾きながら、分厚い帳簿に何やら書き込んでいる。
「……何の用だ、サフィヤ。私は忙しい。刺繍の糸の色なら侍女にでも聞け」
「失礼します、お父様。来て早々結論から……単刀直入に言います。どうか、外郭への給金と配給を再開してください」
サフィヤは絨毯の上に立ち、必死に震える声を腹の底から絞り出した。
その言葉に、太守が初めてピタリと金貨を弾く手を止めた。
「帳簿を拝見しました。お父様は関税を私財として横領しておられる。これ以上中層と外郭に圧をかければ、物流が完全に停止し、内部から反乱が起きます!」
感情的になりそうな自分を拳を握りしめることで抑え、毎朝隠れて読み解いていた数字と構造に基づいて冷静な事実のみを突きつける。
しかし、執務机に座るザヒールの顔は、娘の的確な指摘に感心するどころか、自身の不正を暴かれたことに対する激しい怒りで、みるみるうちに赤黒く染め上がっていった。
「……女の分際で、私の書斎に忍び込み、あまつさえ政治に口出しするとは……ッ!」
――パァァァンッ!!
ザヒールが机を蹴り飛ばすように立ち上がり、振り下ろした分厚い手が、サフィヤの頬を容赦なく打ち据えた。
乾いた音が豪奢な部屋に響き、サフィヤの細い身体が大理石の床へ無惨に投げ出される。
「お前がどれほど頭を回そうと、無意味だ!」
ザヒールは、サフィヤが夜を徹して書き上げた手書きの資料を取り上げると、彼女の目の前でビリビリと破り捨て、暖炉の火へと投げ込んだ。
炎に焼かれていく自分の努力と希望を見つめながら、サフィヤは絶望の涙をこぼした。
(......私は、やっぱり無価値なのだわ……。この知識も情報も、民を救いたいという願いも、すべてすべて……力がなければこの城では何の意味もたない)
「サフィヤ様ッ!」
護衛のラシードが咄嗟に駆け寄ろうとしたが、ザヒールの「動くなラシード! 貴様、誰から給金を貰っているか忘れたか!」という怒声に、彼は歯が砕けるほど奥歯を噛み締め、その場に縫い止められた。
助けることすら許されない、それがこの階級社会の掟だった。
「お父様、聞いてください! このままではハディードの民が――」
「黙れッ! 貴様は私が王都のマレク派の老将へ売り飛ばすための、ただの政略結婚の道具に過ぎん!」
ザヒールの血走った目が、床に倒れ伏す実の娘を、ただの血の通っただけの駒として見下ろす。
そこには一欠片の愛情も、亡き妻への思いやりもなかった。
「……お前がどれほど頭を回そうと、無意味だ。その好色な老将に嫁ぎ、あの男の性癖を満たして援軍を引き出すことだけが、貴様の存在価値だ。大人しく、出荷の日までその綺麗な顔だけを保っておけ!」
* * *
バタン、と重い扉が閉まり、サフィヤは自室の冷たい床に一人取り残された。
扉の外では、主君を助けられなかったラシードが己の無力さを呪うように石壁を殴りつける鈍い音が聞こえる。
ファティマが泣きながらサフィヤの腫れた頬を冷やし、サミールが悔しそうに拳を握りしめている。
サフィヤは冷やされた頬を押さえながら、冷たい窓枠に身を預け、眼下の街を見下ろした。
(賭けだった、私の最後の抵抗だった。もう何度も何度も拒絶された……決死の覚悟で突きつけたあの事実すら拒絶されたなら、抵抗して殺される他、もう私にはどうすることもできない)
どれほど緻密に帳簿を読み解き、都市が崩壊する臨界点を予測できても。
サミールたち外郭の民がどれほど飢え、苦しんでいるかを涙ながらに訴えても。
返ってきたのは、統治者としての反論ですらなかった。ただ「女の分際で」という一言と、暴力による”道具”としての烙印だけだ。
自分の知性は、父親にとっては何の価値もない。
ただ王都の老将に高く売るための、私の”美しい顔”に傷がつくことのほうが、あの父にとってはよほど問題なのだ。
(私は、これからどうしたらいいの......? この鳥籠の中でただ結婚で売り飛ばされる時を待つしかないというの......?)
亡き母の言った、”翼”は、この分厚い鋼の城壁を越えることはできなかった。
自分には、奢りではなく、この都市を正しく導くための強い想いがある。その想いだけは誰にも負けない。
だけど、それを実行する『力』と『権力』だけが、完全に剥奪されているのだ。
どれほど聡明な頭脳を持っていようと、力には打ち勝つことができない。父が用意したものとその囲いの中で反抗することができない。
ーーここから抜け出すことは絶対に叶わない。
ギリッ、と。
サフィヤは冷たい石の窓枠に強く爪を立てた。
爪先が白く血の気を失い、嫌な音を立てて微かに欠けても、その痛みすら今の彼女の心を覆い尽くす強烈な悔しさには届かない。
力を持たない自分が憎い。
すべてを見通せる目と頭を持ちながら、ただ安全な塔の上から街が死んでいくのを見下ろすことしかできない、手足をもがれた無力な自分が心底憎かった。
サフィヤは、紫水晶の瞳から大粒の涙をボロボロとこぼした。
豪華な鳥籠の中で、彼女の正義感と誇り、一人の人間としての意志は、今ここで完全に死に絶えようとしていた。
もう二度と、自らの足で立ち上がろうなどと思えないほどに、粉々に砕け散って。




