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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
四章

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32/42

騎馬訓練

 大平原での死闘を終え、蒼き狼の騎馬隊を傘下に加えてから数週間。

 ファリードの陣営は、難攻不落の要塞都市ハディードの攻略を見据え、赤蠍の砦で兵の調練と準備に明け暮れていた。

 その中でも最大の課題であり、そして陣営で最も騒がしい日課となっていたのが、若き王ファリードの乗馬特訓であった。

 彼を戦場で総大将とする軍を結成するためには”騎馬隊”が必要で、それを結成するためには、まず彼自身が、蒼き狼から献上されたあの気性の荒い巨大な白馬を乗りこなさなければならない。


 ガレブ渓谷特有の乾燥した風が吹き抜ける、砦の広大な中庭。  

 かつて山賊たちが略奪品を並べていたその土の広場は、今では今や赤茶けた土が剥き出しの、即席『馬場』となっている。

 周囲にはザルカの女領主から届いたばかりの武具や物資を積んだ木箱が山のように積まれ、ぐるりと取り囲む石造りの高い城壁が、ジリジリと照りつける初夏の陽光を遮って濃い影を落としている。

 その土埃が舞う中庭の中心では、今日も二人の男による怒号が飛び交っていた。


「いけません殿下! 背筋を伸ばしなさい! 大帝国の正統なる王たる者、馬上ではいかなる時も優雅な威厳を保ち、手綱で馬を完全に支配するのです!」

「馬鹿を言うな堅物騎士! 馬は支配するもんじゃねェ! 殿下、鞍の上で縮こまらず、もっと前傾姿勢になれ! 馬の心臓の音を聞き、風と一体になるんだ!!」


 ファリードに大帝国の洗練された馬術を教え込もうとするカディルと、騎馬民族特有の荒々しい人馬一体の乗り方を教えようとする蒼き狼の部族長――バアトル。

 二人の指導方針は完全に真逆であり、中庭では連日、彼らの火花を散らす対立が繰り広げられていた。


「ま、待ってくれ二人とも! 優雅に背筋を伸ばしつつ前傾姿勢になるなど、物理的に不可能なのだが!? ど、どちらに従えば……うわぁぁッ!」


 ヒヒィンッ! と白馬が前足を高く上げ、二人の声に板挟みになってオロオロと混乱していたファリードは、今日も見事に地面へすっ飛んで無様に転がり落ちた。


「で、殿下ァァッ!! ほら見ろ野蛮人、貴様が無茶な姿勢を教えるからだ!」

「なんだと!? そもそもお前の堅苦しい帝国の馬術なんかで、うちの荒馬が乗りこなせるか!」

「や、やめるんだ二人とも……っ、私の体幹が弱いだけだから……イタタ……」


 言い争いを始める二人を、泥だらけのファリードが涙目で必死になだめている。 日陰の木箱に腰掛け、干し肉を齧りながらそのドタバタ劇を見物していたのは、マーシャと、ハディードへの潜入工作を部下たちに任せ、定期報告のために砦へ帰還していたザイドであった。


「やれやれ……。あいつら、教育熱心なのはいいが、完全にベクトルが逆なんだよな」

「へへっ、殿下も災難だぜ。毎日毎日泥だらけで、まるで子供の玩具扱いだな」


 だが、どれほど泥に塗れ、身体中を痣だらけにしても。 ファリードは決して「もうやめる」とは言わなかった。

 彼は痛む腰を押さえて立ち上がると、自らの手で白馬の鼻面を優しく撫でて落ち着かせ、何度も、何度も鞍へと這い上がっていく。

 そのひたむきで、それでいて不恰好な姿を、バアトルは腕を組んでじっと見つめていた。


(……不思議なガキだ)


 バアトルたち『蒼き狼』は、元々は北方の豊かな草原を駆け巡る、誇り高き遊牧の民だった。


『馬は風だ。支配するのではなく、心を通わせて共に駆けるのだ、バアトル』  


 幼い頃、族長であった偉大な父の前に乗せられ、果てしない青草の海を駆け抜けた記憶。彼らにとって馬は家族であり、草原を自由に生きる誇りそのものであった。

 だが、その誇り高き暮らしは数ヶ月前、王都でマレクが玉座を簒奪したことによって一瞬にして地獄へと変わった。  


 新王の理不尽な重税と武力弾圧によって豊かな土地を奪われ、部族はたちまち飢えに直面したのだ。

 女子供を食わせるため、父は血の涙を流して誇りを捨て、辺境を荒らし回る「賞金稼ぎ」に身をやつすしかなかった。


 そして父は、大帝国から追放された第二王子――ファリードの莫大な懸賞金に目が眩み、大河の砦へ攻め込んだ。 だが、そこであの悪魔の軍師が仕掛けた火攻めと泥濘の罠に嵌まり……父は、炎に狂った愛馬と共に、無惨な同士討ちと帝国正規軍との戦いの中で命を落としたのだ。


 だからこそバアトルは、新たな族長として、父と同胞の復讐のためにこの赤蠍の砦へ攻め込んできた。   

 大帝国の王族や貴族など、安全な場所から自分たちを見下ろし、私腹を肥やして他人の命を弄ぶだけの強欲な豚だと信じて疑わなかった。


 だが、目の前の少年王はどうだ。

 太陽のように輝く白金色の髪を泥で汚し、手に血豆を作りながらも、自らの足で、自らの力で前に進もうと必死に足掻いている。

 その姿に、バアトルの中で張り詰めていた復讐の炎が、ポカンと完全に毒気を抜かれてしまっていた。


「……なあ、カディル」  

 バアトルがふと、隣で眉間を揉み込んでいる長身の騎士に声をかけた。

「俺ァ、帝国の王族なんてのは、他人に痛みを押し付けて自分はふんぞり返ってるだけのクズだと思ってた。……だが、あの人は違うな。他人のために、一番痛い苦行を自分から進んで被りに行きやがる」


 カディルの隻眼が、微かに見開かれた。

「……ああ。殿下は、我々が命を懸けて背中を預けるに足る、真の王だ」


 二人の間にあった険悪な空気が、いつの間にか消え失せる。  

 方針こそ違えど、互いに「この不器用で真っ直ぐな若き王を、立派な騎兵に育て上げたい」という、同じ保護者のような熱意で結ばれていたことに気がついたのだ。  

 カディルとバアトルは顔を見合わせ、フッと微かに笑い合った。


「……おいバアトル。殿下の体幹は私が鍛える。お前は、あの荒馬の機嫌の取り方を殿下に叩き込め」

「へっ、上等だ。大帝国の馬術と俺たち蒼き狼の乗り方、両方叩き込んで、世界で一番スゲェ騎兵にしてやらァ!」

 それからの二人の指導は、見事な連携を遂げた。

 そして、数週間の地獄の特訓を経たある日の夕暮れ。


「――いけッ、殿下!!」

 カディルとバアトルの声が重なった瞬間。


 ファリードを乗せた巨大な白馬が、大地を蹴り立てて砦の中庭を疾風のごとく駆け抜けた。

 大帝国の王としての揺るぎない美しい姿勢を保ちながらも、その重心は馬の呼吸と完全に同化し、荒々しい風と一体になっている。

 白銀の髪を夕日に輝かせ、見事に白馬を乗りこなして風を切るファリードの姿は、息を呑むほど神々しく、力強かった。


「やった……! 見たか、二人とも! 私はついに乗れたぞ!」

 馬を反転させ、満面の笑みで手を振るファリード。


「おおおおッ……!! 見事な、見事な御手綱捌きにございます殿下ァァッ!!」

「ギャハハ! すげェ! うちの馬が、完全に殿下の下僕になっちまってやがる!」


 カディルは男泣きに咽び泣き、バアトルは腹を抱えて大笑いし、二人は思わずガシッと熱い抱擁を交わして、互いの背中をバンバンと叩き合ったのだった。


* * *


 ガレブ渓谷の底冷えするような冷たい夜風が吹き抜ける中、赤蠍の砦の中庭では、乗馬特訓の修了と『白銀の騎馬隊』結成を祝して、ささやかな宴が開かれていた。  


 中庭の四方には巨大な篝火が焚かれ、パチパチと爆ぜる火の粉が闇夜へ舞い上がっている。

 周囲にはザルカから届いた高級な絹織物が無造作に掛けられた木箱がテーブル代わりに並べられ、山賊の武骨な砦と豪奢な支援物資が入り混じる、なんとも奇妙で活気ある空間が出来上がっていた。  

 頭上を見上げれば、切り立った城壁のシルエットによって四角く切り取られた夜空に、数え切れないほどの星々が瞬いている。


 燃え盛る巨大な焚き火の前で。  

 バアトルが、なみなみと強い蒸留酒が注がれた木杯を二つ持ち、丸太のベンチに座るカディルの隣にドカッと腰を下ろした。


「ほらよ、堅物騎士。あんたの教える窮屈な馬術も、殿下があれだけ立派に乗りこなすなら、案外悪くなかったぜ」

 バアトルが笑って杯を差し出すと、カディルは少しだけバツが悪そうにそれを受け取った。

「……ふん。貴様のあの野蛮な乗り方も、いざという平原の突撃には有用だろう。認めてやる」


 チンッ、と。

 かつては大平原で殺し合った敵同士。

 そして、数週間前まで火花を散らしていた二人の男が、ファリードという、同じ主君を戴くことで、互いの違いを認め合い、友として盃を交わした瞬間だった。 強い酒を煽り、二人が火を囲んで笑い合っていると。


「へへっ! お堅い旦那が蛮族の親分とサシ飲みとは、明日は槍でも降るんじゃねェか?」

「怪我人が出ない程度にしておけよ、お前たち」


 宴会の喧騒を抜け、ザイドとマーシャが気安く焚き火の輪へと合流してきた。 ザイドの片手には串焼きの肉が握られ、マーシャは男物の外套を着崩し、薄い果実酒の杯を揺らしている。


「なんだとザイド! 私はいついかなる時も殿下の盾として――」

 カディルがいつものようにお説教を始めようとしたが、バアトルが「まあまあ、今夜は無礼講だ!」とカディルの背中をバンバンと叩き、ザイドもそこに混ざって大笑いする。


 血生臭い戦乱を忘れさせるような温かく騒がしい家族の団欒の光景、それを少し離れた丸太に座って見ていたファリードは、ふと、バアトルたちが飲んでいる酒瓶を羨ましそうにじっと見つめた。


「……あの、私も、その……今日くらいは、お前たちと一緒にそのお酒を……」

 

 大人たちの輪に入ろうと、威厳をかなぐり捨てた、少年としてのささやかな背伸びだろうか。ファリードが控えめに、しかし期待に満ちた目で自身の木杯を差し出した。   

 

 だが、次の瞬間。

「「殿下あんたはまだ果実酒だ(です)!!」」


 カディルとマーシャの声が、完璧なユニゾンで重なり、夜空に響き渡った。


「……っ!?」

「いけません殿下! 御歳十四にしてそのような強い酒を飲めば、お身体に障りますぞ!」

「そうだ。あんたが酔っ払って使いものにならなくなったら、誰が介抱するんだ。大人しく果実の汁でも飲んでろ、ヒヨッコ」


 カディルには泣き叫ばれ、マーシャには容赦なくピシャリと退けられ。  

 ファリードはシュンと肩を落とし、手元の甘い果実酒を恨めしそうに見つめた。


「ずるい……。私だって、もうすぐ十五になるのに……」  


 口を尖らせて拗ねる若き王の姿に、ザイドとバアトルが腹を抱えて大爆笑し、イブンが「ヒッヒッヒ」と怪しく喉を鳴らす。  巨漢のタリクは無言で、ファリードの果実酒の杯に、甘い干しイチジクをポトンと一つ落としてやった。


「なりませぬ殿下! 大帝国シャジャルの法において、真の大人として国を背負う”成人の儀”は十八の年。そして、神と人々の前で正式に酒を酌み交わすことが許されるのは十五の年を迎えてからと厳格に定められております!」  


 カディルが焚き火越しに、人差し指をビシッと立てて生真面目に説教を続ける。


「私の誕生日はもう数ヶ月後に迫っているのだぞ! 少し前倒しにしたって……」

「数ヶ月後であろうと、今は十四歳です! それに殿下、酒など飲めば、ますます背が伸びなくなりますぞ!」

「なっ……! 痛いところを突くな、カディル!」


 ファリードは図星を突かれ、顔を真っ赤にして立ち上がった。  

 現在の彼の背丈は、小柄なマーシャよりは高いとはいえどんぐりの背比べ。

 彼にとって、同年代の近衛兵たちと比べても小柄で華奢であることは、王としての威厳に関わる密かなコンプレックスだったのだ。


「私だって、ずっとこの背丈のままではない! 私はただ、少し遅咲きなだけだ! 数ヶ月後に十五歳になれば、ここから一気に大木のように伸びる予定なのだからな!」  


 ムキになって背伸びをする十四歳の少年に、バアトルが蒸留酒を煽りながら面白そうに鼻で笑う。


「へへっ、違いねェ。今は軍師殿と目線が同じくらいだが、男ってのは十五を過ぎた途端に、竹みたいに一気に伸びる奴もいるからな。……まあ、殿下が俺を見下ろすくらいデカくなるには、あと三十センチは伸びなきゃならねェがな」

「ぐぬ……っ! 絶対に伸びてみせるさ! 骨が軋むほどに魚と肉を食してやる!」


 ファリードの負けず嫌いな宣言に、ザイドが「ギャハハ! 殿下が三十センチも伸びたら、カディルの旦那よりデカくなっちまうぜ!」と手を叩いて笑い転げた。  

 大帝国の法と、男としての成長期、そんな騒がしくも温かいやり取りの中、ファリードは手元の甘い果実酒を静かに見つめた。


「私が十五の成人を迎える来年の今頃……私たちは、あの難攻不落の要塞都市ハディードを落とし、皆で勝利の美酒を飲めているだろうか」  


 数千の兵を抱え、大帝国の心臓部へ迫るための最大の障壁。  

 一年後の自分たちが、その途方もない盤面を生き残っているか。ファリードの問いに、焚き火の周りにいた将軍たちが、フッと不敵な笑みを浮かべた。


「当然だ。我らが王の成人の儀を、辺境の泥の中などで行わせるものか。……落とすぞ、必ず」  

 カディルが杯を掲げ、バアトルが「違いねェ!」と自身の杯を強く打ち付ける。  

 ザイドも「へへっ、じゃあ来年は太守の館の極上のワインで、俺たちの王様の十五歳を祝うってことで決定だな!」と大笑いした。  


 来年、ハディードで共に酒を飲む。  

 それは血みどろの戦乱の中において、彼らが交わした最も希望に満ちた約束だった。


「……聞いたか、ヒヨッコ」  


 焚き火の向こう側から。 薄い果実酒を揺らしていたマーシャが、ターバンの奥で冷ややかな、けれど確かな自信に満ちた笑みを浮かべてファリードを見据えた。


「あんたの将軍たちが、一年後に美味い酒を飲ませてくれるそうだ。……だから今は大人しくその果実の汁でも飲んで、馬から落ちない立派な体幹を作っておけ」

「む……っ。言われずとも、立派に成長して見せるさ。お前たちに、甘えん坊のヒヨッコだとはもう二度と言わせないからな」

「はいはい、期待してるよ」


 来年には立派な漢になってみせると意気込むファリードの宣言。  


 満天の星空の下。  

 数万の敵を震え上がらせる悪魔の軍師と、いずれ大帝国を統一する若き覇王は。  今はまだお酒も飲めないただの十四歳の少年と、騒がしくも愛おしい家族の一員として、パチパチと爆ぜる焚き火の温もりを、いつまでも静かに分かち合っていたのだった。



 宴の喧騒が遠ざかった、赤蠍の砦の城壁の上。  

 一人で冷たい夜風に当たっていたバアトルは、手元の酒瓶を煽り、忌々しげに舌打ちをした。


(……どれだけ強い酒を飲んでも、悪酔いすらしねェ)  


 眼下の中庭からは、ザイドたちと笑い合うファリードの楽しそうな声が聞こえてくる。  

 あの不器用で真っ直ぐな少年を、バアトルは間違いなく「己の命を懸けるに足る真の王」だと認めていた。カディルやザイドといった陣営の仲間たちと背中を預け合う日々に、確かな居心地の良さを感じていたのも事実だ。


 ――だが、ふと一人で暗闇に佇むと、その温かい日常が、酷くグロテスクな罪悪感となってバアトルの心臓を締め付けるのだ。


『馬は風だ。支配するのではなく、心を通わせて共に駆けるのだ、バアトル』

 

 幼い頃に馬の乗り方を教えてくれた、誇り高き父の笑顔。  

 その父や同胞たちは、つい数ヶ月前、あの大河の砦の泥濘の中で、狂った馬の蹄に顔面を踏み砕かれ、同士討ちの地獄の中で生きたまま焼き殺されたのだ。  


 彼らを惨殺した陣営の長を「王」と仰ぎ、親父を殺した連中と酒を酌み交わして笑っている自分。

 その割り切れない矛盾と、行き場のない憎悪に、バアトルは日々密かに狂いそうになっていた。

 だが、王への忠誠を誓った以上、彼はその感情に分厚い蓋をして、ずっと見て見ぬふりをするしかなかった。


「……こんなところで何をしている、蛮族の若頭」

「……軍師殿か」  


 バアトルは手元の酒瓶を揺らしながら、振り返らずに夜の荒野を見つめた。 酒の勢いと、抑え込んでいた疲労が、彼に普段なら絶対に言わない本音を零させた。


「殿下は……すげェ王様だ。あの人のためなら、俺たち蒼き狼は喜んで命を懸けられる。……だがよ」  


 バアトルの声に、隠しきれない苦く、重い響きが混じる。


「俺の親父と、同胞たちを焼き殺したのは、お前たちだ。あの泥と火の地獄で親父たちがどう死んでいったか……時々、それを思い出して頭がおかしくなりそうになるんだよ。……俺は、誰を恨めばいいのかすら分からねェ」  


 王への忠誠と、父の仇に下った己の矛盾。  

 その血を吐くような感情の吐露を聞き、マーシャはターバンの奥でスッと目を細め――次の瞬間、氷のように冷たく、残酷な声で言い放った。


「……勘違いするなよ、蛮族」

「あァ?」

「あんたの親父を火ダルマにして、同士討ちの泥沼に沈める戦術を描いたのは、あの殿下じゃない。……全部、私が一人で引いた盤面だ」  


 バアトルがハッとして振り返る。  

 月光に照らされたマーシャの黒曜石の瞳には、一切の感情の揺らぎも、罪悪感もなかった。


「あいつはあの夜、己の誤った采配で多くの仲間を死なせたことに絶望し、自ら毒杯を煽って死のうとしていた。だが、私が強引にその毒杯を叩き落として生き残る道を示し、お前たちを泥に沈めて皆殺しにしたんだ。……あいつに、後ろ暗いところは一欠片もない」


 その言葉が落ちた瞬間。  

 バアトルの頭に血が上り、気がつけばマーシャの胸ぐらを力任せに掴み上げ、石壁へと激しく叩きつけていた。


「てめェ……ッ!! その口で、親父を……ッ!!」

 

 ギリッと牙を剥き出しにし、今にも喉笛を噛み千切りそうなほどの殺意が浮かび上がる。 だが、壁に叩きつけられたマーシャは、苦痛に顔を歪めるどころか、いつもより一層冷酷な笑みを口元に浮かべてバアトルを見下ろしたのだ。


「そうだ。その目でいい」

「……ッ」

「いいか、バアトル。あいつはこれから、この大帝国を統べる綺麗な神輿になる。だから……罵声に晒されるのも、恨みごとを買うのも、私一人で十分だ」  


 マーシャは自身の胸ぐらを掴むバアトルの腕を、冷たい手でガシッと掴み返した。


「親父の仇を討ちたいなら、私を恨め。いつか、私の寝首を掻いても構わない。……だが、あのヒヨッコが玉座に座るその日まで、あんたのその憎悪は、絶対に私だけに向けろ。あいつの覇道に、微塵も影を落とさせるな」


 己の命すらも王の盾として差し出す、あまりにも狂気的で、自己犠牲に満ちた凄絶な覚悟に、バアトルは息を呑み、胸ぐらを掴む手の力を徐々に緩めていく。


(……こいつ、自分がどれだけ重い業を背負っているか、分かって言ってやがるのか)  


 憎むべき敵の軍師。それなのに。 

 その小柄な身体が背負っているものの途方もない暗闇と、主君を綺麗に立たせるための強烈な覚悟に、バアトルは憎悪よりも先に、底知れぬ畏怖を抱いてしまったのだ。


「……狂ってやがる。お前は本当に、血も涙もねェ悪魔だよ」

 

 バアトルはマーシャから手を離し、忌々しげに舌打ちをした。


「分かったよ。俺の牙は、お前たちを玉座に連れて行くまで預けておく。……その代わり、絶対にその小汚い首を他の奴に獲られるんじゃねェぞ、悪魔の軍師」

「……言われずとも」  


 バアトルが荒い足音を立てて去っていく。  

 誰もいなくなった城壁の上で、マーシャは一人、小さく息を吐き出して夜空を見上げた。


 『せいぜい、私が悪魔としてすべての業を被ってやるよ』


 誰にも本当の姿を見せず、憎しみと業のすべてを一人で抱え込む。  

 頭上では満点な星空が輝いていた。

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