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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
四章

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31/42

次の一手

 白馬を手懐け、圧倒的な機動力を誇る『蒼き狼』の騎馬隊を傘下に加えてから数日。

 赤蠍の砦、最奥の作戦室。

 全身泥だらけになったファリードが、重い息を吐きながら部屋に入ってきた。

 気性の荒い軍馬を乗りこなそうと何度も振り落とされ、全身が泥と打撲の痛みに悲鳴を上げているのである。


「……すまない、マーシャ。少し休憩させてくれ。あの馬、私の言うことなど微塵も聞く気が……っ」

「お疲れ様だな、殿下。馬に舐められてるうちは、大帝国の玉座は遠いぞ」


巨大な石机で大帝国の全土図を広げていたマーシャは、男物の外套を翻し、ひどい有様の若き王を鼻で笑って出迎えた。


「殿下、お怪我はございませんか! しかし見事な精神力でしたぞ、次こそは自らの覇気で馬を――」

 後ろから熱血指導の続きをしようとカディルが追ってきたが、ファリードはそれを手で制し、表情を王のそれへと引き締めて石机の前に立った。


「……馬の訓練も重要だが、軍議を進めよう。マーシャ、アミーナ殿からの支援により、我々の陣営には周辺から続々と兵が集まり、規模は数千へと膨れ上がっている」


 ファリードが静かに口を開くと、窓際からザイドが親指で外を指し示した。


「金だけじゃないぜ。窓の外を見てみろよ、旦那」


 言われてカディルが視線を向けると、砦の中庭では蒼き狼の騎馬隊を撃退した長槍や、タリクが構えるのと同じ鋼鉄の大盾が、数百の兵士たちに行き渡っていた。大帝国の正規軍すら凌駕する極上の武具。潰れかけだったファリード陣営は、ザルカの支援によって一気に大帝国と戦える軍へと変貌を遂げていたのだ。


「アミーナ殿は、ただ私の美貌に絆されてこれほどの支援をしてくれたわけではない」

 ファリードは机の奥で、真剣な眼差しを向ける。

「彼女は極めて優秀な商人であり、権力者だ。我々の同盟は、ロマンチックな響きとは裏腹に、極めて打算的で、巨大な投資契約として結ばれている。私が大帝国の玉座を奪還した暁には、帝国内の『関税の完全免除』および『主要交易路の独占権』をザルカに与え、私が大帝国を焼き尽くすまで特等席で私の勇姿を見届けてもらうと約束した。これは、その関係性を讃えての対価だ」


 十四歳とは思えぬファリードの言葉に、石室の空気が一段階引き締まる。だが、ファリードは全土図の横に置かれた分厚い帳簿を開き、困惑したように目を細めた。


「だが、奇妙なのだ。これほどの大軍を動かし、養うとなれば、莫大な金貨を積んだ馬車と輜重しちょう部隊が必要不可欠となるはずだ。しかし、この数週間……帳簿には莫大な現金輸送の記録がどこにもない。野盗やマレクの正規軍に襲われるリスクが完全に消え去っている。一体どうなっているのだ?」


「へへっ、殿下たちもついに気付いたかい」

 密偵のザイドがニヤニヤと笑いながら口を挟む。


「俺も最初聞いた時は、兄貴の頭がおかしくなったのかと思ったぜ。でもよ、これが魔術みたいに機能するんだ。俺たち斥候部隊が先行して街に入り、ある『紙っぺら』を見せるだけで、現地の商人どもがホイホイと極上の麦を用意して待っててくれるんだよ。重い金貨を狙って襲ってくる野盗どもは、俺たちの空っぽの荷馬車を見てポカンとするってわけさ!」


「か、紙切れ、だと……?」

 絶句するカディルの前で、マーシャは懐から一枚の”薄い羊皮紙の切れ端”を取り出し、机の上にペラリと放り投げた。そこには、ザルカの女領主アミーナの豪奢な紋章と、複雑なサインが記されていた。


「これだよ。……私が彼女に提案したのは、ただ金を出せということじゃない。紙切れ一枚で富を移動させる『手形(信用取引)』……私の故郷の言葉で『為替かわせ』と呼ばれる、新しい金融システムだ」

 マーシャはニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。

「金貨という物理的な富は、ザルカの要塞の中に保管したままにしておく。我が軍の調達係は、行く先々の街でこの裏書がある紙切れを見せるだけでいい。商人は『あの北の未亡人が保証しているなら間違いない』と麦や武器を差し出し、後日ザルカの商館で実際の金貨と交換する寸法だ」


「なっ……!?」

 カディルは目玉が飛び出そうなほど驚愕し、震える手で顔を覆った。

「実物の金貨を運ばず、ただの紙切れで……数千の軍の物資を調達しているというのか!? 金貨の輸送ロスがなくなり、護衛の兵力をすべて前線へ回せる。つまりこの手形の概念がある限り、殿下の軍は……大帝国の重装軍には絶対に不可能な、素早い行動と兵站維持が同時に可能になるということか!」


「ご名答。これでお膳立ては揃った。……さて殿下、次なる盤面はどこにする?」

 マーシャが試すような視線でファリードを見つめた。

「大帝国の玉座を取り戻すには、まだまだ手札が足りない。この数千の兵を数万へと育て上げ、大帝国を弱らせるための”最強の拠点”が必要だ」


 マーシャの言葉に、ファリードは真剣な眼差しで地図を見つめ込み、大河沿いに位置する一つの巨大な都市の印へと視線を吸い寄せた。

「……ここだ。大都市『ハディード』」


 その名を聞いた瞬間、カディルが顔を強張らせた。

「正気ですか、殿下! あそこは過去数百年にわたり、北の蛮族や西の十字軍からの防衛の最前線だった場所。大帝国が莫大な国家予算を投じて築き上げた、階級型の『三重城壁』で守られた難攻不落の要塞都市ですぞ! 我々の兵力で、正面からの力攻めなど完全に不可能です」

「分かっている。だが……マーシャが言っていた”首絞め”を完遂するには、ここしかない」


 ファリードは白く細い指先で、ハディードから王都グラナダへと伸びる太い街道の線をトントンと叩いた。


「我が大帝国シャジャルは、大河の恩恵による圧倒的な食糧、麦を最大の武器として周辺国を従属させてきた。だが逆に、鉄や軍馬は産出されず、西の十字軍や南北の騎馬民族からの輸入に頼っている。その四方の需要と供給が一度すべて集積され、王都へと送られる……大帝国における循環のための窓口そのものが、この大都市ハディードだ」


 ファリードの金色の瞳が、光った。

「つまり、あそこを落とせば……王都へ向かう富と食糧の供給口を、我々が完全に支配できるようになる。マレクの軍事力と経済力を完全に干上がらせるためには、絶対にこの都市を奪わねばならないんだ。だが、理由はそれだけではない」


 ファリードは泥に汚れた自身の両手を強く握り締め、真っ直ぐに将軍たちを見渡した。

「カディル。今の我が軍の顔ぶれを見てみろ」

 言われて、カディルはハッとした。現在ファリードに忠誠を誓う軍の中には、北の『蒼き狼』、南の『黒獅子族』、独立都市ザルカの傭兵、元山賊、スラムの者たちがいる。


「大帝国がこれまで周辺国を支配できたのは、豊かな麦だけでなく『王族の血は純血で神聖である』という特権階級の驕りがあったからだ。……北方部族の出身だった母を持つ私に向けられたのは、帝国の血を汚す者という冷ややかな侮蔑だった」


 ファリードの金色の瞳に、かつて王宮の温室で感じていた孤独の影が落ち、そしてすぐに若き王としての熱い覇気へと変わる。


「叔父マレクが玉座を奪った理由の一つもそこにある。異民族の血を引く私を帝国の威信を汚すものとして、純血主義の旧貴族たちを煽り立てたのだ。……だが、私はこの修羅の道を歩み、すべてを失って泥水をすすりながら……出自の異なるお前たちと共に死線を越えて確信した!」


ファリードは己の胸を、強く叩いた。


「血の純潔など、極限の戦場では何の意味もない! 真に国を救うのは、身分や出自を問わない個人の能力と、互いを信じ抜く絆だという真理に!」

「殿下……ッ」

「私が玉座を奪うということは、単なる政権交代ではない。この大帝国から血の純血という古い呪いを破壊し、多民族が共存する実力主義の連邦国家へと作り変えるということだ! だからこそ、マレク派は私を死物狂いで潰しにかかるだろう。その新しい国の形を世界に示すためにも、私はどうしても、帝国の心臓であるハディードを、純血の騎士ではなくこの『多民族の軍』で落とさねばならないのだ!」


 血の純潔を重んじる旧帝国を破壊し、実力主義の新たな連邦を創る大革命の宣言に、カディルは震える手で顔を覆い、畏怖と感嘆の入り混じった深い溜息をついた。


「……なんという道のりだ。王のその大義と、軍師殿のその頭脳は、もはや一つの国家よりも恐ろしい……」


「ま、私の故郷じゃあ、紙切れで信用を回すなんて当たり前の仕組みだけどな」

 マーシャがターバンの奥で少しだけ得意げに鼻を鳴らした、その時だった。

「……本当に、君という人は底知れないな」


 ファリードが、石机に両手をつき、熱を帯びた金色の瞳でマーシャを見つめ下ろした。


「君の知識は、戦場で敵を撃退するだけでなく、こうして人と人とを信用で繋ぎ、国の血流を創り出すことさえできるのか。……私に玉座への道を作ってくれる、君という存在そのものが、我が陣営の最大の宝だ」


「ッ……! ば、馬鹿なこと言ってないで、さっさと馬の訓練に戻れ、ヒヨッコ! 暑苦しいんだよ!」

 目の前の少年から至近距離で放たれた、あまりにも直球すぎる賛辞に、マーシャは照れ隠しでファリードの華奢な胸板をドンッと乱暴に押し返した。


「い、痛っ……! だがマーシャ、私は本心で……」


 そっぽを向く軍師と、押し返されても嬉しそうに微笑んでいる十四歳の若き王。

 その平和で微笑ましいやり取りを、カディルとザイドは「また殿下の天然タラシが炸裂している……」と生温かい目で見守っていた。


「……コホン。話を戻そう」

 マーシャは熱くなった頬を隠すように咳払いをし、強引に軍師の顔を作った。


「カディルの言う通り、外部からの物理的な攻略は不可能だ。ならば、内側から扉を開けさせるのが私の定石。……表の兵站は手形で回すが、分厚い城壁を内側から崩すための裏工作には、足のつかない現金を使う」


 マーシャは、石机の上に積まれた金貨の山を指差した。


「アミーナが用意した、大帝国の刻印が一切ない『無記名の金貨』だ。これを使って、都市内部の傭兵や文官を次々と金で叩き落とし、太守と同士討ちさせる離間の計を仕掛ける」


 しかし、マーシャはそこで腕を組み、忌々しげに舌打ちをした。


「だが、問題がある。ハディードは太守の猜疑心により、外部への徹底的な緘口令が敷かれている。離間工作を仕掛けるにも、内部の政治状況や太守の弱点に繋がるような、確実な情報が少なすぎる」


 どれほど練り上げた戦術も、正確な情報がなければただの机上の空論に過ぎない。石室に重い沈黙が落ちた、その時だった。


「――へへっ。情報がねェなら、取ってくるまでだ」

 ザイドがニヤリと密偵の顔になって進み出た。

「俺が行きやすよ、殿下。堅牢な城壁も、俺たちの手にかかりゃ、穴だらけのチーズみたいなモンだ。太守の懐に潜り込んで、奴の致命的な弱点を必ず盗み出してきてやらァ」


 危険すぎる単独潜入、見つかれば拷問の末に殺されるのは間違いない。

 カディルが「貴様一人で何ができる!」と止めようとするが、ファリードはスッと手を上げてそれを制し、真っ直ぐにザイドの細い身体と向き合った。

 そして、その肩を両手でガシッと力強く掴み込んだ。


「……ザイド。危険な役目を押し付けてすまない」

 ファリードの金色の瞳には、王としての威厳と共に、同じ舟に乗る忠臣への信頼が込められていた。

「お前の働きが、我々の命を救い、大帝国を覆す刃となる。……頼んだぞ」

「へへっ……。任せな、殿下」


 スラムのネズミである自分に、命を預けるように頭を下げる美しき王。

 ザイドは照れ隠しのように鼻の頭を擦ると、音もなく身を翻し、夜の闇へと溶けていった。

「情報の毒蜘蛛の恐ろしさ、あの太守の野郎にたっぷり味わわせてやるぜ」


 ファリードたちの軍議を終え、天幕を出たザイドは、赤蠍の砦の地下に設けた『諜報部隊』の待機所へと足早に向かっていた。  


 薄暗いランプに照らされた石室には、十数人の若者たちが息を潜めて集まっていた。  

 彼らは皆、王都の最下層である「這い虫の街」の生き残りや、戦乱で行く当てを失った孤児たちだ。ザイドはファリードから与えられた資金と権限を使い、彼らを保護し、自身がかつてスラムで培った気配の殺し方や読唇術、手業といった諜報の極意を徹底的に叩き込んでいるのである。


「おい、お前ら。特大のシノギの時間だぜ」  

 ザイドが声をかけると、彼らは一斉に立ち上がり、頼れる兄貴分である彼へ敬意の眼差しを向けた。


「相手は難攻不落の大都市ハディードだ。だが、どんな分厚い城壁も、俺たちネズミにとっちゃあ全て筒抜けだ。……選別の訓練を生き残った上位五名、俺と一緒に来い。毒の巣を作りに行くぞ」


 数日後。

 月のない新月の夜。  


 ハディードの巨大な三重城壁の最も外側。巡回する衛兵の松明の光が届かない死角にポッカリと口を開けた、汚水を排出する排泥溝の鉄格子に、ザイドと五人の密偵たちが音もなく取り付いていた。


「へへっ、臭ェ泥水だが、俺たちにとっちゃ実家みたいな匂いだな」  

 ザイドたちは慣れた手つきで鉄格子の鍵を開錠し、悪臭漂う水路を潜り抜け、都市の最下層(第三城壁)の裏路地へと完璧な侵入を果たした。


 その後、ザルカの無記名金貨を惜しげもなく使い、ザイドは即座に下層の安宿や廃屋を買い上げ、絶対に足のつかない隠れ家を複数構築した。  


 そして、連れてきた部下たちを、それぞれ下層の酒場の給仕、物乞い、路地裏の娼館の客引きとして、風景に溶け込むように配置していく。


「いいか、お前ら。俺たちは殿下の目であり、軍師の兄貴の耳だ」  


 セーフハウスの暗がりで、ザイドは部下たちに鋭い声で命じた。


「俺は集まった情報を軍師の兄貴に届けるため、数週間おきにここと赤蠍の砦を往復する。俺が不在の間、街の噂、傭兵たちの愚痴、太守の不審な動き……どんな些細な綻びの種でもいい、地べたに這いつくばって情報をかき集めろ。絶対にボロを出すなよ」

「了解です、ザイド隊長!」  


 スラムのネズミたちが闇に散っていくのを見届け、ザイドはニヤリと悪党の笑みを浮かべた。  

 ここから、ハディードの強固な城壁の内側で、目に見えない強大な情報網が根を張り始めたのである。

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