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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
四章

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30/42

襲来


 薄暗い砦の石室には、乾いた風が運んでくる砂埃の匂いと、ザルカから届いたばかりの真新しい革武具の匂いが充満していた。壁に掛けられた松明の炎が、パチパチと爆ぜては赤茶けた石壁に揺れる影を落とす。


 「……騎兵の突撃力は、平原においては絶対的な脅威だ。だが、それはあくまで『走り続けている間』の話に過ぎない」


 巨大な石机の上に広げられた羊皮紙の地図。その上に置かれた木駒を、マーシャは短剣の柄尻で無造作に弾き飛ばした。

 彼女はダボついた外套の袖を捲り上げ、ターバンの奥の黒曜石の瞳をギラリと光らせる。

 「足を止めれば、馬はただのデカい的だ。……私の故郷の歴史に、カルタゴの雷光・ハンニバルが用いた『カンナエの戦い』という絶対的な包囲殲滅陣がある。」

 机を囲む将軍たちは、その聞き慣れない異国の名に眉をひそめた。

 カディルは手元の砥石で自身の長剣をシュッ、シュッと規則正しい音を立てて研ぎながら、険しい顔で地図を見つめている。ザイドは退屈そうに銀貨を指の関節で転がし、タリクは部屋の隅で大きな硬パンを無言で咀嚼していた。


 「ザルカから引き出した莫大な資金。それをどう使ったか、お前たちも見たはずだ」

 マーシャが顎をしゃくると、カディルが研ぐ手をピタリと止めた。

 「ああ。歩兵用の槍にしては、あまりにも長すぎる歪な代物だ。五メートルを超える極端に長いパイクなど、取り回しが悪すぎて一騎打ちでは何の役にも立たん」

 「一騎打ちなんざする気はない」


 マーシャは鼻で笑い、羊皮紙の上に木炭で凹の形を描いた。

 「陣形をあえて、中央が極端に薄い凹字型(U字型)に敷く。最前列の左右の翼には厚く兵を配置し、中央はわざと脆く見せる。……そして、その中央の最も薄い底に、殿下と私が囮として陣取る」


 その言葉が落ちた瞬間、石室の空気がピキリと凍りついた。

 カディルが弾かれたように立ち上がり、腰の椅子がガタンと音を立てて後ろに倒れる。

 「馬鹿なことを言うなッ! 殿下を囮にするだと!? 圧倒的な機動力を持つ騎馬隊の突撃を、あのような薄い陣形で受け止められるはずがない! 万が一突破されれば、殿下の命は……っ」

 「するんだよ、カディル。敵の〈逆賊の王子の首を獲る〉という、一番血の気の多い欲を刺激するために」

 「なっ……!? 馬鹿な、蒼き狼どもは殿下の正体を知らないはずだ! 彼らの目的は、ザルカの富で潤っているこの陣営への略奪だろう!」

 「だから、今夜ザイドを使って『あの新興傭兵団の頭目は、大帝国が血眼になって探している懸賞金のかかった逃亡王子だ』と、蒼き狼の陣営にだけ極秘裏にリークしてやるんだよ」

 マーシャの悪辣な提案に、石室の空気がさらに一段階冷え込んだ。


 「敵に殿下の情報を自ら流すだと!? もしその情報が外部に漏れ、王都のマレクの耳に届けばどうする気だ!」

 「漏れる前に、あのU字の檻の中で全員すり潰すか、降伏させて秘密を共有する共犯者に引きずり込めばいい。……敵の理性を飛ばして罠の奥深くまで完全に誘い込むには、ただの略奪以上の『絶対に目の前の首が欲しい』という強烈な餌が必要だ」

 「貴様という奴は……っ!」

 カディルが剣の柄に手をかけ、顔の火傷の痕を怒りで赤黒く染め上げた、その時だった。

 「……構わない。私がやる」  

 静かな、だが石室の空気を一瞬で支配する重い声。  

 腕を組み、壁際で目を閉じていたファリードが、ゆっくりと瞼を開いた。

 その金色の瞳には、かつて王宮の回廊で分厚い本を抱えていた怯えた少年の影はない。

 彼は自身の腰に佩いた長剣の柄を、剣ダコで分厚くなった手のひらで強く握りしめた。


 「で、殿下! いけません、いくらなんでも危険が――」

 「私が最も安全な本陣の奥で震えていて、誰がこの泥臭い盤面を信じて命を懸けるというのだ。それに、彼らを完璧に屈服させ、マレクの目を塞ぎ続けるためにはこの策しかない。……盾に隠れるだけの王など、この陣営には必要ない」

 ファリードの言葉に、カディルは奥歯をギリッと噛み締め、悔しげに俯いた。  

 マーシャは意図的にファリードと視線を合わせるのを避け、自身の前髪を無造作に掻き上げた。

 「……そういうことだ。殿下と私が中央で敵の突撃を受け止め、ジリジリと後退する。敵は『あと少しで王子の首に手が届く』という欲に駆られ、周りが見えなくなり、U字の奥深くへと完全に食い込んでくる」

 「敵が奥深くまで入り込んだ瞬間。左右の丘の陰に伏せていたタリクの〈大盾部隊〉と、カディルの〈長槍部隊〉が、両翼から一気に包囲の蓋を閉じる。五メートルの長槍マケドニアのファランクスは、この密集陣形においてこそ、絶対的な死の壁となる」


 ザイドが転がしていた銀貨をパシッと空中で掴み取り、ニヤリと悪党の笑みを浮かべた。

 「へへっ……なるほどな。前にも後ろにも横にも進めなくなった馬は、ただの押し合いへし合いの肉団子になるってわけだ」

 「そうだ。機動力を奪われた騎兵は、歩兵以下のただの的だ。周囲から五メートルの長槍で一方的にすり潰す」


 マーシャは石机に両手をつき、ターバンの奥で獰猛な軍師の顔を作った。

 「これが、私の故郷の歴史が証明した最強の包囲殲滅陣。……定石馬鹿の騎馬民族どもに、大帝国の新しい泥の味を教えてやる」


* * *


 決戦の朝。

 空は憎らしいほどに晴れ渡り、ジリジリと肌を焼く太陽が、広大な平原の乾いた土を熱していた。風が吹き抜けるたび、枯れ草の匂いと、何百頭もの馬が発する獣の汗の匂いが混ざり合い、鼻腔を突く。


 ズズズズズ……ッ。


 地平線の彼方から、大地を揺らす地鳴りが迫ってきた。

 もうもうと舞い上がる巨大な砂埃の向こうから姿を現したのは、北の騎馬民族『蒼き狼』の精鋭、約八百騎。

 彼らは一糸乱れぬ横隊を組み、手には湾曲した鋭い騎兵槍を握りしめ、同胞の復讐に燃える血走った眼で、ファリード陣営を睨みつけていた。


 対するファリード軍。

 彼らの陣形は、中央が極端に薄く窪んだ、歪な〈凹字型〉であった。

 その最も窪んだ中央の最前列。

 ファリードは、ザルカから献上された気性の荒い純白の軍馬の背に跨り、白銀の甲冑を陽光に煌めかせていた。その手綱を握る手には、幾度も振り落とされ、泥まみれになりながらもこの暴馬を押さえ込んだ、血の滲むような努力の痕が刻まれている。

 彼が馬の首筋を静かに撫でると、白馬はブルルと鼻を鳴らし、大人しく主君の意思に従った。


 「……来るぞ、殿下。舌を噛むなよ」

 ファリードのすぐ横、小柄な黒馬に跨ったマーシャが、双短剣の柄を握りしめながら低く呟く。

 「誰に言っている。……お前こそ、私の背中から離れるな」

 ファリードは前を見据えたまま、微かに唇の端を吊り上げた。


 パオォォォォンッ!!

 敵陣から、開戦を告げる角笛の音が平原に響き渡った。


 『見ろ! 逆賊の王子が、あのような薄っぺらい陣の中央で震えておるわ!』

蒼き狼の部族長が、血に飢えた獣のような哄笑を上げた。

 『小賢しい罠を張ろうと、我らの突撃の前にはただの紙切れよ! 中央を突破し、あの白銀の首を獲れェェェッ!!』


 ドゴォォォォォォンッ!!!

 八百の騎馬隊が、一斉に大地を蹴り立てた。

 それはもはや、軍隊の突撃というより、意思を持った巨大な土石流であった。

 圧倒的な質量と速度。

 迫り来る馬蹄の音は耳を劈き、巻き上がる砂塵が太陽の光を遮って、辺りを不気味な薄暗さへと変えていく。


 「盾を構えろォッ!! 一歩も引くな、だが踏みとどまるな!!」

 マーシャの裂帛の気合が飛ぶ。

 中央の歩兵たちが、恐怖で顔を引き攣らせながらも、分厚い木盾を斜めに構えた。


 ズガァァァァァンッ!!

 凄まじい衝撃音と共に、最前列の盾が粉砕され、何人もの兵士が宙を舞う。血の飛沫が舞い上がり、馬のいななきと人間の悲鳴が混ざり合う。

「ぐっ……!」

 ファリードは白馬の手綱を巧みに操り、敵の騎兵槍の突きを長剣で弾き落とした。

 腕の骨が痺れるほどの重い一撃。

 だが、彼の金色の瞳は瞬き一つせず、冷徹に敵の動きを捉え続けていた。


 「下がれ! 衝撃を殺せ! 粘りながら後退しろ!!」

 マーシャの指示通り、中央の部隊は敵の突撃を真正面から受け止めるのではなく、泥に足を取られるように、ジリジリと、もがきながら後ろへと下がっていく。

 敵の騎馬隊からすれば、ファリードの首がすぐ目の前にあるように見える。あと一歩、あと一太刀で届く。その強烈な「欲」が、彼らの視野を極限まで狭めていた。


 『逃がすな! 押し込め! 中央を完全に食い破れ!!』

 部族長が狂ったように叫び、騎馬隊はファリードを追って、U字の陣形の奥深くへと、雪崩を打って吸い込まれていく。


 砂埃と血の匂いが充満する中。

 ファリードが剣を振るい、敵の血を浴びながら、背後のマーシャへと鋭く視線を投げた。

 「……マーシャ! 敵の尾が、完全に陣の中に入ったぞ!」


 マーシャは乱れたターバンの奥で、氷のように冷たく、極悪非道な笑みを浮かべた。

 「ご苦労だったな、馬鹿な獣ども。……狩りの時間だ」

 マーシャは自身の腰に提げていた合図用の角笛を、空に向かって高らかに吹き鳴らした。


 ブォォォォォォォォォォッ!!!


 その音を合図に、戦場の空気が一変した。

 今まで沈黙を守っていたU字の左右の先端――両翼の丘の陰から、地響きと共に伏兵たちが姿を現したのだ。


 「――我らが覇王の御前である!! 蓋を閉じろォォォッ!!」


 右翼からは、カディル率いる精鋭部隊。

 彼らの手には、ザルカの富で鍛え上げられた、五メートルを超える異様な長さの特注槍が、まるで巨大な針鼠のように前方を向いて密集している。

 左翼からは、タリク率いる重装盾部隊。

 彼らは人間の背丈ほどもある巨大な鉄盾を隙間なく並べ、文字通り〈動く城壁〉となって迫り出した。


 『な、なんだと!? 側面から……ッ!』

 敵の部族長が異変に気づき、馬首を返そうとした。だが、遅すぎた。


 ガシャンッ!! と、左右から迫り出したタリクの盾とカディルの槍が、U字の入り口で完全に交差し、結合した。

 開いていたUの字は、完全に閉じられた『O(檻)』へと変貌を遂げたのだ。


 「なっ!? ま、馬が、旋回できない!!」

 「前が詰まっている! 押すな、後ろに下がれ!!」


 完全に密集した状態のまま、左右と後方を塞がれた八百の騎馬隊。

 馬という生き物は、助走がなければその巨体を素早く動かすことはできない。

 前はファリードたち中央部隊の粘りに阻まれ、後ろは味方の馬の尻。

 左右からは、巨大な盾と、届くはずもない遠距離から迫り来る五メートルの槍の壁。


 「突けェェェッ!!」

 カディルの無慈悲な号令と共に、五メートルの長槍が、身動きの取れない騎馬隊の側面へと無数に突き出された。

 「ギャァァァァッ!!」

 「ヒヒィィィィンッ!!」

 馬の肉を貫く嫌な音。

 騎兵たちが次々と串刺しにされ、落馬していく。

 倒れた者は、パニックに陥って暴れる味方の馬の蹄によって、無惨に踏み潰されていく。


 圧倒的な機動力を持っていたはずの『蒼き狼』は、今や巨大な檻の中に閉じ込められた、ただの巨大な肉の塊と化していた。

 剣を振るおうにも、隣の馬と密着しすぎて腕を上げるスペースすらない。一方的な、そして凄惨極まりない圧殺劇が始まった。


 「……ば、馬鹿な。我ら誇り高き狼が、このような泥臭い罠に……ッ!」

 『蒼き狼』の部族長は絶望の中で血を吐き、周囲ですり潰されていく同胞たちの悲鳴に耳を塞いだ。

 だが、追い詰められた獣の瞳に、最後の狂気が宿る。


 「ならば、せめて……あの白銀の首だけでもォォォッ!!」


 部族長は、自らの部下の馬を蹴り倒して強引に血路を開き、包囲陣の中央で静かに立ち尽くすファリードへ向けて、単騎で猛突撃を仕掛けた。

 彼が跨る気性の荒い見事な白馬が、大地を蹴り立てて猛烈な速度で迫り来る。その手に握られた巨大な槍が、ファリードの首を正確に狙って一直線に突き出された。


 「殿下、お下がりをッ!!」

 カディルが血相を変え、自らの長剣を抜いてファリードの盾になろうと飛び出した。


 だが、ファリードは無言のまま片手を上げ、カディルの制止をピタリと制した。

 彼は腰に佩いた長剣を静かに抜き放ち、迫り来る巨大な白馬と巨大な槍を前にしても、微塵も動じず、ただ大地に両足を深く根付かせた。

 アミーナからの贈り物である軍馬には上手く乗れず、無様に泥の中を転がった彼だが。

 王宮時代に嫌々ながらも叩き込まれていた最低限の指導に加えて、逃亡中にカディルから叩き込まれた地に足をつけた剣技と、泥を啜って身につけた体幹の強さは、すでに一端の騎士の域に達していた。


 ズドォォォォンッ!!

 白馬の蹄が、ファリードの目の前の土を蹴り上げる。

 巨大な槍の切っ先が、ファリードの白銀の兜を貫こうとした、まさにその刹那。


 ファリードは瞬き一つせず、膝のバネを使って重心を極限まで低く落とし、上半身をわずかに捻った。

 ヒュッ、と。

 槍の穂先がファリードの頬を掠め、白金色の髪を数本断ち切る。

 最小限の動きによる、完璧な回避。

 そして、猛スピードですれ違う瞬間。

 ファリードの研ぎ澄まされた長剣の峰が、無防備になった部族長の鳩尾を、正確かつ無慈悲に下から打ち抜いた。


「がはッ……!?」

 肺の空気をすべて吐き出させられた部族長は、自身の突撃の勢いそのままに馬上から弾き飛ばされ、泥と血に塗れた平原へと無様に叩きつけられた。


 ゴシャッ、と鈍い音が響く。

 部族長が痛みに呻きながら顔を上げようとした時。

 彼の喉元にはすでに、ファリードの冷たい剣の切っ先がピタリと突きつけられていた。


 「……そこまでだ」  

 頭上から見下ろす金色の瞳には、一切の熱がない。

 少年から立ち昇る王の威圧感に気圧され、部族長は震える手から武器を離し、屈辱と共に泥の中に頭を垂れた。  

 敵将の降伏。

 檻の中に閉じ込められていた騎馬隊の残党たちも、次々と武器を投げ捨てて泥の中にひれ伏した。

 「おおおっ……! 我らが王に勝利を! 殿下、万歳!!」  

 自軍の歩兵や盾持ちの兵士たちから、空を震わせるような地鳴りのような歓声が沸き起こる。  

 その熱狂の中、ファリードは表情一つ変えずに部族長から長剣を引き、ゆっくりと鞘に納めた。カチン、と冷たい鋼の音が鳴る。  

 だが、その柄から手を離そうとした瞬間。

 「……強がったな、殿下」  

 いつの間にか背後に馬を寄せていたマーシャが、周囲の歓声にかき消されるほどの小声で囁いた。  

 ファリードはビクッと肩を揺らし、カディルたちから顔を背けるようにして、フゥッと長く、震える息を吐き出した。  

 マーシャの黒曜石の瞳は、鞘に置かれたままのファリードの右手が、微かに、だが制御不能なほどガタガタと痙攣しているのを正確に見抜いていたのだ。

 「……足の震えが、止まらない。相手の槍先が目に入った時、実は死を覚悟した」  

 王としての冷徹な仮面の下から、頼れる兄貴分にだけこぼした、十四歳の少年の必死な本音。  

 最小限の動きによる完璧な回避も、その後の冷徹な一撃も、歴戦の騎馬民族を前にして彼が必死に命を懸けて背伸びをした結果の、綱渡りの虚勢だったのだ。

 マーシャはターバンの奥でフッと微かに笑い、周囲の兵士から見えないように自身の小黒馬を寄せて死角を作りながら、その震える少年の背中をポンと優しく叩いた。

 「立派な王の演技だったよ。……よく立っていた」

 「……ああ。君の盤面を、崩すわけにはいかないからな」  

 そのマーシャの言葉に、ファリードは少しだけ強張っていた肩の力を抜き、誰にも見せない安堵の笑みを浮かべた。

 砂埃がゆっくりと晴れていく。  

 勝利の余韻と共に、平原を吹き抜ける風が、焦げた血の匂いと土埃を運び去っていった。

 降伏の対価として、彼らが乗っていた良質な軍馬八百頭は、そっくりそのままファリード軍の戦利品として巻き上げられることとなった。


* * *


 戦の熱狂が落ち着き始めた頃。

 平原の一角で、ザイドや数人の兵士たちが手を焼いている一頭の馬がいた。

 先ほどまで部族長が乗っていた、あの気性の荒い美しい白馬である。

 主を失い、見知らぬ血の匂いに興奮した白馬は、近づこうとするザイドたちに向かって前足を高く上げ、ヒヒィンッ!と激しくいなないて暴れ回っていた。


 「うわッ!? あっぶねェ! こいつ、とんでもなく気性が荒ェぞ!」

 ザイドが間一髪で蹄を避け、尻餅をつきながら冷や汗を拭う。

 そこへ、長剣の血を布で拭い終えたファリードが、静かな足取りで歩み寄ってきた。


 「殿下、危ないっすよ! その馬はまだ――」


 ザイドの制止も聞かず、ファリードは白馬の正面に立ち止まった。威嚇するように鼻息を荒くし、ファリードを睨みつける白馬。

 だが、ファリードは王としての威圧感も、先ほどまでの冷たい覇気もすべて脱ぎ捨て、泥に汚れた分厚い籠手をゆっくりと外した。


 剣ダコだらけの白い手を、そっと、警戒する白馬の鼻先へと伸ばす。


 「……怖くない。お前は、美しいな」


 ファリードの唇からこぼれたのは、命令でも威圧でもなく。ただ純粋に、美しい獣を慈しむような、年相応のキラキラとした無邪気な少年の笑顔。

 太陽の光を浴びて輝く白金色の髪と、柔らかな金色の瞳。

 その声に含まれた絶対的な安心感と温もりに触れ、白馬の耳がピクリと動いた。

 フン、と荒かった鼻息が次第に落ち着き、白馬は恐る恐るファリードの手の匂いを嗅ぐと、やがて自らその温かい手のひらへと、すりすりと甘えるように鼻面を押し付けてきたのだ。


 「……おお」

 周囲の兵士たちが、感嘆の息を漏らす。

 決して人間に心を許さなかった気高き白馬が、少年の掌に甘えるように目を細めている。

 「おお……っ。殿下の御威光は、言葉の通じぬ獣にまで届くとは……っ!」

 少し離れた場所で、カディルが感動のあまりボロボロと男泣きし、自身のマントの裾で乱暴に涙を拭っていた。

 すると、白馬の首を撫で終えたファリードが、トコトコと無防備な足取りでカディルの元へ歩み寄ってきた。

 「殿下……?」  

 ファリードは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしている長身の騎士を見上げると、ふいにその泥と血に汚れた分厚い手を、自身の両手でそっと包み込むように握ったのだ。

 「……カディル。お前がずっと私を信じ、諦めずに鍛え続けてくれたおかげで、私は地に足をつけられた。ありがとう」  

 「で、殿下ッ!? いけません、私のような薄汚れた者の手に、殿下の清らかな御手が……ッ! ああ、なんという恐れ多い……ッ!!」  

 カディルは感極まった顔を一気に茹でダコのように真っ赤に染め上げ、不敬にあたるためファリードの手を振り払うこともできず、ワナワナと全身を震わせてさらに滝のような涙を流し始めた。  

 その横で、イブンが「ヒッヒッヒ、馬にも美醜の概念があるとは驚きなうえに、堅物騎士殿は心臓が破裂しそうですな」と怪しく笑い、タリクがウンウンと深く頷いている。

 その光景を泥まみれで見上げていた『蒼き狼』の部族長は、震える声で呻いた。


 「……あの誇り高き獣が、殺気もなく、ただの慈愛だけでひれ伏したというのか……」

 「殺しはしない」

 ファリードは白馬の首筋を撫でながら、静かに部族長を見下ろした。

 「お前たちの馬を奪って荒野へ放り出せば、部族は飢えて死ぬだろう。……私の軍門に降れ。私の剣として働くなら、いずれ大帝国の大都市をこじ開け、お前たちの民に豊かな土地と麦を約束しよう」

 すべてを奪うのではなく、共に世界をひっくり返す未来の提示。

 部族長はファリードの金色の瞳に、本物の覇王の器を見た。

 「……我ら蒼き狼の牙、今日よりあなたの御為に。どうかその白馬を、我らが王の乗騎としてお納めください」


 「やれやれ。手のかかるヒヨッコかと思えば、大した王様だ」

 血まみれの双短剣を鞘に納め、外套をバサリと翻しながら歩み寄ってきたマーシャが、ターバンの奥で不敵に、そしてこの世界で最も悪辣な笑みを浮かべて宣言した。

 「よし。これで圧倒的な機動力も手に入った。これからはあんたがその白馬に乗って先陣を切る、『最強の白銀の騎馬隊』を創るぞ、殿下!そして、大帝国の喉元を喰い破るための大都市を落としにいく!」

 その輝かしい未来の宣言に、陣営の士気が再び高まろうとした、その時だった。

 「……ああ」  

 ファリードは白馬の柔らかい鼻面を優しく撫でながら、ふと、ひどくバツの悪そうな顔をして、自身の頬をポリポリと掻いた。  

 そして、ワナワナと震えているカディルの傍らへ駆け寄ると、その厳つい革鎧の袖口を、指先で軽く引っ張った。

 「だがその前に、カディル。……もう少しだけ、馬の乗り方を教えてくれないか」

 王としての威厳も何もない、少し下から上目遣いで見つめてくる、ただの馬が苦手な少年。  

 その言葉と無防備なスキンシップに、一瞬の静寂が落ちた後。


 部族長が目玉を飛び出させた。

(なっ……我が愛馬を手懐け、あれほどの死闘を演じてみせた覇王が、実は馬に乗れぬだと!?) 先ほどまでの冷徹な死神のような姿とのあまりの落差に、部族長の中で張り詰めていた敗将としての屈辱や恐怖が、 

 ポカンと完全に毒気を抜かれてしまったのだ。


 「ブッ……あははははっ! 違いねェ! 殿下、まずは落馬しないところからっすね!!」

 ザイドが腹を抱えて大笑いし、カディルが顔を真っ赤にしてザイドに詰め寄る。

 「失礼な! 殿下はこれから私の完璧な指導のもと、最強の騎兵となられるお方だ!」


 「い、いや待て!」

 部族長は、気づけば王への畏れも忘れ、騎馬民族としての血とプライドを騒がせて身を乗り出していた。

「我らが誇る最高の白馬を託したのだ! お前たちのような堅苦しい帝国の馬術で、あの荒馬が乗りこなせるものか! 殿下が落馬して怪我でもされては、献上した我らの顔に泥が塗られる!」

「なんだと!? 私の剣技と馬術を愚弄するか!」

「事実だ! 乗馬の術ならば我ら蒼き狼の右に出る者はおらん! 殿下、この私が直々に、馬の心臓と一体になる乗り方を手取り足取り……!」

 カディルと部族長が「私が教える!」と言い争う中、ファリードは「いや、寝る間は惜しまないでくれ!」と苦笑いしながら後ずさる。


 血と泥に塗れた平原に、彼らの底抜けに明るい、温かい家族の笑い声が響き渡る。

 泥舟から始まった彼らの陣営が、やがて大帝国を揺るがす最強の白銀の騎馬隊へと変貌を遂げ、大都市攻略への足がかりを掴むまでの、騒がしくも愛おしい日常の一コマであった。


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