蒼き狼
白亜の独立都市ザルカでの同盟結成と、それに伴う盛大な宴から数日後。
ファリードたちは、本陣であるガレブ渓谷の入り口、『赤蠍の砦』へと無事に帰還を果たしていた。
「……フーッ。ようやく、あの息の詰まる衣装から解放されたな」
砦の自室に戻ったファリードは、アミーナに無理やり着せられていた、ザルカの最高級の黒絹と黄金の細工が施された豪奢な礼服を脱ぎ捨て、いつもの動きやすい革鎧に着替えながら大きく肩を回した。
彼は革鎧の紐を結びながら、部屋の入り口に寄りかかっていたマーシャにだけ聞こえるような声で、ふう、と深く息を吐き出した。
「……カディルたちには強がっているが。あの重い宝石の山を背負って『余裕のある大人の男』を演じ続けるのは、重装歩兵の槍を正面から受けるよりずっと肩が凝る。アミーナ殿の視線は、一瞬でも気を抜けば骨までしゃぶられそうなほど恐ろしかった」
それは、大帝国の王としての威厳を完全に脱ぎ捨てた、年相応の弱音。
同性の気安い悪友にだけこぼすような、無防備な口調だった。
マーシャはターバンの奥でニヤニヤと笑い、「お疲れ様だな、殿下。アミーナ様お気に入りの『着せ替え人形』の役回りは、完璧にこなせていたぞ」とからかう。
「からかうな、マーシャ。本当に生きた心地がしなかったんだからな」
ファリードは苦笑いしながら、何の躊躇いもなくマーシャの隣まで歩み寄り、トン、とその小柄な肩に額を乗せるようにして、疲れた身体の体重を預けてきた。
「なッ……お、おい殿下! 重いぞ!」
「少しだけだ。……君が後ろで見ていてくれなかったら、私はプレッシャーで早々に逃げ出していたかもしれない」
大帝国の王子が、薄汚れた傭兵の肩に無防備にすり寄るなど、普通ではあり得ない。
マーシャを頼れる兄貴分として完全に気を許しているからこその、ゼロ距離のスキンシップだ。
マーシャは内心(距離が近い! 心臓に悪いから離れろ!)とドギマギしながらも、必死に平静を装い
「……やれやれ、甘ったれた王様だ」と乱暴に彼の頭を押し返した。
「痛っ。……手柄を立てた王に対する扱いが手荒すぎないか、我が軍師は」
ファリードは少し不満げに口を尖らせたが、その顔はどこか嬉しそうに綻んでいた。
「だが、得たものは大きかった。彼女の莫大な資金と、ザルカの強力な武具……私たちの陣営は、これで一気に帝国を脅かす力を手に入れた」
事実、ファリードがザルカから莫大な支援と強力な後ろ盾を取り付けて帰還したという噂は、風に乗って瞬く間に辺境の荒野を駆け巡った。
ただし、その噂の内容はマーシャとザイドによる徹底した情報操作によって、安全な形へと完全にすり替えられていた。
『ザルカの女領主アミーナが、辺境の傭兵団を専属の私軍として雇い入れ、莫大な資金を投じている』。
その噂を聞きつけた周辺の小部族の戦士たちや、大帝国に不満を持つ流れの傭兵たちが、金払いの良い雇い主を求めて連日、雪崩を打つように赤蠍の砦へと志願してきていたのだ。
集まった彼らもまた、頭目が大帝国から追われる懸賞金のかかった王子であることなど知る由もない。
この巧妙なカモフラージュにより、王都にいる叔父マレクの耳から見れば、ファリード陣営の動きは「ザルカの私軍が辺境で勢力を拡大しているだけ(ただの領主の軍拡)」にしか見えず、ファリードの存在は完璧に隠蔽され続けていた。
黒岩族を平定した時点では数百名だった彼らの兵力は、アミーナの資金力と情報操作によって、今や二千の規模にまで急激に膨れ上がっていたのである。
「へへっ、違いねェ。毎日新兵がドカドカ押し寄せてきて、飯の用意だけでも大騒ぎだぜ。それにしてもザルカの夜は最高だったな!」 ザイドが部屋に入ってきながら、嬉しそうに笑う。
ザイドが部屋に入ってきながら、嬉しそうに笑う。
「ただよォ、俺が果実の盆を運んでた綺麗な侍女にウィンクして星を見に行こうって誘ったら、『一人でどうぞ』って鼻先を盆でかわされちまってよ。ザルカの女はガードが堅ェや」
「お前が自業自得なだけだ、ザイド」
マーシャが鼻で笑い、ふと、背後で微動だにしない長身の剣士へと視線を向けた。
「それに比べて、カディルはバルコニーで随分といい思いをしていたじゃないか。アミーナの親衛隊長殿と、お熱いことで」
「なッ……!? 見ていたのか、貴様!?」
カディルの顔の火傷の痕が、一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染まった。
「ば、馬鹿なことを言うな! あれはただの不敵な宣戦布告だ! 『次は戦場でお互いの背中を預け合いましょう』などと、不埒な女狐にからかわれただけで……っ!」
「へえ。あの堅物のカディルが、女性と『背中を預け合う』約束を交わしたのか?」
ファリードが目を丸くし、面白そうに身を乗り出した。
「ち、違います殿下! 私は殿下の盾としてのみ……!」
しどろもどろになって必死に言い訳をするカディルを前に、ファリードとマーシャは顔を見合わせてクスクスと笑い合った。
ザルカの宴での出来事は、彼らにとって過酷な逃避行の中で得た、忘れられない賑やかな思い出となっていた。
そうして一息ついた彼らは、砦の中庭へと場所を移す。
ガレブ渓谷の赤茶けた岩肌を、容赦のない初夏の太陽がジリジリと焦がしていた。
吹き抜ける風は乾ききっており、吸い込むたびに鼻の奥でジャリッと砂の鳴る音がする。
漂っているのは、白亜の独立都市ザルカから運び込まれた極上の干し肉が燻される香ばしい匂いと、樽から漏れ出す芳醇なワインの甘い香りだった。
「あの時の技をついに教えてくれるのだな! 楽しみにしていたぞ!」
「そうかい、そうかい。 ではっ......と。 ほら、殿下。この間みたいにこのサイコロの角をほんの少しだけ削るだけでなく、中に鉛を仕込むだけで、出目は思いのままだ。手首のスナップをこう……」
砦の中庭の片隅。
ひんやりとした石壁の影で、ザルカから届いたばかりのふっくらとした干しぶどうを口に運びながら、ファリードはザイドの手元をひどく真剣な眼差しで観察していた。
「ナイフの重心のずらし方も見事だったが、このサイコロの仕掛けも実に合理的だ。……さすが、過酷な生活を生き抜くための『生きた知恵』だな」
「へへっ、お堅い言葉を使うねぇ殿下。要は相手の目を欺くためのただのイカサマさ。ほら、手首のスナップをこう……」
ファリードは身を乗り出し、すぐ隣にしゃがんでいたザイドの服の袖を、少しぎこちない動作でグイッと引っ張った。
「もう一度だ、ザイド。私にもその手首の動きを指導してくれないか」
王という身分の壁を自ら進んで脱ぎ捨て、不器用ながらも一生懸命に彼らの流儀へ歩み寄ろうとする、ファリードなりの精一杯の思いやりだった。
ザイドに見様見真似で手ほどきを受け、ファリードは軍議に臨むような真面目すぎる顔つきでサイコロを振った。
コロコロ……ピタリ。三つのサイコロが同じ目を出して止まる。
「……できた。見たか、ザイド」
「おっ、一発で成功とはさすが殿下! 筋がいいぜ!」
「ああ。これで私も、少しは君たちのような『悪党』に近づけただろうか」
ファリードは少し照れたように、だが確かな安堵を滲ませて柔らかく微笑んだ。
アミーナとの外交戦で見せたあの魔性のような色香や、冷徹な王の仮面はすっかり影を潜めている。今の彼は、心を許した家族の輪の中で、己の居場所を確かめるように不器用に笑う、年相応の少年の顔そのものだった。
「へへっ、殿下もすっかりこっち側の顔になってきたぜ!」
ザイドが気安く、ファリードの白金色の髪をガシガシと遠慮なく撫で回す。
王族の髪をスラムの民が撫で回すなど本来であれば万死に値する無礼だが、ファリードはそれを払いのけるどころか、ビクッと肩を強張らせながらも「……あまり子供扱いするな」と小さく文句をこぼし、その温かなスキンシップを嬉しそうに静かに受け入れていた。
その瞬間。
「ザ、ザイド貴様ァッ!!」
頭上から、雷のような怒号が降ってきた。
ビクッとファリードの肩が跳ね、ザイドの手からサイコロがポロポロと土の上に転がり落ちる。
振り返ると、手入れの行き届いた長剣を腰に佩いたカディルが、顔の左半分の火傷の痕を怒りで赤黒く染め上げ、般若のような形相で立っていた。
「殿下になんという下品な遊びを教えているのだ! 王たる方に、いかさま博打や盗賊のナイフ遊びなど……っ、王室の誇りを泥で汚す気か!!」
「ひぃッ! お堅いねぇ旦那! 戦場じゃあサイコロ一つで命拾いすることだってあるんだぜ!?」
「問答無用! 貴様は少し性根を叩き直してやる、そこへ直れ!!」
ザイドが脱兎のごとく駆け出し、カディルが血相を変えてそれを追い回す。
砂埃を上げて中庭を逃げ回る二人の姿を、ファリードは「あっ、待ってくれカディル、私が頼んだのだ!」と慌てて止めようとするが、全く耳に入っていない。
「ヒッヒッヒ……相変わらず騒がしいですな。罰として、私の特製・激苦薬草ジュースを飲ませましょう。ザルカの市場で仕入れた、三日は舌が痺れる極上品ですぞ」
いつの間にかファリードの背後に立っていたイブンが、怪しく濁った紫色の液体が入った木杯を掲げ、不気味に笑った。鼻を突く、土と腐葉土を煮詰めたような強烈な異臭が漂う。
だが、イブンがその杯を差し出そうとした横から、ヌッと巨大な腕が伸びてきた。巨漢のタリクである。
彼は無言のままその木杯をひったくると、眉一つ動かさずに紫色の液体を一息で飲み干した。
「なっ……!?」とイブンが目を見張る中、タリクは空になった杯を返し、太い親指をグッと立てて「美味い」と無言の合図を送った。
「あ、あれを美味いと……? 私の毒物知識が根底から覆されそうですぞ……」
イブンが頭を抱えてブツブツと呟き始め、ファリードはたまらず吹き出した。
日陰の特等席。
乱暴に積まれた木箱の上に腰掛け、男物のダボついた外套を羽織ったマーシャは、手元の双短剣の刃を布で拭いながら、そのドタバタ劇を静かに見下ろしていた。
(……やれやれ。どいつもこいつも、手がかかる)
マーシャは呆れたように小さく息を吐き出した。
だが、そのターバンの奥の黒曜石の瞳は、決して冷たくはない。
刺すような太陽の下で響く、馬鹿馬鹿しくも温かい彼らの笑い声。
それは、血にまみれたこの世界で、彼女が確かに見つけた悪くない居場所の証明だった。
しかし、その平和な時間は、長くは続かなかった。
「……っ、うわぁぁッ! 待て、落ち着け!!」
中庭の反対側から、ファリードの年相応の悲痛な叫び声が上がった。
マーシャが視線を向けると、そこには、気性の荒い巨大な軍馬の背で、手綱にしがみついて振り落とされまいと必死にもがくファリードの姿があった。
アミーナとの同盟により、ザルカから潤沢な資金と武具、そして屈強な軍馬が提供されていた。
だが、温室育ちのファリードにとって、王宮で乗っていたような大人しい観賞用の馬と、戦場の血の匂いを知る荒々しい戦馬は、完全に別の生き物だったのだ。
ヒヒィィィンッ! と馬が前足を高く上げ、いななく。
「ひっ……!」とファリードの顔から血の気が引く。
「いけません殿下! 手綱を引く力が弱すぎます! 覇王たるもの、馬の気迫に負けてどうしますか、自らの意志で馬と一体化せねば!!」
カディルが馬の横を並走しながら、容赦のない熱血指導を飛ばしている。
「無理だカディル! この馬、私の言うことなど微塵も聞く気が……うわっ!」
ガクンと馬が大きく揺れ、ファリードの身体が宙に浮きかける。
マーシャは双短剣を鞘にカチンと納め、呆れ果てて額を押さえた。
「……まったく。外交の天才も、馬の上じゃただのヒヨッコだな」
ドサッ、という鈍い音と共に、ついにファリードが泥の上に無様に転がり落ちた。
「殿下ァッ!!」とカディルが悲鳴を上げて駆け寄る。
痛む腰を押さえながら立ち上がったファリードの白金色の髪は泥だらけで、王の威厳など見る影もない。
その金色の瞳には、身体を打ち付けた物理的な痛さと、いつまでも馬を乗りこなせない自身の不甲斐なさに対する少年らしい悔しさで、じんわりと大粒の涙が滲んでいた。
「お怪我はございませんか殿下!? しかしこれも王への試練! さあ、すぐに馬へ戻り、次こそは自らの覇気で――」
「む、無理だカディル……少し休ませてくれ……っ」
ファリードは涙目でグズッと鼻を啜ると、さらに熱血指導を続けようと迫り来るカディルから逃げるように、小走りで、近くで警護に当たっていた巨漢のタリクの背後へとスッと回り込んだ。
そして、その岩のように分厚い背中にピタリと張り付き、タリクの服の裾を両手でギュッと握りしめて、ひょっこりと顔を半分だけ覗かせたのだ。
「タリク、助けてくれ……。あのままカディルの指導を受けていたら、私は王座を取り戻す前に全身の骨が砕けてしまう」
涙が滲んだ掠れ声で訴えながら、ファリードはタリクの広い背中に自身の額をぐりぐりと押し付け、完全に体重を預けてもたれかかっている。
それは、絶対に自分を傷つけない〈安全で大きな壁〉に対する、小動物のような無防備な甘え方だった。
タリクは無言のまま、少し困ったように太い眉を下げたが、決してファリードを引き剥がそうとはしない。
むしろカディルから彼を庇うように、自身の巨大な身体でドンと盾の壁を作ってくれた。
そして、泥だらけになったファリードの頭を、熊でもあやすかのように、大きくて温かい手でポンポンと不器用に撫でてやる。
「た、タリク! 殿下を甘やかしてはなりませんぞ!!」
カディルが顔を真っ赤にして抗議するが、タリクは無言でゆっくりと首を横に振り、「今は休ませてやれ」という絶対的な圧を放った。
ファリードも安心したように息を吐き、タリクの背中にすりすりと頬を擦り寄せる。
「……まったく。外交の天才も、馬の上と過保護な背中の後ろじゃただのヒヨッコだな」
マーシャが木箱から飛び降り、呆れ顔で彼らに小言の一つでも言ってやろうと歩み寄った、まさにその時だった。
ダダダダダッ!!
砦の入り口から、土埃を巻き上げて一騎の伝令が猛スピードで駆け込んできた。
馬は口から白い泡を吹き、伝令の兵士は転げ落ちるように馬から降りると、血相を変えてファリードたちの前で膝をついた。
「きゅ、急報ゥッ!!」
その切羽詰まった声に、中庭の空気が一瞬にして凍りついた。乾いた風が、不吉な血の匂いを運んでくる。
「北の平原より、大規模な軍勢がこちらへ向かって急行中! その数、およそ八百! 掲げられている旗印は……っ、北の騎馬民族『蒼き狼』ですッ!!」
「『蒼き狼』だと……!?」
カディルが顔の火傷の痕を険しく歪ませ、ファリードの表情から少年の無邪気さが完全に消え去った。
マーシャの黒曜石の瞳が、冷たく、獰猛な理知の光を帯びる。
『蒼き狼』。
かつて大河のほとりの砦で、マーシャの策により同士討ちの泥濘に沈められた騎馬民族である。
彼らが、同胞の復讐、そしてアミーナとの同盟により富で潤っているこの陣営を略奪するために、生き残りの精鋭をかき集めて侵攻してきたのだ。
「敵はすべて騎馬隊! 圧倒的な速さで、明日の朝にはこの渓谷の入り口に到達する見込みです!!」
絶望的な報告。
現在、ファリードの陣営には、周辺の部族から吸収した二千の兵力がいる。
数の上では勝っている。
だが、そのほとんどは山岳歩兵だ。
広大な平原において、歩兵が圧倒的な機動力と突撃力を持つ騎馬隊と正面からぶつかればどうなるか。大帝国の定石では、それは完全なる蹂躙を意味していた。
痛いほどの青空の下。
先ほどまでの温かい家族の日常は、吹き荒れる砂埃と共に完全に吹き飛び。生存を懸けた戦が、再び彼らの前に容赦なく敷かれたのであった。




