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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
四章

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28/42

同盟の宴

 それから数日後。

 アミーナとの強固な同盟を結んだファリードの要請により、赤蠍の砦で留守を預かっていたタリクやイブン、そして数百の兵士たちが、正式な同盟軍としてザルカへ呼び寄せられた。  

 大帝国の正規軍すら足を踏み入れることを許されない難攻不落の白亜の城門が大きく開かれ、辺境の荒野で泥水を啜ってきた傭兵たちが、戸惑いながらも歓喜と共に都市へと迎え入れられたのである。


 そしてその夜。  

 白亜の独立都市ザルカは、甘い香りと熱気に満ちていた。  

 女領主アミーナの居城、その大広間。  

 同盟成立とファリード軍の合流を祝して開かれた宴は、辺境の荒野を生き抜いてきた兵士たちにとって、夢のような豪奢さに溢れている。


 天井から吊るされた黄金のシャンデリアが、無数の蝋燭の光を反射して煌めく。

 床には足首まで沈み込みそうな分厚いペルシャ絨毯が敷き詰められ、部屋の四隅に置かれた香炉からは、高価な乳香が紫色の煙をたなびかせていた。


 「へへっ! こいつはすげェや! 見ろよあの料理の山!」


 ザイドが目を輝かせながら、長机に並べられた大皿の合間を縫うように歩き回っている。

 蜂蜜をたっぷりとかけた仔羊の丸焼き、香草で彩られた川魚、氷で冷やされた色鮮やかな果実。


 その端では、巨漢のタリクが誰とも言葉を交わさず、両手に持った骨付き肉を機械のような正確さで無言のまま咀嚼し続けている。

 その尋常ではない食いっぷりに、給仕の男たちが怯えたように次々と新しい皿を運んできていた。


 一方、イブンは供されたルビー色のワインを銀の小匙で掬い、光に透かして匂いを嗅いでいる。

 「……む。この甘み、ただの葡萄ではありませんな。微かに幻覚作用のある毒草の成分が……いや、単なるスパイスか? 興味深い」と、せっかくの美酒を前に完全に毒物鑑定の目になっており、周囲から気味悪がられている。


 そして広間の上座では、ファリードが領主アミーナの隣に座り、穏やかな微笑みを浮かべていた。  

 だが、その身に纏っているのは、入城時に着ていたあの白絹の礼服ではない。

 「……なんという破廉恥な。殿下をまるで見世物の人形か何かと勘違いしているのではないか、あの毒婦は……!」  

 広間の隅で、カディルが顔の火傷の痕を引き攣らせ、今にも抜刀しそうな勢いでギリッと奥歯を噛み砕いていた。

 「落ち着け旦那。これも立派な外交戦のうちだ。……しかし、大したパトロンを見つけたものだな、殿下も」  

 男物の外套を着崩し、壁際で薄い果実酒を舐めていたマーシャが、ターバンの奥でニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。


 今、ファリードが纏っているのは、アミーナが自らの莫大な財力を注ぎ込んで用意させた、ザルカの最高級の黒絹と黄金の細工が施された、ひどく妖艶で豪奢な異国の礼服だった。  

 首元には大粒のサファイアが輝き、目元にはほんの少しだけ、異国風の紅い化粧まで施されている。

 『私の美しい王様が、いつまでも旅の垢にまみれた服を着ているなんて許せないわ。これからは、私が貴方を世界一美しく飾り立ててあげる』

 同盟を結んだ直後から、アミーナは自身の城の針子たちを総動員し、ファリードを極上の『着せ替え人形』にして楽しんでいたのだ。  


 ファリードからすれば、女性の過剰な愛情と拘束は息が詰まるし、何よりこの派手すぎる衣装は身動きが取りづらくて仕方がない。

 内心では「早くいつもの革鎧に着替えたい」と辟易していた。


 だが、彼は不満を顔に出すような三流ではない。

 (これも、数千の傭兵と軍資金を引き出すための、私の役割だ)  

 ファリードは大人しくアミーナの趣味に付き合いながら、金色の瞳を妖しく光らせて、グラスを掲げた。

 「素晴らしい衣装だ、アミーナ。貴女の美意識の高さには、いつも驚かされる」

 「ふふっ……嬉しいわ。でも、一番素晴らしいのは、どんな派手な宝石を乗せても決して見劣りしない、貴方のその顔よ」

 アミーナは熱を帯びた瞳で、隣に座る若き王を見つめていた。  

 ただの綺麗な少年であれば、このザルカの豪奢な衣装に”着られて”しまい、滑稽な愛玩物になり下がるだろうが、ファリードは違う。  


 外見の美貌の奥底に、大陸を飲み込もうとする狂気が静かに燃えているからこそ、彼はこの過剰な装飾すらも自身の覇気で完全に支配し、己のものとして着こなしてしまっているのだ。

 (ええ、やっぱり私がすべてを賭けた男ね。……本当に、見飽きないわ)  

 アミーナはすっかり彼という極上の宝石の虜になっており、教養ある大人の会話を投げかけつつも、時折ファリードが見せる少年の儚さと、底知れない王の潜在能力に、完全に心を奪われていた。


 その、誰もが目を奪われる美しき王と女領主の熱を帯びたやり取りをよそに。

 少し離れた壁際で、男物の外套を着崩して薄い果実酒を舐めていたマーシャは、周囲の目を盗み、アミーナの財務を司る文官へと一枚の羊皮紙を静かに滑らせていた。


「……アミーナ様に伝えておけ。殿下の覇道に投資するなら、重い金貨を馬車で運ぶような非効率な真似はさせない。我が陣営は『手形』という、ザルカが大陸の経済を支配するための新しい仕組みを提供する、と」

「て、手形……?」

 怪訝な顔をする文官に、マーシャはターバンの奥でニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。


 それが、大帝国の物流を根底からひっくり返す、恐るべき劇薬の種蒔きであることなど、華やかな宴に酔いしれる者たちは誰一人として気づかぬまま......


 そんな喧騒の中、ザイドの狙いはただ一つ。この城に咲く美しい花々だった。


 「ねえお姉さん。ザルカの女は太陽みたいに綺麗だって聞いてたけど、噂以上だね。どう? この後、俺と二人で抜け出して、星でも見に行かない?」


 ザイドは、果実の盆を運んでいた美しい侍女にウィンクを投げかけた。

しかし侍女はクスリと笑い、「あら、お星様なら一人でどうぞ。私は忙しいの」と、ザイドの鼻先を盆で軽くかわして通り過ぎていく。

 それでも全くめげないザイドは、壁際で薄い果実酒を舐めていたマーシャの元へ滑り込んできた。


 「いやァ、たまらねェなザルカは! 女城主の城ってだけあって、侍女も踊り子もとびきりの美人揃いだぜ。きっと城を警護する近衛兵の中にも、誇り高くて麗しい女騎士様がうじゃうじゃいるに違いねェ!」

 「……お前、自分の背丈も顧みずに盛りのついた犬みたいに嗅ぎ回るのはいいが、ザルカの女の強かさを舐めるなよ。翌朝に身ぐるみ剥がされて堀に浮いてても、私は助けないからな」


 男物の外套を着崩し、ターバンを深々と被ったマーシャは、冷ややかな視線でザイドをあしらった。

 「冷てェな兄貴! いいか、こういうのは数撃ちゃ当たるんだよ!」と、ザイドは再び獲物を探して喧騒の中へ消えていく。


 「……あの馬鹿者は。同盟国の城で、なんという恥知らずな真似を」

 マーシャの隣で、カディルが深い深い溜息をつき、顔の火傷の痕ごと眉間を強く揉み込んだ。


 彼の生真面目な騎士道精神からすれば、ザイドの軽薄な振る舞いは言語道断だ。

 それに加え、この豪奢すぎる空間も、むせ返るような香水の匂いも、質実剛健を是とする彼には毒でしかなかった。


 「マーシャ、私は少し外の空気を吸ってくる。あの馬鹿がこれ以上殿下の名に泥を塗らぬよう、監視しておいてくれ」

 「へいへい。堅物の旦那は、月でも見て頭を冷やしてきな」


 マーシャがグラスを掲げると、カディルは逃げるように大広間の重い扉を開け、夜の帳が降りたバルコニーへと向かった。


* * *


 バルコニーに出ると、喧騒は遠くの波音のように静まった。

 ザルカの乾いた冷たい夜風が、カディルの火照った頬を撫でる。眼下には、城壁の向こうに広がる街の無数の灯りが、まるで地上の星空のように瞬いていた。


 「……やはり、私にはあの熱気は合わん」


 カディルは一人ごちると、腰に佩いた長剣を抜き、月明かりの下で手入れを始めようとする。どんな場所においても、剣の曇りを拭うことだけが、彼の乱れた心を落ち着かせる唯一の儀式だった。


「随分と隅っこがお好きなのね、堅物騎士さん。せっかくの宴なのに」


 不意に、背後から快活で涼やかな声が響く。

 カディルが剣を構え直して振り返ると、そこにはガラスの杯を二つ持った女性が立っていた。


 アミーナの側近の一人、レイラだ。

 彼女はザルカの女性特有の、赤い絹と金の装飾が施された派手で美しい装いを纏いながらも、その腰には実戦用の鋭い曲刀、シャムシールを帯びていた。引き締まった褐色の肌と、自信に満ちた大きなアーモンド型の瞳。

 彼女は、カディルとは対極に位置するような明るく自由な気風を全身から放っていた。


 「……アミーナ殿の側近か。私に何か用でも?」

 「レイラよ。アミーナ様の親衛隊長を任されているわ」


 レイラは物怖じする様子もなくカディルに近づき、バルコニーの手すりに寄りかかって杯の一つを差し出した。

 「ほら。ザルカ名物の強い蒸留酒よ。果実酒なんかより、こっちの方が貴方の口に合うんじゃないかと思って」

 「……遠慮しておく。私は任務中だ」

 カディルが素っ気なく断ると、レイラは「つまんないの」と肩をすくめ、自身の杯を煽った。


 そのまま立ち去るかと思いきや、レイラは不意に距離を詰め、カディルの顔を――正確には、彼の左頬を覆う赤黒い火傷の痕を真っ直ぐに見つめた。


 「ねえ。貴方、さっきからずっとしかめっ面で、その傷を髪の影に隠そうとしてるわね。……どうして?」

 その単刀直入すぎる問いに、カディルの身体がビクッと硬直した。

 彼は顔を背け、刃のような鋭い声で冷たく拒絶する。


 「……無作法な女だ。ジロジロと見るな。これは名誉ある傷ではない」

 「名誉じゃない?」

 「ああ。……守るべき主君を炎から救えなかった、私の不甲斐なさと、拭いきれぬ罪の証だ」

 カディルは己の過去のトラウマを、自嘲気味に吐き捨てた。


 数ヶ月前、王都グラナダを焼き尽くした裏切りの業火。  

 あの夜、彼はすべてを失ったのだ。  

 自らの命に代えても守り抜くと誓った、太陽のように完璧だった主君、第一王子シャムス。  

 厳しい稽古の合間に肩を叩き合い、軽口を叩きながら常に背中を預け合ってきた、近衛騎士の無二の悪友であるジャシムとナディーム。  

 そして――身分違いと知りながら、密かに、決して叶わぬ道ならぬ恋慕を胸の奥底で抱き続けていた白真珠の姫君、ルルアを。


 最も敬愛し、愛した者たちが紅蓮の炎と敵の凶刃に呑み込まれていく中、自分はただ、ファリードを抱えて逃げることしかできなかった。  

 炎の渦中へ飛び込んで彼らを救い出すこともできず、自身だけが醜い火傷を負って無様に生き延びてしまった絶望。  

 この傷が疼くたび、彼はあの夜のどうしようもない己の無力さと罪悪感に苛まれるのだ。


 だからこそ彼は、二度と主君を失うまいと、異常なまでの過保護と堅物さで自身をがんじがらめに縛り付け、己の心を完全に殺して生きてきたのである。


 普通であれば、この重い告白を聞けば同情して言葉を濁すか、気まずくなって立ち去るだろう。

 だが、ザルカの太陽の下で育った女戦士は違った。


 その血を吐くような後悔の念を聞いた瞬間。レイラは、大きく見開いた目を瞬かせた。  

 独立都市ザルカ。

 金が唯一の神であるこの街で、レイラは自分の立身出世のために平気で主君を売り飛ばし、裏切る男たちを腐るほど見てきた。


 忠義などという言葉は、この街では最も安い絵空事だったのだ。  

 (……なんだ、この男は)  

 自分の命が助かったことを喜ぶどころか、主君を救えなかった己を罰し、その醜い傷跡を一生の罪として背負い続けている。  


 人間不信に陥りかけていたレイラの胸の奥で、カチリ、と冷え切っていた何かが音を立てて溶ける音がした。  

 利益も打算も微塵もない。ただ己の忠義だけを不器用なまでに真っ直ぐに貫き通す男が、この狂った世界に本当に存在したのだという、どうしようもないほどの救い。


 「なんだ、そんなこと」

 レイラはあっけらかんと笑い飛ばし、グラスを置いた。

 そして、カディルが反応するより早く、彼女のしなやかな指先が、カディルの左頬の火傷の痕に躊躇いもなく触れたのだ。


 「なッ……!?」

 「馬鹿ね。貴方は生き残って、今もあの美しいファリード殿下の、立派な盾として剣を握っているじゃない。……死んで灰になっていたら、誰も守れないわ」


 レイラは悪戯っぽく微笑み込み、カディルの傷跡をなぞるように優しく撫でた。


 「……綺麗に着飾って、安全な王宮の絨毯の上でふんぞり返っているだけの騎士より……炎の中で主君の盾として立派に生きた証がある男の方が、よっぽど格好良くて信頼できるもの」


 その言葉は、カディルの胸の奥底に刺さっていた冷たい氷の棘を、強烈な熱で溶かしていくようだった。  

 今まで過去の亡霊として自身を呪い続けてきた火傷の痕。王宮の誰もが目を背けたこの醜い傷を、どこからともなく現れたこの女は真っ向から「盾としての誇りだ」と肯定した。


 カディルは息を呑み、初対面にもかかわらず至近距離でレイラの顔を見つめ返した。  

 月明かりの下、彼女の大きなアーモンド型の瞳が、真剣な光を帯びていた。

 権力者に媚びるだけの女の目ではなく、己の腰に帯びた曲刀シャムシールで幾度も修羅場を潜り抜け、本物の戦士だけを見極めてきた、気高き雌豹の目。


 彼女の放つむせ返るような香水の奥に、微かな鋼と革の匂い――自身と同じ、血生臭い戦場を知る者の匂いを感じ取った瞬間。  

 カディルは、今まで”不埒な毒婦の側近”としか見ていなかった彼女を、初めて対等な女戦士として強烈に意識してしまった。


 ドクン、と。

 戦場以外で心臓が跳ねるのを自覚し、カディルは顔を一気に真っ赤に染め上げると、まるで火に触れたように半歩飛び退いた。


 「き、貴様ッ……! 男をからかうのも大概にしろ!!」

 「あら、本心よ? ザルカの女は、強い男には嘘をつかないの」

 レイラは悪戯っぽく微笑み、一歩引いたカディルの分厚い胸板を、スッと人差し指で突いた。


 「ねえ、堅物さん。どうせアンタの陣営は、近いうちにザルカの力を借りてまた大きな戦を起こすんでしょう? ……今度、その剣の腕を私に見せてよ。アンタの分厚い背中が、戦場でどれくらい頼りになるのか確かめてみたいわ」


 「……女の背後へ隠れるような真似はせん。私の剣は、殿下を守るためにのみある」

 「ふふっ、言ったわね? それじゃあ次は、お互いの背中を預け合いましょう」

 好敵手に向けるような、挑発的で艶やかな笑顔。  


 カディルはもはや彼女のペースに完全に呑み込まれ、長剣を鞘に乱暴に押し込むと、狼狽えきった足取りでバルコニーから逃げるように早歩きで立ち去っていく。


 その背中へ向かって、レイラは楽しそうに手を振った。

 「またね、カディル! 次は戦場で会いましょう!」

 その一部始終を。  

 バルコニーの入り口の影から、果実酒のグラスを持ったマーシャが密かに覗き見ていた。

 

 「……へえ」  

 マーシャはターバンの奥で、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。

 「あの堅物の旦那が、手も足も出ずにタジタジじゃないか。過去の亡霊を断ち切るには、劇薬が必要だからな。……いい薬をもらったな、カディル」


 陣営の中で最も過去に囚われていた男に、ザルカの太陽のような新たな光が差した夜。  

 マーシャはグラスの酒を飲み干すと、満足げに踵を返し、再び宴の喧騒の中へと戻っていった。

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