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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
四章

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27/42

謁見へ

 そして、謁見の直前。  

 城の待合室として通された豪奢な控えの間に、マーシャの低く冷徹な声が響いていた。

 「いいか、殿下。宿でザイドから叩き込まれた手練手管を忘れるなよ。まずは純真で無力な子鹿を完璧に演じろ。瞳を潤ませ、吐息を混ぜて、相手に主導権を握らせたと思い込ませるんだ」  

 マーシャは、緊張で硬くなるファリードの目の前に立ち、その美しい顔を指先でツンと小突いた。

 「相手は男を金で買ってきた毒蜘蛛だ。それゆえに『男は自分の美貌と富にひれ伏す愛玩物だ』という強烈な驕りがある。そこを逆手に取れ」

 「……つまり、相手が完全に油断して手を伸ばしてきた瞬間に……」

「そうだ」

 マーシャはターバンの奥で、ニヤリと悪魔のように笑った。

 「――被っていた子鹿の皮を脱ぎ捨てて、世界を焼き尽くす覇王の顔で喉笛に食らいつけ」

 「覇王の、顔……」

 「アミーナはすべてを手に入れて腐りかけている。そんな退屈な女の心を撃ち抜くのは、従順な愛の言葉じゃない。自分の安全な城壁を内側からぶっ壊してくれる、得体の知れない”狂気”だ」

 マーシャはファリードの胸元をトン、と軽く小突き、静かに、だが強烈な熱を込めて言い放つ。

 「あんたのその傾国の美貌と、すべてを失ってもなお王座を狙うという異常な熱……その命という最強の手札を、交渉のテーブルに全額叩きつけろ。あの未亡人の退屈な心臓を、言葉で一突きにしてこい」

 ただの娼婦のように媚びるのではなく、自らの王としての器そのものを武器にして女領主を喰らえという、冷酷で熱い言葉に。  

 屈辱と緊張に頬を染めながらも、ファリードはマーシャの叩き込んだその劇薬のような采配を、血の滲むような思いで己の脳髄へと刻み込んでいた。



  重い青銅の扉が、地鳴りのような音を立てて開かれた。  

 一歩足を踏み入れた瞬間、ファリードの肌を包み込んだのは、空間から溢れかえる圧倒的な富の気配だった。

 白亜の城の最上層に位置する、豪奢な謁見の間。  

 床には足音が完全に吸い込まれるほど分厚く織り込まれた深紅のペルシャ絨毯が敷き詰められ、天を突く大理石の柱には、これ見よがしに黄金の蔦の細工が絡みついている。  


 部屋の四隅に置かれた巨大な銀の香炉からは、高価な乳香フランキンセンス麝香じゃこうが混ざった甘く退廃的な香りが紫色の煙となってたなびき、空気を重く淀ませていた。  


 壁際と柱の影には、大帝国の近衛兵すら凌駕しそうな、極上の武具を纏った屈強な私兵たちが、彫像のように一切の隙を見せずにずらりと並んでいる。


 そして、その広大で豪奢な空間の最も奥。  

 極彩色の絹の天蓋に守られた巨大な長椅子シェーズロングの上に、この街のすべての富と権力を握る女領主アミーナが、気だるげに肘をついて横たわっていた。  


 透けるような絹の衣から覗く、豊満で妖艶な肢体。

 すべての男を金と権力でひれ伏させてきたであろう、絶対的な驕りに満ちた酷薄な瞳が、現れたファリードの姿を値踏みするように舐め回す。


 (……相手は強者の位置で退屈しきっている毒蜘蛛だ。まずは無力な弱者を完璧に演じ、驕りを引き出せ)  

 背後で控えるマーシャの声が、脳内で冷たく再生される。

 ファリードは歩みを止め、胸にそっと手を当てて、大帝国の王子としてはあり得ないほど深く、恭しく頭を下げた。


 「……は、初めまして。ザルカを統べる気高き領主、アミーナ殿」  

 顔を上げたファリードの口から紡がれたのは、いつもの凜とした少年の声ではなはなく。  

 恐怖と緊張に震え、絶望の淵に立たされた無力な亡命者の完璧な掠れ声だった。


 「私が、シャジャルの……いえ、大帝国から追放された哀れな逃亡者、第二王子ファリードです。……どうか、私の命の嘆願をお聞き届けください」


 言葉の端々に、教え込まれた通りの儚いため息を挟む。  

 白絹の礼服に身を包んだファリードが、長い睫毛を震わせ、微かに潤んだ金色の瞳で不安げに上目遣いをした瞬間。  

 広間を支配していた冷たい空気が、あからさまに揺らいだ。


 「……ほう」  

 アミーナの酷薄だった瞳が、微かに見開かれる。  

 噂に聞いていた〈美しい王子〉という言葉すら生ぬるい。


 ただそこに立っているだけで周囲の黄金の装飾すら霞ませる、この世のものとは思えない規格外の美貌。 

 そして、すべてを失い怯えきった、弱者の哀愁。


 退屈を持て余していた絶対権力者の驕りを、ファリードの放った劇薬が彼女を正確に撃ち抜いたのだ。

 

 アミーナは内心の動揺を隠すように、ふっと赤い唇を吊り上げ、余裕のある笑みを作った。

 「……なるほど。確かに見事な見世物ね。で? その首に莫大な懸賞金がかかっている可愛い小鳥さんが、こんな私の巣まで、一体何の用かしら」


 相手が主導権を握り、余裕な態度を見せた。  

 完璧に罠にハマったことを確認し、ファリードは事前のマーシャの指示通り、必死にすがる純真な子鹿の仮面を被ったまま、さらに一歩踏み出して熱弁を振るってみせた。


 相手が完全に主導権を確信し、油断を露わにした。

 完璧に罠にハマったことを確認し、ファリードは事前のマーシャの指示通り、純真な弱者の仮面を分厚く被り直し、ビクッと怯えたように肩を揺らした。


 「……助けて、いただきたいのです」  

 ファリードは胸に手を当て、搾り出すような掠れ声で紡いだ。


 「王都を追われ、泥水を啜りながら辺境を逃げ惑う中で……私はずっと、貴女の噂を頼りに生きてきました。大帝国の正規軍すら手出しできない、気高く強大な〈北の未亡人〉。……この誰も信じられない残酷な状況において、大帝国の追手から私を保護できるほどの絶対的な力と富を持つのは、もうアミーナ殿、貴女しかいない……っ」


 その言葉に、アミーナは満足げに目を細めた。  

 権力者としての自尊心と、この美しき元王族を自らの足元に傅かせたという歪な支配欲が、心地よく満たされていく。

 

 「随分と可愛らしいお世辞ね。私がこの手で匿って、ペットとして鳥籠で飼ってあげてもいいけれど……私に帝国の敵をかくまう義理はないわよ?」

 鷹揚に、まるで哀れな子供をあやすように微笑むアミーナ。  


 その言葉を引き出した瞬間、ファリードはさらに一歩踏み出し、藁にもすがるような切実な表情で熱弁を振るってみせた。


 「ただ匿ってほしいわけではありません……ッ! アミーナ殿! 我々はすでにガレブ渓谷を平定し、精強な私軍を手に入れました。もし貴女が、我が陣営に軍資金と傭兵を貸し与えてくれるなら……私は必ずや叔父を討ち、王座を奪還してみせます!」

 

 ファリードは必死に身を乗り出し、アミーナを見つめ上げる。

 「その暁には、このザルカに帝国最高の特権と交易の自由を約束しよう。……私には、もう貴女の力しか残されていない。どうか、どうか私の覇道に力を貸してほしい……ッ!」


 大帝国の王子としての誇りを捨て、必死に身を乗り出して協力を仰ぐファリード。

 だが、その若く青臭い、懸命な説得に対し。

 アミーナは退屈そうに赤い唇を歪め、ふっと冷ややかな声でそれを遮った。


 「逃亡王子の助けを借りに来たと? 笑わせないで。大帝国の正規軍を敵に回してまで、我が街が貴方の泥舟に乗るメリットがどこにあるのかしら」


 アミーナの冷ややかな言葉を合図に、広間の壁際に控えていた屈強な傭兵たちが、威嚇するように一斉に武器の柄を鳴らした。

 鼓膜を打つ金属音と、あからさまな侮蔑の視線。

 背後でカディルが屈辱に全身を震わせている。カディルが剣の柄に手をかけようとした時。


 ファリードはスッと片手を上げてそれを制し、自ら一歩前へ出た。

 (……ここから先は、私一人だけの盤面だ)  

 ファリードの胸の奥で、静かな、だが確かな熱が燃える。  


 大河の砦でも、赤蠍でも、黒岩族の谷でも、彼は常にマーシャの描いた完璧な絵図と、カディルたちの武力と安全な盾に守られていた。  


 だが今、この冷たい大理石の床からアミーナの玉座に至るわずか数メートルの空間だけは違う。

 いかなる剣も届かず、あの悪魔の軍師の言葉すらも介入できない。

 己の肉体と演技、そして王としての胆力だけが武器となる、彼にとって初めての孤独な戦場だった。


 (『押してダメなら、引いてみろ』。相手に主導権を握らせたと錯覚させ、最も油断した瞬間に梯子を外すんだ)  


 マーシャから叩き込まれた心理戦のロジックが、極限の緊張の中で冷たく、そして力強く響く。

 ファリードは一切の言葉を発さなかった。  


 白絹の礼服の微かな衣擦れの音だけを響かせ、まるで森に迷い込んで狩人に追い詰められた子鹿のように、不安げで儚い足取りで玉座へと近づく。  


 そして、アミーナの足元に力なく崩れ落ちるように、ただ美しく跪いた。

 長い睫毛を伏せ、意図的にかすれさせた〈ため息〉を漏らす。

 恐怖に身をすくませているように華奢な肩を震わせるその完璧な”弱者”の演技は、権力者であるアミーナの傲慢な嗜虐心と優越感を、これ以上ないほどに煽り立てた。


 自身の足元で、この美しき元王族が誇りを捨てて完全に屈服している。  

 その光景に、アミーナは自身の絶対的な権力を再確認し、ふっと余裕の嘲笑を漏らした。


 「……なんだ。ただの綺麗な見世物じゃない。その怯えた顔なら、王都の娼館で高く売れるでしょうね」


 完全に油断しきったアミーナは、長椅子からゆっくりと身を乗り出し、細い指先を伸ばした。

 そして、ひんやりとした冷たい指で、ファリードの白い顎を軽く持ち上げる。  


 逃亡王子の絶望を間近で拝んでやろうという、権力者特有の残酷な遊戯であり、傲慢な征服欲の表れだった。


 至近距離で視線が絡み合う。

 ――その瞬間。ファリードは、アミーナの手を静かに、だが明確な拒絶の意志を持って払い除けた。


 「……ッ?」

 驚くアミーナを置き去りにし、ファリードはゆっくりと立ち上がった。

 彼の金色の瞳から怯えた少年の影は一瞬にして消え去り、そこには絶対零度の見下しが宿っていた。


 「……失望した」

 「……何ですって?」

 ファリードはアミーナに背を向け、広間の出口へ向かって歩き出そうとする。


 「老いた強欲な男どもを蹴落とし、地の底から這い上がった〈北の未亡人〉と聞いて、どれほどの傑物かと期待していたが。……所詮は、過去の栄光にすがり、金貨の山の上で腐っていくのを待つだけの、退屈な商人だったか」


 「待ちなさい!!」

 アミーナの声が裏返り、広間に鋭く響いた。

 傭兵たちが一斉にファリードに刃を向けるが、彼は振り返りもせず、肩越しに冷ややかに言い放つ。


 「違うか? 貴女はすべてを手に入れ、この白亜の城壁という安全な鳥籠を創り上げた。だが、その結果どうだ。毎日毎日、貴女の金に群がる小悪党の阿諛追従を聞かされ、張り合いのない退屈な日々に欠伸を噛み殺している。……血の滾るような野心を持っていたあの頃の貴女は、もう死んだのだな」


 それは、アミーナの最も深く、誰にも触れさせなかった虚無感のど真ん中を貫く一撃だった。  

 底辺から這い上がった彼女のプライドを一度持ち上げ、そして現在の停滞を痛烈に侮蔑して突き放す。

 マーシャの教え通り、強烈な駆け引きが、アミーナの感情を激しく揺さぶった。


 アミーナの脳裏に、とうの昔に忘れ去り、白亜の城の奥底に封印していたはずの自身の過去が、鮮烈にフラッシュバックする。  

 スラムの掃き溜めで生まれ、強欲な商人や権力者たちからゴミのように見下され、慰み者として足蹴にされていた日々の記憶。  


 『いつか必ず、私を見下したこいつら全員を、私の足元にひれ伏させてやる――!』  


 あの頃の彼女の瞳には、飢えた獣のような燃え盛る熱情と、底知れぬ野心があった。  

 成り上がるためなら、本当に何でもした。


 自らの若さと瑞々しい身体を最大限の武器として切り売りし、豚のような男たちの欲望を受け入れながら、その耳元で甘い毒を囁き続けた。

 権力を得てからは男同士を争わせ、自分を所有物として支配しようとした男たちの寝首を次々と掻き切って、その血溜まりの上を裸足で歩いてきたのだ。  


 そうしてすべてを奪い尽くし、己の力一つでこの独立都市の頂点に君臨した。  

 だが、邪魔者をすべて排除し、自分に逆らう者が誰もいなくなった時。

 絶対的な安全と莫大な富の中で彼女を待っていたのは、かつてのヒリヒリとした熱狂を失った、底なしの『退屈』という名の虚無感だったのである。


 その隠し続けてきた最も痛い核心を。出会ったばかりの、年端もゆかない青臭い少年に、一息で貫かれたのだ。

 アミーナは長椅子からギリッと身を乗り出し、真っ赤に塗られた爪が白く変色するほど強く、自身の膝を掴んだ。

 「……ふざけた口を利くじゃない。何の後ろ盾もない小鳥の分際で」

 「後ろ盾なら、これから私が創る」

 ファリードは再び踵を返し、今度は傭兵たちの刃を意にも介さず、アミーナの玉座の目前まで真っ直ぐに歩み寄った。


 そして、怒りと動揺で肩を震わせる彼女の右手を、自らの両手で包み込むように取った。

 「無礼な……ッ! 触るな!」  

 アミーナは反射的に手を振り払おうとした。

 だが、ファリードの白く滑らかな指は、決して逃がさないという強い意志と、火傷しそうなほどの熱を持って彼女の手をホールドしていた。


 「私は貴女に、ありふれた富や平穏を約束するのではない」  

 ファリードはゆっくりとその場に跪き、彼女の手の甲に羽が触れるような、極めて優雅な口づけを落とした。  

 その所作は、王宮で培われた洗練の極み。そして同時に、マーシャから叩き込まれた「相手の理性を内側から溶かす」緻密な心理操作の集大成であった。


 アミーナの息が、ピタリと止まる。

 「貴女のその鋭い知性と、まだ死に絶えていないその野心を、私が買おう。退屈な玉座ではなく、大陸の歴史を塗り替える『覇者の右腕』として、私の隣で世界を焼く未来を約束しに来たのだ」


 ファリードは顔を上げ、至近距離で微笑んだ。  


 そこに、数分前まで見せていた無力な亡命者の面影など微塵もない。 

 あるのは、自身のすべてを盤面に投げ出してでも王座を狙うという、将来の覇王の底知れぬ〈狂気〉と野心。相手の退屈を確実に喰い破る、猛毒のように危険で致命的な微笑だった。


 「私と共に、もう一度この世界をひっくり返してみないか。アミーナ」

 囁くような、けれど絶対的な自信に満ちたその声は、アミーナの胸の奥底で燻っていた『あの頃の野心の残り火』に、爆発的な油を注ぎ込んだ。


 今まで彼女に群がってきた男たちは、皆、彼女の富や身体を奪い、自身を愛玩物として〈従属〉させようとする者ばかりだった。だから彼女は、自身の尊厳を守るために男たちを殺してきた。  


 だが、目の前のこの少年は違う。

 彼はアミーナから何かを奪うのではなく、彼女という怪物が持て余した力を、自身の覇道、規格外の炎にくべろと言っているのだ。  


 自分を従属させようとする凡庸な男たちとは違う。自身の安全な鳥籠ごと焼き尽くし、世界を巻き込むかもしれない、恐るべき狂気を持った覇王の器。

 彼女が玉座の上でずっと求めていたヒリつくような”熱狂”が、今、自身の手の甲から全身へと強烈に伝播していく。


 アミーナの頬に、抗いようのない高揚の朱が差した。  

 彼女の瞳は、もはや権威を傷つけられて怒る領主のものではない。自身を再び戦場へと引きずり出す極上の炎を見つけ出し、自らその大火に飛び込みたいと願う、本物の野心家の歓喜の顔だった。 


「……ははっ、あははははっ!」  

 アミーナは突如、天を仰いで艶やかに笑い出した。

 「アミーナ、様……?」  

 今まで剣を構え、ファリードを威嚇していた周囲の傭兵たちが、主君の突然の哄笑に完全に毒気を抜かれ、戸惑ったように顔を見合わせる。  


 その異様な空気の中、アミーナは長椅子から身を乗り出し、ファリードの頬を熱っぽく撫でた。


 「……見事よ、小鳥さん。ええ、本当に退屈していたの。私の退屈を殺してくれるというのなら、この街の金も傭兵も、すべて貴方に賭けてあげるわ」

 「賢明な判断だ」

 「……その代わり。貴方が世界を飲み込むその日まで、特等席で貴方のその狂気を見せてもらうわよ? 私の美しい王様」


 アミーナが妖艶に微笑み、ファリードは謁見の間の冷たい床に片膝をついたまま、深く頷き返した。


 美貌という名の戦略兵器と、相手の心理を完璧にハッキングした話術。彼らは互いの野心を認め合い、極めて危険で強い共犯関係を結んだのだ。


 見事な心理戦による、完全な籠絡。  

 背後の物陰では、想定通りの心理戦で巨大な盤面をひっくり返した少年を見つめながら、小柄な軍師が満足げに唇を吊り上げていた。


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