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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
四章

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26/42

偽の薬香

 大帝国の正規軍すら賄賂で追い返す、金が唯一の神である独立都市ザルカ。  

 この巨大な城郭の奥に座す女領主アミーナに会うため、ファリードたちはまず〈大商人の御曹司〉という設定を利用し、正攻法で城への接触を試みた。

 だが、結果は無残な門前払いだった。

 「帰れ帰れ! アミーナ様は金と権力に群がる有象無象にはもうウンザリしているんだ! ちょっとばかり金回りのいい商人の若旦那が会えるようなお方ではない!」  

 城の受付を取り仕切る役人に、ザイドが差し出した金貨の袋ごと冷たく跳ね除けられてしまったのだ。  

 「なっ……! 殿下をなんと心得る!」  

 激昂して剣に手をかけようとしたカディルを、マーシャとザイドが慌てて羽交い締めにして城の門前から引きずり戻す羽目になった。

 「……失敗だったな」  

 手配した高級宿の一室に戻り、ファリードが苦笑いとともに肩を落とす。

 「ああ。金さえ積めば会えると思ったが、アミーナの退屈は想像以上に重症らしい。普通の商人や、中途半端な賄賂では興味すら持たないということだ」  

 マーシャは腕を組み、不敵に笑った。

 「なら、売り込み方を変える。相手から『どうしても会いたい』と言わせるための、特上の餌を街中に撒く」

 「特上の餌……?」  

 「そうだ。ザイド、出番だ」  

 指名された密偵が、ニヤリと悪党の顔になる。

 マーシャは羊皮紙に素早くザルカの地図を描き出した。  

 「ザイド、お前は裏市場と歓楽街を回れ。娼館の女たちや酒場の店主に金をばら撒き、『底知れぬ野心と規格外の美貌を持った若き王が、とびきりの刺激を持ってアミーナ様に謁見を求めている』という噂を徹底的に流し込め。ターゲットはアミーナの側近たちだ」  

 「へへっ、任せな! 噂話と女の扱いは俺の独壇場だぜ」  

 「それと同時に、バザールで私が指定した東方の乳香や薬草を調達してこい。ただの宝石じゃアミーナの側近の目は引けない。私が暗殺業で培った知識で、女の好奇心をそそる怪しい香薬を調合してやる」     

 「なるほどねェ、噂と劇薬の合わせ技か! 任せな兄貴!」

 

 かくして、陣営による泥臭い暗躍が始まった。  

 ザイドは夜の歓楽街に繰り出し、酒場の女将や踊り子たちに惜しげもなく赤蠍の砦から奪った銀貨を握らせた。


 「ねえ女将、これ内緒の話なんだけどよ。うちの若旦那、実はただの商人じゃなくて、帝国から追われてる本物の王子様なんだわ。それがアミーナ様に、国をひっくり返すような面白い話を持ってきたらしくてよォ」

 「やだ、あの白亜の礼服の? バザールでも噂になってたわよ、息が止まるくらい美しいって」


 女たちの噂の伝播力は、どんな情報網よりも早く、そして尾鰭がついて城の内部へと浸透していった。


 完璧な情報操作を終え、噂の種が弾けたのを確認したザイドは、ニヤリと密偵から「ただの男」の顔へと切り替えた。

 「へへっ、でさ。そのものスゲェ王子様の一番の懐刀ってのが、他でもないこの俺でね! どんな分厚い扉も俺の手にかかりゃあ一発よ。どう? この後、俺と二人で抜け出して綺麗な星でも見に行かない?」


 ザイドはここぞとばかりに自分の武勇伝を盛りまくり、隣に座る美しい踊り子に向かって甘いウィンクを投げかける。

 だが、ザルカの歓楽街で生き抜く強かな女たちは、甘い言葉よりも現実の『数字』に敏感である。踊り子はチラリと、ザイドが注文したテーブルの上の安酒の瓶を見て、フッと冷ややかな笑みをこぼした。


 「あら。王子の懐刀の割には、随分と奢りがケチくさいのね、おチビちゃん。お星様なら、一人で見てきなさいな」

 「げッ!?」


 実はザイド、マーシャから渡された十分な工作資金をちゃっかり自分の懐にネコババしようと企み、酒場では一番安い酒しか頼んでいなかったのだ。

 それが完全に裏目に出た。


 「ま、待てよお姉さん! 違うんだ、これには深いワケが――」

 「女将ー、このテーブルお勘定! お坊ちゃんのおごりよ!」

 「ああっ!? 俺のシノギがァァッ!!」


 結局、ザルカの強かな女たちに手玉に取られ、ナンパは全敗。

 ザイドは自身のネコババ計画を阻止された上、工作資金でタダ酒だけを浴びるように飲んで、トボトボと帰路につく羽目になった。


 だが、彼もただ遊んで失敗したわけではない。同時にザイドはバザールを駆け回り、商人たちと丁々発止のやり取りを繰り広げて必要な香薬の材料をしっかりと調達し、宿で待つマーシャのもとへと運び込んでいたのである。

 

 「……それにしても、彼は生き生きしているな」  

 宿の窓から、街の喧騒に紛れて暗躍するザイドを見下ろし、ファリードが微かな笑みをこぼす。  

 水を得た魚のように歓楽街を泳ぐ彼の姿は、王宮の堅苦しい謁見の間では決して見られない、強かな生命力に満ちていた。

 「彼の土俵だからな」  

 マーシャは調合した香薬を小瓶に詰めながら、窓辺に寄りかかった。  

 

 「殿下、私の故郷の古い兵法書に『孫子』というものがある。そこにはこう記されている。――『真に戦いに勝つ者とは、戦い方が上手かったり勇敢であったりする者ではない。勝ちやすい状況を作り出す者のことである』とな」

 「勝ちやすい、状況……」  

 「そうだ。戦いとは、分析と戦略に優れ、正しいタイミングを見極めて動いた者が勝つ。……私の故郷にはかつて、〈第六天魔王〉と恐れられた名将がいた。だがその覇王は、当時の武将にしては珍しく、案外負け戦の数も多かったんだ」

 魔王なのに負け戦が多かったという矛盾に、ファリードは興味深そうに目を向けた。

 「だが、彼は負けそうな時はさっさと戦をやめて退き、逆に勝ちそうな時には思い切って勝つ……そのタイミングの見切りが天才的に上手かったからこそ、最終的に天下を掴むほどの強大な力を手にしたんだ」    

 マーシャは視線を窓の外、活気に満ちたバザールへと向けた。  

 「将の役割は、一人で剣を振り回すことじゃない。手持ちの駒……仲間たちが、最も輝く場所に適切に配置してやることだ。それが”適材適所”というやつさ」  

 「適材適所……」  

 「そうだ。スラム育ちのザイドには裏市場の噂操作を。知識の豊富なイブンには賄賂の調合を。彼らが一番生き生きと動ける勝ちやすい盤面を作ってやれば、あとは勝手に勝利が転がり込んでくる」

 「なるほど……。お前の戦術は、いつも理にかなっているな」  

 ファリードは深く感心したように頷き、仲間たちの頼もしい姿をもう一度見下ろした。  

 だが、マーシャは外套を羽織りながら、その無防備な少年の背中をポンと容赦なく叩いた。

 「感心している場合じゃない。……殿下も、ただ宿で待っているだけじゃないぞ」  

 「えっ? 私もか?」  

 「当たり前だ。さっき言っただろう、適材適所だと」  

 マーシャはターバンの奥で、ニヤリと悪党の笑みを浮かべた。  

 「今のあんたの適材適所は、街を歩いて少し顔を見せてくることだ。お前のその傾国の美貌自体が、噂に信憑性を持たせるための最高の手札になる。……カディル、護衛を頼む」


 ファリードが街の大通りを歩くだけで、効果は絶大だった。

 彼がバザールの濃厚な香辛料の匂いに少し眉を顰め、マーシャに叩き込まれた計算し尽くされた、憂いを帯びた瞳で空を見上げるだけで通りすがる街の女たちは足を止め、商人たちもその隠しきれない高貴な気品に言葉を失った。


「あの方が、噂の……」

「なんて美しいの。本当に、絵画から抜け出してきたみたい……」


 四方八方から突き刺さる熱視線の暴力。

 かつてのファリードであれば、そのプレッシャーと好奇の目に耐えきれず、耳まで真っ赤にして俯いていただろう。

 (……耐えろ。これも、王座を取り戻すための盤面だ。私自身が、最高の餌になるんだ)


 彼は内心で沸き起こる羞恥と屈辱を必死に押し殺し、己の美貌すらも冷徹な手駒として使い切る覚悟で、完璧な孤独な亡命者のクールな仮面を張り付け続けた。


 その隣で、カディルは「殿下をジロジロと見るな下賎の者ども!」と胃を痛めながら周囲を睨みつけながら人波を掻き分けていく。


 ザイドがバラ撒いた極上の嘘と、ファリードという実物の圧倒的な美貌。

 陣営の総力を結集して編み上げられたその巨大な情報と魅了の網が、ザルカの街を完全に飲み込み、退屈を持て余していたアミーナの耳に見過ごせない、最高の暇つぶしの話として届くまで、そう時間はかからなかった。


 ファリードとカディルが宿に戻った後。

 その歓楽街に取った宿の一室に、買い出しと情報工作に出ていた密偵のザイドが帰還した。

 「へへっ、言われた通りバザールで一番の『蒼涙そうるいの乳香』を手に入れてきたぜ!」

 ザイドが自信満々に麻袋をテーブルに置。

 だが、男物の外套を着崩したマーシャは、袋を受け取る前にザイドの顔をじっと見つめ、呆れたように鼻を鳴らした。

 「……お前、キツい口紅の匂いをさせてるくせに、随分と不満そうな顔をしてるじゃないか」

 「ぎくッ!?」

 図星を突かれ、ザイドはあからさまに肩を跳ねさせた。


 「ま、まさか! 俺は真面目に殿下のための工作を――」


 「嘘をつけ。どうせ工作資金をケチって女を口説こうとし、ザルカの女にあしらわれてタダ酒だけ飲んで帰ってきたんだろう。顔に”全敗”って書いてあるぞ」


 「う、うるせェな! ザルカの女はガードが堅ェんだよ!」

 痛いところを完璧に見透かされ、ザイドは顔を真っ赤にして口を尖らせる。


 カディルが「貴様、またそのような破廉恥な真似を!」と怒鳴り声を上げ、ファリードが苦笑いする。

 そんなドタバタの中、マーシャはザイドの買ってきた香薬の袋を受け取り、一瞥して微かに匂いを嗅いだ瞬間、ひどく冷ややかなため息を吐き出した。


 「……それに、やられたな、ザイド。半分以上、安物の偽物が混ざってるぞ」

 「なッ!? 嘘だろ、あそこの商人は街でも一番の大店だぞ!」

 ザイドが目玉が飛び出そうなほど驚愕する。


 「なんと恥知らずな! 殿下の軍資金を騙し取るとは、今すぐ私が斬り捨ててくれる!」

 傍らに控えていたカディルが、顔の火傷の痕を怒りで赤黒く染め上げ、腰の長剣に手をかけた。


 「やめろ、カディル」

 マーシャは静かに、だが絶対的な威圧感でそれを制止した。


 「ここはザルカだ。証拠もなく剣を抜けば、街の私兵団に囲まれて私たちが強盗にされる。……金で受けた借りは、知識で叩き返すぞ。案内しろ、ザイド」


* 


 賑わいを見せる巨大なバザール。目当ての香薬店の前に立つと、恰腹の良い商人は、マーシャたちを貧相な旅人だと見下して薄笑いを浮かべていた。

 「いちゃもんをつける気か? ここは金と法が支配するザルカだぞ。証拠がないなら衛兵を呼ぶが?」

 カディルが青筋を立てて剣の柄を握りしめるが、マーシャは堂々と商人の前に進み出た。

 「証拠? いいだろう、あんたの店の客全員の前で証明してやるよ」

 マーシャは近くにあった防火用の水桶を引き寄せると、買わされた『蒼涙の乳香』の欠片を無造作に放り込んだ。

 すると、半分は水の底へ沈んだが、残りの半分はプカプカと水面に浮き上がったのだ。

 「『蒼涙の乳香』は、砂漠の奥地で数百年かけて結晶化する最高級の樹脂だ。本物は石のように密度が高く、水に沈む。だが、この浮いているのはただの『安価な松脂まつやに』だ。ご丁寧に表面だけ青く塗ってあるな」

 客たちがざわめき始める。

 商人は顔をしかめ、「馬鹿な! 色が青いから本物だ! 水に浮く質の軽いものもある!」と必死に食い下がった。

 「ほう。じゃあ、燃やしてみるか」

 マーシャは懐から火打ち石を取り出し、水に浮いた偽物の欠片を小刀で削って火をつけた。

 シュボッ、と。

 周囲の客が息を呑んだ。

 燃え上がったのは、鮮やかな青緑色の炎だったのだ。

 「本物の乳香なら、オレンジの炎と甘い煙が出るはずだ。だが、この青緑色の炎が出るってことは、安物の松脂を青く見せるために緑青などの銅の粉末を混ぜて着色した証拠だ。……私の故郷じゃあ、これを『炎色反応』って呼ぶんだよ」

 客たちの前で完璧な科学的な証明をされ、詐欺のトリックが暴かれた商人は、みるみるうちに顔面蒼白になり、その場に平伏した。

 「衛兵を呼ぶかい? ザルカの商業ギルドにこの”銅入りの偽物”を持ち込めば、あんたの店は今日で営業停止だ。……だが、足りない分の本物を出して、さらにアミーナ様の側近が好む香りの配合の極秘情報を吐くなら、この件は水に流してやる」


* 


 「いやぁ、すげェや兄貴! あんな水に浮くとか、火の色の違いだなんて、よく一瞬で見抜けたな!」

 宿への帰り道。

 本物の極上香薬と、アミーナの側近に関する有益な情報を抱えたザイドが、目を輝かせてマーシャを褒め称えていた。

 カディルもまた、感嘆の息を漏らす。

 「……異邦の学問、恐るべし。見たかザイド。この街では、剣を抜くより知識で相手の逃げ道を塞ぐ方が、よっぽど血を見ずに多くを奪えるのだ。私は軍師殿を見くびっていたかもしれん」

 武力と騎士道を重んじるカディルが、マーシャの「知の力」を心から認めた瞬間だった。

 だが、宿に戻り、すり鉢で本物の香薬を調合し始めたマーシャは、呆れたようにため息をついた。

 「ただの子供向けの理科の実験さ。……それに、私は火をつけなきゃ銅が混ざってる確証が持てなかったが、赤蠍の砦にいるあのヤブ医者イブンなら、袋の匂いを嗅いだ一秒で『松脂と銅の匂いがしますぞ』って産地まで当ててただろうさ」

 マーシャは自身の限界をあっさりと認め、肩をすくめる。

 「薬草と毒物に関してだけは、あの変態の嗅覚には到底敵わないからな」

 「あはは、確かにイブンならそう言いそうだ」

 留守番をしていたファリードが、その的確な評価に思わず声を上げて笑った。

 マーシャはため息をつきながら、商人を脅して吐かせた、側近が好む配合通りに乳香をすり鉢で挽いていく。

 甘く退廃的な香りが部屋に満ちた。

 「で? これがアミーナの城の門を開ける鍵になるのか、軍師殿」

 カディルが半信半疑で尋ねると、ファリードが金色の瞳を鋭く光らせた。

 「なるさ。……ザイド、明日はこの香りを焚き染めた外套を着て、城の受付役人の袖の下に金貨を滑り込ませろ。この香りは『我々がザルカの裏事情と特権階級の嗜好を完全に把握している』という、無言の脅迫と証明になる」

 マーシャの知識でもぎ取った戦利品が、若き王の知略によって次の戦略の武器へと変わる。ザルカ攻略の第一手は、この小さな香薬の小瓶から静かに始まったのだ。


 やがて夜も更け、明日の決戦に向けて陣営は休息を取ることになった。  

 彼らが大商人の御曹司一行として借り切っているのは、いくつかの個室が繋がった最高級の続き部屋である。

「では殿下、私は不測の事態に備え、扉の外で夜通し警護にあたります」とカディルが生真面目に一礼して廊下へ出ると、ザイドも「ふわぁ……俺も明日に備えて、隣の従者部屋で寝袋にくるまらせてもらうぜ」と大あくびをしながら隣室へと引き上げていった。


 結果として、広く豪奢な居間には、主君であるファリードと、側近として常に彼の傍に控えるマーシャの二人だけが残される形となった。  

 ランプの火が微かに揺れる中。

 ファリードはふと、薄暗い部屋の片隅に座るマーシャの姿に目を留めた。


 彼女は香薬の調合道具を片付けた後、自身の左手首を右手でそっと包み込むようにして、じっと虚空を見つめている。  

 その手首に巻かれているのは、泥と血を吸って黒く変色し、擦り切れかけた一本の『ミサンガ』だった。


 (……なぜ彼は、いつもあのボロボロの紐を見つめているのだろうか)


 バザールで見せた悪徳商人を震え上がらせる冷徹な顔でも、仲間たちと軽口を叩き合う軍師の顔でもない。  

 ただの紐切れを、まるで命綱のように、あるいは手の届かない遠い星を祈るように見つめるその横顔は、ひどく脆く、痛々しいほどに儚く見えた。


(あの紐に、彼のどんな過去が繋がっているというのだ……)

 ファリードは声をかけることもできず、ただ静かに、そのミステリアスで孤独な横顔を瞳の奥に焼き付けていた。


 最初の門前払いから三日後の朝。  

 ファリードたちの泊まる高級宿の前に、豪奢な装飾が施された城の馬車が音もなく停まった。  

 降りてきたのは、先日はザイドを鼻であしらった城の役人だった。

 だが、今の彼はもみ手をして、冷や汗を流しながらファリードたちの前に深く頭を下げていた。

 「も、申し訳ございませんでしたッ! アミーナ様が、ぜひ噂の〈美しい王子様〉とお会いしたいと……! どうか、城へご足労願えませんでしょうか!」

 一度目の無残な失敗からの、見事な逆転。  

 カディルが「ふん、手のひらを返しおって」と鼻を鳴らす横で、マーシャは満足げに唇を吊り上げた。

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