ザルカ
ガレブ渓谷の奥深くから、独立都市ザルカまでの道のりは馬を飛ばして丸三日を要した。
赤茶けた岩肌が牙のように突き出す過酷な荒野。日中は肌を刺すような熱砂が舞い、夜は凍てつくような寒さが彼らの体力を削り取っていく。
だが、その殺伐とした荒野を抜けた四日目の昼下がり。
彼らの視界の先に、それは突如として現れた。
陽光を跳ね返し、眩いばかりの輝きを放つ大理石の壁――難攻不落の巨大な城壁に囲まれた独立都市、ザルカである。
「止まれ! 何者だ!」
高くそびえる白亜の城門の前。
鉄の槍を交差させた屈強な門兵たちが、鋭い声でファリードたちの馬を制止した。
「このザルカは中立の交易都市だ。正式なギルドの通行証か、大帝国の紹介状を持たぬ者の入城は固く禁じられている! 貧相な身なりの者は帰れ!」
門兵の厳しい眼光に、カディルが剣の柄に手をかけそうになるのを、ザイドがスッと前に出て遮った。
「へへっ、お待ちくだせェ門番の旦那方。俺たちは怪しいモンじゃありませんや」
ザイドは極上の愛想笑いを浮かべながら、門兵に歩み寄る。
そして、誰の目にも見えない絶妙な手さばきで、赤蠍の砦から奪った純度の高い金貨が詰まった小袋を、門兵の鎧の隙間へと滑り込ませた。
「俺たちは、東の果てからやってきた大商人の一行でしてね。うちの”若旦那”が、このザルカの美しいバザールを一目見たいと我が儘を仰るもんで、通行証の手配もそこそこに駆けつけてきちまったんでさァ」
「なっ、貴様、賄賂で我々を買収しようと……」
一瞬、門兵が声を荒らげようとしたが、ザイドの背後――白馬に跨る人物の姿を見た瞬間、その言葉は完全に喉の奥で凍りついた。
白絹の礼服に身を包み、退屈そうに睫毛を伏せる白金色の髪の少年。
ファリードが、マーシャの教え通りにほんのわずかに憂いを帯びた瞳で門兵たちを見下ろしたのだ。
その、この世のものとは思えない規格外の美貌と、全身から溢れ出る隠しきれない高貴な気品。
それはどれほど精巧に偽造された通行証よりも雄弁に、彼が底知れない富と権力を持つ本物の特権階級であることを証明していた。
「な、なんと美しい……」
「これほどの気品……ただの商人ではない、どこかの大国の王族か……?」
圧倒的な美と富の気配に呑まれた門兵たちは、もはや通行証の有無など完全に忘れ去り、呆然と槍を下ろして道を空けた。
ザイドの渡した金貨の重みと、ファリードの美貌という二つの合わせ技が、難攻不落の城門をわずか数分でこじ開けたのだ。
「……通れ。ザルカは、富をもたらす者を歓迎する」
重い音を立てて、白亜の巨大な扉が内側へと開かれていく。
一歩城門をくぐれば、そこは別世界。
渓谷の砂埃を完全に遮断する、磨き上げられた石畳の路地。両脇には極彩色の絹の天幕が張られ、空気には濃厚な香辛料の刺激と、高級な香水の甘い匂いが充満している。巨大なバザールには大陸中の珍品が並び、商人たちの威勢のいい声が飛び交っていた。
「へへっ、すげェ熱気だ。歩いてるだけで財布の紐が緩みそうだぜ」
ザイドが目を皿のようにして、通り過ぎる美しい踊り子や、宝石を並べた露店を舐め回すように見つめている。
だが、その騒がしいバザールを抜けてなだらかな石段を上っていくと、街の空気は一変する。
中層に広がるのは、ザルカの富の恩恵を最も受けている大商人や、他国から亡命してきた特権階級たちの居住区だった。
建物の壁は白亜の石灰岩で統一され、バルコニーには貴重な青い硝子や黄金の細工が惜しげもなくあしらわれている。水が金より高いこの辺境において、彼らの庭には大河から引き込んだ見事な噴水が涼やかな音を立て、絹の衣を纏った貴族たちが、高価な香水を漂わせながら優雅に果実酒を傾けていた。
彼らの護衛として雇われているのは、大帝国の正規軍にも引けを取らない重装備の私兵団だ。ここでは大帝国の法律など一切通用しない。自らの命と財産は、自らの”金”で雇った力で守るのが、この街の絶対のルールなのだ。
そして。
そのすべての富と喧騒を見下ろすように、街の最も高い頂きにそびえ立っているのが、女領主アミーナの居城だった。
「……あれが、北の未亡人の城か」
ファリードは歩みを止め、見上げるほどに巨大な白亜の城郭を眩しそうに見つめた。
天を突くような複数の尖塔と、要塞のように分厚い大理石の壁。
城へと続く唯一の巨大な階段路には、この街で最も屈強な傭兵たちが等間隔で槍を構え、一切の隙を見せずに睨みを効かせている。
あの城の奥に座す一人の未亡人が、この街のすべての富、水脈、そして命の生殺与奪の権を握っている。
アミーナが「右」と言えば莫大な金貨が動き、「左」と言えば刃向かった大商人の首が翌朝には堀に浮く。
金に群がる数多の野心家たちを次々と食い物にしながら、大帝国の不可侵すら勝ち取った恐るべき毒蜘蛛。
街を行き交う誰もが、時折畏怖を込めてあの白亜の城を見上げ、彼女の機嫌一つで自分たちの明日がどうなるかを常に計算しながら生きているのだ。
「……なんという魔窟だ。金と欲望だけで、これほどの都市を維持しているとは」
カディルが胃の辺りを押さえながら、毒気に当てられたように青ざめた顔で唸った。清廉な王宮で生きてきた彼からすれば、この街の空気はあまりにも欲にまみれて息苦しい。
「だからこそ、落としがいがあるってもんだ」
カディルの隣で、マーシャは男物の外套を翻し、城の頂上を冷徹な黒曜石の瞳で見据えた。
「あそこに座っている退屈な未亡人は、自分の思い通りにならないものなどこの世にないと驕りきっている。……その絶対的な牙城を、あんたの顔一つで内側から喰い破るんだ。腕が鳴るだろう、殿下?」
「……ああ。やってみせる」
ファリードは白絹の礼服の襟を正し、金色の瞳に静かな闘志を燃やして、遥か高くそびえる権力の象徴を見上げた。
そんなファリードの横顔を眺めたカディルは、マーシャに向き直ると耳当てして声を顰めた。
「……なあ異邦人。先ほどは運良く門兵を誤魔化せたが、いくらなんでも殿下にこのような目立つ格好をさせて堂々と歩かせるのは危険すぎる! 殿下にはまだ、莫大な懸賞金が懸かっているのだぞ。この街の賞金稼ぎどもに正体がバレたらどうするのだ!」
カディルのもっともな懸念に、マーシャは歩みを止めることなく、男物の外套を翻して鼻で笑った。
「カディル、人間は自分の見たいものしか見ないんだよ」
「なんだと?」
「二ヶ月ほど前、私たちが包囲を抜けた大河の砦での出来事だ。三千の正規軍と騎馬隊が同士討ちで全滅したあの凄惨な混乱の中で、逃亡中のひ弱な王子が生き延びられるはずがない……世間はそう判断した。今、巷では『第二王子はあの白い砦のゴタゴタに巻き込まれて死んだ』という噂がまことしやかに広まっている」
「殿下が、死んだと……?」
「ああ。その上、仮に生き延びていたとしてもだ。逃げ隠れしているはずの王子が、こんな豪奢な礼服を着て、堂々と莫大な賄賂を配りながら正面からやって来るはずがない。……絶対的な先入観が心理的な盲点を生み、彼らの脳は勝手に殿下をどこかの特権階級の御曹司だと誤認する」
堂々と歩けば歩くほど、正体は隠れる。
その大胆すぎる心理戦術に、カディルは絶句した。
だが、すぐにハッとして食い下がる。
「だ、だが! この街を牛耳るアミーナとやらには通じまい! 彼女ほどの富と情報網があれば、すぐに殿下の正体に気づくはずだ!」
「……騙す必要はない。アミーナには、最初から正体がバレる前提だ」
「な、何ィッ!?」
マーシャの冷徹な言葉に、今度はファリードまでがビクッと肩を揺らした。
「ザルカは『金』が唯一の神である土地だ。大帝国の正規軍すら手出しできないこの独立都市の中に入ってしまえば、帝国の懸賞金などただの紙切れ同然。そして、街を牛耳るアミーナは帝国の言いなりになることを誰よりも嫌っている」
マーシャは黒曜石の瞳をギラリと光らせ、言葉を続けた。
「いいか。退屈を持て余した彼女にとって、ただの商人の御曹司が来るよりも、大帝国から追われている絶体絶命の美しい王子が、自分を落としにきたという事実の方が、退屈を吹き飛ばす極上の”劇薬”になるんだよ」
最初から、最も危険な真実そのものを交渉のテーブルに叩きつける算段。
ファリードの美貌も、その命さえも、アミーナを狂わせるための盤面の駒に過ぎないのだ。
* * *
ザルカの歓楽街の中心に位置する、絹の絨毯が敷き詰められた高級宿の一室。
そこでは今、陣営を二分するほどの激しい口論が繰り広げられていた。
「正気か異邦人ッ!!」
カディルが顔の火傷の痕を怒りで赤黒く染め、今にもマーシャの胸ぐらを掴みかねない勢いで卓を叩いた。
「殿下はシャジャルの正当なる王族だぞ! その高貴なるお方を、あのような毒婦への『色仕掛け』に使おうというのか! これは王家の威光を、そして死せる兄王子への不敬をこれ以上ないほどに汚す行為だ!!」
王家の威光。それは建前だった。
カディルの本音は違う。
非情な兵糧攻めや騙し討ちを経験し、急速に王としての業を背負い始めてしまったこの少年の、最後に残った清廉な肉体と魂だけは、これ以上汚い世界に晒したくない。
すべての泥は臣下である自分が被るから、殿下だけは綺麗なままでいてほしい。
彼にとって、ファリードの美貌を武器として使うことは、守り抜くと誓った王子の清廉さを泥で汚すことと同義だったのだ。
だが、マーシャは双短剣を鞘に納める音を響かせ、氷のような冷たさで言い放った。
「誇りで街が買えるなら苦労はしない。……死にたくないんだろう、カディル? あんたが守りたいのは殿下の誇りか、それとも殿下の命か、どっちだ」
その言葉に、カディルは呼吸を詰まらせた。
一番痛いところをえぐられたのだ。
「ザルカのアミーナは、あらゆる美酒と宝石、欲望を食らい尽くした女だ。そんな奴の心を動かすには、理論も武力も通用しない。……ただひとつ通用するとすれば、それは彼女の感情の揺らぎだけだ。いいか、殿下。あんたのその、女を狂わせる美貌。……それを、戦略兵器として使え」
マーシャの突き放すような言葉に、ファリードは屈辱で頬を赤く染め、唇を噛み締めた。
だが、彼はもう知っていた。自分が綺麗なままの王子でいられる時間は、あの雨の夜、毒の杯を煽ろうとした時に終わったのだということを。
「マーシャ。理屈は分かったが……私は王宮の学問や剣術は学んできたが、女の心を篭絡するなどという破廉恥な手練手管は、一切習っていないぞ。どうすればいい」
「教えてやるよ」
事もなげに言い放つマーシャに、ファリードは疑しげに目を細めた。
「お、教えてやると言っても……マーシャ、失礼を承知で言うが、お前は軍略には長けているが、そういった色事の経験があるようには見えないぞ?」
図星だった。
実際、彼女は採石場に落ちて以来、女性性を極限まで殺し、”男”として泥臭く生きてきたのだ。当然、男としての女性経験などあるはずがない。
だが、マーシャは動じることなく、果実酒の杯を置いて鼻で笑った。
「私自身が色恋で誰かを落としたことは一度もない。だが……暗殺の仕事で天井裏に潜んでいた時、標的の権力者たちが高級娼婦にどうやって骨抜きにされ、隙を晒すかを、上から腐るほど観察してきたからな。男女の駆け引きの構造はすべて頭に入っている」
「か、観察……」
「へへっ、なるほどねェ」
そこで、後ろで面白そうに聞いていたザイドが、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「そういや兄貴。天井裏から見てただけってことは、もしかして兄貴自身は”本番”の経験はねェのか? いつも血生臭い仕事ばっかりで遊郭に通ってるとこなんて一度も見たことねェし……まさか兄貴、まだ女を知らねェ純情な――」
「黙れザイド」
マーシャは氷のような声で遮り、腰の双短剣の柄にチャキッと手をかけた。
「天井裏から女の裸体など腐るほど見ている。それに、私にとって女は殺す時の足手まといになるだけだ。この刃の冷たさがあれば、色恋など不要だ」
内心の焦りを微塵も表に出さず、暗殺者らしい冷徹な理屈で完璧に誤魔化し切る。
「ひぇっ、怒るなって兄貴! 冗談だよ冗談!」
凄まれたザイドが慌てて両手を挙げて降参する。
ザイドの反応を見て、マーシャは内心で安堵の溜息をついた。
「……それに加えてだ」
マーシャは強引に話の主導権を握り直し、どこか得意げに言葉を続けた。
「私の故郷の歴史には、たった一人の美貌で権力者の懐に潜り込み、国を内側から食い破った恐るべき傾国の策士たちの記録が山のようにある。……いいか。これはただの色事じゃない。強者の、自分は絶対的に優位に立っているという驕りを突く、心理戦だ」
それはただの、歴史の知識と日本の中学生時代に親友の茉莉と一緒に嗜んでいた娯楽の知識と偏見の塊でしかなかったのだが、大真面目な顔で〈心理戦術〉と言い切り、さも高度な軍略のように語るマーシャの堂々たる態度は、異世界の住人たちに凄まじい誤解を与えた。
「な、なんと……ッ! 異邦の国には、人間の心を内側から壊すそのようなえげつない戦術書が出回っているというのか……ッ!?」
カディルが信じられないものを見るような顔で震え上がる。
「ああ。それらの実践データと故郷の文献の知識を総合すれば、傲慢な人間を落とす手練手管など容易く構築できる」
マーシャはファリードの目の前に立ち、その白く滑らかな顎に、泥と剣ダコに塗れた自身の指先をスッと添え、強引に上を向かせた。
「殿下のその顔は、三百本の長槍より価値のある戦略兵器だ。アミーナを落とすための『傾国の手練手管』を、今から身体に叩き込んでやる」
マーシャはファリードの顎を掴んだまま、彼の顔の角度を微調整し始めた。
「まず視線だ。真正面から王のように睨みつけるな。伏し目がちに睫毛を落とし、下から覗き込むように……そう、上目遣いだ。瞳は少し潤ませて、逃亡生活の孤独と怯えを演出してみろ。......硬い。もっと力を抜け。唇はわずかに半開きにして、言葉を発する前に必ずため息を挟め。相手の母性本能と庇護欲を限界まで煽り、完全に油断させるんだ」
ファリードは耳の裏までカッと熱を帯びるのを感じながらも、言われるがままに視線を伏せた。
だが、そのあまりにもぎこちない反応に、後ろで見ていたザイドがニヤニヤと意地悪な笑いを浮かべた。
「へへっ、殿下。耳まで真っ赤じゃねェか。もしかして、女の手を握ったこともねェのか?」
「なッ……!?」
「俺ァこう見えてスラムの路地裏じゃモテるんでね。酸いも甘いも経験済みさ。いやぁ、こりゃあ純情な殿下のファーストキスは、あの恐ろしい未亡人に奪われちまうかもしれねェなぁ」
「殿下ッ! そのような破廉恥な事態、このカディルの命に代えましても”絶対に”阻止いたしますぞっ!」
カディルの必死な制止も虚しく、ザイドがゲラゲラと笑い声を上げる。
ファリードは反論しようと小さく唇を開いたが、実際に女性との経験など皆無であるという事実の前では言葉が出ず、ただギリッと奥歯を噛み締めて、静かに俯くことしかできなかった。
「笑い事じゃないぞ。ウブな子供だと見透かされれば、主導権を握られる前に骨までしゃぶられて終わる」
マーシャが呆れたようにため息をつき、ファリードの頬をパンッと軽く叩いた。
「ほら、気合いを入れろヒヨッコ。相手の油断を誘う完璧な弱者の姿を作れ。よし、次は動作だ」
マーシャの特訓は容赦がない。彼女はファリードの手を取り、自身の肩へと触れさせた。
「アミーナに触れる時は、力強く掴むな。触れるか触れないかの距離で、指先を這わせるように滑らせろ。……声のトーンはいつもの覇気を捨てて、少し掠れさせろ。耳元で、相手の名前を甘く囁くんだ」
「あ、アミーナ……。私は……君だけが、頼り、なんだ……」
「声が上擦ってる! もっと吐息を混ぜろ! お前は今から大帝国の王子じゃない、絶体絶命の庇護されるべき愛玩物だ!!」
完全に純情な子供として扱われ、下に見られている。
ファリードの胸の奥で、鉛のような重苦しさが胃の腑へと落ちていった。己の経験不足をからかわれた恥ずかしさ以上に、彼を苛んだのは、頼りにしている彼らの期待にすら応えられない、己の圧倒的な無力さだった。
(今の私には、力も、富も、何もない。あるのは、この外見だけだ)
彼は自分のために、他人の命を天秤にかける計略を描いてくれている。ならば、生き残り、王座を取り戻すためならば、見栄も矜持も、そして自分の身体すらも、最も鋭利な盤面の駒として差し出さなければならない。
自分自身だけが安全な場所にいて、彼に泥を被せ続けることなど許されるはずがなかった。
(この身がどうなろうと構わない。私は、彼の描く盤面を完成させるための、完璧な武器になる)
その悲壮なまでの自己犠牲と、王としての重い覚悟が完全に同調した瞬間。
彼の中で、何かが冷たく切り替わる音がした。
マーシャのスパルタ指導のもと、最初は身体の動かし方に戸惑い、熱を持っていた彼だったが。
一度「相手の感情をどう動かすか」という理屈を本能で理解した途端、他者の感情を読み取る生来の恐ろしいほどの適応力が覚醒し、見る見るうちに洗練されていった。
ーー数十分後。
「……こんな感じだろうか、マーシャ」
ファリードが、ふと顔を上げた。
その金色の瞳には、先ほどまでの怯えや羞恥は微塵もない。すべてを失い、相手の庇護にすがるしかない完璧なまでの無力な亡命者の哀愁。
だが、その奥底には、相手を内側から食い破ろうとする冷酷な捕食者の刃が静かに隠されていた。
十四歳の清廉な少年が放つにはあまりにも危険な、見る者すべての理性を狂わせる毒のような魔性の完成。
「おおおっ……!」
後ろで見ていたザイドが、思わず後ずさりして息を呑んだ。
「す、すげェ……。ただの綺麗な王子様かと思ってたが、とんでもねェな。まるで雨に濡れた名画の天使みたいだが……相手を完全に油断させて喉笛を掻き切る、生粋の化け物の顔だぜ」
スラムで数々の修羅場を見てきた密偵の本能が、目の前の少年の「底知れぬ恐ろしさ」に警鐘を鳴らしていた。
その横では......
「殿下ァァァ……ッ!! ああ、なんという……ッ!」
カディルは両手で顔を覆って胃の辺りを押さえながら、床に崩れ落ちて血を吐くような声を漏らした。
彼が嘆いているのは単なる破廉恥さではない。
誇り高く清廉だった幼き主君が、生き残るために自ら泥を被り、人の心を操る悪魔の術を身につけてしまったことへの、忠臣としての悲痛な慟哭だった。
指導していたマーシャでさえ、ターバンの奥で一瞬だけ心臓が不自然に跳ね、思わず言葉を詰まらせた。
「……ッ、上出来だ。満点だよ、殿下」
マーシャは動揺を隠すように咳払いをし、ファリードからパッと手を離した。
「……微笑め。瞳を合わせ、アミーナが『この少年のためなら、街を売ってもいい』と錯覚するまで魅了しろ。使えるものはすべて使え。あんたの外見も、命も、すべて盤面の駒だ」
突き放すようなマーシャの言葉。
だが、ファリードはもう羞恥心で顔を赤くすることはなかった。
「……分かっている。やるさ」
ファリードは震える手を強く握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。
「私は……王座のために、自分のすべてを売る覚悟はできている」
その静かで揺るぎない宣言を聞いた瞬間、カディルの中にあった「守らねばならない」という庇護欲が、音を立てて崩れ去った。
彼は気づいてしまったのだ。
いつまでも自分のマントの下で震えている幼子だと思っていた殿下は、とうの昔に自らの足で、この修羅の道を歩み始めていたのだと。
頼もしく、そしてひどく残酷なその成長に、カディルはもはや何も返す言葉を持たず、ただ深い無力感と忠誠を胸に秘めて、静かに項垂れるしかなかった。
マーシャは満足げに唇を吊り上げる。
白亜の城壁が、彼らの前に高くそびえ立っている。
知略という毒を呑み、美貌という武器を掲げた少年の最初の外交戦が、今、幕を開けようとしていた。




