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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
四章

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24/42

新たなる盤面

 村が完全にファリード陣営の支配下に置かれてから、数日が経過した。

 せき止められていた上流の岩はザイドたちによって取り除かれ、干上がっていた井戸には再び清らかな水が溢れ出していた。 広場には活気が戻りつつある。

 「ほれ、一気に飲むと胃が驚きますぞ。この薬湯をゆっくり飲みなされ」

 イブンが、自身が撒いた下剤の解毒薬を特製の滋養強壮の薬湯だと偽って村人たちに振る舞い、怪しげな感謝を集めている。

 広場の隅の岩陰では、巨漢のタリクが、群がってくる村の子供たちに無言で甘い干しイチジクを配っていた。以前、彼が矢から助けたあの少女も、タリクの分厚い足にギュッと抱きついて笑っている。

 カディル率いる精鋭たちは、横暴な振る舞いを一切せず、村の防衛網の再構築を黒岩族の戦士たちと共に行っていた。

 その規律正しく、かつ慈悲深い陣営の姿に、黒岩族のファリードへの忠誠は日に日に強固なものとなっていった。


 だが――光が強ければ強いほど、影の闇もまた色濃くなる。

 村の長老たちがファリードを神の使いのように崇める一方で、村の最奥部。

 井戸の修繕の指示を出していたマーシャが一人になったその瞬間、岩陰から強烈な殺気が膨れ上がった。

 「……死ねッ! ガレブの死神めェッ!!」

 怒号と共に飛び出してきたのは、黒岩族の若い戦士だった。 その手には、鋭く研がれた石の短剣が握られている。

 彼の目は血走り、マーシャへの純粋な憎悪だけで動いていた。

 「お前が……お前が水を止めたせいで、俺の幼い妹は危うく死にかけたんだ! お前さえ殺せば……ッ!」

 首筋に迫る刃。

 だが、マーシャは腰の双短剣に手を伸ばすことすらしなかった。

 彼女は冷めた黒曜石の瞳で、自身に迫る刃と狂乱する戦士を、ただ面倒くさそうに見据えていた。

 彼らの信仰など知ったことではない。盤面を動かした代償としての恨みなら、すでに数え切れないほど買っている。


 ――ガシッ!

 石の短剣がマーシャの首に届く寸前。

 横から伸びてきた白く細い手が、戦士の手首を容赦のない力でガッチリと掴み留めた。


 「……そこまでだ」

 静かな、しかし渓谷の空気を一瞬にして凍らせるような絶対的な威圧感。

 ファリードだった。


 「お、王よ……! なぜ、そのような悪魔を庇うのです! そいつは、我々を枯れ死にさせようとした外道――」

 「口を慎め」

 ファリードの言葉は、短く、ひどく重かった。

 乾いた金属音が広場に響く。ファリードは戦士の手首から叩き落とした短剣を足で退けると、眩しい夕陽を背に受け、マーシャを背中で庇うようにして前に立った。


 大人の戦士と比べれば、その背中はまだ痛ましいほどに華奢で、細い。

 だが、その華奢な少年が放つ絶対的な威圧感は、瞬時にして広場の空気を凍りつかせた。物理的な背丈は見上げる形であっても、ファリードの底冷えするような金色の瞳は、狂乱する戦士の魂を完全に見下ろしていた。

 

 「彼が描いた残酷な盤面があったからこそ、我々は剣を交えることなく、お前たちの命を奪わずに済んだ。彼が水を止めなければ、私は大軍を率いてこの村を力で制圧し、お前の妹は間違いなく戦火に巻き込まれて死んでいただろう」

 「っ……」

 戦士が息を呑み、言葉に詰まる。

 傾きかけた陽光が、ファリードの白銀の甲冑を黄金色に染め上げていた。

 「彼は、私が王としてお前たちを無傷で救うために、すべての恨みを一人で被ってくれた私の半身だ。……私に忠誠を誓ったのであれば、私の軍師にも等しく敬意を払え。二度目はないぞ」

 圧倒的な光を放つその揺るぎない覚悟と威厳の前に、戦士はガタガタと震えながらその場に平伏し、涙を流して許しを乞うた。


 戦士が去った後。

 夕風が砂埃を運ぶ中、マーシャは男物の外套を払いながら、忌々しげに鼻を鳴らした。

「……甘いな、殿下。私はただ、味方の被害をゼロにするための合理的な策を選んだだけだ。あんたの王道のために泥を被ったつもりなんて微塵もないし、彼らに感謝される義理もない」


 刺々しい言葉で、必死に冷徹な悪魔の防壁を張り直そうとするマーシャ。

 だが、振り返ったファリードは、彼女のそんな強がりを真正面から暴こうとはしなかった。


「……ああ、そうだな。我が陣営の軍師殿は、いつだって冷酷で、恐ろしいほど合理的だ」


 ファリードはそっと目を細め、ひどく静かな金色の瞳でマーシャを見つめた。


「だが、どんな理屈で盤面を動かしたのだとしても。君がすべての泥を被ってくれたおかげで、私は今日、誰の血も流さずに王としての責務を果たすことができた。……君がどう誤魔化そうと、私が君に救われたという事実だけは変わらない」

「っ……」

「ありがとう、マーシャ」


 すべてを見透かしているような、逃げ場のない真っ直ぐな体温。

 その視線に射抜かれ、論理で固めたはずの防御壁が容易く溶かされそうになる。

 マーシャはふと息を詰まらせると、指先の微かな震えを悟られまいと外套の襟元をギュッと掴み、「……チッ、勝手にしろ」と舌打ちをして逃げるように顔を背けた。



 黒岩族を平定し、彼らを我が軍に下らせてから数週間。

かつて山賊『赤蠍』の首領が陣取っていたペルシャ絨毯の敷かれた広間は、今や彼らの『作戦室』として機能していた。


 乾燥した辺境の夕風が、砂埃の匂いと共に窓から吹き込み、大きな石机の上に広げられた地形図をパタパタと揺らす。その机を囲む陣営の空気は、勝利の熱狂から一転して、冷たく重い沈黙に支配されていた。

 軍としての体裁が整い、兵力が数百名に膨れ上がったことは、陣営にとってこれ以上ない勝利のはずだった。しかし、それは同時に、あまりにも過酷な現実を突きつけていた。


 マーシャが黒岩族を屈服させたのは、水源と交易路を断つ非情な兵糧攻めだ。それゆえ、軍門に降った彼らの村には、一粒の麦も一滴の水すら残されていなかった。

 ファリードが王としての慈悲で救い上げ、本当の意味で家族として迎え入れた数百人の民は、手に入れた戦力ではなく、今すぐに食べさせ、癒やさなければならない飢えた難民そのものだったのだ。


 山賊たちが貯め込んでいた略奪品の備蓄は、百数十人の悪党たちがちまちまと消費する分には十分だった。だが、規律ある正規軍として毎日三食を消費し、厳しい調練をこなし、傷ついた武具を修繕し続ける数百人の大帯の前では、それは砂漠に水を撒くように一瞬で消え去っていく。

 この不毛なガレブ渓谷では自給自足など到底叶わず、大帝国との緊張感から外部の商隊との安定した交易も再開できていない。


 彼らは今、地面に這ってでも生き残るための、新興勢力特有の「致命的な財政難」に直面していた。


 「……食糧と、軍資金が底を突く」  

 作戦室の机に両手をつき、カディルがギリッと奥歯を噛み締めながら、胃の痛みを堪えるように深い溜息をついた。

 日々の配給量の計算と、目減りしていく倉庫の数字が、この生真面目な騎士の精神をすり潰しているのは誰の目にも明らかだった。

 「兵力が数百に膨れ上がったということは、それだけ食わせる口が増えたということだ。赤蠍の砦から奪った備蓄も、このペースではあと半月も持たない。武具の修繕費すら事欠く有様だぞ」

 「へへっ、なら近隣の村や、大帝国の息がかかった商隊でも襲うか? 俺たちが夜討ちをかければ――」    

 「馬鹿者! 我らは正当なる王の軍だ! 無力な民草から略奪など、断じて許されるものではない!」  

 ザイドの軽い提案を、カディルが顔の火傷の痕を赤くして一喝する。


 そのやり取りを聞きながら、ファリードは地図上の大河沿いにある、一際大きな都市の印を険しい目で見つめていた。

 「……いずれ私たちが王都へ進軍するためには、大帝国の物流の心臓である大都市『ハディード』をどうしても越えねばならない」

 ファリードがその名を口にした瞬間、カディルは絶望的な顔で首を激しく横に振った。


「ハディード……! あそこは過去数百年にわたり、外敵を跳ね返し続けてきた大帝国最前線の巨大な盾。三重の分厚い城壁に守られた、難攻不落の要塞都市ですぞ。……今の我々数百の兵が束になって向かったところで、城門の石一つ傷つける前に、一瞬で文字通りすり潰されて終わりです」


「分かっている、カディル。まともに壁を叩いて王都を攻めれば、分厚い城壁と無尽蔵の正規軍の前に数年はかかるだろう。……だから、まともに攻める必要はないんだ」

「まともに攻めない……? では、どうやって王都を落とすおつもりで」

「王宮の書庫で、大帝国の『古き検地録』と『流通の帳簿』を読んだことがある」  

 ファリードは白く細い指先で、ハディードから王都へと伸びる太い街道の線をトントンと叩いた。


「我が大帝国シャジャルは麦こそ豊かだが、強力な武器を作る鉄や、機動力を支える軍馬は産出されず、辺境からの輸入に頼っている。……ハディードは、その辺境の富と軍事物資が一度すべて集積され、大河を経由して王都へと送られる、大帝国における血液の循環器とも言えるものだ」  

 ファリードの言葉に、壁際で無言で双短剣の手入れをしていたマーシャが、ピタリと手を止めた。

「……ほう」

「かつて温室で本を読んでいた頃の私には、それはただの退屈な文字の羅列でしかなかった」  

 ファリードは自重気味に伏せていた目を上げ、マーシャを真っ直ぐに見据えた。


「だが、マーシャ。君が教えてくれただろう。戦とは、剣を交えることだけではない。『百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして敵の兵を屈するは善の善なるものなり』と」

「……へえ。王宮の温室で埃を被っていた座学が、ここへ来て盤面をひっくり返す策略に変わるってわけだ」  

 マーシャは男物の外套を翻して机に歩み寄り、ターバンの奥で獰猛な悪魔の笑みを浮かべた。


「で? そのお得意の知識を使って、どうする気だ、殿下」

「物流のハブであるハディードを我々の手で落とし、王都へ向かう物資の流入を完全に閉める」  


 ファリードは、己の内に芽生え始めた王としての覇気を隠すことなく、力強く宣言した。


 「そうなればどうなるか。……王都は鉄も馬も失い、マレクの軍は内側から確実に干上がる。正面から殴り合うのではなく、大帝国の血流を止めて兵糧攻めにするのだ」


「へへっ、なるほどなァ! 飯と金がなきゃ、どんな屈強な兵隊も三日で動けなくなる。スラムの常識だぜ」   

 ザイドがニヤリと悪党の笑みを浮かべて膝を叩く。

 一方のカディルは、目玉が飛び出そうなほど驚愕し、絶句していた。


「なんと……。王室の書庫で培われた国家運営の知識と、軍師殿の悪辣な戦術が合わさったというのか……」  

 カディルは震える手で顔を覆い、畏怖と感嘆の入り混じった深い溜息をついた。

「敵と剣を交えずして、地図の上の線一つで大帝国の急所を死に体にする……なんという恐ろしいスケールの話だ。殿下の大義と、軍師殿のその頭脳は、もはや一つの国家よりも恐ろしい……」


「だが、理屈は完璧でも、現状の私たちにはあのハディードの鉄壁に指一本触れる力も、それを養う金もない。明日の麦を買う金すらないのだからな」  


 ファリードの言葉に重苦しい沈黙が、石室に落ちた。

 大帝国を倒すための理論的な道のりは見えているのに、そこへ至るための物理的な足掛かりが何一つないのだ。陣営の誰もが己の小ささを突きつけられていた。


 「……チマチマ稼いでどうする。兵を養い、いずれ王都を囲む大軍を興すなら、必要なのは圧倒的な〈金庫〉だ」  

 マーシャは寄りかかっていた壁際から身を離すと、男物の外套を翻して机に歩み寄った。  

 彼女の泥に汚れた指先が、羊皮紙の地図の一点――赤茶けた辺境の地図の中で、一際大きく描かれた都市の印をトン、と力強く叩く。


 「次なる盤面はここだ。北西の独立都市『ザルカ』」

 「ザ、ザルカだと!?」  

 カディルが目玉が飛び出そうなほど驚愕し、机に身を乗り出した。

 「正気か異邦人! あそこは白亜の巨大な城壁に守られた難攻不落の要塞独立都市だ! 大帝国の正規軍ですら、莫大な賄賂と強力な私兵団の前に手出しできず、不可侵を貫いているのだぞ! 我々数百の兵が束になったところで、城門に傷一つつけられん!」

 「誰が力攻めすると言った。城壁が分厚いなら、内側から扉を開けさせるのが私の定石だろう」  

 マーシャはカディルの反論を鼻で笑い、黒曜石の瞳をギラリと光らせた。

 「あそこは金がすべての交易都市だ。武力や騎士道なんてものは何の価値もない。……ザイド、あの街を牛耳っているのは誰だ」  

 話を振られたザイドが、ニヤリと密偵の顔になる。

 「へへっ、女領主アミーナ。通称『北の未亡人』だ。莫大な富と権力を手に入れた彼女は今、強烈な退屈に苛まれてるらしいぜ。金に群がる小悪党ばかりの毎日に飽き飽きして、度肝を抜くような刺激を求めてるって噂だ」

 「……ふーん、それは使えるな。その退屈の病に、劇薬を注ぎ込んでやる」  

 マーシャはゆっくりと視線を動かし、机の向かいに立つファリードを舐め回すように見つめた。  

 太陽の光を編み込んだ白金色の髪と、大人の女でさえ狂わせそうな整った顔立ち。

 「城門を壊す必要はない。あの街のすべての富を握る、統治者の”心”を落とすんだ。……我々の持つ、この最高の〈手札〉を使ってな」

 ファリードがビクッと肩を揺らし、カディルが嫌な予感に顔を青ざめさせる中、マーシャは獰猛な笑みを深めた。

 「出立の準備をしろ。次の武器は剣じゃない。……極上の”嘘”と”美貌”だ」  

 マーシャは翻した外套の裾を風に躍らせ、次なる盤面、独立都市ザルカへとその意識を向けた。

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