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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
四章

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23/42

兵糧攻め

 一方その頃。ガレブ渓谷の最深部。

 天を突くように切り立った黒い岩肌に、すり鉢状に囲まれた黒岩族の村は、まさに鉄の規律と絶対的な要害によって守られてきた。 だが、その外敵を阻む堅牢な地形は、今や彼ら自身を閉じ込める残酷な鳥籠へと成り果てた。


 村の広場は、こもった土埃と、死を待つ者の重い静寂に支配されている。

 普段であれば、豊かな地下水脈から湧き出る清らかな水が村を潤しているはずだった。だが、水源を上流で工作員によって物理的にせき止められた今、村の生命線である井戸は完全に干上がり、底にはひび割れた泥しか残っていない。

 「……族長。もう、限界です」

 浅黒い肌を持つ屈強な戦士が、ひび割れた唇から血を滲ませながら族長に膝をついた。

 「備蓄の泥水も尽きました。女子供は泣く声すら出せず、赤子の息も絶え絶えです。このままでは戦う前に、村が干からびてしまいます……っ」


 黒岩族は、辺境の乾いた風が吹き荒れる黒玄武岩の山岳地帯を縄張りとする、一際誇り高い戦士の集団だ。

 大帝国の侵略を幾度も退けてきた彼らにとって、この険しい岩山は天然の要塞であり、独自の規律を育むゆりかごだった。

 鋭い岩肌を登り降りするために分厚いタコができた手足。生涯の伴侶として油と砥石で磨き上げられた、鉄の匂いが染み付く分厚い曲刀。

 岩窟の奥底から湧き出る冷たい地下水を精霊の血として崇め、山羊の脂と岩塩で命を繋いできた彼らは、いかなる強大な敵にも決して膝を屈することはなかった。


 彼らの掟において、正面から剣を交え、熱い血を黒い岩に散らして死ぬことこそが至上の誉れである。


 だからこそ。

 戦うことすら許されず、生命線である水脈を物理的に遮断され、ただ暗い岩穴の中で真綿で首を絞められるように渇きを待つだけのこの仕打ちは、彼らの死生観そのものを否定する悪魔の所業だった。

 ひび割れた唇から血を流し、誇り高き戦士たちが干からびていく姿。そして、腹を空かせた女子供が喉をかきむしりながら泣き叫ぶ声が岩壁に反響し続ける地獄。


 それらは彼らにとって、いかなる無惨な敗北よりも残酷で、魂を蹂躙されるような耐え難い屈辱だったのである。

 族長は、自身のひどく乾いた喉を鳴らし、マーシャの包囲網によって封鎖された唯一の細道を血走った目で睨みつけた。

 「姿すら見せず、我らを枯れ死にさせる気か……! 卑劣な、ガレブの死神め」


 族長は傍らに突き立てていた槍を力強く引き抜いた。

 「黒岩の民よ、このまま落ちぶれて死すのであれば、誇りと共に剣を握り、戦って死のう! 今夜、残った力すべてを振り絞り、あの卑劣な封鎖網に夜襲をかける!!」

 渇きに喘ぎながらも、彼らは屈服を選ぶ代わりに、捨て身の反撃を選んだ。


 だが、それすらもマーシャの計算通りだった。

 同刻。村の入り口を完全に封鎖した、ファリード陣営の本陣の天幕。

 マーシャが敷いた包囲網は、蜘蛛の糸のように細く、そして一度絡まれば逃れられぬほどに強固だった。


 マーシャは木机に広げた地図から目を離さずに、ターバンの奥で低く呟いた。

 そこへ再び偵察へ出ていたザイドが姿を現し、悪びれた様子もなく報告する。

 「村の中から、女子供の泣き声すら聞こえなくなりました。完全に干上がってますね。……とはいえ、連中の目にはまだ殺気が残ってました。腹を空かせた狼みたいに、今夜あたりに最後の噛みつきを狙ってきますぜ」


 その報告を聞き、天幕の隅に戻り控えていたカディルがギリッと強く歯軋りをした。

 「……軍師殿。剣を交えて戦士を討つならまだしも、無力な女子供まで渇きでなぶり殺しにするなど……! これが、誇り高き大帝国の王が為すべき戦と言えるのか!」

 カディルは怒りで顔の火傷の痕を引き攣らせ、マーシャを睨みつけた。


 だが、マーシャは地図から視線を上げることなく、炭で陣形に新たな印を書き込みながら冷淡に返す。   

 「誇りで腹が膨れるか、カディル。力攻めで村を落とせば、こちらの兵にも必ず死人が出る。血を流さずに勝つのが最上の戦だ。……彼らは誇り高すぎる。完全に心が折れ、降伏以外の選択肢が頭から消え失せるまで、このまま締め上げる」


 カディルが言葉に詰まる中、部屋の中央に立つファリードは無言だった。

 彼は白銀の鎧を纏い、マーシャの描いた残酷な盤面と、自身の王としての在り方の板挟みになりながら、震えそうになる右手を必死に握りしめていた。

 (私が、彼らを枯らせている。だが、ここで情けをかければ、確実に味方が死ぬ……っ)

 誇り高き黒岩族の夜襲は、すでにマーシャの非情な盤面に、最初から計算として組み込まれていたのだ。


 そしてその日の深夜。

 狂ったような咆哮と共に、喉を焼かれた黒岩族の精鋭たちが、夜闇に紛れて死に物狂いの夜襲を仕掛けてきた。狙うは自分たちの命よりも、水だ。

 「一人も通すな。鉄の壁となれ」


 迎え撃つのは、カディル率いる重装歩兵。カディルは長剣を抜き放ち、月光の下で冷徹な号令を下した。

 村から外へ出るための唯一の細道では、巨漢のタリクが身の丈ほどもある大盾を構えて岩の壁と化し、その後ろにはカディルたちが隙間なく槍を構えていた。

 かつては外敵を阻むための要塞であったすり鉢状の地形が、今や彼らの牙を完全に殺していた。どれほど黒岩族が大軍であろうと、この細道では横に展開することができず、一度に数人ずつしか防衛線にぶつかることができないのだ。


 盾と盾がぶつかり合い、火花が散る。水を求めて獣のように襲いかかる戦士たちを、カディルの陣形は一歩も引かずに押し返した。

 慈悲はない。ここで綻びを見せれば、包囲は瓦解する。カディルは機械的なまでの正確さで剣を振るい、防衛線を維持し続けた。


「水源を塞がれていることなど、連中もとうに気づいているだろう。だが……」

 最前線で剣の血糊を払いながら、カディルは冷徹に呟いた。

 「この道を我々が塞いでいる限り、連中は上流の水脈を復旧させることも、外の商隊と接触することも不可能。地形を逆手に取った、完全なる”鳥籠”の完成というわけか......」

 黒岩族の誇り高き戦士たちが、渇きに喘ぎながら決死の突撃を繰り返しても、カディルの無駄のない剣技とタリクの盾の前に、一人、また一人と体力を削られていくだけだった。


 その混乱の裏で、影が動いていた。ザイドとイブンである。

 「へへっ、旦那が派手に暴れてくれてる間に、仕上げといこうぜ」

 ザイドは猫のような身のこなしで村の裏手に潜入し、黒岩族が最後の希望として秘匿していた地下食糧庫へと辿り着いた。隣に立つイブンが、不気味に濁った瓶を取り出す。

 「軍師殿の命令は意欲の喪失でしたな。……ほれ、我が特製の逸品です。これを一滴混ぜれば、三日は腹を下して立ち上がることも叶いませんぞ」


 イブンが調合した強力な下剤と食糧を腐敗させる薬が、蓄えられた穀物に振り撒かれた。

 誇りでは腹を満たせない。そして、病に侵された身体では槍も握れない。

 マーシャの策は、彼らの抵抗する気力を内部から、そして生理的に徹底してへし折っていった。


 翌昼。

 イブンの撒いた劇薬は、黒岩族の村の秩序を完全に崩壊させた。

 腹を下して倒れ伏す戦士たちを尻目に、限界を迎えた一部の村人たちがパニックを起こし、封鎖線へと押し寄せてきたのだ。

 村の境界付近では、逃げ出そうとする者たちによって暴発的な小規模の衝突が巻き起こる。

 土煙と怒号が入り混じるその逃げ惑う群衆の中に、一人の小柄な少女がいた。混乱に乗じて抜け出そうとしたのか、あるいは大人たちに押し流された単なる巻き添えか。

 足をもつれさせてうずくまった彼女の頭上へ、パニックに陥った村人の無軌道な投石と、どこからか飛んできた流れ矢が容赦なく降り注ぐ。


 小さな身体が貫かれそうになった、その瞬間。

 ――ガァンッ!!

 地響きのような重い音が響き、少女の前に巨大な鉄の壁が立ち塞がった。

 タリクだ。

 彼は言葉を発することなく、身の丈ほどもある巨大な盾を掲げ、少女を狙った矢を無造作に弾き返した。

 砂埃が舞う中、少女は震えながら見上げる。そこには岩山のような巨漢が、感情を読み取らせない仮面のような無表情で立っていた。

 タリクは周囲の喧騒を余所に、腰の携帯袋から一つ、黄金色に熟した果実を取り出した。彼はそれを少女の足元へコトリと置くと、再び巨躯を翻し、何事もなかったかのように元の持ち場へと防衛線に戻っていった。

 戦火の中、少女の手に残されたのは、甘い香りを放つ一つの希望だった。

 少女は震える手で果実を拾い上げ、泥だらけの顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。


 その一部始終を、封鎖線の後方から痛切な思いで見つめている者がいた。

 ファリードである。

 彼は白銀の甲冑の拳を、ギリッと強く握りしめた。


(……あの少女も、タリクが救ったあの小さな命も。本来であれば、私が王として守るべき大帝国の民ではないか)

 敵をすり潰すだけでなく、救い上げる慈悲があってこそ、真の王。

 マーシャの描いた残酷な盤面の上に立ちながら、ファリードの心の中で「王としての独自の覚悟」が確かな輪郭を持ち始めた瞬間だった。


 それから数日後。包囲から十日目。

 村からは、もはや怒号さえも聞こえなくなった。漂ってくるのは、乾いた土の匂いと、死を待つ者の静寂だけだ。

 本陣の地図を見つめ、マーシャは冷淡に告げた。

 「落ちたな。あと三日だ。このまま包囲を続ければ、黒岩族は戦う力すら失い、完全に餓死する。……私たちの被害はゼロ。これが、最も合理的な終局だ」

「……いや。そこまでにしよう、マーシャ」


 ファリードが静かに、だが断固とした口調で遮った。

 マーシャは不満げに眉をひそめ、男物の外套を翻して振り返る。

「何を言うんだ、殿下。無傷で敵を全滅させられる絶好の機会だぞ。三日の我慢で済む話だ」

「戦術としては完璧だ。君の描く盤面は常に正しい。……だが、王の見る未来としては間違っている」


 ファリードの金色の瞳には、かつての弱さは見られない。

 「彼らは将来、私の民となる者たちだ。これ以上の消耗と絶望を強いることは、後々まで消えない呪いをこの地に残すことになる。……私は、死体の山の王になりたいわけではない」

 マーシャが提示する極限の合理性を理解した上で。彼は自らの王としての器で、その盤面に慈悲で上書きをしようとしていた。


「カディル、白馬を引け。……私は丸腰で、彼らの元へ行く」

「殿下ッ!? 正気ですか、まだ動ける戦士が潜んでいるかも……!」

 カディルは血相を変え、引いてきた白馬の手綱を力強く握りしめて物理的に行く手を塞いだ。

「なりません! 護衛の任を預かるこのカディル、殿下をたった一人で死地へ送り出すなど、死んでも承服しかねます! せめて私を、どうか私をお連れくださいッ!」

「構わない。私を殺したければ殺せばいい」

「殿下ッ!!」


 悲痛な叫びを上げる忠臣に対し、ファリードは腰に帯びていた大ぶりの長剣をゆっくりと外し、その両手へと言葉もなく押し付けた。

「征服者は剣をもたらす。だが、王がもたらすべきは水だ。……もし私がここで死ぬような器なら、はなから大帝国を束ねる資格などなかったということだ。ここで待て、カディル」

「…………ッ!」

 カディルは押し付けられた長剣を抱き抱え、ギリッと血が滲むほど唇を噛み締めると、屈辱と圧倒的な敬意の入り混じった顔で深く、深く頭を垂れた。


 忠臣の制止を振り切り、ファリードがただ一人で足を踏み入れた村の中央広場。

 そこは、この世の地獄だった。

 黒玄武岩の岩肌が太陽の熱を吸い込み、ジリジリと空気を焼き焦がしている。鼻をつくのは、乾いた土の匂いと、イブンの撒いた劇薬による吐瀉物のえた悪臭。

 水源を断たれ、抵抗する気力すらも根こそぎ奪われた生ける屍たちが、日陰の赤土の上に力なく重なり合って横たわっていた。

 「水……だれか、一滴でいい……」

 「しっかりしておくれ。神様、どうかこの子にだけは……」

 静まり返った空間に反響するのは、風の音と、掠れたうわ言だけだ。

 虚ろな瞳で空を見つめる老人。干からびた乳房を泣く力もない赤子に吸わせながら、ひび割れた唇から血を流す母親。


 重い絶望と土埃が支配するその暗い底へ。

 規則正しい蹄の音を響かせ、一騎の白馬が太陽を背負って現れた。腰に一振りの剣すら帯びていない、完全なる丸腰。だが、その汚れを知らぬ白銀の甲冑と太陽を編み込んだような白金色の髪は、絶望の泥に沈む黒い岩肌の中で、息を呑むほど神々しい光を放っていた。


 広場の中心。かつては村の命綱であった枯れ果てた井戸のそばで、一人の男が泥にまみれて倒れていた。

 頭部には部族の長であることを示す、漆黒の岩羊タールの角をあしらった兜。

 かつて大帝国の軍勢を幾度も退けてきた分厚い胸板は、十日間の飢えと渇きによって痛ましいほど肋骨が浮き出ている。


 彼はこの地獄のような十日間、自らの水と食料をすべて女子供に分け与え、それでもなお、井戸の底から一滴でも精霊の血を絞り出そうと、十指の爪が剥がれるまで素手で泥を掘り返し続けていたのだ。


「……ガ、レブの、死神め……っ!」


 白馬の足音に気づいた族長が、血のにじむ手で傍らの長槍を掴み、生まれたての小鹿のように震える足で立ち上がった。

 落ち窪んだ眼窩の奥で、獣のような殺意だけが赤黒く燃えている。渇ききった喉から絞り出された声は、呪いそのものだった。


「よくも我らの誇りを泥で汚し……無力な女子供まで、なぶり殺しにしてくれたな! 貴様だけは、刺し違えてでも……ッ!」


 族長が叫びと共に鋭い突きを放つ。だが、水分を失い限界を迎えた肉体から繰り出されるその一撃は、悲しいほどに遅く、ひどく震えていた。

 それでも、執念で押し出された黒鉄の切っ先はファリードの胸元に届き、汚れなき白銀の甲冑をガリッと僅かに削り取る。

 少しでも力を込められれば、容易く心臓を貫ける距離。


 だが、丸腰のファリードは一切の防御すらしようとしなかった。

 瞬き一つせず、逃げるどころか自ら馬を降り、ただ痛切な金色の瞳で族長を見据えたまま、無防備な足取りでさらに一歩、穂先へと距離を詰めたのだ。


「……っ!?」

 予想外の行動に族長が怯んだその瞬間。

 ファリードは自らの命を狙うその槍先を、まるで怯える子供の頭を撫でるように、自身の素手で優しく脇へと逸らした。


「……苦しかったな」

 彼はそのまま、地面に倒れ伏していた一人の老婆の傍らに膝をついた。

 この広場には今、村の生き残りのほぼすべてが集まっていた。枯れた井戸を中心に、最後の一滴の『精霊の血』を求めて這いずってきた幾百もの民が、重なり合うようにして死を待っているのだ。


 彼は自らの腰から上質な水の入った革袋を解くと、老婆の頭を優しく抱き起こし、そのひび割れた唇に、一滴、また一滴と慈雨のような水を含ませた。


 コクン、コクンと、喉を鳴らして水を飲む音。

 極限の渇きの中に響いたその微かな水音は、雷鳴よりも強烈に広場を揺るがした。死に絶えようとしていた周囲の村人たちが、信じられないものを見るように一斉に顔を上げる。


 「水……? 敵の将が、なぜ……」

 「罠だ、毒でも入っているに違いない……!」


 ざわめきと疑心暗鬼が広がる中、老婆がほうっと安堵の息をつき、静かに涙を流した。本物の水だ。その事実を前に、数百人の虚ろだった瞳に生への希望が狂気のように灯り始める。


「や、やめろ……ッ! 騙されるな、我らの誇りを……!」

 族長が叫ぶが、その声はもう誰にも届いていなかった。

 這いつくばる民の目は、族長ではなく、ただ一人ファリードだけを見つめている。

 黒い岩肌と絶望の泥に沈むこの村で、太陽を背負って立つ白金色の髪と白銀の甲冑。

 その汚れなき姿は、 黒岩族に古くから伝わる『大いなる渇きの後、白銀の使者が太陽を背負って現れ、慈愛の雨を降らせる』という救済の伝承そのものだった。


 民の心が、戦う前に完全にひれ伏している。

 その圧倒的な事実を突きつけられ、族長の手からカタリと槍が滑り落ちた。


 ざわめく村人たちへ向け、ファリードは立ち上がり、静かに、だが渓谷全体に響き渡るような威厳ある声で告げた。


 「本来ならば。あと三日待てば、貴様らは完全に干上がり、我々は味方の血を一滴も流さずにこの村を手に入れていただろう。我が軍師が描いた盤面は、それほどまでに完璧で、無慈悲なものだった」

 族長が息を呑み、槍を持つ手を震わせる。

 「……ならば、何故だ! 何故ここで刃を収め、水を恵む!!」

 「私が、それを良しとしなかったからだ」


 ファリードは広場を埋め尽くす民衆へと、大きく両手を広げた。 その姿は、あまりにも美しく、そして清廉だった。

 「これ以上の消耗と絶望は、この地に深い恨みの呪いを残すだけだ。黒岩の民よ、私は貴様らを滅ぼしに来たのではない。共に立ち上がり、この腐った帝国を正す家族として迎えに来たのだ」

 ファリードの金色の瞳が、広場の隅で母親に抱かれている一人の少女――先日、封鎖線でタリクが果実を与えたあの少女の瞳と、静かに交差した。

 「私の軍門に降れ。そうすれば、今日この時から、貴様らの子供が渇きに泣き、親が飢えることは私が決して許さない」


 その絶対的な誓いに、広場を支配していた疑念は完全に消え去った。

 すすり泣く声が波のように広がり、やがて一人、また一人と、民たちは白銀の王に向かって深く額を擦り付けていく。

 最後まで立っていた族長もまた、己の敗北と、新たな王の誕生を悟り、乾いた黒土の上にゆっくりと膝を折ったのだった。彼の目から、枯れ果てていたはずの涙が溢れ出し、砂埃にまみれた地面を濡らす。


 「……我らを枯らせた死神が、恵みの雨を降らすというのか。なんという、なんという恐ろしく、美しい方だ……」

 「……王よ。我らが、真の王よ……っ!」


 一人が膝をつき、二人が頭を垂れる。

 やがて、数百の部族民全員が、砂埃の中にひれ伏してファリードへの心からの忠誠を誓った。嗚咽と感謝の声が、ガレブ渓谷の岩肌にこだまする。


 高台から、その光景を無言で見下ろしていたマーシャは、男物の外套の中で小さく鼻を鳴らした。

 (……いい演技だ、殿下。いや、あれはもう、演技じゃねえな)

 自らの描いた残酷な盤面を、最後に慈悲という一筆で塗り替えてみせた若き王。


 黒岩族が、ここまで容易く、そして狂信的なまでにファリードへひれ伏したのには理由があった。

 ガレブ渓谷の過酷な自然の中で生きる彼らは、古くから「太陽と水」を絶対的な精霊として信仰している。

 そして彼らの古い伝承には、『大いなる渇きの後、白銀の使者が太陽を背負って現れ、慈愛の雨を降らせる』という一節があったのだ。

 限界まで渇きに苦しめられた彼らの目に、白銀の甲冑を纏い、後光のように太陽を背負って現れ、自らの手で慈雨を与えてくれたファリードの姿は、まさにその神話の体現、救済の神そのものに見えたのである。  

 恐怖で極限まで支配し、最後に神々しいまでの王の魅力で救済する。


「……やれやれ。最悪の効率だが、まあ、軍師冥利に尽きる展開ではあるな」

 マーシャは左手首のミサンガにそっと触れた。

 王の背中が、また一回り大きく見える。

 この少年の歩みがどこまで続くのか、それを最後まで見届けることも、悪くない。


* 

 

 黒岩族が完全に平定され、彼らがファリード陣営の軍門に降ったその日の夕刻。

 外の広場では、命を繋いだ村人たちと陣営の兵士たちが、憎しみを忘れたかのように勝利と和解の喜びに沸き返っていた。

 だが、本陣として張られた薄暗い天幕の中。

 一人きりになったその空間に足を踏み入れた瞬間、ファリードの身体から糸が切れたようにすべての力が抜け落ちた。

 

 「っ……、はぁっ……!」

 ガシャン、と重い銀の甲冑を鳴らして、ファリードは天幕の床に膝から崩れ落ちた。

 直後、胃の底から強烈な吐き気が込み上げてくる。

 彼は両手で口元を覆い、胃液だけをゲホゲホと床の隅へ吐き出した。

 酸素が足りない。

 過呼吸のように肩が激しく上下し、冷や汗が滝のように顎を伝って泥だらけの床に落ちる。


 (怖かった……。もし、あの族長の槍が直前で止まらなかったら。もし、私の言葉が彼らに届かず、そのまま殺し合いになっていたら……!)


 王宮の温室で育った彼にとって、飢えと渇きに狂った何百人もの暴徒の前に、たった一人、丸腰で進み出ることの恐怖がどれほどのものだったか。

 マーシャの描いた残酷な盤面を、自らの命を賭けた慈悲で塗り替えるというあの神々しいまでの振る舞いは、十四歳の少年の精神を限界まで削り取る、ギリギリの”虚勢”だったのだ。


 「私には、無理だ……。完璧な王になんて……っ」

 震える両腕で自身の身体を抱きしめ、ファリードが耐えきれずに弱音を零した、その時だった。

 音もなく天幕の布がめくられ、巨大な影がヌッと入り込んでくる。 ファリードはビクッと肩を跳ねさせ、慌てて王の仮面を被り直そうと涙目のまま顔を上げた。

 だが、そこに入ってきたのは口うるさいカディルでも、冷徹なマーシャでもなく、巨漢の盾持ち、タリクだった。

 タリクは、過呼吸で震え、床に蹲るファリードの無惨な姿を見下ろした。

 だが、その岩のような無表情には、幻滅も軽蔑も微塵も浮かんでいなかった。

 彼は無言のままゆっくりと膝をつくと、手に持っていた木杯を、ファリードのすぐ傍らにコトリと置いた。 中には、湯気を立てる温かい白湯が入っている。

 そしてタリクは、自身の分厚く無骨な手のひらで、ファリードの震える細い背中を、ポン、ポンと、幼子をあやすように二度だけ優しく叩いた。


 『よくやり抜いた』。

 言葉を持たない彼の、それ以上の何物でもない最大の賞賛と労いだった。

「タリク……」

 タリクは短く頷くと、それ以上は何も見なかったかのように身を翻し、再び天幕の外へと出て行った。


 残されたファリードは、差し出された木杯を両手で包み込んだ。

 じんわりとした白湯の温かさが、恐怖で氷のように冷え切っていた指先から、全身へと染み渡っていく。  

 無理をして背伸びをし、大人の王を演じ切った心に、その不器用で温かい気遣いが痛いほど染みた。

 「……ありがとう」


 誰もいない天幕の中で、ファリードは白湯を一口啜り、ただ一筋だけ、安堵の涙を頬にこぼした。

 そして彼は、木杯を空にすると、再び己の震える両足を力強く叩き、立ち上がる。

 外で待つ民と仲間たちのために、もう一度、誰もがひれ伏す”王の仮面”を被り直すために。

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