黒岩族
赤蠍の砦を落としてから一月。
ネズミ騒動が起こったてから一週間。
あの赤蠍の砦は、ファリード陣営の完全な軍事拠点へと生まれ変わっていた。
切り立った崖の上にそびえる古い石造りの城壁。
それぞれが隊列を組み、食料を仕入れ、動く日々。忙しい合間を縫っての夜の息抜きは、広間の片隅で行われるマーシャの戦術講義だ。
砦の奥まった薄暗い小部屋。その中央には、山賊の備蓄庫から持ち出した頑丈な木箱がドンと置かれ、即席の低い机として陣営の首脳陣を囲い込んでいる。
木箱の上で、マーシャが羊皮紙に炭で陣形を描き、かつて歴史の覇者たちが用いたえげつない騙し討ちや包囲戦術を語る。
王宮の綺麗な学問しか知らなかったファリードにとって、泥臭くも確実に勝利をもぎ取る生きた兵法は面白くてたまらないらしい。
「なるほど……! では、もしこちらが川を背負って退路がない場合はどうする!? なあマーシャ、この続きをもっと教えてくれ!」
木箱に両肘をつき、目を輝かせて身を乗り出して質問攻めにするファリード。
だがマーシャは、「体調管理も戦術のうちだ。今日はもう寝ろ」と、彼の手から羊皮紙をスッと没収してしまった。
「あっ、待ってくれマーシャ、あと少しだけ!」
ファリードはムスッと唇を尖らせると、すぐ隣で壁に寄りかかって安酒を飲んでいたザイドの服の袖をグイッと引っ張り、少しぎこちない動作で、その背中に体重を預けた。
「ザイド! お前からもマーシャに言ってくれよ、今夜はあともう一つの陣形だけだって!」
「おっとっと! 殿下近ぇよ、俺のワインがこぼれちまう!」
王族らしからぬ、けれど彼なりの精一杯の悪友への甘え方。背中から体重をかけられ、不器用に肩を揺さぶられたザイドが、困りながらも嬉しそうにゲラゲラと笑う。
「へへっ、さすが兄貴の策は悪辣で最高だからな! もっと聞きたいって殿下の気持ちは分かるぜ!」
「ええい、ザイド! 殿下に下品な酒の匂いを嗅がせるな! それに殿下、スラムの野良犬の背中にそのように気安くお触りになってはいけません!」
そこへ、血相を変えて生真面目な怒声が飛んできた。
最初は殿下の不寝番を名目に部屋の入り口付近に立っていたはずのカディルである。彼は講義が白熱するにつれ、いつの間にかジリジリと木箱へにじり寄り、今や木箱の真正面にどっかりとあぐらをかいて座り込んでいたのだ。
「だいたい軍師殿の策は、敵の補給線を絶って飢えさせるだの、闇討ちだの、騎士の誉れが微塵もない恥知らずなものばかりではないか!」
顔の火傷の痕をしかめて文句を垂れる。
「そう言うなら、明日から講義の時間は耳を塞いで、外で立ってろよ旦那」
マーシャが呆れて返すと、カディルは「……我が軍の動向を知らぬわけにはいかんからな」などと苦しい言い訳をしながら、ちゃっかり木箱の最前列を陣取ったまま、誰よりも真剣な顔でその陣形図を頭に叩き込んでいるのだ。
それは、血みどろの戦いの中にあって、彼らが手に入れた賑やかでかけがえのない家族の団欒であった。
そして、砦の最奥。
かつて山賊の首領が陣取っていたであろうペルシャ絨毯の敷かれた豪奢な広間は、今や彼らの作戦室として機能していた。
赤蠍の砦を拠点と定めてから数週間が経過した頃。
作戦室の大きな机には、地下金庫で見つけた詳細な地形図が広げられていた。
「ガレブ渓谷には、我々が落とした赤蠍以外にも、まだ反抗的な五つの部族が割拠している。中でも最大の勢力は、渓谷の最深部に陣取る『黒岩族』だ」
ファリードが地図上の黒い岩山を指差し、険しい顔つきで言った。
「彼らは誇り高く、獰猛な戦士の集団だ。真っ向からぶつかれば、我々も無傷では済まないだろう。どう動く、マーシャ」
巨大な石机の上に広げられた精緻な地形図を前に、マーシャはチェスの駒を模した木片を握っていた。
淡々と、冷酷な軍師の声で戦術の定石を口にする。
だが、地図上に木駒をコトリと置こうとした瞬間、彼女の細い指先が微かに震えた。
(……これは、ただの木片じゃない。私がこれを一つ動かせば、何百人もの血が流れる)
日本の平和な自室で、冷たいみかんジュースを飲みながら、無邪気に歴史シミュレーションゲームを楽しんでいた自分。
あの頃は、画面上の数字が減ることなど何も痛くはなかった。
しかし今、彼女が動かしているのは、血の通った人間の命だ。
自分の描く盤面一つで、何百人もの人間が泥濘の中で互いの肉を切り刻み、腹を裂き合う凄惨な地獄が生まれる。
「……どうした、軍師殿。手が止まっているぞ」
傍らに立つカディルが怪訝そうに声をかける。
マーシャは咄嗟に指の震えを外套の下へ隠し、ターバンの奥で冷徹な悪魔の笑みを貼り付けた。
「いや……何でもない。次の一手だ」
安全な部屋でゲームを楽しんでいた『ましろ』の倫理観が悲鳴を上げるたび、彼女はその精神的な摩擦を分厚い悪魔の仮面の下に押し殺し、血塗られた盤面に新たな木駒を置いた。
そして、マーシャは黒い外套を翻し、地図を凝視したまま鼻で笑う。
「真っ向勝負? 馬鹿を言うな。地下金庫で言っただろう、殿下。この乾燥した辺境で、皆が等しくひれ伏す神は水と金だと」
彼女は炭を手に取り、地図上に三つの印を素早く書き込んだ。
「彼らの神を殺す。……力攻めは下策だ。部族の命綱である渓谷の主要な三つの井戸、地下水脈と、物資を運ぶ大河へ続く唯一の交易路。ここを同時に、かつ物理的に潰す」
マーシャが提示した、敵の流血すら伴わない「完全包囲」の絵図。
その翌日から、マーシャの指示を受けた陣営は、各々の役割を完璧に遂行し始めた。
夜の闇に紛れ、ザイド率いる密偵部隊が黒岩族の村の上流にある地下水脈へと音もなく潜入した。彼らは巨大な岩を崩して水路を物理的にせき止め、村へ流れ込むはずの水を一滴残らず断ち切った。
同時期、カディルと巨漢のタリクが率いる精鋭部隊が、渓谷の入り口にある交易路を完全封鎖。部族へ食糧や武器を運ぼうとする商隊の前に、圧倒的な剣技と巨大な盾の壁を築き、「これより先は我がファリード陣営の領地である」と有無を言わさずに追い返したのだ。
流血を伴う派手な戦闘など、ただの一度も起きなかった。
だが、その見えない真綿で首を絞めるような包囲網は、確実に五つの部族から生きる気力を奪っていった。
黒岩族の村を完全に包囲して、数日が経過した頃。
水と交易路を断つというマーシャの徹底した兵糧攻めは、味方の血を流さない代わりに、果実が熟して落ちるのをただ待つだけの退屈な時間を陣営にもたらしていた。
「さあさあ張った張った! スラムの女神は誰に微笑むかな!」
本陣から少し離れた野営地の片隅で、軽快なザイドの声が響いていた。
彼は暇を持て余した兵士たちを焚き火の周りに集め、いかさまサイコロ大会を開いて小銭を巻き上げている真っ最中だった。
「くそッ、また負けか! ザイド隊長、ツキすぎだろ!」
「へへっ、文句があるならもう一丁いくかい?」
「……随分と楽しそうだな、ザイド」
野営地を巡回していたファリードが、ひょっこりと顔を出した。
「おっと殿下! いやぁ、敵さんが干上がるのを待つ間、兵たちの士気低下を防ぐためのちょっとした余興ってやつでして」
ザイドが慌てて小銭を隠そうとするが、ファリードの金色の瞳は咎めるどころか、転がるサイコロの軌道とザイドの手元を静かに、そしてひどく真剣な眼差しで観察していた。
「……相手の視線を誘導する見事な手業だ。そのサイコロ、少しだけ角が削られているのか?」
「げッ!? 分かっちゃいました? へへっ、こいつはスラムで生き抜くための必勝法でしてね」
「なるほど、相手の錯覚と心理を突くのか。王宮の兵法書には決して載っていない、苦境を生き抜いてきた者だけが持つ生きた知恵というわけだな」
(彼は今、王族の私に対して、己の生き抜いてきたスラムの誇りを明け渡そうとしてくれているのだ)
ファリードはそう直感すると、身分差の壁を自ら取り払い、まるで軍議に臨むような生真面目すぎる顔つきで居住まいを正した。
「今度、陣営に落ち着く時間ができたら、私にもその『手首のスナップ』とやらを教えてくれないか」
「へへっ、いいっすねェ! そんじゃあ、今度砦に戻った時にでも、たっぷりと殿下に――」
「――ザ、ザイド貴様ァッ!!」
その瞬間。
背後の天幕の影から、地鳴りのような怒号が降ってきた。
ビクッとファリードの肩が跳ね、ザイドの顔からスッと血の気が引く。
振り返ると、顔の火傷の痕を般若のように赤黒く染め上げたカディルが、今にも剣を抜き放ちそうな勢いで立っていた。
「戦場の只中において博打で規律を乱すばかりか、あまつさえ殿下にそのような下品な遊びを教え込もうとは……ッ! 貴様のその腐った性根、この私が叩き斬って直してくれるわ!!」
「ひぃッ!? 違うんだ旦那、殿下から興味を持って――」
「問答無用!! そこへ直れェェッ!!」
「わぁぁぁッ! 助けてくれ殿下ァ!」
砂埃を上げて逃げ回るザイドと、鬼の形相で追いかけ回すカディル。
ファリードは「ま、待てカディル! これは彼らなりの立派な戦術で――」と一生懸命に論理立てて庇おうとするが、怒り狂ったカディルの耳には全く入っていないのだった。
「ヒッヒッヒ、暇つぶしには最高の見世物ですな。今度ザルカの市場に寄った際は、『三日は舌が痺れる薬草』でも仕入れて、ザイド殿の口に流し込む準備をしておきましょう」
いつの間にか現れたイブンが不気味に笑い、巨漢のタリクが無言でファリードに温かい白湯を差し出す。
ファリードは苦笑いしながらそれを受け取り、砂埃を上げる二人のドタバタ劇を見守った。
非情で残酷な兵糧攻めという重苦しい戦況の上にありながら。
ファリード陣営の内部には、身分を越えた家族のような温かい日常が、変わらずに息づいていたのである。
ファリードは、杯の温かい白湯を喉に流し込みながら、砂埃を上げて逃げ回る仲間たちの姿を、どこか眩しそうな、そして痛切な瞳で見つめていた。
(……彼らがこうして無傷で笑い合っていられるのも。今この瞬間、私たちが『見えない手』で敵の首を容赦なく絞め続けているからだ)
ファリードは視線をそっと外し、遠くそびえる黒い岩肌へと向けた。
流血を伴う派手な戦闘など、ただの一度も起きていない。だが、その見えない真綿で首を絞めるような包囲網は、確実に五つの部族から生きる気力を奪っていた。
あの岩の奥底で、誇り高き部族の戦士たちが渇きに苦しみ、女子供が飢えに泣き叫んでいる。
自分の手を直接血に染めていなくとも、その地獄を作り出したのは他でもない自分自身なのだ。
王座を目指すということは、こうした非情な業を背負い、笑顔の下に隠し続けるということ。
ファリードは空になった杯をギリッと音が鳴るほど強く握りしめ、己の内に渦巻く罪悪感と王としての冷たい決意を深く飲み込むと、一人、静かに作戦室へと歩みを進めた。
――そして、包囲から七日目を迎えた、本日の夕刻。
作戦室の窓から差し込む夕陽が、マーシャの横顔を鋭く縁取っている。
髪は相変わらず汚れたターバンの中に押し込められているが、その立ち姿には、もはや小柄な男と呼ぶには余りある威圧感が漂っていた。
「へへっ、兄貴の狙い通りだぜ。渓谷の主要な三つの井戸と、大河へ続く唯一の交易路……そこを俺たちが完璧に封鎖したおかげで、連中は今頃干からびたトカゲみたいになってる」
偵察から戻ったザイドが、水袋から水を一口含みながら報告を続ける。
その報告を聞き、部屋の隅に控えていたカディルは、震える手で自身の顔の火傷の痕を覆った。
(……なんという恐ろしい絵図を描くのだ、この異邦人は)
通常の軍略家であれば、五つの部族を相手にする際、兵力差を考慮して一つずつ各個撃破を狙うか、あるいは貢物を送って同盟を乞うのが定石だ。
だが、マーシャは違った。
彼女は剣を一切交えず、この乾燥した辺境で神と同義である水と、生きるための金と交易の供給源の二点をピンポイントで物理的に遮断したのだ。
結果として、味方の血を一滴も流すことなく、五つの部族を同時に飢えと渇きの地獄へ叩き落とした。
騎士の誉れなど微塵もない、あまりにも非情で卑劣な盤面。
カディルの誇りはそれを外道だと激しく拒絶していたが、軍人としての理性は、その采配がこれ以上ないほどの最適解であることを嫌でも理解してしまっていた。
地形と人間の生存本能を完全に支配した、身の毛もよだつほどの合理性。
カディルは、大帝国のどの将軍の兵法書にも載っていないその異次元の采配に、自身の常識が根底から覆されるような、背筋が凍るほどの畏怖を感じていた。
「連中は誇り高い部族だ。剣を向ければ死ぬまで戦うが、喉の渇きと、腹を空かせて泣き叫ぶ子供の声には勝てねえ。……そろそろ果実が熟した頃だな」
マーシャは視線を上げ、部屋の奥で静かに剣を磨いていたファリードへと向けた。
視線が絡んだ瞬間、ファリードはビクッと不自然に肩を強張らせ、息を呑んだ。
マーシャと目を合わせるたび、彼は最近いつもこうなる。
これほど冷酷な悪魔の絵図を、己の王座のために、この小柄な命の恩人に描かせてしまっているという痛切な罪悪感。
その底知れぬ知略への畏怖。
そして、感情の見えない奥で人知れず痛みを抱えながらも、すべての業を被って自分を勝たせようとしてくれるかけがえのない家族に対する、身が引きちぎれるような敬愛と、己の無力さ。
相反する感情が胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、ひどく重い熱となって、彼の身体を金縛りのように強張らせてしまうのだ。
だが、当のマーシャは、彼がそんなヒリヒリとした葛藤を抱いていることなど微塵も気づいていなかった。
この悪魔の軍師は、ファリードの強張った顔を「これからの交渉に向けた、王族としての重圧だろう」と勝手に解釈し、気にも留めずに次の盤面を動かし始める。
「出番だぞ、殿下。……敵を絶望の底まで突き落とした後は、寛大に手を差し伸べてやれ。苦境に陥りたくなければ私の軍門に降れ、とな」
「……ああ。分かっている」
ファリードは、自身を射抜くマーシャの底知れぬ黒曜石の瞳から、耐えきれなくなったようにわずかに視線を逸らして立ち上がった。
これ以上見つめ合えば、「もうお前に、一人でこんな業を背負わせたくない」という、大義を忘れた感情が口をついて出てしまいそうだったからだ。
彼自身の歩みは、この異邦の軍師に出会ってから劇的に変わった。
最初の砦の戦いでは、泥濘の中で敵を同士討ちさせる非情な策に、ただただ圧倒され、戦慄するしかなかった。
続く赤蠍の砦では、自ら疑心暗鬼を煽る卑劣な策略を描き、結果として血みどろの内乱を生み出したその業の重さに、広間の隅で一人震えていた。
そして今回。
彼がこれから実行に移すのは、剣を交えることすらなく水源を絶ち、無力な女子供の渇きすらも盤面の駒として利用する、どこまでも無慈悲で冷酷な兵糧攻めだ。
かつての王宮の温室で育った彼なら、騎士道に反する外道の策だと激しく拒絶していただろう。
王としての倫理観は、今でも心の中で警鐘を鳴らしている。
だが、今のファリードは違う。
味方の血を一滴も流さず、敵を確実に屈服させ、やがて自らの民として取り込むためには、これ以上ないほど完璧で合理的な王の正解であることを、彼はもう骨の髄まで理解していた。
自らの手を汚し、他人の命をすり潰す業の重さを、王として自ら背負う覚悟。
ファリードは、これまでの戦いで得た確かな決意を噛み締めるように、傍らに置かれた白銀の鎧を手に取り、その身に纏った。
傷つき、泥を被り、身体には大きくとも、それでも自らの意志で選び取ったその姿には、十四歳の少年とは思えぬ覇王の風格が宿り始めていた。




