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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
三章

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21/42

イリアス・ラフマーンという男

 分厚いビロードのカーテンが、鬱陶しい初夏の陽光を完璧に遮断している。

 薄暗く、ひどく冷え切ったマホガニーの執務机。将校イリアス・ラフマーンは、肺の奥にこびりつくような鉄錆にも似たインクの匂いに耐えながら、今日も機械的な反復作業をこなしていた。


『――元第一王子近衛隊所属、反逆の疑いにより辺境守備隊へ左遷』

『――旧王家支持派の文官、横領の罪により領地没収、消息不明』

『――シャムス殿下ゆかりの孤児院に対する支援打ち切り、および解体』

 乾いた音が響く。

 赤い承認印を押し下げるたび、羊皮紙の上のインクが、かつて生きていた人間たちをただの「処理済み」の記号へと変換していく。

 ふと、一枚の調書に記された文字列に、イリアスの手がピタリと止まった。


 ――カディル・アル=アサド。

 ――ジャシム・アル=ファーリス。


 見覚えのある名だ。

 純血の武門でありながら、前王の「寛容」などという青臭い理想に酔い、愚かにも剣を捧げた軟弱者たち。父であるラフマーン侯爵の教えに従い、すれ違うたびに冷ややかな視線を向け合っていた、ただの政敵。

 親しく言葉を交わしたことなど、一度もない。


 それなのに。印を握るイリアスの指先から、さっと血の気が失せていく。


(……軟弱者、か)


 嘘だ。本当は誰よりも分かっていた。

 彼らの剣の冴えも、身分を越えて笑い合うあの陽気な声も。主君を護ろうと立ち塞がった、あの時の気高き背中も。

 イリアスが絶対に手の届かない、本物の騎士のそれだった。

 胃の腑がギリギリと軋む。喉の奥がカラカラに乾いていた。


 約三月前。王宮が赤黒い業火に包まれた、あの簒奪の夜。

 崩れ落ちる瓦礫の向こう側で、血まみれになって死闘を繰り広げる第一王子の姿を前にして。

 イリアスは隣に立つ父の冷酷な横顔と、周囲の威圧感に足がすくみ――ついに、己の剣を抜くことができなかった。


 ただ立ち尽くし、密かに慕っていた真の王を見殺しにした。

 その臆病な傍観の代償が、この机に積み上げられたおびただしい数の死者の報告書だ。


 イリアスは呼吸を止め、血を吐くような思いで、再び赤い印を押し下げた。

 ここでペンを置くことは、己の首を差し出すことと同義。自分が死ぬだけなら構わない。だが、ふと視界の端に映り込んだ、不自然なほど極彩色の小箱が、イリアスの思考を冷酷に縛り付ける。


 今朝、マレクが愛する幼い妹たちに与えた西国菓子。

 鳥籠に囲われた無垢な命への、甘ったるい香りのする最悪の脅迫状。


 イリアスは自らの誇りを殺し、また一枚、かつて憧れた者たちを暗闇へと葬る書類をめくる。

 だが、彼の胸の奥底で、どうしても捨てきれない細い蜘蛛の糸が一本だけ垂れ下がっていた。

 第二王子、ファリード。

 莫大な懸賞金が懸けられながらも、あの大火の夜から三ヶ月、いまだに捕縛の報は届いていない、大帝国の消え残った最後の光――。


 バンッ!!


 祈るような思考を物理的に断ち切るように、執務室の扉が乱暴に開かれた。

「……イリアス様! 北方国境の偵察部隊より、急報でございます!」

飛び込んできた部下は息を切らし、その顔面を土気色に蒼白にさせていた。


「何事だ。騒がしいぞ」

「は、はい! 北の最果て、『大河の砦』にて……我らが正規軍の追討部隊三千と、北の騎馬民族『蒼き狼』が激突! 凄惨な同士討ちの果てに、砦は火の海となり……両軍ともに、ほぼ全滅したとのことにございます!」


「全滅、だと……!?」

「……生存者は、皆無にございます」


 部下は震える声で、決定的な絶望の言葉を口にした。

「焼け落ちた砦と、数千の死体の山だけが残されておりました。あの地獄のような討ち合いの中で……ファリード殿下が生き延びられる可能性は、万に一つもございません」


 飛び込んできた部下が、土気色の顔で早口に告げる。北の最果てでの激突。凄惨な同士討ち。そして――ファリード殿下を含め、生存者は皆無であるという、決定的な報告。


「……そうか。ご苦労だった。下がれ」


 イリアスの口から出た声は、ひどく平坦だった。

 先ほどまで粛清の書類を読み上げていた時と何一つ変わらない、ひどく事務的で、冷徹な将校のトーン。部下は深く敬礼し、足早に退室していく。


 ただ、その背中を見送るイリアスの瞳の奥だけが。ほんの微かに、一瞬だけ揺れた。


 パタン、と重い扉が閉まる。

 その瞬間だった。


 目の前にあるはずのマホガニーの机が、分厚いビロードのカーテンが。

 まるで空間そのものが歪んだように、唐突にスーッと遠ざかっていく錯覚に陥った。

 耳の奥の静寂が痛い。喉の渇きすら感じない。


 ――あぁ。終わったのだ。

 大帝国の正統なる血脈は、あの冷たい辺境の泥の中で、完全に途絶えた。


 イリアスは感情の抜け落ちた青白い顔のまま、次の粛清書類へと手を伸ばし、再びインクの染みたペンを握り直そうとした。

 だが。


 カラン……。


 ほんの数ミリ、指先の距離感が狂っていた。

 指先を滑り落ちたペンが、乾いた音を立てて冷たい大理石の床へ転がり落ちる。

 イリアスはそれを拾おうともせず、ただ、床の石目にじわじわと広がっていく赤黒いインクの染みを、焦点の合わない目で静かに見つめ続けていた。

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