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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
三章

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20/42

砦の日常

 その日の夜。 

 冷たく澄んだ夜風が吹き抜ける、砦の平らな石造りの屋根の上。 

 眼下からは、今なお続く占領の喜びに沸き、訓練終わりにすっかり酔っ払った傭兵たちの笑い声や、喧騒が微かに響いてきている。広場に焚かれた無数の篝火かがりびが、赤い光を夜空に向けてチロチロと揺らしていたが、この高い屋根の上まではその熱も光も届かない。

 ここにある光源といえば、頭上に広がる冷たく瞬く無数の星々と、青白い月明かりだけだ。

 どこまでも続くガレブ渓谷の黒々とした岩肌が、静寂の闇の中に巨大な獣の影のように沈んで見えた。   

 

 そんな、熱狂と喧騒から完全に切り離された特等席。

 冷たい夜風に外套をはためかせながら、カディルから絞られるだけ絞られて泣きべそをかいているザイドの隣に、マーシャは音もなく腰を下ろした。


 「ひでェよ兄貴……。俺を身代わりに売るなんて、悪魔の所業だぜ。殿下まであんな悪人面するようになっちまって……」

 「戦場では、臨機応変な損切りが命を救うんだ。殿下も立派に成長した証拠だろう」

 恨みがましく睨むザイドに対し、マーシャは懐からポンと「ある物」を放り投げた。

 ザイドが慌てて受け取ったそれは、金庫の奥底からマーシャがちゃっかりとくすねておいた、とびきり上等な年代物のワインボトルだった。

「おっ……!」

「隠し財宝のオチとしては、まあ上出来だろう。栓を抜け」


 ザイドの顔がパッと明るくなり、手慣れた動作でボトルのコルクを抜く。芳醇な葡萄の香りが、夜風に乗って広がった。

「へへっ、やっぱり兄貴は最高だぜ! 俺を出し抜いたのはムカつくが、こういう抜け目のねェところは素直に尊敬するや。で、分け前はどうする?」  

 マーシャはターバンの奥で悪戯っぽく笑い、自身の手元の木杯を突き出した。


「……約束通り、分け前は私が六で、お前が四だ。こぼすなよ」

「へいへい、強欲なことで」

 瓶を受け取ったザイドも豪快にワインを煽る。


「ぷはァッ! 効くぜ……。俺と同い年の十九歳のくせに、兄貴は随分とえげつねェ頭してんな」  

 スラムで散々泥水を啜り、修羅場を潜り抜けてきた十九歳の密偵は、年齢の割にひどく大人びた、どこか達観した目つきで月を見上げた。  

 眼下からは、酔っ払った傭兵たちの下品な笑い声が微かに聞こえてくる。

 下では表立っては言わないもののマーシャの非道極まりない戦術を「恐ろしい悪魔」と畏怖する者もいるが、ザイドの横顔に怯えは微塵もない。


(……どうして十九歳でそんなえげつない戦術が組めるのか、こいつは一切聞いてこないな)

 マーシャは手元の木杯を揺らし、芳醇な葡萄の香りを深く吸い込んだ。

 過去を詮索せず、ただ目の前の損得と実力だけで繋がる。同い年という理由もあるのか、この図太いスラムのネズミとの絶妙な距離感は、マーシャの凍りついていた肩の力を不思議と抜かせていた。


「俺の夢はよ、スラムの底辺から成り上がって、いつか一生遊んで暮らせるくらいの大金持ちになることなんだ。……でもよ、今まで一人で小銭を稼いできたが、兄貴の描く絵図に乗ってりゃ、ただのコソ泥やってるよりよっぽどデカいヤマが掴めそうな気がするんだよな」  

「……欲深いやつだ。足元をすくわれても知らないぞ」

 ザイドは調子のいい笑みを浮かべながら、再びワインの瓶を傾けた。


「へへっ、そん時は一緒に逃げてくれよ。……それに、兄貴からは俺と同じ匂いがする。綺麗な言葉じゃ腹は膨れねェって分かってる、地べたを這いずり回ってきた奴の匂いがな。だから俺は、同い年でもあんたを『兄貴』って呼んでんのさ」

 ザイドがポンと、気安く自身の肩をぶつけてくる。

 その不意のスキンシップに、マーシャは一瞬、ターバンの奥でビクッと肩を強張らせた。

 分厚く巻いたサラシとダボついた外套があるとはいえ、身体の細さや骨格の違いで気づかれはしないかと、冷や汗が背中を伝う。

 だが、隣の密偵はそんなことなど微塵も疑わず、心地よさそうに夜風に吹かれているだけだった。


(……本当に、こいつは鋭いのか鈍いのか分からないな)

 マーシャは自身の取り越し苦労に呆れ、強張っていた肩の力を抜いて、ターバンの奥で小さく息を吐き出した。


「……勝手に慕うな。私は利用価値があるからお前を使ってるだけだぞ」

「ギャハハ! そういう冷てェところも最高に頼もしいぜ!」

「……なあ兄貴。俺たち、これからどうなると思う?」  


 ひとしきり笑った後、月を見上げながらザイドがふと静かな声を出した。


「さあな。だが、あのヒヨッコ殿下は案外、とんでもない化け物に育つかもしれないぞ」

「違いねェ。あの歳であの盤面を描くんだからな。殿下が王様になった暁には、俺にはガポリと恩賞を弾んでもらわねェとな!」


 二人は瓶を回し飲みしながら、夜風の中で静かに笑い合う。  

 互いの血の匂いも過去の傷も、極上のワインの味で誤魔化して流し込む。

 マーシャにとっても、ただの裏社会の相棒として気兼ねなく軽口を叩き合えるザイドとの時間は、この狂った世界で深く息継ぎをするための、数少ない安らぎのひとときだった。

 やがて、分厚い雲が流れ、白み始めた夜明けの光がガレブ渓谷の赤茶けた岩肌を照らし出した。それは、彼らがこの過酷な辺境に確かな根を下ろした、最初の朝だった。


* * *


 赤蠍の砦を占領してから数週間。

 かつて山賊たちが酒と暴力に溺れていたその砦は、今やファリード陣営の温かく活気に満ちた「家」へと変貌を遂げていた。


 数ヶ月に及ぶ過酷な逃避行で極限まで擦り減っていた兵士たちの身体は、屋根のある安全な寝所と十分な食糧によって、ようやく本来の生気を取り戻しつつあった。  

 かつて砦に染み付いていた、むせ返るような安酒と血の臭いは、ガレブ渓谷特有の乾いた熱風に吹かれてとうの昔に消え去っていた。 代わりに今の砦を満たしているのは、規則正しい剣の素振り音と、大鍋で煮込まれる豆と獣肉の温かい匂いだ。


 大帝国シャジャルの威光が届かないこの北西の最果て、ガレブ渓谷。  

 ひび割れた赤土と切り立った岩肌がどこまでも続くこの地は、日中には肌を刺すような熱風が砂埃を巻き上げる過酷な荒野である。  

 ここには帝国の法はなく、独自の精霊信仰を持つ複数の異民族や山賊たちが割拠している。彼らが等しくひれ伏す絶対的な神とは、大帝国の皇帝などではなく、生きるための水と、交易路を支配する金、そしてそれらを奪い取る力のみであった。  

 僅かなオアシスや水脈を巡り、部族同士の血みどろの略奪と殺し合いが日常茶飯事に行われる弱肉強食の世界。

 まだ周辺には反抗的な五つの部族が牙を研いでおり、外敵の脅威には常に晒されている。

 だからこそ、カディルの厳しい号令の下、寄せ集めの兵士たちは実戦さながらの訓練で泥にまみれ、一日たりとも休むことなく軍としての規律と連携を叩き込まれているのだ。


 だが、その過酷な環境や厳しい訓練とは裏腹に、陣営の食事風景は驚くほど豊かなものへと変わりつつあった。  

 逃亡中は、唾液でふやかさなければ噛みちぎることもできない塩辛く獣臭い干し肉や、味気ない豆のスープを啜るしかなかった。

 しかし今は違う。広場の中心に据えられた大鍋では、タリクが仕留めてきた羊の肉が、貴重な香草やスパイスと共にグツグツと煮込まれている。


 さらに兵士たちを驚かせたのは、食後に配られた一握りの果実だった。

「おい、なんだこの甘さは……っ! 噛めば噛むほど、舌がとろけそうだぞ!」

「干しイチジクに、ふっくらとした干し葡萄だと? いつも食ってる石みたいな干し果物とは別物じゃねえか。……この干からびた渓谷で、どうやったらこんな水気をたっぷり含んだ極上品が手に入るんだ!?」  


 兵士たちが目玉を丸くして舌鼓を打っていると、火の傍で銀貨を転がしていたザイドが、ニヤリと笑って口を開いた。


「へへっ、そいつは『ザルカ産』の最高級品だからな。俺たちの軍師の兄貴が、赤蠍の隠し金庫からちゃっかりくすねておいた交易品のおこぼれさ」

「ザルカ……?」  

 聞き慣れない名前に首を傾げる元山賊や傭兵たちへ、ザイドは得意げに語り始めた。

「ここからさらに北西へ向かった先にある、巨大な独立都市さ。……あそこは別格だ。大帝国の正規軍ですら、莫大な賄賂と強力な私兵団の前に手出しできず、不可侵を貫いている。白亜の巨大な城壁に守られ、水が金より高いこの辺境で、あそこの貴族の庭には大河から引き込んだ見事な噴水が涼やかな音を立てているらしいぜ。だから、こんな甘くてふっくらとした果実がいくらでも育つんだとよ」

「大帝国の軍すら手出しできない、白亜の独立都市だと……」

「ああ。武力や騎士道なんてものは何の価値もない、金がすべての交易都市だ。その莫大な富と権力をたった一人で牛耳ってるのが、通称北の未亡人と呼ばれる恐ろしい女領主様ってわけだ。……まあ、俺たち泥水を啜る傭兵には、一生縁のない『雲の上の街』の話だけどな!」


 ザイドが笑い飛ばしてイチジクを放り込み、兵士たちが「いつかそんな街で腹いっぱい果実を食ってみたいもんだ」とため息をついていた。


 常に死と隣り合わせの乾ききった辺境で生きてきた民や兵士たちにとっては、それはこれまでの人生で味わったこともないような極上のご馳走であった。  

 胃袋が満たされれば、心に余裕が生まれ、戦うための強靭な肉体が作られる。  

 過酷な辺境の砦は、規律ある武力と、豊かな食の匂いが入り混じる、活気に満ちた軍事要塞へと、その姿を完全に変えていた。



 五十人の山賊をひれ伏させた広大な中庭は、今やカディルの厳しい号令が響く兵士たちの正規訓練場となっている。

「腕が下がっているぞ! 泥水を啜って生き延びたあの日の覚悟を忘れたか!」  


 カディルの熱のこもった指導の下、寄せ集めだった兵士たちは基礎的な剣術や陣形を叩き直され、軍隊としての規律を身につけつつあった。  

 ……しかし、その歩みは決して順風満帆ではなかった。


「やってられるかよッ!」  

 カチーン! と、一本の木剣が石畳に乱暴に投げ捨てられた。  

 息を切らし、泥だらけになった血の気の多い若い山賊兵士が、カディルを力強く睨みつけていた。


「なんだと?」  

 カディルの顔の火傷の痕が、険しく引き攣る。

「こんなお上品な騎士様の剣術なんて、実戦じゃクソの役にも立たねェって言ってんだよ! 俺たちは裏路地や荒野で、泥を投げつけてでも生き残ってきたんだ! こんな行儀のいい足捌きで、あの正規軍やバケモノどもに勝てるわけねェだろ!」  

 その言葉に、周囲の元山賊たちも「そうだそうだ」と不満げに同調し始める。  

 彼らは命懸けの喧嘩殺法で生きてきた野良犬だ。

 大帝国の王宮で洗練された『美しく誉れ高い剣術と陣形』など、彼らの肌には合わず、ただの窮屈な縛りにしか感じられなかったのだ。


「ええい、貴様らッ! 殿下の軍に加わった以上、大帝国の正統なる誇りを持てと言っているのだ! 規律なき軍など、ただの暴徒の烏合の衆――」  

 カディルが怒鳴りつけようとした、その瞬間。  

 ふと、彼の脳裏に、あの大河の砦での悲惨な光景がフラッシュバックした。  


 ――定石通りの美しい密集陣形を命じた結果、泥濘に足を取られ、無惨にすり潰されていった仲間たちの死体。  そして、ファリードが血を吐くような声で放った『誇りだけでは、誰も守れなかったじゃないか』という痛切な言葉。


(……そうだ。私の重んじる美しい王宮の型は、この過酷な辺境の泥沼では、彼らを死なせる足枷にしかならない)

 カディルは、振り上げていた拳をゆっくりと下ろした。  

 純血の騎士としての誇りと、彼らを死なせたくないという軍の指揮官としての葛藤。  

 カディルは深く息を吐き出すと、自らの手から木剣を放り捨てた。


「……ならば、お前たちのその『実戦』とやらで、丸腰の私を倒してみせろ」

「は……?」

「どんな汚い手を使っても構わん。目潰しでも、金的でも、泥を投げつけてもいい。私を地に這いつくばらせることができたら、お前たちのその喧嘩殺法を正しいと認めよう」  


 予想外の挑発に、若い山賊兵士の顔にカチンと血が昇った。

「言ってろ、このお高くとまった堅物騎士がァッ!」

 山賊兵士は落ちていた木剣を拾い上げるや否や、地面の砂を思い切り蹴り上げてカディルの視界を奪い、その隙に獣のように低い姿勢から足元を刈り取ろうと突進した。  

 騎士道など欠片もない、生き汚い完全な騙し討ち。  


 だが。  

 カディルは砂を被りながらも微動だにせず、突進してくる兵士の動きを冷徹に見切っていた。


「……甘い」  

 ガッ! と。

 カディルはあえて相手の木剣を己の腕の肉をかすらせて受け流し、その反動を利用して兵士の懐へ強引に滑り込んだ。

「なっ!?」  

 そのまま、兵士の胸ぐらと帯を掴み、大柄な身体を一本背負いのように宙に浮かせ、石畳へドスンッ!と容赦なく叩きつけたのだ。


「がはッ……!!」  

 肺の空気をすべて吐き出し、悶絶する山賊兵士。  

 カディルはその胸元にブーツを乗せ、静かに見下ろした。


「……見事な騙し討ちだ。その生き残ろうとする執念と泥臭さは、確かに戦場で己の命を救うだろう」 「だ、旦那……?」

「だが、それだけでは仲間は守れん。一人の喧嘩殺法には限界がある。……お前たちのその生き残る執念を連携に昇華させるためにこそ、この基礎の規律が必要なのだ」


 カディルはブーツを退け、泥だらけになって倒れる兵士へと、己の分厚く大きな手を差し伸べた。

「私が教えていたのは、ただの綺麗事だったかもしれん。……だが、お前たちを無駄死にさせないためだ。どうか、この不器用な男に、お前たちの命を預けてはくれないか」  


 大帝国のエリート騎士が、スラムの野良犬に頭を下げ、真摯に協力を求めたのだ。  

 そのあまりにも真っ直ぐで不器用な誠実さに、山賊兵士は呆然と目を見開き……やがて、バツが悪そうに顔を赤くして、その手を取った。


「……ちくしょう。あんたみたいなバカ真面目な旦那には、敵わねェや。……分かったよ、鬼教官」


 その日を境に。  

 カディルの指導は、王宮の美しい型から、マーシャの戦術や彼らの荒々しさを取り入れた強固な実戦的規律へと変化していった。  

 それは、彼の中で頑なに固まっていた純血の騎士の誇りが氷解し、彼ら多民族の寄せ集めをかけがえのない我が軍の家族として受け入れた、確かな価値観の変化であった。


「……へえ。あのお堅い旦那が、自分の型を崩すとはね」  

 砦のバルコニーからその光景を見下ろしていたマーシャが、干し肉をかじりながら感心したように鼻を鳴らす。

「カディルも、少しずつ変わっているんだ。……私たちと同じようにな」  

 隣に立つファリードは、泥だらけになって訓練に励む兵士たちと、彼らを導く忠臣の姿を、どこまでも温かく、誇らしげな金色の瞳で見守っていた。


 砦の広大な施設も、それぞれの特技に合わせて有効活用され始めていた。

 地下の武器庫と水路は、ザイド率いる密偵たちの秘密の通路として整備された。

 占領の夜にザイドとマーシャが空にした年代物のワインボトルは、今や中庭の片隅で、イブンが怪しげな薬草を干すためのただの重石として転がっている。

 そして、かつて異臭騒ぎのあった〈第三の扉〉の奥の部屋はイブンの専用医療室となり、日夜怪しげな薬草の紫色の煙が漏れ出している。


 だが、そこは単なる殺伐とした軍事要塞ではない。

 昼下がりの穏やかな中庭。訓練の合間に休憩する兵士たちの輪の中で、巨漢のタリクが分厚い手から無言で甘い干しリンゴを配り歩いている。

 若い兵士たちが「ありがとうございます、タリク殿!」と嬉しそうに受け取る光景は、戦場の殺伐さを忘れさせる平和な時間だった。

 夜になれば、山賊時代のむせ返るような安酒と悪臭は消え、代わりにタリクが仕込んだ獣の丸焼きの香ばしい匂いが漂う。


 「みんな、今日の訓練もご苦労だった。怪我はないか?」

 ファリードは王族の威厳を振りかざすことなく、気さくに兵士たちの輪に入って声をかけていた。

 彼が自ら泥にまみれて声をかけるその姿勢に、寄せ集めだった傭兵や部族の戦士たちの心は完全に一つにまとまりつつある。


 そんな昼下がりの穏やかな中庭。


 「お疲れ様。適度に休みながら頑張ってくれ。」

 ファリードが今日も気さくに声をかける中、ここ数日、一人だけ険しい顔で分厚い羊皮紙の帳簿と睨めっこをしている男がいた。カディルだ。

 生真面目な彼は、陣営の物資管理を一人で背負い込んでいたのだ。


 「……やはり、何度計算しても合わん!」

 突如、カディルが血相を変えて立ち上がり、長剣をガチャガチャと鳴らしながらファリードの元へ歩み寄ってきた。

 「殿下! 一大事です! 直ちに全兵士を広場に集め、荷物検査を行わせてください! 地下の備蓄庫から、物資がここ数日、少しずつ継続的に盗まれているのです!」


 寄せ集めの軍隊において、内部の窃盗は致命的な疑心暗鬼を生む。兵士たちが顔を見合わせ、不安げなざわめきが広がっていく。

「おいおい、お堅い旦那。証拠もねェのに身内を疑うのは感心しねェな」

 昼寝から起きたザイドが不満げに口を尖らせるが、カディルはギリッと奥歯を噛み締めた。

「鍵のかかった備蓄庫から物が消えているのだ! 規律を乱す者は厳罰に処さねばならん!」


 そこへ、木箱の上からマーシャがダボついた外套を翻して飛び降りた。

「……やれやれ、大声を出して疑心暗鬼を煽るな、カディル。軍が内側から腐るぞ。殿下、お前のその目で事実だけを観察してこい」

 ファリードは小さく頷き、地下の備蓄庫へと向かった。


* * *


 冷ややかな空気が漂う地下の備蓄庫。

「……消えたのは、一番奥の棚に置いてあった高級な干し肉、豆、それに上質な絹布の端切れです」

 カディルが苛立たしげに報告する。だが、棚の下段を調べていたザイドが首を傾げた。

「へへっ、随分と贅沢な泥棒だぜ。だがよォ……すぐ隣にある換金しやすい銀の食器や金貨の小袋には一切手がつけられてねェ。スラムの泥棒なら、真っ先にこっちを懐に入れるぜ」


「金目には目もくれず、食糧と柔らかい布だけを盗む……?」

 ファリードは違和感を覚え、松明を棚の奥へと近づけた。

「……カディル。この残された干し肉の袋、刃物で切られたのではなく、細かく引き千切られたような『齧り跡』があるぞ。それに床を見てくれ」

 ファリードが指差した石畳には、黒くて小さなフンが点々と落ちており、それが石壁の最下部――拳一つ分ほどの小さな隙間へと続いている。よく見れば、消えた絹布の糸くずがその隙間に引っかかっていた。


「……この隙間から、微かに湿った土の匂いがする。マーシャ、この砦は古い遺構だと言っていたな」

「ああ。地下には古い水路のネットワークが張り巡らされている。この隙間は、その水路と繋がっているんだろう」

 マーシャの言葉に、ファリードは安堵の笑みを浮かべた。

「カディル、陣営の中に泥棒はいないよ。これは、古い水路を通って入り込んだ『野生のオオネズミ』の仕業だ。冬に備えて食糧と巣作りの布を集めていたんだろう」


「ネ、ネズミだと……?」

 カディルが自身の早とちりに気づいて顔を真っ赤に染め上げ、ザイドが腹を抱えて大笑いした。


* * *


 その後、ザイドが仕掛けた罠によって見事に丸々と太った砂漠ネズミが捕獲され、砦の「消えた備蓄騒動」は笑い話として幕を閉じた。

 だが、捕まったネズミが入った籠を眺めながら、イブンが忌々しげに鼻をつまんでいた。


「ヒッヒッヒ……笑い事ではありませんぞ。ネズミは暗く湿った不衛生な通路を好みます。あのような外の汚れを纏った獣が備蓄庫に出入りし続ければ、いずれ我々の麦に致命的なカビや病気が蔓延し、陣営が全滅するところでしたな」


「……カビ、か」

 その言葉を聞いた瞬間、マーシャの黒曜石の瞳に冷徹な軍師の光が宿った。


(古い地下水路という人間の目につかない抜け道。そして、食糧庫に潜り込んでカビや病気を蔓延させるネズミの性質……)


 マーシャの唇が、獰猛に吊り上がる。

「……使えるな。これは最高の毒になる」

 この何気ない日常の小事件と愚痴から得た気づきが、やがて、難攻不落の大都市攻略という、致命的な計略へのインスピレーションへと繋がっていくのだった。

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