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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
三章

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18/42

部屋割り

 赤蠍の砦を占領し、歓喜の宴を終えた翌日の朝。

 彼らが直面した最初の重要課題は、広大な砦の部屋割りであった。


「うひょーっ! 見ろよこのデカいふかふかのベッド! 天蓋までついてやがるぜ!」


 砦の最上階、かつて山賊の首領が使っていたという一番見晴らしの良い豪奢な寝所。

 そこに一番乗りしたのは、スラム育ちの密偵ザイドだった。彼は泥だらけのブーツも脱がずに、絹のシーツが敷かれた巨大なベッドへダイブし、ボヨンボヨンと子供のようにはねて大はしゃぎしている。


「おい親父さん、生きてるか!? 俺、ついに城持ちになっちまったぜ!」

「ええい、下りろザイド! 泥でシーツが汚れるだろうがッ!」


 すぐさま怒声と共に飛び込んできたカディルが、ザイドの襟首を引っ掴んでベッドから乱暴に引きずり下ろした。


「ここは首領の部屋……つまり、この砦の新たな主となられたファリード殿下の御寝所だ! 貴様のような野良犬が気安く毛を落としていい場所ではないわ!」

「痛ェ! 固ェこと言うなよ旦那、ちょっと寝っ転がってみただけじゃねェか! あーあ、俺もいつかこんな部屋で美女を侍らせてェなぁ」


 ザイドがぼやきながら頭を掻いているところへ、当のファリードが階段を上ってきた。


「……随分と騒がしいな。ここが首領の部屋か」


 ファリードは室内を一瞥した。

 成金趣味丸出しの金糸の装飾、目に痛い真っ赤な絨毯、そして無駄に巨大な天蓋付きベッド。王宮で本物の最高級品を見て育ってきた彼の目には、どうにも悪趣味に映る。


「はい、殿下! 砦の中で最も安全で、見晴らしの良い部屋にございます。さあ、これまでの過酷な逃避行のお疲れを、この柔らかなベッドで存分に癒やしてください!」


 カディルが誇らしげに胸を張り、恭しく部屋の中へ案内しようとする。

 だが、ファリードはスッと視線を逸らし、ひどく疲れたようなため息をついた。


「……カディル。私は王宮の豪奢な生活を捨て、地に這いつくばってでも戦う覚悟でここに来たのだ。このような悪趣味な部屋でふんぞり返っていては、あのハディードで私欲を肥やしていた太守と同じになってしまう。私は兵と同じ、簡素な大部屋でいい」

「な、何を仰いますか殿下ァッ!!」


 カディルは顔の火傷の痕を赤くして、その場にガシャンと膝をついた。


「王たる方が、兵卒と同じ固い床で寝起きするなどあってはなりません! 御身に何かあればどうされるのですか! どうか、どうかこのカディルの顔に免じて、こちらの部屋をお使いください!」

「いや、絶対に嫌だ。落ち着かない」

「殿下ァァァーッ!」


 泣き落としにかかるカディルと、頑なに首を縦に振らないファリード。

 その面倒くさい押し問答を、通路の奥で壁によりかかって見ていたマーシャが、呆れたように鼻を鳴らした。


「……馬鹿馬鹿しい。どっちでもいいからさっさと決めろ。私はもう自分の部屋を決めて、荷物を置いたからな」

「なに? マーシャ、お前はどこにしたんだ?」


 ファリードがパッと顔を輝かせ、マーシャの元へ駆け寄る。

 マーシャが親指で指し示したのは、首領の部屋がある最上階からは離れた、奥まった通路の突き当たりにある日当たりの悪い小さな個室だった。


「窓が小さくて風通しも悪いが、外からの死角になってて一番暗殺されにくい構造だ。それに、端っこだから誰のイビキも聞こえなくて静かでいい」

「なるほど、実用的だな。……よし、決めた! 私はこの隣の部屋にする!」

「は?」

「で、殿下!?」


 マーシャが素頓狂な声を上げ、カディルが目玉を飛び出させる。

 ファリードは足早にマーシャの隣の簡素な小部屋の扉を開け、「うん、広さもちょうどいい。ここに私の荷物を運んでくれ」と満足げに頷いた。


「いけません殿下! そのような狭く薄暗い部屋など!」

「カディル。君は一番安全な場所がいいと言っただろう? ”悪魔の軍師”の隣ほど、この世界で安全な場所はないじゃないか」

「それは……っ、確かに軍師殿の罠と警戒網があれば鉄壁ですが……っ!」


 理詰め(とマーシャへの絶大な信頼)で反論され、カディルは言葉に詰まってしまった。


「おいヒヨッコ、冗談じゃないぞ。なんで私が夜番の護衛まで兼任させられなきゃならないんだ。隣でうるさくしたら寝首を掻くからな」

「君なら別に構わないさ。よろしく頼むよ、軍師殿」


 マーシャが嫌そうに顔をしかめるのを見て、ファリードは悪戯っぽく笑う。

 カディルはギリッと奥歯を噛み締めると、ものすごい勢いでファリードの部屋の、”反対側の隣室”の扉をバンッ!と開け放った。


「……ならば! 私がこの部屋を使わせていただきます! ザイド、貴様はその辺の通路にでも寝袋を敷いておけ!」

「はァ!? なんで俺だけ通路なんだよ! 俺だって個室が欲しいぜ!」

「不満があるなら外で寝ろ! 私は二十四時間体制で殿下をお守りせねばならんのだ!」


 カディルが血走った目でザイドを威嚇し、ザイドは「へいへい、過保護な親鳥には敵わねェや」と肩をすくめた。結局、逆らうことを諦めた彼はすごすごと階段の下にある物置部屋へ向かい、そこを自分の隠れ家に改造しようと埃を払い始めた。


 その哀愁漂う背中を見て。

 ファリードはあっけらかんとこう言い放ったのだ。


「待て、ザイド。君はそんな狭い物置を使わなくていい。……さっきの、一番広くて見晴らしの良い首領の部屋があっただろう? あそこはお前が使えばいい」

「……え?」

埃まみれのザイドが間抜けな声を上げ、カディルがギギギと錆びた機械のように首を回す。


「いつも危険な斥候で疲れているだろうから、そのふかふかのベッドでゆっくり休んでくれ」

「……で、殿下、マジっすか!?」

「で、殿下ァァァーッ!? なりませぬ、なりませぬぞ!! スラムの野良犬に城主の部屋を与えるなど、陣営の威厳が、秩序が崩壊しますゥゥッ!!」


 カディルが目玉を飛び出させて泡を吹く中、ザイドは数秒の硬直の後、「うおおおお殿下! 一生ついていきやすぜェェッ!!」と歓喜の雄叫びを上げ、物置部屋から飛び出して再び最上階の天蓋付きベッドへとダイブしていった。


「ヒッヒッヒ……騒がしいですな。では、私は地下に近いこちらの換気の良い部屋を。新しい毒草の調合には、少々強烈な臭いが伴いますゆえ……」

 カディルの絶叫が響き渡る中、いつの間にか現れたイブンが、地下へとつながる階段のすぐ横の、怪しげな部屋へと紫色の煙と共に消えていく。


 巨漢のタリクは、何も言わずにファリードたちの部屋へと続く階段の入り口に、ドカッと腰を下ろして大盾を置いた。どうやら、彼自身が物理的な『門』となるつもりのようだ。


「……やれやれ。これじゃあ、ゆっくり寝ることもできそうにないな」


 マーシャはため息をつきながらも、ドタバタと荷物を運び込む彼らの騒がしい声を、少しだけ心地よく感じていた。

 こうして、ファリード陣営の初めてできた自分たちの城は、それぞれの個性が爆発する賑やかな部屋割り騒動を経て、本格的に稼働し始めたのである。



 その日の深夜、新しい始まりで賑やかだった砦が寝静まり、夜風が冷え込み始めた深夜。  

 人気のない中庭から、ブンッ、ブンッ、と空を切る鈍い音が繰り返し響いていた。


 月明かりの下、汗だくになって木剣を振るい続けていたのは、ファリードだった。  

 王宮の騎士から型だけは教わっていたが、実戦を想定した何百回という素振りなど経験がない。彼の呼吸は荒く乱れ、無理な力が入りすぎた手からは木剣がすっぽ抜けて、乾いた土の上に転がり落ちた。


「……っ、痛……」  

 ファリードが小さく呻き、自身の両手を見つめる。  

 かつて王宮の書物だけをめくっていた白く滑らかだった手のひらは、不器用な摩擦によって無惨に皮がズル剥けになり、血が滲んで赤く染まっていた。

「……何をしてるんだ、こんな夜更けに。敵の夜襲かと警戒しただろうが」  

 暗がりから、呆れ果てたような声が降ってきた。  

 見張りのついでに通りかかったマーシャが、ダボついた外套を揺らしながら歩み寄ってくる。彼女はファリードの血だらけの手を見るなり、大げさにため息をついた。


「貸せ」  

 マーシャは有無を言わさずにファリードの手首を掴むと、腰の携帯水袋から水をかけて泥と血を洗い流し、清潔な布で手際よく、しかし少し乱暴にグルグルと巻いてやった。  

「痛ッ……マーシャ、もう少し優しく……」  

「自業自得だ。お前は私の描く盤面の上で、一番安全な本陣の奥に座って威厳を保っていればいい。王様は、最前線で剣なんか振らなくていいんだよ」

 マーシャが冷たくあしらって布の端をきつく結んだ、その時だった。  


 ファリードは、手当てをしてくれたマーシャのその手を、じっと見つめていた。  

 自分よりずっと小さくて華奢なのに、泥と血に塗れ、幾つもの刃傷が刻まれた、暗殺者と軍師のひどく冷たい手。この小さな手が、何百人もの命をすり潰す盤面を描き、自分のために血の業をすべて被ってくれているのだ。


 (……それにしても)  

 ファリードは、包帯を巻かれた自身の手と、マーシャの手をじっと見比べ、ふと微かな違和感を覚えた。   

 年齢は自分と同じか、少し年上の少年のように見えるが、男にしては骨格があまりにも華奢で、手が小さすぎるのではないだろうか。  

 過酷な傭兵稼業で粗末な食事しか摂れなかったせいだろうか。

 ファリードは、この謎に満ちた異邦の軍師のルーツを少しでも知りたいという衝動に駆られ、ふと口を開いた。


 「……マーシャというのは、異国の言葉でどういう意味なんだ?」

 唐突な問いに、マーシャは布をしまう手をピタリと止めた。  

 彼は一瞬だけ、ひどく遠い目をして自身の左手首に巻かれたボロボロのミサンガにそっと触れた。  

 だが、すぐにその瞳から感情のすべてを消し去り、氷のように冷たく言い放つ。


 「……ただの偽名だ」  

 「え?」  

 「本当の名前なんて、この泥沼には置いてない」

 それは、これ以上の干渉を絶対に許さないという強固な拒絶だった。  

 ファリードは息を呑んだ。

 彼が心の奥底に、絶対に誰にも触れさせない、鍵のかかった箱を持っていることを、静かに悟るしかなかったのだ。  

 自分が彼に守られている間は、きっとその箱を開ける権利など与えられないのだろう。


 「……そうか」  

 ファリードはそれ以上踏み込むことはせず、包帯を巻かれた自身の両手を強く握り込み、金色の瞳に真っ直ぐな熱を宿して彼を見上げた。  

「……私は、いつも君に泥を被せてばかりだ」

 少年は、痛む手のひらを自身の胸に強く押し当てた。  


 「私はもう、安全な背中に隠れるだけの王にはならない」

 一切の虚飾もない、純粋で重い決意。  


 ファリードは包帯を巻かれた自身の両手を強く握り込み、金色の瞳に真っ直ぐで、どこか狂気を孕んだ重い熱を宿してマーシャを見下ろした。

「君が私を玉座へ導くために血の泥濘を歩き、その手で何万の命をすり潰すというのなら。……君が被るすべての怨念と血の業を、私が王として、この両手で完全に引き受ける。そのために……絶対に、剣ダコを作ってみせる」  

 ただの好意などではなく。

 共に地獄へ堕ちる覚悟を決めた、ただ一人の共犯者への血みどろの誓いだった。  


 マーシャはターバンの奥で小さく息を呑み、その重すぎる覚悟に背筋が粟立つのを感じた。


「……気持ち悪いこと言うな、ヒヨッコ。私が勝手にやってることに、あんたが業を背負う必要なんてない」  

 マーシャが突き放すように背を向けたが、ファリードは「いいや、背負うさ」と誰にも聞こえない声で囁き、自らの血が滲む手を痛いほど強く握りしめた。  


 やがて気を取り直すように自身の両手を見つめると、包帯の巻かれた手で木剣を拾い上げ、再び静かに、そして力強く素振りを再開するのだった。


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