砦占領の宴
その日の夜。
占領したばかりの赤蠍の砦の広間は、むせ返るような熱気と安酒の匂いに包まれていた。
「へへっ、飲め飲めェ! 今日は俺たちの初勝利と、赤蠍の貯め込んだ極上の麦酒に乾杯だ!」
ザイドが樽の上に立ち上がって木杯を掲げると、生き残った三十人余りの兵士たちが、地鳴りのような歓声を上げて酒をあおった。
彼らにとって、三十対百五十という絶望的な戦力差を覆し、自分たちの血をほとんど流さずに無傷でこの堅牢な砦を手に入れたことは、シャジャルの奇跡に次ぐ、まさに奇跡だった。死線を超えた反動で、広間は狂騒に近いどんちゃん騒ぎとなっていた。
イブンが「飲みすぎて吐瀉物を喉に詰まらせて死ぬのはご免ですぞ」とぼやきながらも自身の杯を満たし、隣の兵と談笑し始めた。こう見えて、彼はかなりの下戸なのだ。巨漢のタリクは丸焼きにされた羊の脚を無言で豪快に齧り取っている。
だが、その喧騒の中心から少し離れた上座の席で。
ファリードは一人ぽつんと座り、手元の木杯を満たす白湯の微かな湯気を、焦点の合わない瞳で見つめていた。
広場を焦がす篝火の熱気も、勝利に沸いて樽の酒を煽る兵士たちの笑い声も、今の彼にはひどく遠い。代わりに耳の奥へねっとりとこびりついているのは、互いの腹を裂き合い、血の泡を吹いて倒れていった山賊たちの断末魔だった。
あの大河の砦で三千の軍勢を沈めた時は、ただ圧倒的な死の恐怖に追われ、息を吸うことだけで必死だった。他人の命の重さを実感する余裕など、微塵もなかった。
だが、今回は違う。
(……私が、描いた)
『腹心の部下を殺して、火種にしろ』。
自らの意志でその絵図を描き、実行を命じた。味方の血を一滴も流さず、最も確実にこの砦を落とすための、王としての最適解。
騙し討ちで味方に背中を刺された彼らの絶望。喉を食い破られながら仲間を呪った憎悪。彼らの帰りを待っていたかもしれない、顔も知らない家族たちの慟哭。
それら何百人分もの感情のうねりが、ファリードの皮膚から血管へと流れ込み、心臓を鷲掴みにしてギリギリと握り潰していく。
ふと、鼻腔を突いた宴の焼肉の香ばしさが、数時間前に嗅いだ血と汚物の死臭へとすり替わり、ファリードの胃の腑が激しくせり上がった。彼は堪えきれずに、口元を強く覆う。
足元には、山賊の物資の中から見つけた、自身の足に合う真新しい上質な革のブーツが光っている。だがそれは今、すり潰された彼らの無念そのものを吸い込んだように、鉛のように重く彼の足を縛り付けていた。
大義のために、私は彼らの人生を、その繋がりを、この手で完全に断ち切ったのだ。
木杯の縁をなぞる彼の白く滑らかな指先は、誰の目にも明らかなほど、制御不能な震えを繰り返していた。
「どうした殿下。勝利の美酒、じゃなくて白湯が不味いか?」
不意に、隣にドカッと腰を下ろす小柄な影があった。マーシャだ。
彼は自身の木杯を傾けながら、ターバンの奥の黒い瞳で、ファリードの震える指先を静かに見つめていた。
「……マーシャ」
ファリードは、絞り出すような声で吐露した。
「怖いんだ。……私の頭の中で描いた絵図が、現実に人の血を流し、肉塊に変えた。私は今日、王としてではなく、ただの卑劣な人殺しの怪物に成り下がってしまったのではないかと……」
ファリードの痛切な告白。
それを聞いたマーシャは、自身の左手首のミサンガを無意識に撫でた。
彼女の脳裏に蘇るのは、かつて日本の平和な部屋で陣形パズルを解いていた少女が、初めて異世界で「火計」を用いて味方ごと敵を焼き殺した日の記憶だ。
本の中の『敵を焼き払った』という一行の無機質な活字が、現実に人を黒焦げにして殺す行為に変わった時の、あの肌を焼く熱と、吐き気を催すほどの死臭。
「……当たり前だ」
マーシャは、あの日の自分自身に語りかけるように、低く、静かな声で紡いだ。
「頭の中の構想が、現実に他人の命をすり潰す行為に変わった瞬間。……それがどれほど臭くて、おぞましくて、吐き気がするものか。私も初めて知った時は、手足の震えが止まらなかったよ」
ファリードがハッとして顔を上げる。
人の命を駒としか見ない、得体の知れない悪魔。
他人の死など、盤上の駒が倒れた程度にしか語らないはずの男だ。
.....そのはずなのに。
他者の感情の機微に人一倍敏感なファリードは、その痛切な響きを聞き逃さなかった。
淡々と語る彼の、いつもは凪いでいるはずの黒曜石の瞳が、焚き火の炎を映して微かに、ひどく痛ましげに揺らいでいることを。
そして、自身の膝に置かれた彼の小さな手が、かつての己の震えを今なお必死に押さえ込もうとするかのように、関節が白く抜け落ちるほど強く握り込まれていることを。
(……ああ、そうか)
ファリードの胸の奥で、カチリと何かが噛み合った。
この恐ろしい悪魔の仮面の下で。
彼もまた、今の自分と全く同じように「他人の命をすり潰した業の重さ」に押し潰されそうになりながら、それでも必死に孤独な震えを隠し、血を吐くような思いでこの地獄を生き抜いてきたのだ。
自身の心が無惨に剥き出しになっていたからこそ、ファリードは、目の前の小柄な軍師が抱える”決して癒えない古傷”の痛みを、まるで自分の痛みのように正確に感じ取ってしまったのだ。
マーシャは、ファリードの震える手に、自身の傷だらけの小さな手をポンと重ねた。
「あんたは正常だ、殿下。その『他人の命をすり潰した業の重さ』にショックを受けられるうちは、あんたはまだただの人殺しの怪物にはなってない」
マーシャの瞳が、焚き火の光を受けて優しく、そして力強く輝く。
「その震えと罪悪感を忘れない限り。あんたはきっと、痛みの分かる立派な王様になれる。……だから、堂々と胸を張れ」
その言葉がファリードの鼓膜を打った瞬間。
彼の脳裏に、遠い日の王宮の温室で、泥だらけの大きな手で自身の髪を撫でてくれた、亡き兄の笑顔が鮮明に蘇った。
『お前は本当に泣き虫だな。だが、他者の痛みに涙を流せるその優しさは、いつか必ずお前の強さになる』
太陽のように完璧で、決して自分には手が届かないと絶望していた兄。
そして今、自身の目の前で他人の命を盤面ですり潰し、血の泥濘を歩む異邦の悪魔の軍師。
決して交わるはずのない光と闇の二人が。ファリードがずっと呪いのように抱え込み、戦場では不要だと忌み嫌っていた『己の弱さと優しさ』を、全く同じように力強く肯定してくれたのだ。
それは、同じ修羅の道を一足先に歩み始めた者からの、これ以上ないほど温かく、残酷な世界を生き抜くための救済の言葉だった。
重なっていたマーシャの手が離れると、不思議なことに、ファリードの指先の震えはピタリと治まっていた。
同時に、彼の言葉に魂を救われた安心感から、堪えていた涙が一筋だけ、ポロリとこぼれ落ちた。
「……マーシャ。君は、本当に不思議な人だ」
張り詰めていた糸がプツリと切れたように。
ファリードは慌てて目元の涙を拭うと、パッと花が咲いたような、年相応の無防備で柔らかい笑顔が広がった。重圧から解放された、どこか泣き笑いのような、十四歳の少年らしいあどけない表情だ。
そのあまりにも無防備な笑顔に、マーシャは一瞬だけターバンの奥で目を瞬かせたが、すぐに呆れたように鼻で笑った。
「なんだその顔。せっかくの王の威厳が台無しだぞ、殿下」
「なッ……!? ち、違う! これはただ、少し安堵しただけで……私は常に威厳に満ちている!」
からかわれたことに気づいたファリードは、ボンッと顔を赤く染め、慌てて咳払いをして背筋を伸ばした。
熱を持った耳を隠すように、大袈裟に外套を直して必死に取り繕うとする。 その不器用で可愛らしい姿に、マーシャは思わずフッと微かな笑みをこぼした。
「……さて。ちょっと血と酒の匂いに酔った。私は外の空気を吸ってくる」
マーシャは立ち上がり、ダボついた外套を翻して、広間の奥へと歩き去っていった。
ファリードは、まだ少し熱い頬を押さえながら、小さくも頼もしい彼の背中を、微かな熱を帯びた金色の瞳でじっと見つめていた。自身が王としての覚悟を決めるための、最も大切な支えをくれたその背中を。
「あーあ、それにしても残念だぜ」
マーシャが立ち去った後、ザイドが樽から飛び降り、肉を齧りながら口を尖らせた。
「これだけデカい山賊の砦なんだ。夜中に女の声も聞こえたし、近隣の村から攫ってきた、とびきりの美人の一人や二人くらい囲ってあるかと期待したのによォ」
「いなかったのか?」
近くの傭兵が尋ねると、ザイドは忌々しげに肩をすくめた。
「同士討ちが始まった混乱に乗じて、裏口からトンズラしやがったらしい。どこを探しても、転がってんのはむさ苦しいヒゲ面の死体ばっかりだぜ」
「下賤な。そのような目的で戦をしたわけではあるまい」
壁際で腕を組んでいたカディルが、顔の火傷の痕をしかめて冷たく吐き捨てたが、兵士たちは「旦那は堅物すぎるぜ!」とゲラゲラ笑い飛ばしている。
「全然関係ないが」
顔を赤くした傭兵の一人が、ふと思い出したように声を上げた。
「……そういや、あの『軍師の兄貴』の姿が見えねェな」
「あ? マーシャのことか?」
その名が出た瞬間、ファリードは木杯の縁をなぞっていた指をピタリと止めた。
「ああ。あの兄貴、いっつも顔に泥だの灰だの塗ってて、どんな顔立ちしてんのかよく見えねェよな。あの薄汚いターバンといい、男にしちゃあ俺たちの胸元くらいしかねェちっこい背丈といい……最初は本当に、あの『異邦の軍師』の噂が本物か疑ったぜ」
「違いねェ。ただの栄養失調のガキかと思ったよな」
「……だがよ」
傭兵が声を潜め、ブルリと身震いするように肩をすくめた。
「だが目だけは、ありゃあ本物だ。ターバンの奥から覗くあの真っ黒い目……いくつも死線を潜り抜けて、何十人も殺してきた奴特有の威圧感があった。俺ぁ、あいつの目に見据えられた時、蛇に睨まれた蛙みたいに足がすくんじまったよ」
「わかるぜ。現に今日、百人以上の山賊どもが、あの兄貴の描いた絵図の通りに自滅したんだ。……敵には回したくねェ恐ろしい悪魔だよ、まったく」
大人たちが畏怖と好奇の入り混じった声でヒソヒソと語り合う。
数時間前のファリードなら、彼らの言葉に無言で同意し、恐ろしい悪魔の軍師なのだと自身に言い聞かせていただろう。
だが、今のファリードは違う。
自身の右手にまだ微かに残る、マーシャのあの小さく傷だらけの手の感触。
あの冷徹な仮面の下で、彼がどれほどの痛みを隠して修羅の道を歩んできたのかを、先ほどの短い言葉から痛いほどに感じ取っていた。
「――彼を、悪魔と呼ぶな」
決して大きな声ではなかったが、広間の喧騒を一瞬にして縫い留めるような、鋭い怒りを孕んだ声。
ファリードは手元の木杯をドンと机に置き、ゆっくりと立ち上がった。
先ほどまで照れ隠しで顔を赤くしていた少年のあどけなさはなく、その双眸には、自らを救ってくれた大切な者を守り抜こうとする、確かな怒りと威厳が燃えていた。
まだ華奢な身体つきでありながらも、そこにはいつか軍を統べるであろう若き王の覇気が、確かに芽生え始めていた。
「彼は悪魔ではない。我々の命を死地から繋ぎ止め、勝利をもたらしてくれた、かけがえのない大恩人であり……我が軍の頭脳だ。次、彼を愚弄するような言葉を吐く者がいれば、この私が許さん」
その言葉に含まれた重みと本気の眼差しに、傭兵たちはサッと顔から血の気を引き、「も、申し訳ありません、殿下!」「決してそのようなつもりでは……!」と慌ててその場に跪いた。
その光景を見ていたカディルの隻眼が、驚きと、そして深い感嘆の色に見開かれる。
温室育ちで、剣を振るうことすら躊躇っていたひ弱な王子が。
自らの言葉と覇気だけで、血の気の多い荒くれ者たちの空気を完全に支配し、平伏させたのだ。
だが、カディルの胸の奥には、その成長への歓喜と共に、ひどく複雑で胃の痛くなるような感情も渦巻いていた。
殿下がそこまでして強く庇った相手は、大帝国の正統なる騎士ではない。
誇りも誉れも持たず、泥臭く悪辣な騙し討ちを平気で行う、素性も知れぬ異邦人の小童なのだ。
純血と騎士道を重んじるカディルにとって、清廉であるべき主君があの悪魔にこれほどまでに心酔し、毒されている現実は、未だに生理的な嫌悪感を伴うものであった。
だが、どれほど悪辣な手を使おうと、彼が自分たちを死地から救い、殿下に”王としての牙”を与えてくれたことは紛れもない真実なのだから。
カディルは己の内の複雑な葛藤を奥歯でグッと噛み殺した。そして、主君が選んだ業の道を共に背負い、その気高き成長だけを誇るように、深く、臣下としての最上級の礼をとって頭を下げた。
「……見事なご威光です、殿下」
カディルは深く頭を下げ、そして誇らしげに口を開いた。
「殿下、もしお疲れでなければ、今から私の部屋へお越しいただけますか。この砦の備蓄と、今後の防衛配置について、ご報告しておきたい儀がございます」
「ああ、行こう。私たちには、やるべきことが山ほどあるからな」
ファリードは広間の奥、マーシャが消えていった裏手、湧水池の方角をもう一度だけ振り返った。 少しだけ、彼とあの冷たい星空の下で言葉を交わしたいという衝動に駆られたが。
彼もまた、一人で背負った血の重さを消化する時間が必要なのだろうと思い直し、踵を返す。
(私はもう、震えない。君が作ってくれたこの盤面で、必ず王になってみせる)
ファリードは右手に残るマーシャの手のひらの微かな温もりを強く握り込み、カディルと共に砦の執務室へと力強い足取りで歩み出していった。
赤蠍の砦を占領し、陣営に束の間の平穏が訪れた深夜。
宴を抜け出したマーシャは砦の裏手にひっそりと湧き出る冷たい泉のほとりで、ダボついた男物の外套を脱ぎ捨てていた。
周囲に一切の気配がないことを確認し、侵入者用の仕掛けも施す。仕掛けが作動することを確かめた上で、彼女は胸をきつく締め上げていた分厚い麻のサラシを解いた。
解放されたとたん、窮屈な布に押し込められていた柔らかな双丘が、ふわりと本来の豊かな膨らみを取り戻す。
「……っ、ふぅ……」
大きく酸素を吸い込む。
思わずこぼれたその吐息は、普段の男勝りで掠れた声からは想像もつかないほど、涼やかで麗しい、本来の少女の響きを帯びていた。
水面に映る彼女の裸体は、小柄な体格に似合わず、女性らしい丸みを帯びた非常に豊満で艶やかなものだった。だが、その磁器のように滑らかな白い肌には、この過酷な世界を生き抜くために刻まれた無数の刃傷が刻み込まれている。
(……あと数日で、月の巡りが来るな)
マーシャは泉の水で身体の汚れを拭いながら、一人ひっそりと溜息をついた。
暗殺の下働きなどで自分自身で十分に日銭を稼げる彼女は、決して飢えてなどいない。
だからこそ、月に一度必ず訪れる女性特有の事情には、並々ならぬ神経を尖らせていた。
自分で稼いだ金でこっそりと清潔な布を買い集め、血の匂いを消すための強い香草を常に持ち歩いている。
男所帯の野営の中で、少しでも匂いや体調の変化を悟られれば命取りになるからだ。
普段は”戦闘で浴びた返り血の匂い”や”怪我”を装って誤魔化しているが、その苦労と精神的疲労は並大抵のものではない。
「ん、んっ……『おいザイド、誰に口を叩いてる』」
マーシャは喉の調子を確かめるように、意図的に喉の奥を押し潰し、いつもの掠れた低い少年の声色
を作る。
数年間喉を酷使し、慣れたとはいえ、油断すれば、本来の涼やかな声が出てしまう。この豊かな身体つきも、かつて師匠に神秘的だと評された異国の顔立ちも、今の彼女にとってはただの”呪い”でしかなかった。
だからこそ、何重にも巻いたサラシで胸を平坦に潰し、ブカブカの外套で体線を隠し、泥とターバンで顔を覆い隠しているのだ。
ザクッ、と。
遠くの渡り廊下で、警備の傭兵が歩く足音が微かに響いた。
その瞬間、マーシャの瞳から憂いの色が完全に消え去り、爬虫類のような冷徹な暗殺者の目へと戻る。
彼女は常人には信じられないほどの速さで再び胸にサラシをきつく巻きつけ、男物の外套を羽織ってターバンで首元を隠した。
数十秒後には、そこにはもう艶やかな女の姿はなく、ただの冷酷で薄汚れた異邦の軍師の姿だけが、闇の中に音もなく佇んでいた。




