占領
月が分厚い雲に隠れた、完全な闇夜。
ガレブ渓谷にそびえ立つ、赤蠍の砦の裏崖。
垂直に切り立った岩肌を、二つの小さな影が、まるで重力など存在しないかのように這い登っていた。マーシャとザイドだ。
ザイドが岩の隙間に指をねじ込み、音もなく身体を引き上げる。そのすぐ下を、マーシャが双短剣をピッケル代わりに岩肌へ突き立てながら続く。
吹き下ろす夜風が、眼下の渓谷から砂埃を巻き上げ、二人の顔を容赦なく叩く。 マーシャはターバンの奥で、数時間前の焚き火の前のやり取りを反芻していた。
『――ヒッヒッヒ。ならば、首領が副首領を暗殺しようとしているという偽の手紙でも忍ばせましょうかな』
作戦会議の折、イブンが怪しげな笑みと共に偽造文書の案を提案した。
だが、ファリードは首を横に振ってそれを却下した。
『手紙の偽造は悪手だ。彼らは教養のない山賊だぞ。文字など読まぬ者も多い。……違うか、ザイド?』
『へへっ、殿下の言う通りだ。あいつら剣の振り方は知ってても、自分の名前すら書けねェ馬鹿ばっかりだぜ』
ザイドの密偵としての肯定に、カディルが「なんと嘆かわしい……」と眉をひそめる。
『ならばどうする、殿下。彼らに「首領の裏切り」を確信させるには、何を見せればいい』
マーシャが試すように問うと、ファリードは焚き火の炎を見つめながら思考を巡らせた。
『……言葉や文字が通じない相手。彼らのような悪党が、無条件に信じるもの……』
『金、暴力、血の匂いだけだねぇ』
ザイドが横からニヤリと笑いながら口を挟む。
『金と、血……』
ファリードの金色の瞳が、ハッと見開かれた。
マーシャから教え込まれた盤面を操る思考が、ザイドの言葉をピースにして、頭の中でカチリと音を立てて残酷な絵図を組み上げ始める。
『そうだ。……ザイド、首領が肌身離さず持っている、象徴的な武器を盗み出せるか?』
『お安い御用だぜ。で、その武器をどうするんだ?』
ザイドの問いに、ファリードは一瞬、言葉を詰まらせた。
これから自分の口にしようとしている策の外道さに、不意に強烈な吐き気が込み上げてきたからだ。
自らの手を汚さず、敵同士に殺し合いをさせるためだけの冷酷な盤面配置。
王宮で亡き兄から教わった清廉な騎士道の教えと、マーシャから学んだ生き残るための理屈が、頭の中で激しく衝突し、ギリギリと嫌な軋み声を上げる。
(私が、関係のない人間の血を流すための絵図を描くのか……?)
自身の思考が、血に塗れた怪物へと変貌していくような悍ましさ。ファリードは自身の震えを必死に抑え込むように、膝の上で両手をギュッと強く握りしめた。
『……殿下?』
沈黙した彼を、マーシャが冷徹な黒曜石の瞳で見据える。
『盤面が視えたなら、口に出せ。誰の血を流せば、副首領の怒りは最も爆発する?』
マーシャの低い声に背中を押されるように、ファリードは震える唇をゆっくりと開いた。
『……マーシャ。副首領が最も信頼している腹心の部下を、その首領の武器で……殺して、ほしい』
その言葉を喉の奥から絞り出すのには、身を切られるような苦痛が伴っていた。
『そして、その現場に……首領の私物の金貨を転がしておくんだ。そうすれば、副首領は「首領が金で部下を買収して自分を暗殺しようとしたが、失敗して口封じに腹心を殺した」と錯覚する』
言い終えた瞬間、ファリードは自身の口から出た恐ろしい言葉に顔を青ざめさせ、ハッと息を呑んだ。
王宮で命の尊さを学んできたはずの自分が、たった今、味方同士を殺し合わせるために関係のない者の命を奪えと自ら命じたのだ。
そのあまりにも悪辣な提案に、陣営の大人たちは一瞬、言葉を失った。
『で、殿下!?』とカディルが目玉が飛び出そうなほど驚愕し、『あの清廉だった殿下のお口から、そのようなえげつない策が……っ』と頭を抱える。
逆に裏社会育ちのザイドやイブンは『ヒッヒッヒ、素晴らしい!』『最高にタチの悪い絵図だぜ!』と大盛り上がりだ。
マーシャは思わず口角を吊り上げ、自身の吐いた策の恐ろしさに震えそうになっているファリードの細い肩を、ポンと力強く叩いた。
『……悪くない作戦だ、殿下。満点だ』
その言葉に、ファリードはゆっくりと顔を上げた。
『私は……とんでもない怪物に成り下がってしまったのだろうか』
『いいや。ただの少年から、大帝国に君臨する”王”へと一歩近づいただけだ』
マーシャの言葉に、ファリードは複雑な表情を浮かべながらも、これからの修羅の道を歩む決意を固めるように、静かに頷いた。
王宮で綺麗な礼節だけを教えられてきたはずの美しい王子が、悪党の心理を完璧にトレースし、自ら血生臭い戦略を描き出した。
それは、マーシャの注ぎ込んだ悪魔の戦術の基礎が、少年の骨の髄まで回りきった証拠だった。
(……大した吸収力だ。あのヒヨッコめ、すぐに私より悪辣な手を思いつくようになるぞ)
マーシャは内心で悪態をつきながら、最後の一歩を踏み出し、砦の裏手にある物見櫓の死角へと滑り込んだ。
隣に音もなく着地したザイドが、ニヤリと白い歯を見せる。
「俺は首領の寝所へ行く。……しくじるなよ、兄貴」
「誰に口を叩いてる。さっさと『首領の牙』を抜いてこい」
短く囁き交わし、二つの影は砦の闇の中へと枝分かれした。
砦の内部は、饐えた安酒の匂いと、山賊たちの洗われていない体臭が籠ったようにに充満していた。あちこちから、下品な鼾や女の嬌声が漏れ聞こえてくる。
マーシャは姿勢を極限まで低くし、石壁の影と同化するようにして副首領の居住区画へと向かった。
通路の奥。
副首領の部屋の前には、筋骨隆々の巨漢が一人、大斧を抱えて見張りに立っていた。
あれが標的の副首領の腹心だ。
酒も飲まず、鋭い眼光で周囲を睨みつけている。
(正面からいけば手こずるな。だが……)
マーシャはターバンの端を口に咥え、呼吸の音すらも完全に遮断した。
そして、懐から小石を取り出すと、見張りの反対側にある廊下の樽に向かって、指先で正確に弾き飛ばした。
――コンッ。
「……ん? 誰だ、そこにいるのは」
微かな音に反応し、見張りの男が大斧を構えて一歩踏み出す。
その視線が樽に向いた、わずか一秒の死角。
天井の梁に張り付いていたマーシャが、まるで音の出ない羽虫のように、男の背後へと音もなく落下した。
男が気配に気づいて振り返ろうとした瞬間、マーシャの左腕が男の首に絡みつき、気管を強烈に締め上げる。
「がッ、――!?」
悲鳴を上げる隙すら与えない。
同時に、右手に握った双短剣の柄尻で、男の延髄を正確に打ち据える。
脳が揺れ、男の巨体が糸の切れた傀儡のように崩れ落ちそうになるのを、マーシャは自身の小柄な体全体を使って支え、一切の音を立てずに床へと寝かせた。
完璧な無音の制圧。
だが、まだ殺してはいない。
暗がりの中で数分待つと、廊下の向こうからザイドが猫のように滑り込んできた。
彼の手には、見事なルビーの装飾が施された、悪趣味な黄金の短剣が握られていた。
「へへっ、首領の寝首を掻く方が楽だったぜ。こいつが首領の愛用する〈黄金の牙〉だ」
「ご苦労。……さあ、仕上げだ」
マーシャはザイドから黄金の短剣を受け取ると、気絶している見張りの男の胸ぐらを掴み、その心臓の上へ刃先を当てた。
「怨みはないが、これも仕事だ。あの世で首領を呪いな」
ズプッ、と肉を裂くひどく湿った音。
男の体がビクンと一度だけ跳ね、そして完全に動かなくなった。黄金の短剣は、柄の装飾までしっかりと血に染まり、見張りの胸に深々と突き刺さったままだ。
さらにマーシャは、副首領の部屋の半開きの扉の隙間から、ザイドが別の部屋からくすねてきた「首領の私物の金貨袋」を、わざと中身がこぼれるようにして床へ転がした。
見張りの死体に突き刺さった、首領の愛用の短剣。
そして、副首領の部屋に転がる、首領の金貨。
夜明けに目を覚ました野心家の副首領がこれを見れば、間違いなくこう推測するはずだ。
『首領が金で俺の腹心を買収し、俺の寝首を掻こうとした。だが、腹心が直前で裏切りをためらい、口封じのために首領、またはその刺客に殺されたのだ』と。
「……見事な火種だ。殿下も、とんでもねェ絵図を描くようになりやがった」
ザイドが、血だまりを見下ろしながらブルリと身震いする。
「ああ。私たちに毒されたせいだな。責任を取って、最後まであのヒヨッコを王座に座らせてやらないとな」
マーシャは、男物の外套で自身の手に付着した血を無造作に拭い取った。
その黒曜石の瞳には、一切の罪悪感はない。盤面を動かすということは、こういうことだ。
だが、ザイドに背を向けて闇に溶け込んだ瞬間。
マーシャは自身の右手が、心臓の鼓動に合わせて微かに痙攣しているのを必死に押さえ込んだ。
(……狂ってる。)
この数年間、生き残るためならどんな泥でもすすってきた。
襲い来る敵の喉笛を掻き切ることに、躊躇いなどとうに捨てたはずだった。
だが、今はどうだ。
先ほど、気絶して何の抵抗もできない見張りの男の心臓に、ただの偽装工作のためだけに、私は息をするように平然と刃を突き立てた。
生き残るための必死の防衛本能でも、戦場での極限状態でもない。他人の命を、ただ盤面を動かすための作業として処理したのだ。
そして何より、王宮で綺麗な礼節だけを教えられてきたあの純粋な少年に、あんな血生臭い絵図を自ら描くように毒してしまったのは、紛れもなくこの自分だ。
ほんの数年前まで。
この手は、血塗られた双短剣ではなく、シャープペンシルを握ってノートに可愛い文字を書き、放課後に友人とスマホで写真を撮るためだけにあった、普通の女子中学生の手だったのだ。
虫一匹殺すのにも悲鳴を上げていたはずの自分が、今や他人の純粋さを平気で汚し、まだ温かい死体の心臓に無機質に刃を突き立てている。
血の感触がこびりついた指先を、マーシャは外套の布ごと強く握りしめた。
生き残るために被った悪魔の仮面が、少しずつ、確実に『ましろ』という少女の魂を侵食し、二度と元の平和な世界には戻れない化物へと自身を変えようとしている事実が、ひどく恐ろしかった。
「引き上げるぞ。夜明けと共に、この砦は内側から弾け飛ぶ」
二人は再び闇に溶け込み、音もなく崖を下っていった。
砦の奥から、数時間後に始まる血で血を洗う内乱の足音が、もうそこまで迫っていた。
*
夜明け。
ガレブ渓谷の切り立った赤岩が、朝日に照らされて血のような色に染まり始めた頃。
「ふざけるなァッ! 首領のクソ野郎、俺の寝首を掻こうってのか!!」
静寂を切り裂くような怒号が、崖上の砦から響き渡った。
副首領の絶叫だ。それを合図にしたかのように、砦の内部から金属がぶつかり合う凄惨な音と、怒りに満ちた怒号が次々と沸き起こる。
「やれ! 首領の息の根を止めろ!」
「裏切ったのは副首領の方だ! あの野郎を刻んで豚の餌にしろ!!」
崖の下、身を潜めていたファリード陣営の三十人は、頭上から降り注ぐ同士討ちの喧騒を無言で見上げていた。
マーシャの蒔いた、たった一つの火種が、百五十人の山賊たちを疑心暗鬼の狂気へと突き落とし、完全な殺し合いへと発展させたのだ。
「……始まったな」
マーシャがターバンの奥で低く呟く。
隣にしゃがみ込んでいるファリードの横顔は、ひどく蒼白だった。彼が自ら考案した〈悪党の心理を突く盤面〉が、今、現実の血と肉をすり潰している。その業の重さに、彼の細い肩が微かに震えていた。
「どうした、殿下。自分の描いた絵図の醜さに吐き気がしたか?」
マーシャが意地悪く問うと、ファリードは下唇を噛み締め、首を横に振った。
「いいや。……私が背負うべき、必要な血の匂いだ」
彼は剣の柄を握りしめ、前を見据える。
やがて、砦の正門から、血まみれになった山賊の数人が逃げ出そうと転がり出てきた。内部の混乱は頂点に達し、見張りすら機能していない。
「扉が開いたぞ。……カディル、タリク! 掃討しろ!」
「はッ!!」
ファリードの若く、しかし鋭い号令が飛ぶ。
先陣を切ったのは巨漢のタリクだった。同士討ちの狂乱から逃れようと半開きの城門から転がり出てきた山賊たちを巨大な盾で弾き飛ばし、そのままの勢いで重い木の扉を完全に押し開ける。
そして、彼は岩のようにそこに立ち塞がった。
自身の巨躯と分厚い大盾で城門の出口を塞ぎ、山賊たちの唯一の退路を容赦なく断ち切ったのだ。
「逃がさん。一人残らず刈り取れ!」
タリクが塞いだ門の横から、カディル率いる精鋭三十人が砦内へ雪崩れ込む。
カディルの長剣が、朝日を反射して冷たい銀閃を描いた。王室を護るために鍛え上げられた、淀みなく洗練された剣技。
彼が踏み込み、刃を翻すたびに、山賊たちの粗末な武器は易々と弾き飛ばされ、無駄な動きの一切ない一撃が確実に敵の急所を貫いていく。
顔に火傷の痕を持つ長身の忠臣は、返り血をほとんど浴びることなく、舞うように次々と敵を斬り伏せていった。
「ひ、ひぃぃッ! な、なんだこいつら……強すぎるッ!」
山賊の絶望的な悲鳴が上がる。
無理もない。
マーシャの蒔いた火種によって、彼らはつい先ほどまで味方同士で血みどろの殺し合いを演じていたのだ。
互いに傷を負い、疲労困憊して息も絶え絶えの山賊たちに、統率の取れた無傷の精鋭たちの突撃を防ぐ力など、もう一欠片も残されてはいなかった。
逃げようにも出口はタリクの巨壁に塞がれ、立ち向かおうにもカディルの洗練された刃にすり潰される。それは戦闘と呼ぶのもおこがましい、一方的な掃討劇だった。
わずか一時間後。 堅牢を誇った赤蠍の砦は、ファリード陣営の最初の拠点として、いとも容易く陥落したのだった。




