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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
三章

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15/42

悪辣な戦略

 マーシャは少し離れた岩に腰掛け、双短剣を手入れしながらその様子を眺めていた。

 (……過保護な連中だ。だが、この少年には、周囲の大人たちをそうやって必死に動かすだけの”何か”がある)

 殿下のすぐ側ではタリクがいつの間にか見つけてきたのか、怪我をした小鳥の治療をしていた。 巨体に似合わない繊細で優しい一面もあるのだなとしばらく彼を見つめていると。


「……いい身分だな、異邦人」  

 背後から、押し殺したような低い声が降ってきた。  


 振り返らずともわかる。長剣が鎧と擦れる規則正しい音、先ほどまで殿下の足の治療にあたっていたカディルだ。  

 彼はファリードがイブンの治療を受けて眠りに落ちたのを見計らい、マーシャの座る岩陰へと足音を殺して近づいてきたのだ。  

 マーシャは双短剣の刃を砥石で滑らせる手を止めず、顔だけを僅かに向けた。


「殿下が休んでいるんだ。少しは静かに歩いたらどうだ、旦那」

「貴様こそ、殿下への口の利き方に気をつけろ」  

 カディルの声は、渓谷の冷たい風よりもさらに冷え切っていた。


「殿下は……かつては木剣を落として泣きじゃくるような、心優しく清廉な方であった。亡き兄君の太陽のような光を浴びて、誰よりも気高くあられるべきお方なのだ。……それを貴様は!」  


 カディルはギリッと革手袋を軋ませた。

「貴様のその卑劣な悪魔のような戦術で、殿下の王族としての誇りを、これ以上穢すことは私が許さん。……あの方が自ら泥水を啜ろうとするのを黙って見ているのは、身を引き裂かれるよりも辛いのだ」


 ただの騎士としての怒りではない。親代わりとして殿下を愛するがゆえの、悲痛な叫び。  

 だが、その言葉に、マーシャはふっと短く鼻を鳴らした。


「……誇り、ね」  

 彼女は砥石を置き、ゆっくりと立ち上がってカディルと正面から向き合った。


「私には、あんたがただ〈過去の亡霊〉に怯えているようにしか見えないがな」

「……なんだと?」

 カディルの隻眼が鋭く細められ、周囲の空気が一気に張り詰めた。  

 だがマーシャは怯むことなく、カディルの左頬に痛々しく残る赤黒い火傷の痕を真っ直ぐに見据えた。


「その火傷の痕。ただの戦火で負った傷じゃないだろう」

「貴様ッ……!」

「誰かを……絶対に守らなければならない誰かを炎の中から庇い、そして結局、救えなかった時の傷だ。数ヶ月前に死んだっていう、あのヒヨッコの兄王子のことか?」


 図星を突かれたカディルの顔から、一瞬にして血の気が引いた。  

 次の瞬間、チャキッ、と鋭い金属音が鳴り、カディルが腰の長剣を半ばまで抜き放っていた。  明確な殺気が、剥き出しの刃となってマーシャの首筋に突きつけられる。


(……少し、踏み込みすぎたか)


 マーシャは腰の双短剣に手を伸ばすこともせず、ただ静かに、凪いだ黒曜石の瞳で長身の剣士を見上げた。  

 その瞳を見た瞬間。  

 カディルの殺気が、ふっと空中で霧散した。


 長剣の柄を握る彼の手が、微かに震え始める。彼は気づいたのだ。  

 自身を真っ直ぐに見上げるこの小柄な少年の瞳の奥に、自分と全く同じ暗い色が宿っていることに。


 自身の采配ミスで師匠ルスランを死なせてしまったマーシャの、決して消えることのないトラウマの色。

 守るべき者を、己の無力さで死なせた者だけが持つ、絶対に癒えることのない絶望と自責の目。


 「……安心しろ、カディル」  

 マーシャは低く、ひどく静かな声で紡いだ。


 「あんたの過去を暴き立てて、どうこうしようって気はない。ただ……『自分のせいで主君を死なせた』っていう絶望の目なら、私も嫌ってほどよく知っているというだけだ」  

 カディルは息を呑み、言葉を失ったままマーシャを見つめている。


「過保護になるのも無理はない。だが、綺麗な大義名分だけで、あの優しすぎるヒヨッコを修羅の玉座に座らせることはできない。……あの少年を今度こそ死なせたくないのは、私も同じだ」  

 マーシャが再び岩に腰掛け、双短剣の手入れに戻る。


「だから、責めを負う役目は私がすべて引き受けてやる。あんたは余計な口出しをせず、今まで通りあいつを守る立派な盾でいてやればいい」


 自身が地獄の業を背負ってでも、主君を玉座へ押し上げるという静かな覚悟に。  

 カディルは長剣を鞘に納め、柄からゆっくりと手を離した。  

 決して彼のやり方を認めたわけではない。だが、彼の瞳の奥にある痛みの深さと、自ら泥を被るというその執念に、不器用な騎士は言葉にならない畏怖を抱いていた。


「……貴様は、悪魔だ」

 絞り出すように、だが先ほどまでの憎悪とは違う、得体の知れない安堵と戦慄を込めてそう言い残し。  

 カディルは踵を返してファリードの傍へと戻っていった。  


 この荒野の片隅で、互いの胸の奥底にある”決して癒えない傷”の存在だけは、確かに共有されたのだった。



 夜。

 冷え込む岩陰で、わずかな枯れ木を集めた小さな焚き火がパチパチと爆ぜていた。  

 三十人の陣営では、過酷な熱砂の行軍を終えた兵士たちが泥のように眠りにつこうとしている。  

 カディルは陣営の外周で厳しい警戒に当たり、イブンは負傷兵の治療に駆け回り、巨漢のタリクは少し離れた場所で風除けの石を積む力仕事に汗を流していた。

 一段落したタリクは岩に腰を下ろし、腰の袋から一枚の古い血染めの布切れをそっと取り出した。ボロボロの部隊旗の切れ端。彼はそれを上等な絹でも扱うかのように、分厚く無骨な手で丁寧に砂埃を払い、自身の巨大な盾の裏側へと大切に結び直していた。


 一方ファリードは彼らの目を避けるように、「明日の陣形図を一人で確認したい」とカディルたちを遠ざけ、岩陰の死角に一人で座り込んでいた。  

 周囲に誰もいないことを確認し、ようやく重い白銀の甲冑を一人でこっそりと脱ぐ。  

 すると、白い肌着の肩口には、べっとりと赤黒い血が滲んでいた。華奢な身体に合わない兄の甲冑が、動くたびに肩の肉を容赦なく削っていたのだ。


 (……昼間、足の豆のことで皆に心配をかけてしまった。肩の傷まで知られれば、カディルは間違いなくこの甲冑を脱げと騒ぎ立てるだろう)  

 ファリードが痛みに顔を歪めながら、滲む血を布で隠そうとした、その時だった。


 「……チッ。見せろ、殿下」  

 暗がりから音もなく現れたマーシャが、ファリードの隣にドカッと腰を下ろした。  

 「マ、マーシャ!? なぜここに……カディルはどうした!」  

 「あの堅物なら、向こうで兵士の見張り方にケチをつけてるよ。あんたが痛みを隠して強がってることなんて、あの過保護な連中は誰も気づいちゃいないさ」


 マーシャは呆れ顔で言うと、イブンの荷物からくすねてきた傷薬の蓋をポンと開けた。  

 そして、血に張り付いたファリードの肌着を強引にめくる。

 そこには、痛々しく生々しい傷跡が刻まれていた。  


「痛ッ……!」  

 マーシャが容赦なく薬を塗り込むと、ファリードはビクッと身を震わせた。


「自業自得だ。そんな借り物、さっさと脱げ。痛いだけだろ」

 マーシャが呆れ顔で吐き捨てると、ファリードは痛みを堪えながらも、傍らに置かれた白銀の甲冑をじっと見つめた。

「……まだ、脱げない」

 金色の瞳に、静かな、けれど揺るぎない覚悟の炎が宿る。


「私が本当の王の器になるまでは……この痛みが私の戒めだ」

 兄の代わりに背負った命の重さと、自身の無力さを忘れないための、枷なのだ。マーシャは少しだけ目を細め、布をきつく、だが最後は少しだけ優しく巻いてやった。


「……勝手にしろ」

 手当てが終わると、限界まで疲れ果てていたファリードは、羊皮紙に炭で描かれた陣形図を握りしめたまま、こっくりこっくりとうたた寝を始めてしまった。焚き火の赤い光に照らされるその寝顔は、過酷な運命など知らない、あどけない少年のものだ。


 手当が終わったのち少し離れた場所で、マーシャは双短剣の刃を布で拭う手を止め、凪いだ黒曜石の瞳で静かに彼を見つめていた。

 ここ数日のファリードの変貌は、マーシャの目から見ても危ういものだった。

 大河の砦で己の無力さに絶望し、毒を仰ごうとしていた少年。

 それが今や、足の豆が潰れる激痛を隠して「これくらいで何が王か」と強がり、喉を枯らしてまで悪魔の所業とも云えるような騙し討ちの戦術を知りたがる。


(……こいつ、乾いたスポンジのように戦術を吸収しているが、そのうち心が壊れるんじゃないか)


 ターバンの奥で、マーシャはひっそりと独白した。

 彼は適応しているのではない。自身の無力さで仲間を死なせた絶望から逃れるために、無理をして、急いで大人の王になろうとしているのだ。

 その背伸びは、あまりにも危ういバランスの上に成り立っている。


 そして何より、生き残るためとはいえ、そんな血生臭い修羅の道を歩むように彼を”毒して”しまったのは、他ならぬ自分自身だ。


(私が、あの純粋だった少年を、私と同じ〈怪物〉に変えようとしている……)


 自分の手が他人の血で汚れることにはとうに慣れたはずだった。だが、彼の魂を泥で汚してしまったという得体の知れない罪悪感が、マーシャの胸の奥を冷たく締め付ける。

 だからこそ、彼が限界を迎えて完全に心をすり減らしてしまう前に、最速で玉座へ押し上げなければならない。


「……せいぜい、私が悪魔としてすべての業を被ってやるよ」


 パチパチと爆ぜる火の粉が、夜空に吸い込まれて消えていく。それは、彼らがこれから歩む修羅の道の、長く険しい闇を暗示しているようだった。


 ザクッ、と。暗闇の奥で、微かに砂利を踏む音がする。

「ん……っ」

 その気配に、ファリードがハッと肩を震わせて目を覚ました。彼は慌てて目元を擦ると、眠気を振り払うように両手で自身の頬を軽く叩き、一瞬にして王としての佇まいを戻した。


 渓谷の奥へ偵察に出ていたザイドが、砦の情報を持って、夜の闇に溶け込むようにして戻ってきたのだ。


 「殿下、マーシャの兄貴。良い獲物を見つけてきたぜ。ガレブ渓谷の入り口を牛耳る、『赤蠍あかさそり』って名の山賊団だ」


 ザイドは焚き火の前に座り込むと、木の枝で地面の土に簡易的な図面を描き始めた。


 「拠点は切り立った崖の上にある古い砦だ。正面からは道が一本しかねェ。見張りも強固で、俺たちの人数で力攻めすりゃ、蜂の巣になって終わりだろうな」

 「兵力は?」

 「ざっと百五十ってところだ。ここらじゃ一番の勢力で、たっぷりと貯め込んだ金と食糧、武器がある」


 百五十の山賊に対し、こちらは三十。正面からぶつかれば勝ち目はない。

 ファリードは焚き火の光に照らされた顔を引き締め、身を乗り出した。


 「夜襲はどうだ? 崖の裏側から少人数で忍び込み、城門を開ける」

 「素人の浅知恵だな」

 ファリードの年相応の提案を、マーシャは即座に切り捨てた。

 ファリードがビクッと肩をすくめる。


 「崖の裏側なんて、山賊からすれば一番警戒するポイントだ。見張りがいないわけがない。見つかればそこで作戦は破綻する。……ザイド、重要なのは敵の綻びだ。山賊団の内部はどうなってる?」

 「へへっ、さすが兄貴。実は今、赤蠍の内部はガタガタだ。最近奪った積荷の分配を巡って、保守的な首領と、血の気が多くて野心家の副首領が、今にも殺し合いそうなほど対立してるらしい」


 その報告を聞いた瞬間、マーシャの黒い瞳が獰猛に光った。


 「決まりだな。堅牢な砦を落とす最も簡単な方法は、外から壁を壊すことじゃない。中にいる連中に、自ら内側から扉を開けさせるんだ」


 マーシャの言葉に、ファリードの金色の瞳が大きく見開かれた。

 「……同士討ちを、誘うのか? あの時のように」

 「その通りだ。首領と副首領、どちらかの疑心暗鬼を刺激して、殺し合いの火種を投げ込んでやる。連中が内輪揉めで血を流し、砦の扉が開いた瞬間に、私たちが美味しいところだけを掻っ攫う」


 残酷なまでに合理的な戦略だ。

 カディルやタリクが息を呑む中、ファリードは恐怖するどころか、身を乗り出して地図を食い入るように見つめていた。行軍中にマーシャから教え込まれた戦術の知識が、実戦の盤面の上で猛烈な勢いで組み上がっていく。


 「なるほど……。ならば、標的は副首領だ。野心家であればあるほど、首領が自分を暗殺しようとしているという偽情報に食いつきやすい。……ザイド、副首領の性格や、彼が懇意にしている部下の情報は分かるか?」


 わずか数分前まで夜襲という単純な策しか思いつかなかった十四歳の少年が、マーシャの思考をトレースし、自ら具体的な盤面を動かし始めた。

 その吸収力の異常さに、マーシャは一瞬だけ目を細めた。


 「……へえ。悪くない着眼点だ、殿下」

 「本当か!?」


 マーシャに褒められたファリードは、パッと花が咲いたような、年相応の嬉しそうな笑顔を見せる。 だがすぐにハッとして咳払いをし、慌てて王族らしい威厳のある表情を取り繕うとする。 その背伸びをした不器用な仕草に、険しい顔をしていたカディルたちも、思わず毒気を抜かれたように微かな笑みをこぼした。


 だが、すぐにカディルは表情を引き締め、己の長剣の柄を固く握りしめた。

 純血の騎士の誇りとして、味方同士を殺し合わせるような下劣な騙し討ちは到底受け入れられるものではない。

 あのような異邦人の悪知恵に殿下が染まっていくことに、彼の胸の奥では未だに強い嫌悪と不満が渦巻いている。

 しかし、カディルはもう反論の声を上げることはしなかった。

 かつて「誇りだけでは誰も守れなかった」と血を吐くような覚悟を語った主君。


 その若き王が、自らの意志で手を泥に染め、覇道を歩むための牙を研ぐと決めたのであれば、臣下としてそれに逆らうことはできない。 決して彼らのやり方を認めたわけではない。

 だが、主君が地獄へ進むというのなら、己はただ黙ってその盾となり、共に血の道を歩むのみだ。


 カディルは痛切な忠義を示すように、深く、無言で首を垂れて主君の言葉を待った。


「よし。では、副首領に”首領の裏切り”を確信させるための、具体的な罠を張ろう」


 誰も反対する者のいない静寂の中、ファリードが力強く宣言する。

 焚き火の炎が、少年の金色の瞳の中で力強く揺らめいていた。

 過酷な辺境の夜。泥舟の仲間たちは、成長していく未完成の王を囲むように、密やかな軍議を続けるのだった

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