旅立ち
大河を離れ、北西の辺境「ガレブ渓谷」へと向かい始めて数日。
道程は、想像を絶する過酷さだった。
緑は次第に姿を消し、ひび割れた赤土と切り立った岩肌がどこまでも続く。日中は肌を刺すような熱風が砂埃を巻き上げ、吸い込むたびに喉の奥がジャリジャリと鳴った。
「……ねえ、マーシャ。先ほどの話だが、もし敵が〈鶴翼の陣〉で包囲してきた場合、中央突破を図るのが定石だと言ったな。だが、もし敵の中央が最も厚く布陣していたらどうする?」
照りつける白銀の太陽の下、ファリードは額の汗を拭おうともせず、隣を歩くマーシャに熱を帯びた声で問いかけた。
この十四歳の王子は、行軍中ずっと小柄な軍師の隣に陣取り、憑かれたように過去の戦史や戦術についての質問をぶつけてきている。
マーシャは、砂除けのターバンを目深に被り直し、答えた。
「定石にこだわるから殺されるんだ。中央が厚いなら、それは『突破してこい』という敵の罠だ。私なら、あえて全軍を二つに割って敵の左右の翼の端を食い破る。鶴は翼を折られれば飛べないからな」
「なるほど……!」
「勘違いするなよ、殿下。シャジャル大帝国を築き上げた歴代の将軍たちの兵法書は、極めて高度で洗練された素晴らしい戦術だ。平原で、互いに誇りを持って真っ向から大軍を激突させる盤面においては、間違いなく無敵だろう」
マーシャは手元の水袋を煽り、ファリードを横目で見た。
「だが、大帝国の美しい教科書には〈敵が誇りを持たない野盗だった場合〉や、〈天候と地形が最悪だった場合〉の実践的な対応策は載っていない。……殿下が数日前、あの『大河の砦』で敗北したのは、教科書が間違っていたからじゃない」
「えっ……」
「あんたは、戦場が底なしの泥濘であるという地形と天候を計算に入れず、平原でしか通用しない美しい密集陣形を、そのまま泥沼の戦場に敷いた。自分の知識の形式に溺れ、現実の状況を見通せていなかったから、足枷となって自滅したんだ」
その容赦のない、だが極めて論理的な敗因の分析に、ファリードは息を呑んだ。
自身の無能さの正体が、実戦における環境への適応力と応用力の欠如であったことを、ハッキリと突きつけられたのだ。
「では……お前が言っていた博望坡のように火計が使えぬ地形で、こちらが数で劣っている時はどう崩す? 我々が少数のまま、山岳地帯に追い詰められた時は――」
ファリードは落ち込むどころか、己の弱点を克服しようと、さらに前のめりになって次の戦術を渇望した。
そこへ、背後を歩いていた長身の剣士が、たまらずといった様子で口を挟んだ。
「殿下、この熱砂の中を歩きながら軍議など、お倒れになりますぞ! せめて私の馬にお乗りになって――」
「構わない、カディル。私は今、彼女の言葉の一つでも聞き逃したくないんだ」
カディルの過保護な忠言をピシャリと退け、ファリードは再びマーシャに答えを促す。
マーシャはダボついた外套の中で肩をすくめ、淡々と返した。
「簡単なことだ。敵の”目”と”耳”を騙して、幻影と戦わせればいい」
「幻影、だと?」
「馬の尻尾に木の枝を括り付けて走らせ、猛烈な土埃を上げて大軍が来たように錯覚させる。あるいは、夜通し少数の兵に陣太鼓を鳴らさせて夜襲を偽装し、敵を眠らせない。……兵の数が劣っているなら、敵の心理を削って疑心暗鬼に陥らせるんだ」
「へへっ、いい響きだねぇ。敵を騙してハッタリをかますなら、俺たちスラム育ちの得意分野だぜ」
列の横から、密偵のザイドがニヤリと悪党の笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「夜中に敵陣の周りで、派手に銅鑼でも叩いて一睡もできなくしてやろうか? それとも、幽霊の振りでもして脅かしてやるか?」
「ヒッヒッヒ、敵の心理を削るなら、私特製の”幻覚剤”がありますぞ。風上から怪しい煙でも流し込めば、夜の闇に怯えた敵兵は、味方を化け物だと錯覚して勝手に同士討ちを始めます」
イブンまでが怪しげな薬瓶を振りながら嬉々として乗っかってくる。
その下劣で卑怯な提案の数々を聞いていたカディルの顔の火傷の痕が、ついに怒りと屈辱で赤黒く沸騰した。
「ええい、貴様らッ! 殿下の御前でなんという恥知らずな!!」
カディルの怒声が、荒野の乾いた風を切り裂いた。
「夜討ちに騙し討ち、あまつさえ毒煙だと!? 大帝国シャジャルの誇り高き王室の軍を、ただの野盗やスラムのネズミの集まりにする気か!!」
カディルは、己の長剣の柄を握りしめ、憎悪を込めてザイドやイブン、そしてマーシャを睨みつけた。
純血を重んじる上位貴族であり、誰よりも気高く完璧な太陽であった第一王子シャムスの側近を務めていたカディルにとって、今のこの陣営の空気は耐え難いほどの苦痛だった。
スラムの密偵、得体の知れない毒物使い、そして騎士の誉れを鼻で笑う異邦の小童。
そんな下賎の者たちが、清廉であるべき主君の周りを取り囲み、あろうことか殿下が彼らの悪辣な策に目を輝かせて懐いているのだ。
(……シャムス殿下であれば、決してこのような泥臭い騙し討ちなど良しとされなかった。彼らが、純真な殿下を薄汚い泥で汚しているのだ……っ!)
「誇り高き大帝国の戦い方とは、正々堂々と正面から敵を打ち破るもの! 貴様らのような下賎な輩の悪知恵など――」
「……誇りだけでは、誰も守れなかったじゃないか、カディル」
激昂するカディルの言葉を遮ったのは、ファリードのひどく静かな、だが鉛のように重い声だった。
カディルはハッとして息を呑んだ。 振り返ったファリードの金色の瞳には、少年らしい好奇心など微塵もなかった。そこにあるのは、かつて自らの過ちで地獄を見た者だけが持つ、痛ましいほどの暗い絶望の影。
「殿、下……?」
「私はあの日、大河の砦へ逃げ込む際……王宮の歴史書で学んだ誇り高き陣形を命じた。……その結果、どうなったか覚えているな」
ファリードは、手綱を握る自身の手を、血が滲むほど強く握りしめた。
「泥濘に足を取られ、美しい陣形はただの的になった。……私を庇って倒れた若い兵士の血の温もりを、その重さを、私は一生忘れない」
王族の誇りや、騎士の定石。
温室で学んだそんな綺麗な”言葉”など、極限の戦場では何の役にも立たなかったのだ。
あの夜、自分に生き残る術を教えてくれたのは、カディルが重んじる騎士道ではなく、マーシャが放ったあの悪魔の戦術だけだった。
「私はもう二度と、私の誇りや見栄のために、誰の命も無駄にはしない。そのために必要ならば、私は喜んで野盗にでも悪魔にでもなろう。……お前たちのその知恵を、私に教えてくれ」
ファリードはカディルから視線を外し、再びマーシャやザイドたちへ向けて、真摯に、血を吐くような執念を込めて頭を下げた。
自身が生き残り、いずれ覇道を歩み、民を守る盾となるための『牙の研ぎ方』を、なりふり構わず学ぼうとする”真の王になろうとする姿”に。
「……っ」
カディルは、ギリッと奥歯を噛み砕かんばかりに軋ませ、返す言葉を完全に喪失した。
ファリードがそう言うのであれば、臣下として逆らうことはできない。
だが、あの清廉だった王子が、自ら泥水を啜り、異邦人やスラムの者たちの前で頭を下げる姿を見るのは、カディルにとって身を切られるような激しい痛みを伴っていた。
(殿下……。それではあまりにも、貴方様が背負うものが惨すぎます……)
カディルは己の無力さと、主君を泥から遠ざけることのできない不甲斐なさを呪い、ただ深く、深く首を垂れて沈黙するしかなかった。
苛立ち、不満、そして彼らを主君にこれ以上近づけたくないという嫉妬にも似た嫌悪感。
「私は、皆を生かすための正解を学びたい。……さあマーシャ! では、もしその幻影すら見破るような、冷静で強固な指揮官が相手だった場合はどうする!? 我々が少数のまま、山岳地帯に追い詰められた時は――」
前のめりになって次の戦術を渇望するファリード。
だが、彼の下を向いた視線は頭の中の陣形にばかり向いており、現実の足元が完全にお留守になっていた。
「……って、前を見て歩いてるのか殿下」
「え?」
マーシャが呆れたように視線を向けた瞬間。
ファリードが小さな石に足を取られ、大きく体勢を崩した。
ザッ、と砂埃が舞う。膝をつく寸前で、背後から伸びてきた分厚い手が、彼の細い腕をしっかりと掴み留めた。巨漢のタリクだ。
「……っ!」
ファリードは咄嗟に、自分を支えてくれたその岩のように太く頼もしいタリクの腕を、両手でギュッと強くしがみつくように抱きしめた。
王宮のかつてのしきたりであれば、臣下に自ら抱きつくなどあり得ない。
だが、熱砂の行軍で限界を迎えていた彼の身体は、本能的に安心できる大きな壁に縋り付いてしまったのだ。
「……す、すまない、タリク。少し、足がもつれただけだ」
ファリードはハッとしてタリクの腕から離れ、背筋を伸ばした。
だが、その声はひどく掠れ、白い頬は土埃にまみれて疲労で青ざめている。
慣れない荒野の行軍。
革靴のサイズが合っていないのか、彼の足取りは昨日から明らかに不自然だった。
踵の皮が破れ、血が滲んでいることは、少し観察すれば誰の目にも明らかだ。
「殿下! だからあれほど、私の馬にお乗りくださいと申し上げたのに……! 今すぐ野営の準備を――」
カディルが血相を変えて駆け寄り、ファリードを抱き抱えようとする。
だが、ファリードは下唇を痛いほど強く噛み締め、カディルの手をピシャリと払いのけた。
「案ずるな、カディル。これくらい……自らの足で歩けずして、何が王か。私は、平気だ」
強がって見せるその横顔は、誰がどう見ても無理をして大人ぶっている十四歳の子供そのものだった。重圧に押し潰されそうになりながらも、決して弱音を吐こうとしない。
タリクは悲しげに目を伏せ、イブンはやれやれと首を振り、カディルは忠誠と心配の板挟みになって奥歯を噛み締めている。
「……平気なわけないだろう。強がりは死を招くぞ」
列の横から、マーシャの冷ややかな声が飛んだ。
彼女はターバンの奥で目を細め、自身の持っていた水袋をファリードの胸元へ無造作に放り投げた。
「足の豆が潰れてるな。歩幅が極端に狭くなってる。あんたが倒れたら、この軍はそこで終わりなんだ。見栄を張る暇があるなら、自分の身体の管理くらいまともにやれ」
「ま、マーシャ……! 貴様、殿下に向かってその口の利き方は――」
「良い、カディル。彼の言う通りだ」
激昂するカディルを制し、ファリードは水袋を抱え込んだ。
土埃に汚れた手で顔を拭うと、その金色の瞳には、素直な反省の色が浮かんでいた。
「……私の管理不足だ。すまない。少し、休ませてくれ」
ファリードが岩陰に腰を下ろすと、陣営の大人たちが音もなく動いた。
イブンがすぐさまファリードの靴を脱がせ、潰れた足の豆に薬草をすり込む。
「……痛ッ……っ」
薬草の鋭い痛みに、ファリードはビクッと身体を震わせた。
そして、痛みを堪えるように、すぐ隣で心配そうに付き添っていたカディルのマントの裾を、小さな子供のようにきゅっと力強く握りしめる。
「で、殿下! 痛むのですね!? どうか私の手をお握りください、骨が砕けるほど強く握り潰してくださって構いませんぞ!」
「……いや、カディルの手を握り潰したら、誰が剣を振るうんだ……これでいい」
ファリードは額に汗を浮かべながらも、カディルのマントの裾を握ったまま、フッと弱々しくも安心したような笑みをこぼした。




