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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
三章

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13/42

ガレブ峡谷

 「……ッ! ちょっとイブン、わざと強く塗ってないか!?」

 「軍師殿には痛覚などないかと思っておりましたが、いっちょ前に態度には出るんですな。ほれ、動くな。傷口が腐って蛆が湧いても知りませんぞ」


 スープを食した後、部屋の中心にある木机では、マーシャが背中を丸め、肩甲骨のあたりに受けた浅い槍傷に、イブンから強烈な匂いを放つ軟膏を塗り込まれていた。消毒の痛みにギリリと奥歯を噛み締めながらも、彼女の左手は器用に硬いパンを千切り、次々と口の中へ放り込んでいる。


 「で? 命拾いした殿下は、これからどうするおつもりで?」


 口の中のパンを水で流し込みながら、マーシャは視線だけを机の向かい側へと向けた。

 そこには、昨夜まで自身を圧し潰していた銀の甲冑を一旦傍らに置き、簡素な革鎧だけを身につけたファリードが座っている。

 彼は、机に広げられた帝国全土の羊皮紙の地図を、瞬きも忘れたかのように見つめていた。


 「王都へ進軍するなんて、馬鹿な夢物語は言わない。私たちが昨日倒したのは、敵のほんの一部。今、この三十人の兵で王都へ向かえば、すり潰されて終わりだ。……それとも、このままこの砦を墓所にするか?」


 マーシャの意地悪な問いかけに、ファリードはゆっくりと顔を上げた。

 金色の瞳に昨日の怯えはなく、代わりに宿っているのは、子どもながらにも静かに燃えている理知的な光だった。


「王都へは行かない。……いや、行けない」

「ほう。温室育ちのお坊ちゃんが、大層な口を利くじゃないか」

 マーシャの軽い挑発に、ファリードは反論せず、ただ石机の上の大陸地図を見下ろした。玉座を奪還するための手札――兵力、資金、兵站。そのどれもが決定的に不足している。


「……今、王都を攻めるのは自殺行為だ。この大陸の”血流”が止まっている現状では」

「血流ね」

マーシャが促すように視線を向けると、ファリードは白く細い指で地図の東側をトントンと叩いた。

「シャジャルには麦が腐るほどあるが、鉄も軍馬も出ない。西の連中は鉄の武器を抱えながら腹を空かせ、北の騎馬民族は馬の横で飢えている。……父上は、その三つの偏りを交易で循環させていた。それが大陸の血流だ」


 地図の上を滑っていた指が、王都の位置で止まる。ファリードは喉の奥で、微かに息を詰まらせた。


「叔父上はそれを止めた。純血だ何だと他民族を弾圧し、関税で交易の首を完全に絞め上げた」

「……なるほど。血が巡らなくなれば、末端から腐り落ちる」

「あるいは、暴走する。十字軍は麦を求めて狂信の波を起こし、騎馬民族は暴れ出すだろう。……玉座を取り戻す前に、大陸全土が戦火に焼かれる」

 伏せられたファリードの睫毛が、僅かに震えていた。

 ファリードは地図から視線を上げ、自身の無力な両手を見つめた。


「十字軍、騎馬民族、そして未だ無尽蔵の武力を誇るマレクの正規軍。そんな覇権を争う強大な国々の前に、今、たった三十人の我々が姿を現せばどうなる? 虫けらのように、一瞬ですり潰されるだけだ」

「その通りだ」

 

 マーシャはターバンの奥で、獰猛に唇を吊り上げた。

「幸い、昨夜の同士討ちの混乱のおかげで、世間では『第二王子ファリードは死んだ』と思われている可能性が高い。ならば、死人のまま身を潜めて力を蓄えるのが一番だ。……で? どこへ向かう気だ、殿下」


 ファリードは白金色の髪を無造作に掻き上げ、地図の一点を白く細い指でバーン!と力強く叩いた。


 「私たちが次に向かうのは、ここだ!」  

 静かな、だが確かな覇気を帯びた宣言。    


 朝の日光が差し込む中、静かだが確かな覇気を帯びた声が落ちる。全員の視線が、大河シャジャルを遡った先へと集まった。


 ……のだが。

 マーシャは半眼になり、ターバンの奥からひどく冷ややかな声を投げた。


 「……殿下。あんたが今、自信満々に叩いたのは、帝国北西のガレブ渓谷じゃなくて、その手前にあるただの干上がった塩湖だ。……塩の結晶に忠誠でも誓わせる気か?」

 「えっ!?」  

 ファリードの顔から、先ほどの威厳が一瞬にして消え去った。  

 彼は慌てて手元の地図を覗き込む。確かに彼の白い指先は、目的地の渓谷から数センチほどズレた、何もない不毛な湖のマークを力強く指し示していたのだ。

 「あ、ちが……っ! こ、これは、この地図が古くて文字が掠れていて……っ!」  

 ファリードは耳の先まで真っ赤に染め上げ、裏返った声で必死に取り繕い始めた。


 「軍師殿!  殿下をからかうな! 先ほどから話を聞いていれば、貴様の数々の殿下への無礼..... これ以上看過できんっ.....!!」  

 すかさずカディルが血相を変えて立ち上がり、過保護な親鳥のようにファリードを庇う。

 「そして、このような古く不正確な地図を用意したザイド、お前も同罪だ! 殿下の御眼を惑わせおって!」

 「はァ!? なんで俺のせいになってんだよ旦那! 無理言うなよ!」  

 理不尽なとばっちりを受けたザイドが抗議し、イブンはすり鉢を抱えながら「ヒッヒッヒ、殿下はまだまだ可愛らしいですな」と肩を揺らして笑っている。  


 顔から火が出そうになっているファリードの前に、巨漢のタリクが無言で、一番具の多い温かいスープの二杯目の椀をコトリと置いた。

 「……っ、ありがとう、タリク……」

 ファリードは消え入るような声で礼を言い、逃げるように両手で椀を抱え込み、その湯気の中に顔を半分うずめた。

 その、あまりにも不器用で必死な隠れ方に、マーシャは「やれやれ」と呆れたように息を吐きながらも、自身の指先で、正しい”ガレブ渓谷”の位置をトントンと叩き直してやった。


 「まあ、方針としては悪くない」  

 マーシャの言葉に、ファリードがスープの椀の縁から、そっと金色の瞳を覗かせる。


「帝国の威光が届かず、複数の異民族や独立都市が割拠する辺境。……そこを私たちの最初の領地とし、いずれ王都を包囲するための巨大な”私軍”を創り上げる。そういうことだな?」


 マーシャが彼の意図を汲み取って完璧に言い換えてやると、ファリードはコクリと力強く頷き、再び王として真剣な眼差しを取り戻した。

「ああ。強大な国々には今は勝てない。だからこそ、マレクが見捨てている辺境へ向かい、そこに割拠する賊や異民族を平定し、我々の軍に吸収していくのだ」

 その言葉が落ちた瞬間。


「な、ななな……なんとおぞましい……ッ!!」  


 傍らで聞いていたカディルが、目玉が飛び出そうなほど驚愕し、激しく首を横に振った。大帝国の中枢で、誇り高き純血の近衛騎士として生きてきた彼の価値観が、悲鳴を上げていた。


「辺境の蛮族どもを仲間にするだと!? そのような教養もない野盗や異民族の寄せ集めを、大帝国の正統なる王の軍とするなど、騎士の誇りにかけて断じて受け入れられませんぞ! 奴らは帝国の法も知らぬ獣です、そのような下賤な輩に殿下の背中を預けるなど、正気の沙汰ではない!」


「誇りだけでは、兵士たちを食わせてはいけない。地面に這ってでも、私は勝つための盤面を作る」


 カディルの激しい苦言を、ファリードは真っ向から、そして柔らかく受け止めた。  

 王道の誇りではなく、戦争の泥臭い本質をはっきりと口にした若き王。  

 その視線が、最後にマーシャへと向けられる。


「マーシャ。私に、君のその頭脳を貸してくれ。辺境を平定し、私が王座を取り戻した暁には……君の望むもの、すべてを約束しよう」


 マーシャは、自身の左手首に巻かれたミサンガを親指でそっと撫でた。  

 日本へ帰るための、国家規模の捜索網と、見たこともない莫大な金貨。  

 彼女は唇の端を吊り上げ、痛む背中を庇いながらゆっくりと立ち上がった。


「言ったはずだ、殿下。私の指示には絶対に従え、と。……辺境の賊どもを狩り尽くして、あんたの最強の手駒に変えてやるよ」


 淀んだ泥舟は、いまや沈むことをやめ、明確な目的を持った一隻の軍船へとその姿を変えた。  

 向かう先は、力のみが支配する帝国の最果て。美貌の王子と異邦の軍師による、血に塗れた国盗り物語が、いよいよ本格的に幕を開ける。


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