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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
三章

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12/42

新しい朝

 ――そして現在。

 運命と巡り合った少年と共に、彼女は最初の死線を越えた。


 冷たい石壁の感触と、肩甲骨のあたりを焼くような槍傷の鈍痛で、マーシャはふと浅い眠りから目を覚ました。

 ターバンの奥でゆっくりと黒曜石の瞳を開く。視界に入ってきたのは、ひび割れた天井と、床で泥のように眠る傭兵たちの姿だ。


 自身の左手首に無意識に触れると、擦り切れたミサンガの感触が確かにそこにあった。血と泥にまみれた凄惨な過去の夢が、窓から差し込む朝日と共に脳の奥底へと沈んでいく。

 マーシャはゆっくりと上体を起こし、腰に帯びた師匠の形見である〈双短剣〉の冷たい柄を、右手でそっと撫でた。


  刃こぼれはないか、いつでも抜き放てる定位置にあるか。

 目覚めた時に必ず己の生存の証を確かめるのが、この世界で染み付いた彼女の絶対のルーティーンだった。 鉄の感触に触れ、完全に意識が覚醒する。

 ここは採石場でも、師匠が死んだ絶望の谷底でもない。


 昨夜自身が盤面を描き、三千の軍勢を泥濘に沈めて生き残った「白き砦」の内部だった。

 半年間、「他人の命など二度と背負わない」と心を凍らせていた彼女が、あの金色の瞳をした少年の泥臭い生への渇望に当てられ、再び他人の命を天秤に乗せてしまった、恐ろしい一夜。


 (また私の采配ミスで、誰かの背中を死なせてしまうのではないか)

 過去のトラウマがもたらす吐き気と戦いながら、昨夜は無慈悲な戦法を実行した。


 だが今、静まり返った広間から聞こえてくるのは、カディルやザイド、タリク、そしてあの無力だった王子ファリードの、規則正しく確かな生きた寝息だった。

 自身の描いた盤面で、誰一人欠けることなく、彼らは朝を迎えたのだ。

 マーシャは短く息を吐き、ズキズキと痛む背中を庇いながら、男物のダボついた外套を羽織り直してゆっくりと立ち上がった。



 大河からの湿った風が、砦の石壁にこびりついた血の匂いを薄めていく。  

 死体漁りをして勝利の恩恵を得た翌朝。


 砦の広間では、火にかけられた大鍋から、かろうじて肉の匂いが漂っていた。敵の陣営から奪い取った干し肉と豆のごった煮だ。  

 床で雑魚寝していた傭兵たちが、スープの匂いにつられて次々と起き上がり始めていた。

 広間の隅ではザイドが「……へへっ。南の重装歩兵ども、泥に沈んだせいであまり金目のものは残ってなかったが、北の騎馬隊の天幕からは上等な銀貨がしこたま出たぜ」と泥を拭い取った銀貨を天高く弾き飛ばし、チャリンと小気味よい音を立てて手のひらで受け止めている。


 その隣では、カディルが露骨に眉間を寄せ、自身の脛当てにこびりついた泥を、神経質なほど念入りに布で削り落としながらザイドに噛み付く。

 「盗賊の真似事か。シャジャルの正規軍から武具を剥ぎ取るなど、本来であれば死罪に値する恥知らずな行為だぞ」

「お堅いねぇ、旦那。死体は金を使えねェんだ。生き残った俺たちが有効活用してやるのが供養ってモンだろ?」


 「……んん。おはよう、みんな……」

 その時広間の奥、簡素な寝室として使っていた部屋から、ファリードが目をこすりながら姿を現した。  

 まだ声変わりしきっていない、少し掠れた涼やかな声。

 ファリードの挨拶に、すっかりくつろいでいた兵士たちも慌てて飛び起きて姿勢を正す。


 昨夜、死の恐怖に震えながら三千の命を泥に沈める悪魔的な決断を下したとは思えないほど、その顔は年相応の十四歳の少年らしく、あどけなく無防備だった。


 「おお、殿下! お目覚めになられましたか! お加減はいかがですか!?」  

 誰よりも早く反応したカディルが、拭いていた脛当てを放り出して駆け寄り、過保護なほどにファリードの全身を改めた。

 「大丈夫だ、カディル。……少し、背中が痛いが」  

 ファリードがフワリと欠伸交じりに微笑むと、巨漢のタリクまでが目元を少し和らげ、無言で一番具の多い温かいスープの椀を彼に差し出した。


 マーシャは壁に寄りかかりながら、その微笑ましい光景を鼻で笑った。

 「王族らしい優雅な寝起きだな、殿下。昨夜の血生臭い戦場が嘘みたいだ」

 「マ、マーシャ……っ。い、いや、これはただの寝惚けで……」  


 ファリードは慌てて緩んでいた頬を引き締めると、無理に低い声を作って威厳を示そうと背筋をピンと伸ばした。

 その背伸びをした姿に、ザイドが「へへっ、殿下もまだまだ子どもだねぇ」と笑い声を上げた。

 だが、カディルの顔つきは一瞬にして厳格な騎士のそれへと戻った。  


 彼はファリードの傍らから立ち上がると、マーシャの目の前まで歩み寄り、真っ直ぐにその黒曜石の瞳を見据える。


 「異邦の軍師、マーシャよ」  

 カディルは、己の長剣の柄に手をかけたまま、深く、静かに頭を下げた。


 「昨夜の貴様の絵図、そして我らを死地から救い出した手腕。……見事と言う他ない。騎士の誇りなどと抜かし、貴様の采配を見くびっていた私の非だ。謝罪しよう」

 「……ほう。お堅い騎士様が、泥臭い騙し討ちを褒めてくれるとはな」

 「勘違いするな」  


 カディルが頭を上げ、顔の火傷の痕を引き締めて隻眼を鋭く細めた。


 「貴様のその悪魔的な頭脳は、我々にとって最強の盾であり、矛となるだろう。貴様の実力は完全に認める。……だが、同時に最も恐るべき劇物だ。もし貴様がその悪辣な牙を、少しでも殿下に向けるようなことがあれば……その時は、私がこの剣で即座に貴様の首を刎ねる。それだけは、忘れるな」


 それは、マーシャの実力を怪物として完全に認めたからこその、忠臣としての絶対的な警告だった。   

 マーシャは腰の双短剣の柄を指先でなぞりながら、ターバンの奥で獰猛な笑みを返した。


 「安心しろ、堅物の旦那。私にとってあのヒヨッコは、私の目的を叶えるための、一番大事な金蔓だ。……せいぜい、私が玉座に座らせてやるまで、その剣でしっかり守り抜いてみせな」

 「……言われずとも」  


 カディルとマーシャの間に、バチバチと火花が散るような、だが確実に昨夜までとは違う「実力を認め合ったものの、互いに相容れない者同士」の奇妙な関係が結ばれた瞬間だった。


 「まあまあ! 旦那も兄貴も、朝から物騒な話はやめようぜ!」  

 ザイドがニカッと笑いながら割って入り、イブンが「ヒッヒッヒ、まだ治療もしていないのに傷が開いても知りませんぞ」とからかう。  

 そして、ファリードが少し恥ずかしそうに、だが確かな決意を込めた金色の瞳でマーシャを見つめた。  


 「マーシャ。……改めて、昨日私を救ってくれたこと、礼を言う。これからも、私の軍師として……共に来てくれないか」


 差し出された少年の手。  

 マーシャは少しだけ呆れたように息を吐くと、その手をパチンと軽く叩いた。


 「……私の指示には絶対に従え。分かったな、殿下」

 淀んだ泥舟だった彼らが、明確な一つの陣営として機能し始めた、最初の朝。  


 大鍋をかき混ぜていた巨漢のタリクが、無言で一番具の多い木椀をカディルに差し出し、 「食わねば戦えん」という無言の圧に、カディルは渋々といった様子で舌打ちをし、椀を受け取る様子を見て。

 マーシャは、タリクから無言で渡された熱いスープの椀を受け取り、その塩気と豆の味を噛み締めながら、(……悪くない朝だ)と、小さく口角を上げるのだった。


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