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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
二章

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11/42

過去五

 それから、約二年。

 私たち二人の傭兵稼業は、明らかに毛色が変わっていった。


 ルスランの剛剣と、私の盤面を支配する戦術。

 ある時は、カルタゴの雷光ハンニバルがカンナエの戦いで用いた「包囲殲滅陣」をこの地で再現し、圧倒的多数の山賊をすり鉢状の盆地に誘い込んで一方的に矢の雨を降らせた。

 またある時は、孫子の『兵は詭道なり』を実践し、夜間に自陣の篝火の数をわざと減らして撤退を偽装し、功を焦って追撃してきた正規軍を罠に嵌めて壊滅させた。


 私の戦術には、武人の誇りも騎士の誉れもない。あるのは最小の被害で、敵の生存確率をゼロにするという計算だけだ。


 いつしか、傭兵たちの間で奇妙な噂が広まり始めた。

 『隻眼のルスランの後ろには、常に薄汚れたターバンを巻いた小柄な男がいる。そいつが地面に木の枝で線を引けば、どれほど劣勢な戦況でも必ず敵の急所に刃が届く』と。

 やがて、各地の傭兵隊長や地方領主たちは、ルスランの剣腕以上に、私の〈脳〉に金貨の袋を積むようになっていた。


 「……恐ろしい奴だ。お前の頭の中には、何千匹の悪魔が住み着いているんだ」


 夜の野営地。パチパチと爆ぜる焚き火の音と、炙った干し肉の脂の匂い。

 私が羊皮紙に炭で描いた明日の陣形図を見て、ルスランが呆れたように唯一の目を細めた。


 「悪魔じゃない。ただの歴史だ。過去の死人たちが残した、生き残るための正解の束だよ」

 私はターバンの端を直しながら、冷めたスープをすする。

 木杯を持つ左手首には、血と泥を吸って真っ黒に変色したミサンガが、今も切れることなく巻きついている。


 「お前は、時々ひどく遠くを見ているな、マーシャ。その小さな頭で、一体どこに辿り着く気だ」

 「……家に帰るんだ。それ以外に、私が生きる理由はない」


 私が淡々と答えると、ルスランは短く鼻を鳴らし、自身の剣の手入れに戻った。彼は相変わらず、私の過去も、私の言う”家”がどこにあるのかも、深く詮索しようとはしなかった。


 私が十九歳になる頃には、「悪魔の軍師マーシャ」の名は、血生臭い傭兵や裏社会の界隈で、確かな恐怖と敬意を集めるようになっていた。

 しかし、どれほど名が売れようと、戦術で敵を蹂躙しようと、私の本質はあの採石場で泥水をすすっていた十五歳の頃から何一つ変わっていない。元の世界へ帰る手がかりを見つけるために、金と力、そして生き残るための手段を集めているだけだ。


 ――だが、己の歴史の知識と論理構築に、無意識の慢心が混ざっていたことに気づけなかった。


 ルスランに拾われて四年目。

 空は重く垂れ込めた鉛色。氷雨が容赦なく降り注ぎ、視界を白く霞ませている。

 切り立った岩肌に囲まれた、すり鉢状の峡谷。雨水は赤茶けた土を溶かして底なしの泥濘を作り出し、そこに混ざり合った数十人分の血液が、濁った鉄錆の匂いを淀ませていた。


 「チィッ……!」


 泥を蹴り立て、マーシャは地を這うような低い姿勢で跳躍した。

 右から迫る長槍を、ぬかるみに滑り込むことで紙一重で躱す。同時に、左手の短剣で敵の踏み出した足の腱を正確に薙ぎ払った。悲鳴を上げて崩れ落ちた敵兵の喉笛へ、流れるような動作で右手の刃を突き立てる。

 動脈から噴き出した熱い鮮血が顔を打っても、彼女は瞬き一つしなかった。


 「マーシャ! 右だ、伏せろ!」


 怒声と共に、巨大な鉄塊がマーシャの頭上を通り抜けた。

 師匠が振るう大剣が、マーシャの背後から迫っていた敵兵の胴体を両断したのだ。

 雨音を切り裂く肉の潰れる音。

 返り血を浴びた師匠は、残された片目でマーシャを一瞥し、短く顎を引いた。


 この日の戦局は、完全にマーシャの考えた盤面の上にあった。

 峡谷に敵を誘い込み、退路を断って殲滅する。マーシャが立案したこの策は完璧に機能し、敵の部隊は崩壊寸前だった。


 ……いや、崩壊寸前だと、彼女は「思い込んでいた」のだ。

 どうせ、今回もまた敵の指揮官は歴史のセオリーも知らない愚か者なのだろう、と。


 ――ゴゴゴゴゴ……ッ!!


 突如、地響きのような重低音が、峡谷の『退路』側から降り注いできた。

 マーシャが弾かれたように振り返る。

 雨霧の向こう側に現れたのは、全身を分厚い鋼の鎧で覆った、身の丈の倍はあろうかという重装歩兵の群れだった。


 その数は、数百。


 「嘘……! 敵の伏兵……!? なんで……私の計算では、敵の援軍は半日後のはず……ッ!」


 マーシャの喉から、血を吐くような悲鳴が漏れた。

 敵の指揮官は、最初から「軍師マーシャ」の策を見破っていたのだ。前衛を捨て駒にしてマーシャたちをこの谷底に縛り付け、完全に包囲するための逆落としの罠。

 敵を追い詰めたのではない。マーシャ自身の采配が、師匠と仲間たちをこの最悪の死地へと誘導してしまっていた。


「ギャァァァッ!!」


 重装歩兵の突撃が始まった。

 鋼の壁が、泥濘でもがく傭兵たちを次々と蹂躙していく。剣で斬りつけても分厚い装甲に弾かれ、逆に巨大な戦槌で頭を砕かれ、虫けらのように肉塊に変えられていく。

 泥と血飛沫が舞い上がり、マーシャの誤った盤面配置のせいで、味方が次々と死んでいく。


 「マーシャ! 離れるな!!」


 師匠が大剣を振り回し、重装歩兵の足を止める。マーシャもまた、泥の中を駆け回った。しかし、圧倒的な質量と数の暴力の前に、個人の暗殺術など何の役にも立たない。

 その時だった。


 ズドッ……!!


 耳を塞ぎたくなるような、ひどく湿った音が響いた。

 マーシャが振り返った先。重装歩兵の一人が突き出した太い大槍が、師匠の腹部を深々と貫いていた。


 「っ、――」


 師匠の口から、大量の血糊が吐き出される。

 男は咆哮と共に槍を引き抜き、敵の兜の隙間に刃を叩き込んで倒した。だが、腹部に開いた風穴からは、雨水で薄めきれないほどの夥しい血と、内臓の一部が零れ落ちていた。


 「師匠……ッ!!」


 致命傷だ。誰の目から見ても明らかだった。

 師匠は崩れ落ちそうになる体を大剣を杖にして支えながら、血まみれの左手でマーシャの細い肩を掴み、泥の斜面の窪みへと強引に引きずり込んだ。

 男の喉から、血の混じった不気味な呼吸音が漏れる。


 「私の……私のせいだ……。私が、谷底に布陣しろなんて言ったから……ッ!」


 マーシャはガタガタと全身を震わせながら、両手で必死に師匠の腹部の傷口を押さえた。指の隙間から、温かい命が止めどなく溢れ出していく。

 日本の中学校で共に笑った友人たちの顔は忘れても、この傷だらけの男が泥の啜り方を教えてくれた日々だけは、彼女の血肉となっていた。


 「やめろ……塞げない、血が……!」

 「俺が殿しんがりだ。……お前はここから抜けろ、マーシャ」  


 師匠は、自身が腰に帯びていた使い込まれた〈双短剣〉を引き抜き、マーシャの震える掌へ強引に押し付けた。  

 ズシリと重い、冷たい黒鋼の感触。

 その使い込まれた柄の底には、マーシャの知らない”百合”を模した不気味な紋章が、微かに、けれど確かに刻み込まれていた。


 「師匠……嫌だ、一緒に……! 私の失敗だ、私が……!」


 マーシャは首を激しく横に振った。

 喉の奥が引き攣り、音にならない悲鳴が空気を震わせる。双短剣の柄に付着した師匠の血が、マーシャの手にべっとりと絡みつく。

 

 重い。

 他人の命の重さが、彼女の心を粉々に叩き潰す。


 「泣く暇があるなら、息を殺せ。何かを背負って立つことを恐れるな」

 血を吐きながら、師匠はマーシャの頬を冷たい手で平手打ちした。

 火が出るような痛みが、マーシャのパニックを強制的に遮断する。


 「正々堂々と戦うな。……お前は、生きるためにあの日足掻いたんだろうが。こんなところで、立ち止まるな」


 師匠の残された片目は、静かで、そして燃えるような光を宿していた。

 その視線が、マーシャの手首に巻かれた、擦り切れかけたミサンガに向けられる。


「お前を繋ぐその鎖を、絶対に手放すんじゃないぞ。……いけェッ!!」


 咆哮と共に、師匠はマーシャを獣道のある泥の斜面へと突き飛ばした。

 泥水を被りながら転がり落ちたマーシャが顔を上げた時。

 師匠はもう振り返ることなく、血まみれの大剣を引きずりながら、無数の刃が待ち受ける敵陣のど真ん中へと特攻していった。


 マーシャは泥水に顔を突っ込み、声にならない絶叫を上げた。

 自身のたった一つの計算違いが、あの背中を殺したのだ。

 盤面を動かすということは、己の手を汚さずに、他人の命を天秤にかけるという底知れない地獄だった。


 (ルスラン、ルスラン……!)


 無口で、厳しい訓練ばかりで、決して甘い言葉なんてかけてくれなかった。

 けれど、凍えるような夜の荒野では、いつも気づかれないように風上に座って壁になってくれた。

 放り投げられる硬い干し肉は、いつも私の分だけ少し大きかった。

 私が夜中に悪夢を見て過呼吸に陥った時、何も言わずにただ無骨な手で焚き火に薪をくべ続けてくれた。


 この狂った、ただ奪い合うだけの地獄のような異世界の底辺で。

 奴隷から引き上げ、生きる術を叩き込み、私を人間として繋ぎ止めてくれた唯一の大人。


 元の世界へ帰ることを目的としながらも、いつしか私は、この大きく温かい背中を「本当の父親」のように、絶対に失われない保護者のように錯覚してしまっていたのだ。


 マーシャは這った。

 泥水を啜り、イバラに顔を切り裂かれながら、獣のように四つん這いになって急斜面を登り続けた。


 (私はもう、二度と……他人の命なんて背負わない)

 右手に握った双短剣の重みに耐えながら、彼女は絶望の泥濘の中を進み続けた。


* 


 ――それから、半年後。

 大帝国シャジャルが三つに裂け、大陸全土を巻き込む巨大な戦火が上がり始めた年。


 「他人の命は背負わない」と心を固く閉ざし、吹き溜まりの酒場に身を潜めていた彼女の前に、運命の引き金が訪れる。

 兄の形見である重すぎる甲冑に潰されそうになっている、金色の瞳をした不器用な少年――ファリードとの、凄絶な巡り合わせであった。

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