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黒曜の軍師と白金の王   作者: *しおり*
二章

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過去四

 生き残るための物理的な技。

 泥水をすすってでも相手を殺す執念。

 ルスランは私に〈個人の牙〉の研ぎ方を教えてくれた。

 だが、私たちが生きる傭兵稼業は、一対一の決闘ではない。数十、数百の命がすり潰される戦場の只中だ。


 ルスランと旅を続けて一年が経とうとしていた頃。

 私たちは、とある地方領主の国境警備部隊に、末端の傭兵として雇われていた。任務は、隣国の偵察部隊の討伐。

 部隊の指揮官である気位の高い騎士は、我らが数で勝っている。敵は逃げ腰だ。このまま谷底の道を通って一気に突撃すると、古臭い突撃戦術を叫んでいた。


 馬鹿な、と私は自身の耳を疑った。


 部隊の最後尾を歩きながら、私は前方の切り立った谷間と、頬を撫でる向かい風の匂いを感じ取っていた。

 ひどく乾燥した空気。谷の出口に不自然なほどこんもりと集められた枯れ草の海。

 逃げ腰のわりに、あまりにも綺麗に整いすぎている敵の足跡。

 そして何より、これだけの軍勢が足を踏み入れているというのに、不気味なほど完全に静まり返っている鳥の声。


 (……三国志、博望坡の戦い)


 私は、日本にいた頃の自分の部屋と、茉莉と一緒に自転車で駆け抜けた桜並木の道を思い出していた。  

 『そんな物騒な戦術、この平和な日本でいつ使うのよ〜』

 呆れ顔で笑っていた親友の声が、ふと脳裏に蘇る。


 本棚を埋め尽くしていた、中国の歴史書や戦記の数々。島津の釣り野伏せ、そして諸葛亮の火計。頭の中で幾度となく陣形のシミュレーションを組み立てることは、かつての私にとって、ただの遠い過去の物語として消費する、退屈な日常のパズル遊びに過ぎなかった。


 だが、今、私の目の前に広がっているのは、桜並木の下で空想していた、血生臭い戦地の陣形そのものだ。 パズルのピースが、恐ろしいほどの精度で脳内にカチリとはまっていく。


 (……殺される。このまま進めば、全員火ダルマだ)

 背筋を駆け巡る氷のような悪寒と、己の知識がこの世界の死の盤面と完全にリンクしたという、奇妙な高揚感。

 私はたまらず、列を外れて前方を馬で進む指揮官に駆け寄った。


 「お待ちください。このまま谷へ進めば、伏兵の火計に遭います。全員焼け死ぬ」

 私の声に、部隊の足が止まった。

 立派な鎧を着た指揮官が、馬の上からひどく不快そうに見下ろしてくる。


 「なんだ、この薄汚い傭兵のガキは」

 言うが早いか、隣を歩いていた巨漢の傭兵が「いっぱしの戦士に口を出すな!」と、私の腹を容赦なく蹴り飛ばした。


「がはッ……!」

 泥水の中に無様に転がった私を、周囲の男たちが下品な笑い声で嘲る。

 「臆病風に吹かれたなら、そこで小便でもちびってろ、チビ!」

 泥の味を噛み締めながら、私は冷たい目で見上げた。

 死にたがりは勝手に死ねばいい。これ以上、無能な連中に命を預ける理由はなかった。


 「……ルスラン」


 私は這い上がり、歩み寄ってきた隻眼の師匠の外套を引いた。

 「馬鹿な犬に吠えるから蹴られるんだ」とため息をつく彼に、私は顔の泥を拭いながら静かに、だが確信に満ちた声で告げた。


 「敵の数は少ないんじゃない。伏兵を丘の上に潜ませているんだ。私たちが谷の中央に入った瞬間に、風上から火を放つ気だ。……精神論や敵兵の数による力技ではなく、地形と気候を利用した、論理的な戦法だ」


 私は足元の小石を拾い、地面に素早く谷の地形と風向き、そして敵が潜んでいるであろうポイントを図解して見せた。

 勘や恐怖ではない。私の世界の過去の偉人たちが何万という死体の上に築き上げた、勝利と生存のための絶対的な戦術だ。


 ルスランの隻眼が、驚愕に見開かれた。

 彼のような歴戦の傭兵の経験則に、私の持つ歴史の叡智が完全に噛み合った瞬間だった。


 「……指揮官の馬鹿は放っておけ。マーシャ、お前のその戦術とやらで、俺たちが生き残るための退路を描いてみせろ」

 「退路じゃない」


 私はターバンの奥で、泥に汚れた唇をわずかに吊り上げた。先ほど私を泥に蹴り落とした者たちへ、冷徹な死の宣告を下すように。


 「敵が火を放つ前に、私たちが谷の側面から崖を登って、伏兵の背後を突く。……諸葛亮の策を真似たのかは知らないけど、火計を仕掛ける側は、自分たちが背後から燃やされることには驚くほど無防備だ」


 それは、ただ這いつくばるだけだった奴隷の少女が、盤面を支配し戦う軍師へと決定的に羽ばたいた瞬間だった。


* 


 その日の夕刻、谷は凄惨な死の臭いに包まれていた。


 乾燥した風が炎を煽り、黒い灰が雪のように舞い散る。

 私の指示通りに崖を迂回した私たち傭兵の小部隊は、丘の上に潜んでいた敵の背後から火を放った。

 眼下の谷底では、私の警告を鼻で笑った指揮官や傭兵たちが、敵の放った火とこちらの火に挟まれ、自らが用意した油と枯れ草の海に飲み込まれていた。


 「熱い! 助けてくれェッ!」


 皮膚が焼け焦げ、人間の脂が爆ぜる嫌な音。ひどく肉の焦げる臭いと、喉が裂けるような阿鼻叫喚の断末魔。

 私は崖の上から、その凄惨な地獄絵図を無表情で見下ろしていた。


 (……ああ、そうか)


 私は、外套の下で無意識に震える両手を、痛いほど強く握りしめた。

 日本の平和な部屋で読んでいた歴史書には、『敵軍を焼き払った』という、たった一行の無機質な活字でしか記されていなかった。頭の中で組み立てていた、ただの陣形パズルの答え合わせ。

 だが、本の中の知識が、現実に人を黒焦げにして殺す行為に変わった瞬間。


 それがこんなにも肌を焼き、吐き気を催すほど臭く、鼓膜を破るような悲鳴を伴うおぞましいものだとは、今の今まで知らなかったのだ。


 これが、盤面を動かすということ。

 敵対する者だけでなく、数時間前まで同じ陣にいた味方でさえも、盤上の不要な数字や駒として容赦なくすり潰すという、拭いようのない〈業〉の重さだった。

 「……おい、マーシャ」


 背後から、ルスランの低い声が響いた。

 振り返ると、隻眼の師匠が、燃え盛る炎に照らされた私の横顔を、どこか信じられないものを見るような目で見つめていた。

 歴戦の傭兵である彼の瞳の奥に、かつてない感情が揺らいでいた。


 (……俺はただの生き汚い奴隷を拾ったつもりだったが、とんでもない化け物を育ててしまったのかもしれない)


 声には出さずとも、私を見下ろす彼のすくんだ肩から、そんな背筋の凍るような畏怖が痛いほどに伝わってくる。


 数時間前までただの小間使いとして泥の中に蹴り飛ばされていた少女が、たった一つの知識で、敵のみならず自分を蹴った味方ごと、数百の命を灰に変えた。

 そして、その阿鼻叫喚の地獄を、燃え盛る炎の赤すら反射しない、凪いだ黒曜石の瞳でただ静かに見下ろしている。

 それは、修羅の道を生き抜いてきた歴戦の傭兵にすら底知れぬ恐怖を抱かせる、冷酷な〈悪魔の軍師〉の誕生の瞬間だった。


 その日の夜。

 岩陰に身を潜めるようにして焚かれた小さな野営の火。  

 パチパチと爆ぜる乾いた木の枝の音が、夜の静寂に吸い込まれていく。  

 マーシャは焚き火のそばに胡座をかき、焦点の合わない目で炎を見つめていた。

 昼間、自身の指示で谷底に放たれた炎が敵も味方も飲み込み、阿鼻叫喚の地獄を生み出した光景が、網膜に焼き付いて離れない。


 「……食っておけ」

 不意に、無言で焚き火の風上に座っていた師匠のルスランから、炙られた干し肉が放り投げられた。  

 手の中で受け止めた干し肉から立ち上る、塩と獣の肉が焦げた匂い。  

 その匂いを鼻腔が捉えた瞬間――マーシャの脳裏に、昼間の谷底で嗅いだ〈人間の脂が爆ぜる嫌な音〉

と〈肉の焦げるおぞましい臭気〉が強烈にフラッシュバックした。


 「うっ……、げぇっ……!」

 マーシャは干し肉を取り落とし、胃の底から込み上げる強烈な吐き気に耐えきれず、地面に四つん這いになって胃液を吐き出した。  

 涙と胃液で顔をぐちゃぐちゃにしながら、激しく咳き込む。  

 日本にいた頃、自室のベッドに寝転がりながら読んでいた歴史書の陣形パズル。

 諸葛亮の火計や島津の釣り野伏せを空想し、頭の中でシミュレーションを組み立てることは、ただの「安全なオタク知識」を消費する退屈な遊びに過ぎなかった。  

 だが、そのゲーム感覚の知識が、現実の人間を黒焦げの肉塊に変えたのだ。

 本の中のたった一行の無機質な活字が、どれほど吐き気を催す現実の地獄であるか。

 その圧倒的な落差と人殺しの業の重さが、十五歳の少女の精神を容赦なく削り取っていた。

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