噂の向こう側
教室は、朝から少し騒がしかった。
「ねえねえ、聞いた?」
前の席の子が、声を潜めるようにしながらも、隠しきれない調子で言う。
「昨日さ、立花君が――」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「放課後、すごく可愛い子と一緒にいたんだって」
「え、彼女?」
「分かんないけど、なんか儚げでさ。
守ってあげたくなる感じ?」
言葉が、ひとつずつ、胸に落ちてくる。
私は、机に置いた手を動かさずに聞いていた。
「立花君って、そういう子と並ぶと絵になるよね」
「分かる。
あの距離感がさ」
距離感。
その言葉に、思わず唇を噛む。
頭の中に浮かぶのは、
恒一の隣に立つ清磬の姿。
夜の玄関先。
肩が触れそうなほど近い距離。
「……ズルい」
小さく、そう思った。
声には出していない。
でも、否定もしなかった。
前なら、
そんな感情が浮かんだ時点で、
無理やり押し込めていたと思う。
今は、違う。
胸が、はっきりと痛む。
「穂乃香、聞いてる?」
ひなたが、こちらを覗き込む。
「あ、ごめん」
「立花君の話」
ひなたは笑っていた。
「なんか噂になってるよ。
可愛い子連れてたって」
「……そうなんだ」
声は、思ったより普通だった。
でも、胸の内側は、ざわざわしている。
あの子は、ただの調査対象。
合理的で、静かで、
恒一の隣にいるのが自然な存在。
分かっている。
分かっている、はずなのに。
「でもさ」
ひなたが、少し首を傾げる。
「穂乃香、前より元気ない?」
「……そう?」
「うん。
なんか、考え事してる顔」
私は、視線を落とした。
黒板の文字が、少し滲んで見える。
考えたくないことほど、
頭に浮かぶ。
恒一がいない夜。
連絡がつかなかった時間。
そして、
隣にいる“誰か”。
「大丈夫」
私は、そう言って笑った。
ちゃんと笑えたと思う。
でも。
胸の奥に残る、この小さな違和感は、
消えなかった。
たぶん、これが始まりなんだと思う。
まだ、名前のつかない感情。
でももう、
なかったことには、できない。




