境界線
放課後の廊下は、少しだけ騒がしかった。
部活に向かう声と、帰り支度の音。
窓の外では、校庭の端が夕方の色に変わり始めている。
「……あの」
呼び止められて、足を止めた。
同じ制服。
でも、クラスは違う顔。
「少し、いい?」
声は落ち着いていた。
緊張していないわけじゃないけど、無理もしていない。
人目のある廊下の端。
完全に二人きりじゃない距離。
「前から、ちょっと気になってて」
言葉は、慎重に選ばれている。
「急に言ってごめん。
返事は、今じゃなくていい」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
――ああ。
そういう、話。
「最近、雰囲気が変わった気がして」
責めるでも、期待するでもない声音。
「話しかけても、大丈夫かなって思って」
胸の奥で、何かが静かに揺れた。
嫌じゃない。
怖くもない。
でも。
どう答えればいいのか、分からない。
「……えっと」
言葉が、うまく出てこない。
視線が落ちる。
床のタイルの継ぎ目が、やけにくっきり見えた。
「ごめん。困らせたなら、忘れて」
男子生徒は、そう言って一歩引いた。
「ほんとに、今じゃなくていいから」
それだけ残して、向きを変える。
背中は、普通だった。
特別じゃない。
でも、雑でもない。
その場に残された私は、
しばらく動けなかった。
どうして、今なんだろう。
……いや。
分かっている。
最近のことを、思い返す。
眼鏡を外していた時間。
恒一が、隣にいなくなったこと。
私自身は、何も変えていないつもりだった。
ただ、
見られ方が変わっただけ。
「今、声かけられてたよね」
いつの間にか、隣にひなたがいた。
驚くほど、いつも通りの声。
「……うん」
「そっか」
ひなたは、それ以上聞かない。
「ちょっと、びっくりするよね」
それだけ言って、歩き出す。
私は、黙ってその後ろをついていった。
その日の夜。
机の引き出しを開けて、
眼鏡を取り出す。
埃はついていない。
いつもの場所に、ちゃんとあった。
かける。
視界が、少しだけ狭くなる。
でも、不思議と落ち着いた。
私は、何も変わっていない。
眼鏡を外しても、
戻しても。
変わったのは、世界の方だ。
私が彼らを見ているのと同じ目で、彼らもまた私を見ている。それが、今の私には耐えがたく眩しかった。
翌朝。
教室に入ると、ひなたがすぐ気づいた。
「あ、戻したんだ」
「うん」
「そっちの方が落ち着く?」
少し考えてから、答える。
「……うん」
ひなたは、にっと笑った。
「なら、いいじゃん」
それで、終わり。
席に座り、鞄を置く。
眼鏡越しの世界は、少し遠い。
でも、その距離が、今の私にはちょうどよかった。
まだ、何も起きていない。
けれど。
私は、境界線を引いた。
それだけは、確かだった。




